原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学校の休み時間は校庭で遊ばねばならないのか?

2013年10月31日 | 教育・学校
 10月も本日で終わりを迎える。
 今年の10月と言えば、次から次へと巨大台風が発生して過去に例を見ない勢力で日本列島を荒らし回り、特に伊豆大島にて多くの人命を失う等悲惨な大被害をもたらした事には心が痛む。

 日本にはもう、「秋」との季節が無くなる程に地球の温暖化が進んでいることを実感させられる思いだ。
 人類の「驕り」がもたらした取り返しがつかない自然破壊行動により、我々の故郷であるこの地球も、消滅に向かい急加速している事実を思い知らされる今日この頃である。

 今週水曜日あたりからやっと秋晴れに恵まれている東京地方だ。

 そんな折、10月30日水曜日の午前10時半頃だっただろうか。 公立小学校に程近い位置にある高層住宅上階の我が家の室内まで、小学校教員による校内放送アナウンスが高らかに響いてくる。
 「生徒の皆さん、今日はいい天気です。 校庭に出て遊びましょう!」
 そこまでならば、私も許容範囲だ。   ところが、このアナウンスはまだまだ続く。
 「外に出て太陽光を浴びましょう。 室内で閉じこもっていては体の発達に悪いです。 皆さん、校庭に出て元気に遊びましょう。」云々…

 ここで、原左都子の私論に移ろう。

 ちょっと待ってよ、先生。 確かに子どもの発達のためには外で太陽を浴びながら元気に遊ぶ経験も必要ではあろう。 ただし、学校の休憩時間とは20分程度ではなかろうか? (たかが20分程度太陽光を浴びる事による子どもの発育への医学的好影響の議論は、ここでは割愛しよう。)
 もっと大きな問題とは、その短時間を生徒個々人の意思で如何に過ごそうと自由ではないのだろうか、という観点だ。
 確かに放送担当先生の視点も、元教員である私にも理解可能だ。 ここのところ台風ばかりが到来していて、生徒達が校庭で遊べない日々が続いていた事は事実だ。 やっとこさ秋晴れに恵まれた今日こそ、生徒を思い切り外で遊ばせてやりたい!、との教員視線からの温情だったのかもしれない。

 さて、次の日も快晴に恵まれたのだが、同じ時間帯に同じ教員の音声で、同じ校内放送が我が家まで流れてきた。 
 ちょうど大学の授業が午後からだった娘が在宅していて、我が家の室内でこの放送を聞いていた。  小学校時代には(持って生まれた事情により)自己表出能力に乏しかった我が子であるが、今となっては素晴らしいまでの成長を遂げている娘が、母の私に伝える。 (参考のため、我が娘は小学3年生3学期よりこの公立小学校に転校し卒業まで在籍していた。)
 「昔からこの小学校は、晴れるといつもいつもこの放送を同じ時間に流した。 私にとってこの放送ほど辛かった事はない。 校庭になど出たくもなくて教室の座席に一人座っていると、教員が教室までやってきて“校庭に行け!”と強制する。 しかたがなく校庭に出ても大勢の生徒達で混んでいて、私の居場所などどこにもない。 しょうがないから校庭の生徒に不人気な暗い日陰の遊具に、一人ぽつねんと座っているしか自分の居場所がなかった…。 同じ座って休み時間を過ごすならば、自分の教室の慣れた席で座らせて欲しかった……」

 我が娘の上記の訴えから、娘が小学生時代に経験した“心の闇の隙間”を改めて認識し直し、親として娘同様に心を痛め涙を流さないはずはない。 (参考だが、現在素晴らしいまでの成長を遂げている我が娘は、今に至って過去に学校で受けた“虐待”とも表現可能な出来事を多く私に語ってくれるのだ。  元々記憶力が優れた娘とは認識していたのだが、遅ればせながら自己表出力も伴いつつある我が子の「過去の暴露」に、教育問題論評を主眼としている原左都子としては今後共大いに期待している。


