原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「オチビサン」の思考回路とダブる私の日常

2012年09月29日 | 芸術
 (写真は、現在朝日新聞朝刊にて毎月曜日連載中の 安野百葉子氏作「オチビサン」 9月24日版を転写したもの。  毎度の事ながら原左都子の撮影力の無さにより画像の色彩が悪く、安野氏が新聞紙面上に描く“微妙に美しい色彩”がまるで再現されていないことをお詫び申し上げます。


 私はそもそも漫画には疎い人種だが、朝日新聞で安野氏による「オチビサン」の連載が始まった当初よりこの漫画にだけは惹き付けられているファンであり、毎週欠かさず紙上で拝見している。

 「オチビサン」を本エッセイ集で取り上げるのは今回が2度目であるが、実は2年程前にも当該作品をピックアップして勝手な私論を展開させて頂いている。
 ここで、 「オチビサンの生き様はデカいぞ!」 と題した上記2009年9月のバックナンバーエッセイを少し振り返る事としよう。
 
 この漫画は芸術的であり、植物図鑑的であり、そして哲学的な風情があると私は捉えている。
 漫画「オチビサン」の特徴は、6~10コマ程ある漫画の全体が縦長長方形の一枚の絵のように構成されていることである。(上記写真参照)  そして、その「絵」全体像における色彩が毎回何とも美しいのだ。 新聞をトップページから順にめくっていってこのページに入った途端、まずはその美しい色彩の世界に誘(いざな)われる。 ネット上の一説によると、新聞紙の色や風合いを活かすような色使いを作者の安野氏が意識して工夫されているとのことである。
 そして、この漫画には四季折々の草花や樹木、そして昆虫など自然の動植物が多く登場する。 その描写が、作者氏自身の個性が活かされている中にあって実に精妙、正確なのである。 これがこの漫画を“植物図鑑的”であると私が捉える所以だ。
 さて、この漫画の主人公はその名の通り“オチビサン”なのであるが、この“オチビサン”、人間ではあるようなのだがその正体は不明としか言いようがないところからして、実に不思議な存在だ。 私の感覚では、見た目を優先して「男の子」と捉えるのが一番適切なのか、と思うのではあるが…   オチビサンの正体が不明ならば、通常の漫画の主人公にはあり得ないキャラクターの持ち主で、ちょっと偏屈者とも言える。 とにかく我がままで我が身息災で、やんちゃできかん坊なのだ。 そんなオチビサンが自然体で力強く生きる姿が、この漫画で毎週展開されている。
 この「オチビサン」物語は現実を超越していてるように見えて、実は今の時代の廃退した現状を的確に把握した“裏心理”の下に、安野氏が物語を展開していると私は考察する。
 一見“嫌われキャラ”のように受け取れるオチビサンの自然体の言動や、自然体であるから故に備わっている“生きることに対する力強さ”に私はいつも共感させて頂ける。 そして、そんな自然体の生き様が“オチビサン”の魅力であるからこそ、親友のナゼニやその他少数の登場人物(動物)の仲間が、変わらずオチビサンを支え続けているのであろうと実感できるのだ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより引用)


 さてさて、それでは冒頭の写真に掲げた9月24日版「オチビサン」のストーリーに話を戻そう。

 写真不鮮明のため、ここで今回の主要登場人物である オチビサン と親友 ナゼニ の会話を以下に再現しよう。
  ナゼニ    オチビサン おはしを持ってどこ行くの?
  オチビサン  百足(むかで)を捨てに
  ナゼニ    うわ!! 大きい  こりゃ怖いや
  オチビサン  台所でつかまえたの
          とっさにおはしでつまんだものの どこに捨てていいかわかんなくて
  ナゼニ    川にポイッと投げたらどうだい
  オチビサン  そしたら百足がおぼれちゃうでしょ! 
          誰もいなくて百足も幸せなとこを探さなきゃ
  ナゼニ    見つかることを祈ってる! 


 今年の夏は日本全国各地で9月下旬まで猛暑が襲い続けていたと私は理解している。
 原左都子の居住地である東京もその例外ではなく、毎年夏に我が家のベランダで発見する虫達が今年は9月下旬まで到来したのだ。

 実は、私は物心ついた頃より「虫」を含め“両生類”“爬虫類”等の部類を本能的に拒絶してしまう人種のようだ。  いや、それを見るだけでいい場面に際してはある程度対応可能なのだが、実際に触れねばならないとなると大いなる拒否感が体内から湧き出て悲鳴をあげてしまう性である…
 集合住宅上階住まいの我が家ではベランダで“枇杷の木”をはじめとして草花を育成している事によると推測するが、特に夏になると様々な昆虫がベランダに舞い込んでくる。 それら昆虫が自主的に退去してくれる分には大歓迎だが、たまにベランダに居つくことがある…。
 これが私にとっては大変な事態である。 その動きが気になってうかうか洗濯物すら干せやしない。
 オチビサンのごとくその虫を箸で摑むことすら身震いする私が取る行動とは、(普段はほとんど依存関係にない??)亭主を動員して、「この虫をどこか安全な場所に逃がしてやって!!」と叫ぶ失態以外にない。 (実際の話、我が亭主が日常生活上役に立つのはこの場面だけなのだが…)

 そんな私も、自らが理想とする“他者に依存しない人生”を今後老後に向かって全うするためには、ベランダの虫ごときに翻弄されてはいられないことを、今回の「オチビサン」で学習したのだ!
 そして私は我が家のベランダに8月末頃から“死体”状態で仰向けになっていた(おそらく「ミンミンゼミ」)の遺体を、決死の覚悟でティッシュで掴み取り、廃棄処分として葬ってやった!


 今回のエッセイ表題に掲げた通り、我が日常の思考回路は「オチビサン」とダブる気がする一方で、オチビサンのキャラである“不老長寿のごとくの若さ”を羨ましくも感じる。

 その年齢は元より実体不詳のオチビサンではあるが、オチビサンが醸し出す魅力故に周囲に寄り添う仲間達が漫画内に少なからず存在する事実に納得の私だ。
 上記写真版にも登場する一番身近な存在であるナゼニなど、その第一人者であろう。

 「オチビサン」キャラを自負する私にも一生を通してナゼニのようなパートナーがいたらなあ… とはかない夢を追ったりしつつ、今後も安野百葉子氏による朝日新聞漫画連載が長期に渡り続く事に期待させていただこう。 

ニッポン女子も自ら闘ってハッピーを勝ち取ろう!

2012年09月27日 | 時事論評
 (写真は、現在日本国内に於いて好評公開中の映画 「白雪姫と鏡の女王」 にて熱演している白雪姫役の女優 リリー・コリンズ氏。  朝日新聞紙面より転載したものの、いつものごとく折り皺だらけの失礼な画像をお詫び申し上げます。

 「鏡よ、鏡よ、鏡さん。 この世で一番美しいのは誰??」  
 と、美しい娘への嫉妬心に翻弄された王妃が鏡に向かって問い続ける 「白雪姫」 なるグリム童話に触れたことがない女性はこの世に存在しない事であろう。


 最近映画を観る機会が多い原左都子だが、どうやら我が大学生の娘が映画に目覚めたのか、昨日の休みを有効利用してまたもや映画を観ると言う。
 どんな映画? と尋ねたら上記の「白雪姫…」との事で、それに嬉々と便乗していつもの映画館へ向かったといういきさつだ。

 新聞報道によると、この「白雪姫と鏡の女王」は上記のごとく日本国内で好評を博しているとの事である。
 今回の我がエッセイ表題 「ニッポン女子も自ら闘ってハッピーを勝ち取ろう!」 は、当映画の我が国版新聞宣伝コピー 「ニッポン女子!もっとハッピーになろう!」 より引用させてもらった。


 実は私も幼い頃に幾度か読んだ「白雪姫」であるが、今となっては如何なるストーリーだったのかの詳細を忘れ去っている。
 意地悪な王妃が白雪姫をその美しさ故に敵対視していたことのみは印象的だが、何故か主人公である白雪姫の存在感がまったく描かれていない物語であると理解していた。