 表題に話題を移そう。

 ここで私事に入るが、日本の過疎地出身、しかも“もはや戦後ではない”数十年前の時代に小学生だった原左都子である。
 そんな我が小学生時代にはまさか、学校側からの放送で「校庭に遊びに行きなさい」なる指示すら一切なかったとの記憶がある。 おそらく教員達も生徒の休憩時間を自分達の休憩時間にぞっこん当てていたのであろう。
 それでは、私の小学生時代に子ども達は何をして学校の休憩時間を過ごしていたのかと言うと、正直なところ3年生程までのその鮮明な記憶は無い。
 原左都子の記憶に少しあるのは、私は小学校高学年頃「小説」らしき文筆を好んでしていた事だ。 この作業にはまり、自主制作ノートに気ままな小説を数多く書き込んでいた。  ある時「それを見せろ!」と迫った男子生徒に、「絶対見せられない!!」と抵抗しつつ、我が小説ノートを死守するべく男子生徒を阻止した記憶が今蘇る。

 更なる私論を展開しよう。

 たかが小学生と言えども特に高学年に達している場合、上記原左都子事例のように既に自分なりの“世界”を築いている生徒も存在するのではあるまいか? 
 それをすべて無視して、「皆さん、校庭で遊び太陽の恵みを浴びましょう!」との教師側の発言とはいくら何でも無謀と心得る。

 今の小学校教育現場が進化しているのか、後退しているのかに関しては、我が子が既に大学生になっている現在に於いては結論付けられない立場だ。
 それは承知の上で、幼い子どもを抱える小学校現場と言えども「子どもの個性・多様性を尊重する」べくスタンスに立ち戻っては如何であろうか?


 ここで、教員擁護論も披露しておこう。

 10月30日朝日新聞夕刊記事によると、今時「虫に触(さわ)れない」「マッチ使えない」小学校教員が存在するとの事だ。
 教員経験(元高校教員だが)のある原左都子に言わせてもらえば、「何でそれを責められなきゃいけないの!!」との話だ。 私自身も(ド田舎育ちなのに)今尚絶対に「虫には触(さわ)れない」。  これなど持って生まれたDNA資質によると私は考察している。 要するに努力で変わる性質のものではないのだ。 
 これこそ、教室の生徒の能力に依存すれば済む問題だ。「先生が触(さわ)れないのなら、ボクが先生の替わりに触ってあげる!」との生徒が必ずや教室内に存在するはずである。そんな生徒の力に頼る事こそが教員たる力量ではあるまいか。

 「マッチ使えない」の事例など、3回試行すれば誰でも使えるよ。 今時「マッチ」など使う機会が無い故に若き世代が使えないだけの話だろ?? 何でそんな誰にも分かる安直な事例を持ち出して、教員失格との議論を展開するのかに関しても胡散臭い話だ。


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 上記において教員擁護論も展開した通り、人間とは子ども・大人に係わらず皆多様で個性豊かな存在なのだ。
 どうして、人間がこの世に持って生まれ出た素晴らしい個性や多様性を、この国や自治体の行政は今尚認めず潰し続けるのだろう!?

 「晴れたら生徒皆が校庭に出るべきだ」? 「小学校教員とは皆、虫を触(さわ)れないといけない」?
 そんな旧態依然としたことばかり言い続けているから優秀な人材達を根こそぎ失っている現実に、もうそろそろ自治体や国家は気付こうよ。

定年退職した亭主の正しい取扱い方

2013年10月28日 | 人間関係
 「亭主元気で留守がいい」 との“名言”とも表現可能な流行語が世の奥様方を唸らせたのは、1986年の事だった。
 その後もこの“名言”の勢いは衰えるばかりか、今となっては“ことわざ”の地位にまで上り詰めているようだ。

 特にこれが亭主定年退職後ともなると、奥方にとっては「粗大ゴミ」そして「濡れ落ち葉」にまで化す末恐ろしさである。


 原左都子の身近にも、定年退職したご亭主の「粗大ゴミ」化あるいは「濡れ落ち葉」化を阻止するべく、涙ぐましいまでの対策を練っておられる奥方が数多く存在する。

 某セレブ知人女性など、ご亭主の定年退職に先立ち財源を注ぎ込んで東京銀座にご亭主のアトリエ兼店舗を設けられ、そこへご亭主を日々通わせるべく方策を打ち立てられた。 これが大成功で、定年後数年が経過した今に至って尚ご亭主留守中に奥方ご自身の活動にエネルギッシュに集中出来ておられるご様子だ。