 ここで、ウィキペディア情報より グリム童話「白雪姫」物語の概要を説明することにしよう。

 白雪姫というとても美しい王女がいた。彼女の継母(グリム童話初版本では実母)である王妃は、自分が世界で一番美しいと信じており、彼女の持つ魔法の鏡もそれに同意したため満足な日々を送っていた。
 白雪姫が7歳になったある日、王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しい女性は」と訊ねると、白雪姫だという答えが返ってくる。王妃は怒りのあまり猟師に白雪姫を森に連れて行き白雪姫を殺し肝臓をとってくるように命じる。白雪姫を不憫に思った猟師は彼女を殺すことができず森の中に置き去りにし、イノシシの肝臓をかわりに持ち帰る。そして王妃はその肝臓を塩茹にして食べる。
 白雪姫は森の中で7人の小人達と出会い暮らすようになる。しかし王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しいのは?」と聞いたため、白雪姫がまだ生きている事が露見。王妃は物売りに化け、小人の留守を狙って腰紐を白雪姫に売り、腰紐を締め上げ息を絶えさせる。帰ってきた7人の小人が腰紐を切って白雪姫を助け出すと、再び魔法の鏡により生きている事が露見する。 
 そしてまたもや王妃は白雪姫を殺そうと毒リンゴを作り、リンゴ売りに化けて白雪姫に食べさせる。 白雪姫は帰ってきた小人たちに発見されるが、小人たちは白雪姫が倒れた原因が分からず白雪姫は死んだと悲しみに暮れ、白雪姫をガラスの棺に入れる。 そこに王子が通りかかり、白雪姫を一目見るなり死体でもいいからと白雪姫をもらい受ける。 家来に棺を運ばせるが、家来のひとりが木につまずき、棺が揺れた拍子に白雪姫は喉に詰まっていたリンゴのかけらを吐き出し、息を吹き返す。

 やっぱりそうだよなあ。
 こんな貧弱な物語展開だから原左都子の記憶には「白雪姫」とは美しいだけが取り得の“か弱き”女性でしかなく、義母の“嫉妬劇”イメージのみが脳裏に湧き出るのだろう。


 このグリム童話を“打ちのめし”新説「白雪姫」を展開する趣旨の下に、現在上演されている映画版「白雪姫と鏡の女王」は企画されたようだ。

 とは言えども、映画版においても何故白雪姫が18歳の年齢に至るまで(ジュリア・ロバーツ演じる)義母王妃の圧力の下、城に“引きこもら”ざるを得なかったのかに関して一観客である私としては大いに理解不能だった。 父から授かった絶対的な法的王位相続権を誇り、生まれ持っての能力をも備えている白雪姫が、何故もっと早期に義母と闘わなかったのかとの疑問符を投げ掛けたい思いだ。 
 おそらくそれは、西洋女性にとって18歳という年齢が人生の一つの節目であることがキーポイントなのだろうと私は理解した。
 映画内で乳母らしき女性召使が白雪姫に伝言するには、「女性18歳とはひとつの区切り年齢です。過去に王様であられたお父上より預かっている短剣を本日姫様に預けます。これを持って姫様も今後の人生を勇敢に生き直しなさい!」 
 その言葉に遅ればせながら勇気を得た白雪姫が、森に住む盗賊の7人の小人に闘いの心得を鍛錬されつつ力強く産まれ変わるのである。


 ところで、今回の映画で白雪姫を演じた女優 リリー・コリンズ氏のお父上は80年代から90年代にかけて数々の大ヒットを記録したイギリスミュージシャン フィル・コリンズ氏であるらしい。 私も遠い昔にフィル・コリンズ氏の音楽に触れた時代が懐かしく蘇る思いだ。

 今回「白雪姫…」映画フィナーレの結婚式の場面において、その娘リリー・コリンズ氏が(インド映画か??)と思わんばかりの勢いで結婚式に参列している皆と一緒に陽気に歌って踊る場面が設定されている。
 このシーンは音楽好きの私にとっては実にサプライズであった!  「白雪姫」新説解釈映画に於いて、たくましく生まれ変わった王女が今後村民と共に生き抜くに相応しい大迫力のフィナーレだったと、私は拍手を贈りたい。

 ニッポン女子の皆さん。

 国政の至らなさ故に「毒りんご」を食わされたと思い込み、自分を悲劇の王女に仕立て上げるのはまだまだ時期尚早である。
 ここは新説映画の白雪姫のごとく、自分なりの闘い力を発見しつつ皆で幸せになろうじゃないか!!

「愛国心」を騒ぎ立てる奴らの“愛”って一体何??

2012年09月24日 | 時事論評
 冒頭から私見を述べると、その対象の如何にかかわらず 「愛」「愛」と騒ぎ立てる奴ら程「愛」の真の意味が理解できていなかったり、“薄っぺら”な「愛」を求めていたりする傾向がなかろうか?