 また某女性は、ご自身が現役時代に培った医学分野の専門力を活かし自ら再就職をして昼間家を留守にする事により、定年退職後のご亭主と距離を置かれているようだ。

 私は週に一度のペースでスポーツジムに通っているが、昼間の時間帯に毎週欠かさず来ているメンバーとは男性高齢者がほとんどである。(もちろん少数ながら女性高齢者もお見かけするが。) おそらく皆さん、ジムでは健康維持目的でトレーニングされているのであろうが、もしかしたら奥方にジムで長時間過ごすように指南されているのやも知れない。  今時の民間スポーツジムとは何処も月極料金制を採用して、それが低価格設定であるのが特徴だ。 昼間の顧客層として定年退職後の高齢者こそが主たるターゲットであろう事に想像がつく。 (参考のため、公的機関運営のスポーツジムなど高齢者無料との特典もあるようだ。)
 最近では若い世代女性の昼間の来訪をターゲットとして特別待遇しているらしき民間ジムの広告が目立つ。 要するに、お年寄り男性にとって若い女性の姿を見るだけでも“目の保養”になるとの論理ではなかろうか?? 若い女性を引き込む事により更なる高齢者男性の来館を意図していると捉えるのは、原左都子の歪んだ視線だろうか?

 いずれにせよ理由や方策の如何によらず、定年後のご亭主とは距離を置き自分らしく活動したい奥方が量産されている今の時代背景ではあるまいか?


 ここで原左都子自身の私事を語ろう。

 私の場合は双方40歳前後にしての見合い晩婚、かつ婚姻後まもなく高齢出産で一女を設けていることが最大の理由と推し量るが、我が亭主と二人の時間を共有した記憶すらほとんどなければ、お互いにその希望もさほどなかったものだ。
 我が子誕生直後には、もちろん亭主も育児に“少しばかり”は協力してくれた。 その後娘3歳頃に既にその協力もほとんど終焉し、母親の私一人で娘の教育指導を遂行して来たといっても過言ではない。 
 それでも娘の成長を願う目的で親子3人旅行のスケジュールを私が頻繁に計画し、実行してきた。 娘中学2年生の夏に一家3人で10日間程度の海外旅行に出かけたのを最後にその関係も修了し、後は私と娘との二人旅等のレジャーを楽しんでいる現状である。

 晩婚当初より多少特異的とも言える我が家の場合、亭主が定年退職に至ろうと特段の変化や不都合は無かったともいえる。
 亭主定年退職後1年7ヶ月が経過した今現在、我が家にほぼ毎日在宅している亭主であるが、一番ストレスフルで困惑するのは「料理嫌い」で名高い原左都子としては“亭主の昼飯を作る事”と自己分析している。 (参考のため、亭主の朝飯に関しては起床時間帯が一定していないため自主的にお願いしている。) 夕飯については母の立場で娘の分も作成するべきノルマがある事ぐらいは承知している故、これに関してもさほどの抵抗感はない。 
 いや昼飯に関しても、我が家の亭主も私から「今日は作れない事情」を前もって伝えておけばそれを承諾してくれる程度のキャパはある。 だが、何で私がいちいち亭主の昼飯を作れない事を“申請せねばならないのか”自体が理不尽であり、一番のストレスである事には間違いない! 