 そもそも日本の伝統的歴史・文化に培われた日本人の気質の一つとして、「愛」という言葉を口から直接発する事に恥らったり多少の抵抗感すら抱く慎ましやかさが取り得であり、控え目かつ美しい人間関係を育んで来れたように私は記憶している。

 時代が移り変わり、現在に至っては 「愛しているよ!」 なんて一般人が軽々しく叫べるまでに日本文化は変遷しているのか??


 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞9月19日「耕論」欄の 「愛国」 と題する記事を読んだことによる。
 まずは、その書き出しの全文を以下に紹介しよう。
 中国、韓国に甘い顔をするな。 国賊、売国奴は日本から出て行け。 子どもの命は国に捧げろ―。 それが本当に愛国なのか。 真の愛国者の言葉なのか。 愛国を考える。


 「原左都子エッセイ集」に於いても、つい先だっての9月10日に 「竹島、尖閣諸島は誰の財産か?」 と題する記事を綴り公開したばかりだ。
 そのエッセイ中で、原左都子が世に言う「愛国」云々に対応して以下のごとくの懸念をしているため引用する。
 8月中旬に韓国大統領が竹島に上陸した際、既に関連エッセイを綴り公開したかったにもかかわらず、何故に私らしくもなく弱気になり保留措置になどしたのかについて説明すると、ペンネームの「左」の文字が物語っている通り多少“左”志向故である。 この領土問題に関する8月当時の率直な私論をそのままエッセイ集にて公開したならば、「愛国心」旺盛な国民の皆さんより“袋叩き”に遭いそうな危機感を察知したからに他ならない…。

 ここで補足説明をさせていただくが、原左都子は決して「左翼」思想の持ち主ではない。 そんな大それた思想など一切ない、と言うよりも元々政治にはさほどの興味がない人間である。
 ただ、どうやら先天的に“天邪鬼気質”が備わっていることには間違いないようで、世の中に発生する多種分野の現象に関して人とは異なる観点の発想が自然と湧き出て来るのだ。 周囲の皆が大勢に迎合して盛り上がっているような場面においても、「いや、それはどうなのだろう?」「そうではない考え方もあるのではなかろうか?」等々あれこれ思考を巡らす脳内構造を幼い頃より持ち合わせているようだ。(だからこそ私は「集団」が苦手である…)

 加えて(上記我がエッセイ集バックナンバーにメッセージを頂いた読者の方と話し合ったのだが)、ベルリンの壁崩壊以降、世界規模で情報が収集し易くなったお陰で個々人の情報収集に際しても障壁がなくなり、末端部分に於ける個々の自由評価が可能となった。 その結果、この世に「右翼」「左翼」思想が薄れたとの結論に至った。 (メッセージを頂戴した方には無断で本文中に転載させて頂いたことをお詫びします。)


 さて、上記朝日新聞「耕論」に掲載された 「愛国」 の記事に戻ろう。
 この記事では、立場が異なる3名の著名人の方々がそれぞれの見解を述べておられる。
 あくまでも原左都子にとって興味深い部分のみを抜粋することにより、上記“著名人”3者の「愛国」に対するご見解の一部を以下に紹介しよう。
 
 まずは、新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男氏。
 私は日本で一番の愛国者と自負しているが、「愛」とは欠点も失敗も認めた上で愛しいと思う心だと考える。 日本はアジア諸国に対し弁解しようもない失敗を犯してきた。それを認めず日本は正しかった、失敗を認めるのは反日的だと言いつのるのは愛国心ではない。 心の痛みが伴わない愛国心はフィクションに過ぎない。 大局的に国益を考え、中韓をやっつけろと騒ぐ世論を抑えるのが政治家の役割であるのに、国民と一緒になって騒いでどうする!?  本来「愛国心」とは家族への愛、故郷への愛、その延長に位置するものである。 しかし、最近は自分と国家を直接結びつけることが「愛国」と考えられている。 多様性、敵対性もすべて含めて抱きしめられる心こそが真の「愛国」だ。

 次に、作家の岩井志麻子氏。
 こないだ「竹島は日本の領土でしょ」って言って、韓国の新聞に「極右作家」と書かれた。 我が夫は29歳の韓国人である。 (大幅中略)  そもそも、よその国をおとしめて自国を愛するという「愛国心」は、ようないと思う。 あなたの国はよい国ですね、うちの国も良い国ですよ、と言った方が母国の良さが相手に届くでしょう。 それこそ真の「愛国」じゃないですか。よその国を尊重する気持ちがない人が、「愛国心」を名乗ちゃいけんのじゃないですかね。