 さて、今回のエッセイを綴るきっかけになった朝日新聞10月26日付“悩みのるつぼ”の 「退職した夫が束縛します」 なる64歳女性の相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 64歳女性だが、結婚40年、夫が退職するまでは多少の波風があったものの何とか折り合ってきた。 私は健康なうちはお互い自立した生活をすることが理想で、共働き中も現在も生活費は一部を除き基本的に別会計だ。 人間は一人では生きていけないことは理解しているが、夫は私を愛していると確信しているようだ。 この先介護するかされるかの人生は覚悟している。 とは言え、子育てと仕事から解放された今をもっと自由に謳歌したい。 夫は組織のトップ近くまで昇進したので、趣味どころではなく燃え尽きたのかもしれない。 人とは変わらないものだ。 いいストレス解消法をご伝授いただきたい。

 今回の回答者は社会学者の上野千鶴子氏であるが、その回答表題は「夫を地域デビューさせる努力を」とあり、その実例を挙げて論評されている。
 原左都子若かりし時代より尊敬申し上げている上野千鶴子氏であるが、今回の私の回答は上野氏の回答とは大幅に異なる。


 最後に、我が私論を述べよう。
 (私論展開の前に、相談者の人生と我が未熟な人生とでは大幅に異質である事をあらかじめお断りしておきたい。)

 相談者女性は、定年退職されたご亭主に「愛されている」との記述を相談内でされている。 これぞ、素晴らしい!と私など感じざるを得ない。 (そうなんだ、60代半ばにして定年退職後の夫に愛されている??)
 その思いを大事にされては如何かと、若輩の私からアドバイス申し上げたい思いだ。 加えて相談者女性ご自身にも経済力があり、この先ご亭主との相互介護に関してもご理解があられるならば、このままのご関係を続ければそれが必要十分ではないのだろうか。
 原左都子にとっては何だか羨ましい類の相談内容なのだが…

 その上で私が推測するには、(失礼は承知の上で)組織のトップまで昇進したとの相談者のご亭主は、実は現実世界での人生経験が不足しているのではないかとの事だ。
 組織に勤務中の現役時代にもう少し別方面でも人生経験が積めていたならば、このご亭主の定年退職後の生き様が違って、奥方への迷惑が縮小できたのではないかと私は想像するのだ。

 結局、ご亭主の人生をそのように操ってきた責任は奥方にもあると私は結論付ける。
 今の時代に於いて長い老後をお互い生き抜く運命にある夫婦とは、退職前から二人してそれぞれの“真の自立”を目指しておくべきでなかっただろうか。

試合中の選手に「ため息」はやはり失礼だよ

2013年10月24日 | 時事論評
 クルム伊達公子氏。
 この名を知らない日本人は少数派であろう。 

 日本の女子プロテニス選手であるクルム伊達公子氏の過去の輝かしき成績・記録を少しだけ紹介しよう。
 WTAランキング自己最高位はシングルス4位、ダブルス33位。 WTAツアー通算でシングルス8勝、ダブルス6勝を挙げている。 アジア出身の女子テニス選手として、史上初めてシングルスランキングトップ10入りを果たした選手である。(以上、ウィキペディア情報より引用。)

 ところが伊達氏はこの華々しい記録の裏側で、「すぐ切れる」「悪態を突く」「機嫌の悪さを公にする」等々の悪評でも名高い選手だった。
 例えば、試合が劣勢になるとイライラして「試合中にボールを手渡すボールボーイに罵詈雑言を浴びせたり、手渡ししたボールをラケットではじいたり……。」 「マスコミに対してもそっけない態度を取ったり、取材を拒否したりと、以前より機嫌の悪さを露骨に出すタイプだった」等々の評価が現在に至っても存在するようだ。
 これらに関して伊達選手本人も「感情のコントロールがうまくなかった」と後に反省しているとの論評もある。

 決してテニスファンではない原左都子だが、実は昔から伊達公子氏を好意的に捉えている。 
 何と言っても、あの徹底した「負けず嫌い」ぶりが爽快だ!
 氏の気性の荒い言動がマイナス面で表面に出てしまうとしても、日本一の輝かしい実績を伴っている故に肯定的に捉えられるべきと私は解釈してきた。
 当時より世界的に活躍している諸外国選手達の中には、伊達公子選手タイプの「悪態を突く」選手は少なからず存在したのではあるまいか? 伊達選手と同時期に活躍したドイツのシュティヒ・グラフ選手なども、私の記憶によると試合会場で大声を出すタイプではなかっただろうか?? 
 何故、伊達選手のみが日本国内で悪態言動を批判されねばならないのかを分析した場合、やはり日本特有の旧態依然とした歪みのある礼儀作法意識が揺ぎ無く存在したのであろう。 あるいは、メディアに出るスポーツ選手とはファンサービスに徹するべきとの、身勝手なメディア意識に依存する部分が大きかったのかとも推測する。


 今回のエッセイの本題に入ろう。

 以下はネット情報を引用要約して紹介する。
 去る9月24日に東京有明テニスの森公園で行われた女子テニスの東レ・パンパシフィック・オープン、シングルス2回戦で、クルム伊達公子氏が、自身のミスに対し観客が「あ~」と発するため息に、試合中にもかかわらず「ため息ばっかり!」と身振りを交えて怒りをあらわにした。 この日は平日にもかかわらず入場者が7000人を超えた。観客のお目当ては42歳でも世界に伍して戦うクルム伊達だったはず。 それなのに…。プロのアスリートとしては、試合で高いパフォーマンスを見せて観客を魅了するのは当然であるが、ミスのいら立ちを観客にぶつけるのは、お門違いではないかと疑問を持った。
 某試合に於いて第1セットを3-6で落として迎えた第2セットで6-6タイブレークに持ち込まれたことで、(伊達氏の)イライラは募りに募っていた。 その証拠に、タイブレークになる前に「シャラップ(黙れ)!」と叫んでいた。 ついにいら立ちを爆発させたのは、タイブレークの1ポイント目にダブルフォールトを犯した時だ。 その瞬間、伊達氏は観客席に向かい両手を広げ「ため息ばっかり!」と大声で叫んだ。
 試合後の会見で、伊達氏は「チャンスがなかったわけではない。ショットの質を上げる大切さが必要で、もう一段自分のテニスを上げないといけない」とのコメントを残した。
 (以上、ネット情報より要約引用。)


 ここで今回のエッセイとは何らの関連も無いであろう事は承知の上で、原左都子の私事を少しだけ語らせていただこう。
 私には高校教員経験があるのだが、その日常とは日々の授業毎に教室内生徒達からの「野次」や「バッシング」に反応しつつ、それに耐え偲ぶ連続だったとも表現可能だ。 
 いやもちろん、有難い事に私自身や授業内容の「応援」かと思う反応も日々数多くあった。 例えば「先生、彼氏いるの?」などは、私の職業特性を逸脱して生徒の私的関心に基づいた質問だったのであろう。(参考のため、この手の質問には「いないよ。」と淡々と返答する事に決めていた。多くの先生方は「授業に関係ない質問はやめろ!」と叱責していたようだが、私は年頃の子ども達の関心を尊重するべきと考え必ずや何らかの返答をしていた。)  あるいは授業内容に関する質問等ももちろん受けたが、それこそが当時の我が職業に逸脱する事ない正当な反応だったものだ。 
 ある時、「商業経済」の授業内で銀行等金融機関の業務の一例として、私自身が独身の立場で借入している住宅ローンに関する説明を始めたところ、一女子生徒より「先生の個人的な自慢話はやめて下さい!」 なる予想外の手厳しいバッシングを受けた。 これには驚かされると共に、今に至って尚教員たる私の大失態だったと心得ている。 当時未熟な私としては、自分自身の身近な事例を取り上げる事により生徒との“親密性”を図ろうと企てたのだが、様々な環境下に生きている多様な生徒が存在する事実に思いが及んでいなかった事を大いに反省したものだ。


 さて、クルム伊達公子氏が現在受けている世論バッシングに話を戻そう。

 9月24日の東レ・パンパシフィック大会で伊達氏が試合会場から発した「もうため息ばっかり!」との叫びに関して、多くの議論が世に炸裂している様子だ。
 某著名人は、「プロの選手としてファンのお陰で巨万の富を得ている訳だから失言をしてはいけないし、その資格もない」と批判しているようだ。 ただし、この著名人氏も「あの年になっても、反発心や感情を抑えきれない若さを持っていられるのは、いいところ。」との肯定的コメントを合わせて述べておられる様子でもある。
 某大学教授は、「落胆のため息は脳の活動にマイナスになるけれど、応援や歓声は脳の活動にプラスの影響を与える。 選手のマイナスになる落胆のため息ではなく、プラスになる応援が出来たらいい」と話しているらしい。(以上、朝日新聞10月20日記事より一部のみ引用。)