 3人目は、衆院議員の亀井静香氏。 
 国を愛するということは当たり前のことであるから、自分達の郷土を素晴らしいものにしていく努力をするのが「愛国」。 こんな当たり前のことが強調される時は何かよこしまな意図がある場合が多い。 戦前は政府がやろうとする事の正当性や必要性を国民に説明しないで「愛国」というある意味誰も抵抗できない言葉で正当化、美化し、人々を戦争に駆り立てた。それに従わない奴は「愛国心」がないと批判して。 隣国との領土問題に関しては仲良くするに勝る防衛はない。 にもかかわらず簡単な言葉で酔う時代だから、政治家が威勢のよいことを言っていれば国民が拍手してくれるし、マスコミも取り上げてくれる。 それで一時の人気を得てダメになったら別の人間が同じような事を繰り返す。 賽の河原みたいなもんだ。

 上記3名の“著名人”のご意見を拝見すると、その立場は大幅に異なれど、皆さん“一応”原左都子が思い描く「愛国心」と同一の見解を述べておられる。
 これらの見解を総合的に考察した場合、「愛国心」とのテーマに関して現在はまさに「右翼」「左翼」の垣根を越えて統一見解が得られそうな時代と成り行く感覚を抱く。

 特に現役衆院議員であられる亀井氏に申し上げたいのだが、(失礼ながら)“お年寄り”議員として「愛国心」に関する上記のごとくの自論をお持ちであるならば、それを何故に直接後進議員に伝達できないのだろう? 朝日新聞紙面で自論を公開したところで、そんなもの私のような庶民しか目を通さないであろうに… 


  ここで今一度、私が同感する「原左都子エッセイ集」バックナンバーで紹介した朝日新聞8月27日付「声」欄 60歳男性の投書を紹介しよう。
 力関係による領土問題の解決は将来までしこりを残し、本当の解決にはつながらない。 しかも偏狭なナショナリズムは繰り返し報道されることによって一気に沸騰しコントロールが効かなくなる。 日本が力によって領土問題を解決する道を選択するのなら、日米軍事同盟は一層緊密になり、緊張状態を絶えず強いられることになる。 領土問題はあくまでも時間をかけて話し合うべきだ。本質的な解決に至るまでは「棚上げ」にして漁業問題や海洋資源問題の暫定的な取り決めをすればいいと思う。


 尖閣諸島日本国有化に反発して、中国現地日本企業に火炎瓶を投げるとの暴力行為に出ている中国人若者の中には、「周囲が反日感情で盛り上がっているからそうしているが、尖閣諸島が何処の領土なのかは分からない…」との正直な談話も聞こえているそうだ…

 「愛国心」の真の意味合いとは何なのか?

 これは“ベルリンの壁崩壊後”に於ける全世界の国家指導者の指導力こそが問い直されるべく課題であろう。

「ドーナツの穴」 のパラドックス

2012年09月22日 | 雑記
 NHK朝の連続テレビ小説 「梅ちゃん先生」 が、来週末放送を終了する。

 近年の同ドラマシリーズにはない好評を博した直前作 「カーネーション」 の主役 尾野真千子氏の大迫力熱演に比して、当初何とも心もとない梅子の存在だった。
 大変失礼ながら、主役を演じた堀北真希氏が最後まで本人の女優としての持ち味であろう “可愛子ちゃん” 範疇を演技の中でも超えられなかったことが、一視聴者として残念である。

 元医学関係者である原左都子としては医学監修面でも多少の物足りなさを感じつつ、このドラマが何故に高視聴率を獲得し続けられたのかに関して疑問視し続けた6ヶ月間であった。
 例えば先週、帝都大の松岡先生が 全身性エリテマトーデス(SLE) の投薬治験を早まった場面があった。 医療現場に於ける新薬治験と製薬会社及び政府の癒着や、ステロイド剤等薬剤投与による副作用弊害の問題を今尚懸念し続けている私としては、ドラマ内で具体的病名を挙げる場合は特に、現在その疾患で苦しんでいる患者の現状も踏まえ細心の配慮の下に描いて欲しく思ったものだ。