 プロスポーツ選手と、(私が昔一時経験した)しがない高校教員とでは、その立場が大いに異なる。

 観客の応援をもって成り立っていると表現可能なプロスポーツ界の選手達に課せられている厳しい使命の実情を思いやることも、ファンとしての一つの礼儀なのではなかろうか?

 世界に類稀な実績を上げ現在尚活躍中のプロスポーツ選手ご本人が「ため息はやめて!」と訴えられておられるならば、ファンの皆さんはそれを非難叱責するのではなく、それも観客としてのマナーと心得てはいかがか?  今後共ファンとしてその選手へプラスの歓声応援を贈り続ける事により、ファンご自身の人生の活性化に繋げたらどうなのだろう。

デザイナーベビーも育て方如何によっては暗雲が…

2013年10月22日 | 時事論評
 「生命の操作」医療もここまで個々の人間のエゴを認めてしまっては、ヒトが人ではなくなるだろうし、人類が絶滅するスピードが速まるばかりと末恐ろしい感覚を抱くのは原左都子のみだろうか??


 「デザイナーベビー」なる言葉をご存知だろうか。

 以下に朝日新聞10月20日一面記事より、その用語の説明箇所を要約引用しよう。
 受精卵の段階で遺伝子操作するなどして、外見や知力、体力等、親の希望を叶えた形で生まれる赤ちゃんをデザイナーベビーと呼ぶ。 体外受精が可能になった1987年に、この実現が現実味を帯びた。
 日本でも、着床前診断は既に行われている。 さらに遺伝子解析を進めれば、産まれて来る赤ちゃんを自分でデザインする事が可能となると考えられている。 ただ、生命を商品のように扱う考え方には倫理的な批判が強い。 
 例えばある親が、青い目で足が速く乳癌になるリスクが低い子どもが欲しいと望んだとする。 それに相応するDNA配列のわずかな違い(SNP)を分析し、商業的バンクに保存されている精子や卵子の提供者と、利用者の遺伝情報をかけ合わせて解析する。 それらの特徴がどの程度表出するかの確率をあらかじめはじき出した上で、利用者の希望を満たす度合いに基づき採点する。 その結果、利用者側は点数の高い提供者を知ることが可能となる。 
 デザイナーベビーとして希望できる特徴項目は、現在のところ「身長」「性格」「寿命」「酒の強さ」「運動能力」「病気発症リスク」等があるらしい。
 米国では既にこの遺伝子解析技術に関する考案が、特許として認められたとのことだ。 ただし現時点では、この特許コンセプトを実用化する意図も計画もない段階との事でもある。 現状では結果の信頼度・精度共に項目により大きなバラつきがあるが、近い将来遺伝子解析が進んで制度が高まればデザイナーベビーは現実になる、とみる科学者は少なくない。 
 今回の特許に関しては、英科学誌「ネイチャー」の関連誌は、「子どもの特徴を『買い物リスト』に入れることは、倫理面で大きな問題を孕む」との批判投稿を掲載した。
 (以上、朝日新聞10月20日一面トップ記事より一部を要約引用。)


 原左都子の私論に入ろう。
 
 「原左都子エッセイ集」医療関連バックナンバーエッセイ内で幾度となく記述してきているが、私は「遺伝子操作医療」は元より、「臓器移植」そして「再生医療」に関しても反対派を貫いている。 (参考のため、「再生医療」を行う手法としてはクローン作製、臓器培養、多能性幹細胞(iPS細胞等)の利用、自己組織誘導の研究などが存在する。)

 何故私がそれらの先進医療を受け付けられないのかと言うと、それは我が「死生観」に基づいている。
 現世に自然に生まれ持った我がDNAに基づく自らの生命体を、そのままの形で生かしそして終焉させてやりたいのだ。 もちろん、我がDNA能力範囲内で生命を長引かせる努力は今後も怠らないつもりだ。 ただ他力本願な「生命の操作」をしたり、他者の臓器を貰う等々の迷惑をかけてまで我が寿命を長引かせたいとの発想は一切ない。

 科学の一分野である医学の発展は素晴らしい半面、生命倫理観念に於いて、とてつもなく大きな過ちを犯しているとの感覚も拭い去れない。
 量子力学分野に於ける「神の数式」と医学は大幅に分野を異にする事は私も心得ているが、現在の遺伝子解析の「生命の操作」は既に「神の数式」を冒涜して、基礎医学研究者達の愚かな自己満足と世の進化に対する誤った認識に基づく期待とで、混乱を来たしている有様ではなかろうか?

 そしてもちろん、一般市民にも大いなる落ち度と責任があろう。
 例えば、国内のとある有名医学者が再生医療分野において「医学・生理学分野ノーベル賞」を受賞したなら、その研究こそが世界レベルで素晴らしいと直ぐに信用してしまうのであろうか?
 あるいは出生前診断が可能となれば、自分のお腹の中にいる子どもの明るい未来に思いが及ばず直ぐにその診断を受け、悪い結果が出たらその生命を絶とうと志すのか??


 ただ、私とて人を批判出来る立場でもない。

 私の場合高齢出産だったのだが、妊娠直後当時の我が本音を語ると、親(私と夫)双方のDNA分析に基づいた場合、「生まれ出てくるこの子はおそらく相当のDNA素質に恵まれているぞ!」と確信していた部分があるのが本音だ。
 ところが、この世とはそんなに甘くないのが常である。 我が子は出生時のトラブルにより若干の事情を持ってこの世に生まれ出てきた。
 それでも、私は頑張った。 この子の生まれ持ったDNAを最大限に開花させるべく育てようと!

 我が娘は来月“二十歳”を迎える。 (親馬鹿ながらも)この子なりに持って生まれたDNAを十分に開花させつつ素晴らしいまでの発展を遂げているのだ。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 「デザイナーベビー」と言うが、これは他者の優れたDNAと利用者側の片親のDNAを掛け合わせたベビー誕生となるとの理解でよいのだろうか? 要するに、この新技術の恩恵に被るのは「不妊治療」中の夫婦に限られるとの条件であるのか? 
 いずれにせよ、そもそも大いなる歪みを承知の上で開発され特許化された医療技術であることには間違いなさそうだ。
 不妊治療中のご夫婦がこの種の遺伝子解析結果を信じて子どもを設けたいとの意向があり、それに同意した場合将来的にその夢が叶うとの事なのだろう。

 ところが原左都子自身の我が子育児・教育指導経験によれば、子どもの成長とは生後の「家庭内環境」と「育て方」こそが一番の指標である事に間違いない。

 えっ? そうではなくて、「青い目」に「身長」? それから「酒の強さ」?? 
 確かにそれらの項目に関しては、子どもが持って生まれたDNA力に大きく支配されることであろう。
 片や、「学力」「運動能力」「将来かかる病気」 はたまた「寿命」??? (参考のため、「将来かかる病気」に関しては一部の疾患に於いてある程度DNA分析が進んでいるのが事実であり、論評を控えるべきと心得ている。)

 私に言わせてもらえば、「学力」や「運動能力」ひいては「DNA依存によらない病気」に関しては親の教育采配力で管理可能と心得る。 それに伴い「寿命」に関しても、子どもが成人に達するまでは親の責任範疇で管理可能ならば、ある程度の将来的展望が持てるものと推測する。

 最悪の場合、もしも近い将来「デザイナーベビー」を産む事を欲した親達が、他者のDNA力にのみ依存して子どもの教育等日常的バックアップにおいて手抜きをするならば、せっかく巨額投資をして設けたベイビーの将来は悲惨な結果となる事もあり得るかと警告しておきたい。

同化主義的レイシズムの恐怖

2013年10月17日 | 時事論評
 まず、言葉の解説から始めよう。 (以下はウィキペディア等を参照)


 「レイシズム」とは何か?