 そんな中、原左都子個人的には(役名)松岡先生が登場した辺りからこのドラマが少し面白くなってきた。

 巷のネット情報によると、梅ちゃんは「ノブ」ではなく松岡先生と結婚するべきだったとの視聴者の意見も多いようだ。(ドラマを見ていない方々にはどうでもいい話題で恐縮だが…)
 これに関して原左都子は、梅ちゃんの結婚相手はお隣の「ノブ」で正解だったと考える。 他人のお節介は焼きたいが大局的なものの見方が出来ない梅ちゃんを、日々フォローしてくれるのは何と言っても幼馴染のノブくんしかいなかったのではなかろうか? 
 基礎医学研究に没頭し今後帝都大学医学部内科を背負って立つ松岡先生に、そんな時間はそもそもなかったであろう。

 この松岡先生とは、生真面目かつ仕事バカで、例えば結婚を意識すると『完全なる結婚』という本を一生懸命読んでしまうほどの堅物の変人医師として描かれていた。

 当初、梅ちゃんと仲良くしていた際、松岡先生が 「ドーナツの穴」 問題を話題に持ち出したのだ!
 この頃から松岡先生の哲学的論理志向に興味を惹かれた原左都子である。
 そして先週、松岡先生が“さとこ”さんと名乗る女性とお見合いをする場面に於いて、やはり松岡氏は見合い相手の“さとこ”さんの前で哲学論理志向を前面に出した結果、お見合いは破談となった…


 ここで突然ではあるが、原左都子の私事に移行させてもらうこととする。
 同じくお見合いにより晩婚に至った当時の私の理想相手とは、まさに松岡先生のような人物だった!
 我が30代後半の頃、大学(及び大学院)にて専攻分野以外にも哲学等の学問にはまっていた私の脳内は、まさに松岡先生のごとくの思考回路だったかもしれない。 いえいえ、常にアンテナを豊富に持ち合わせている(?)私の場合、伴侶選択に関して総合判断を下すのはもちろんの事である。  それでも当時は、松岡先生のごとくの「論理思考」可能な相手を選抜した方が我が人生が活性化すると本気で捉えていたものだ。 (その結果が現在どうであるのかについて語るのはここでは控えるが、少なくとも私自身の論理思考回路を失わずに今に至れている現状には満足している。)


 さてさて、大きく話題を変えよう。

 「ドーナツの穴のパラドックス」 と題した今回のエッセイの表題は、アンサイクロペディアとの“信憑性がない”らしきネット情報源から引用させてもらった。
 このネット情報源より 「ドーナツの穴」 に関する記載の一部を以下に要約引用させていただくことにしよう。

 ドーナツ穴問題、あるいはドーナツのパラドックスとは、宗教学、自然科学、哲学、量子力学上の一連の問いである。 歴史は古く紀元前から存在したと考えられているが、最終的に解決を見たのは20世紀に入ってからである。
 ドーナツの穴が、ドーナツそのものよりも大きくなることはあるか?に関しては多くの学者はこの命題に対して否定的だったが、1935年にアルバート・アインシュタインが論文「ドーナツ穴相対性理論」にて肯定的な解を証明すると世界的な反響を呼んだ。??

 古代(紀元前3世紀~5世紀)において問題とされたのはドーナツではなく中心に穴の開いた一種のパンであった。当時のパンは製法がごく簡単なもので、生地は固くぼそぼそした食感だった。そのため丸く均等な穴を保って焼きあげるのには相当な技術が必要とされ、パン職人たちの腕が競われた。エジプトにて紀元前3世紀ごろとされる遺跡から環状のくぼみのついたかまどが発見されており、穴あきパンを焼くためのかまどであったと推定されている。 (以下略)
  
 中世(5世紀~15世紀)闘争と挫折。   中世のヨーロッパにおいて、兵糧としてのパンは製造法が確立され、生産性は飛躍的に向上した。その一方で形状としては丸パンが一般的となり、ドーナツ穴問題は一時的に下火になる。 しかしこの間にも、数学者やギルド(職能組合)組合員による試行錯誤は続けられている。 (以下略)
 ドーナツ穴問題と同種の形而上学の問題が提起され、こちらの解はこの時代にすでに見つかっている。
 中世末期にはひとつの重要な発明があった。ドイツにおけるバウムクーヘンの発明である。15世紀に南ドイツで貴族の結婚式などに供されていたこのケーキは、木の年輪のように層になった円筒形をしており、各層ごとにはがして食べることが可能である。これにより半径の推移を定式化することができ、ドーナツ穴数学の発展に大きく貢献した。 (中略) しかし、ドーナツがおおよそトーラスの形をしているのに対してバウムクーヘンは厚みを持った円筒形であり、幾何学上の扱いの違いには注意を要する。

  近世-現代(16世紀~)。  ドーナツ、そして解決へ 多くの学者が頭を悩ませる中、問題は未解決のままであった。 (以下、大幅略)
 ついにこの問題に終止符を打ったのは20世紀最大の天才と呼ばれる物理学者アルバート・アインシュタインである。ナチスに迫害される身となったアインシュタインは、アメリカへの亡命後にリングドーナツに触れ、深い感銘を受けた。その後論文の執筆を開始し、1935年に「ドーナツ穴相対性理論」を発表。その大胆な理論展開と逆転の発想で世界中の学者たちを驚愕させた。 アインシュタイン自身は論文の序説に次のように述べている。  私にとってドーナツというお菓子は好物の一つであるが、世の科学者がこれについて頭を悩ませているのは嘆かわしいことだ。 ドーナツは研究の余暇に楽しむものであって、このことを頭痛の種にすべきではない。論文の内容を要約すると、「物事はすべて相対的であって、ドーナツの穴を外側と捉えるなら、そのドーナツは我々の世界すべてを内包しており、ほぼ無限大の穴を持つことになる」となる。この偉業をたたえ、アインシュタインにはアメリカ政府からドーナツ1年分が送られた。

 (以上、アンサイクロペディアなるネット情報より「ドーナツの穴」考察文献?を引用)


 読者の皆さんには申し訳ないが、原左都子はこのようなナンセンス情報も嗜好している人間である。 そのため今回のエッセイに於いては「雑記」カテゴリーの範疇で、上記の情報が“信憑性がない”事を承知の上で引用させていただいた。

 ところで「梅ちゃん先生」の登場人物であれらる松岡先生も、このネット情報に匹敵するくらい詳細に 「ドーナツの穴」 に関して深く分析したのかな??

 ドラマは来週終わるけど、きっとその陰なる分析努力こそが今後の基礎医学発展に繋がると私は信じてるよ~~ 

JAL再上場、その背後にどよめく放漫経営のつけ

2012年09月20日 | 時事論評
 日本航空(JAL)が昨日(9月19日)、上場廃止より約2年8ヶ月という超ハイスピードで東京証券取引所第一部に株式を再上場した。
 取引直後の初値は3810円也。 時価総額約7千億円は、全日空の時価総額約6400億円を上回る額だ。

 JALが2010年1月に経営破綻し、会社更生法適法を申請して上場廃止に至った事実は皆さんの記憶にも新しいことであろう。
 直後京セラ創業者 稲盛和夫氏を会長に迎え、企業再生支援機構の更生計画に基づき不採算路線の削減及び大型航空機の売却が実行され、グループ全体で1万6000人のリストラが断行された。
 その結果、11年3月期の営業利益(連結)は1884億円、12年3月期には1866億円の純利益を稼ぎ過去最高益の記録を塗り替える等々、業績が急回復するに至った。


 ここで原左都子の私事に入るが、私は郷里への帰省や国内外旅行等の目的である程度の頻度航空便を利用している人種である。
  
 近年は国内外に於ける相次ぐ大手航空会社の経営破綻現象と平行して、格安航空会社による激安運賃化が急速に進んでいる。 それに伴い経営方針を変更して大幅な人件費削減に踏み切り、機内サービス等顧客対応を合理化する航空会社が激増している現状である。
 (この現象に関しては、「原左都子エッセイ集」2012年6月9日バックナンバー 「『保安要員』が喧嘩腰で機内の秩序はどうなる?!」 に於いて既に記載済みであるため、そちらも重ねてご参照いただきたい。)

 JALについて述べると、顧客対応や機内サービス分野に限定して言えば、数十年前より世界中の数ある航空会社の中でも高評価を得ている企業ではあるまいか?  特に国際線に於けるJALの機内サービスは、国内外顧客より確固たる定評を得ていたと私は理解している。 実際各国様々な国際線に搭乗した我が経験から言うと、確かにJALの機内サービスは突出して心地よいと感じて来た。
 JAL経営破綻前後の近年に至った今、当然ながらJAL内部でも人件費大幅削減のために客室乗務員パート化は急激に進んでいるのであろうが、それにしても他社と比較して対応が良いと私は捉えている。 そのため空路旅行に際しては出来る限りJALを指定することにしている。  先だって8月の郷里帰省時にも(申し訳ないがサービスが若干劣ると判断するANAは避け)JALを指定して郷里へ旅立ったばかりだ。


 ただし乗客側からはそのように感じても、企業内部に於いて経営合理化の犠牲となりリストラに遭ったり、人員削減現場で負荷労働を課せられている職員皆さんの現状とは尋常ではなく厳しいものがあろう。

 ネット等各種情報源によると、上記のごとく今回のJALのV字回復の後に迎えた華々しい再上場の陰で、現場のキャビンアテンダント(CA)やパイロットからは、悲鳴にも似た訴えが聞こえて来ているとのことだ。
 ある現役30代CAによれば、更生計画の大量リストラによって「勤務状況が劇的に変わった」とのことだ。 「フライト時間は、破綻する前はだいたい70時間前後で、更生計画では5時間増えるとされていた。ところが実際には80時間どころか、先月は92時間も飛ぶことになった。 ベテランからリストラされたことで仕事の効率が悪くなり、成田-ボストン間など10時間を超える長時間フライトでも休みを取る時間もなく、食事すら取れずに立ちっぱなしということもザラ…」 
 あるCAはフライトの前日に38℃の熱が出たが、「出勤するように」と言われた。
 それでも高い給料をもらえているのであれば、ある程度は我慢せざるを得ないが……。
 「とんでもない。更生計画による人件費削減で、私たちの給料は年収ベースで3、4割は減っている。 現に休みも取れず給料も減り、このままでは将来への展望を抱けないと、希望退職枠に入らない若いCAが昨年度だけで574名も退職した」
 一度は破綻した企業を再生するには、大ナタを振るうのは仕方がない……と製造業や建設業などでは言えるかもしれないが、こと公共交通機関においては、現場の士気は安全に関わるため、利益を優先したリストラが必ずしもいいとはいえない。
 実際、既に人員削減によって安全への不安につながる事例が少なからず報告されている。
 人員削減はCAだけでなくパイロットも対象だ。 今年1月には、フライト前に転倒した機長が肋骨を折り血まみれのまま旭川-羽田間を飛び、このことは国会でも取り上げられた。 他にも機長が燃料費を節約することを考えるあまり、CAに向かって「今日は台風を迂回せず突っ切って飛行するので、揺れるから気をつけるように」という、信じ難い指示を出したこともあったそうだ。
 再建の立役者である稲盛会長は「利益なくして安全なし」と掲げるが、その実態はどうか。 事故を起こしてからでは遅い。
 (以上、JAL経営合理化に伴う大幅削減措置下で職員が置かれている現状をネット情報より引用)


 最後に原左都子の私論に入ろう。

 現在世界規模で存在する格安航空会社とは、低価格かつサービスの簡素化により航空輸送サービスを提供することを、世界人民の要請から余儀なくされるに至っている。  そのため運航コストの低減等々により経費節減を行うのはもちろんのこと、人件費削減は一番はずせない課題となろう。 
  
 片や昨日東証一部に再上場したJALとは、そもそも“親方日の丸”典型企業であり、その長き過去に於ける「放漫経営」ぶりには国民皆が今尚辟易としていることであろう。
 原左都子としては、JALは何故経営破綻する以前に地道な経営努力を遂行できなかったのか!? と無念な感覚すら抱かされる思いだ…

 国政の混乱及び経済危機に陥った現在、JAL経営幹部が我が社はV字回復したと“糠喜び”したところで、リストラにより失った有能な社員の心の行き所があるはずもない。 しかも、現在機内顧客に心よりのサービスを届けて下さっている臨時採用CA氏やパイロット氏に更なる試練を負荷せねばJALの運行がままならないとなると、過去における御巣鷹山墜落の惨劇さえもがJAL贔屓顧客の脳裏にカムバックして来るというものだ。

 一顧客の立場でJAL過去の“放漫経営”の過ちを回想しても埒が明かないが、昨日の再上場の意味合いを今一度JAL幹部は肝に銘じて再出発して欲しいものである。