 レイシズムを日本語訳すると、「人種差別主義」。
 人種差別主義とは、恣意的に人間を分類して区別・差別することである。 世界的、歴史的に各種の事例が存在している。
 人種差別撤廃条約は、定義として「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定めている。
 社会学者ロバート・マイルズは、レイシズムを以下のように定義した。 肌の色など恣意的に選び出された特徴を重要な基準として選択し、この特徴により人間集団をカテゴライズし、否定的/肯定的な評価を付与し 一定の人間集団を排除/包摂していくイデオロギー。 ステレオタイプな他者像をともなう。 分類の基準となる特徴は一般に形質的なもの(例 肌の色、髪の型、頭の形)だが、見て直ぐに分からない生まれつきの現象(例:血統)も重要な特徴として選ばれることがある。
 市民的及び政治的権利に関する国際規約は、第20条第2項で「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める。

 ついでに、「ヘイトスピーチ」とは何か?

 ヘイトスピーチとは「憎悪表現」と訳される概念。 喧嘩言葉と同様に相手方の内部に憎悪を生み出すような言論(表現)類型と考えられており、話者(表現者)の側の憎悪感情が問題とされる。
 ある個人や集団を、人種(民族)・国籍・性といった先天的な属性、または民族的文化などの準先天的な属性、あるいは宗教などのように人格との結び付きが密接な特別の属性で分類し、それを有することを理由に、差別・排除の意図をもって、貶めたり、暴力や誹謗中傷、差別的行為を煽動したりするような言動のことを指す。ヘイトスピーチの対象は言論以外に表現全般に及び、例えば宗教的象徴を中傷する漫画や動画の公開や、歴史的経緯を踏まえた上で民家の庭先で十字架を焼却する行為なども議論の対象に含まれる。
 一般には「差別的表現」と解釈されることが多い。
 人種、民族、国籍、宗教・思想、年齢、性別、性的指向、障害、職業、社会的地位・経済レベル、外見などを貶め、憎悪、暴力をかき立てるような表現をすることがヘイトスピーチの特徴である。憎悪バイアスをもたらす表現形態としてジェンダー論の立場からはポルノグラフィ規制論とも関係する。個人に対するいやがらせ表現などは侮辱罪やストーカー規制法などの対象となる。


 本題に入ろう。
 私は常々、日本人程周囲に根拠無き「同化」を強要して平然としている人種は世界に類を見ないのではないか? と嫌気がさしている。
 昔ながらの「村八分」がその典型例だ。
 あるいは、学校をはじめとする組織に於ける「集団主義」も然りであろう。
 はたまた東日本大震災後に流行語となってしまった「絆」なども、人々に無責任な「同化」を強要しているとしか捉えようがない。
 最近の事例で言えば、2020東京五輪開催決定に関しても、反対派である私など未だに身の置き場がなく縮こまざるを得ない有様だ。


 朝日新聞10月15日夕刊文芸批評ページに、そんな私の日本国内に蔓延っている「同化」への大いなる反発心を払拭してくれそうな記事を発見した。

 早速、関西学院大学教授 金明秀氏による「『同化』求めるのも、差別」と題する記事を以下に要約して紹介しよう。
 今月7日、在日特権を許さない市民の会らによる京都・朝鮮学校前での街宣活動に対し、人権差別と認める民事訴訟判決が下りた。 その直後より判決に反対するヘイトスピーチがネット上に溢れっぱなしである。 日本に於ける排外主義の根は既に深い。
 日本におけるレイシズムの現れ方は2種類あることが分かっている。 
 「排外主義的レイシズム」とは、日本の伝統や血統とは異なる集団を劣等視したり、互いの差異を誇張することで排除する態度である。 多くの日本人にとってのレイシズムのイメージはこれに当たるだろう。
 一方、「同化主義的レイシズム」とは、異文化集団に日本社会の「普通」で「正常」な文化への同化を強制する態度を指す。 これに同化しない限り対等な社会の構成員とは認めないとの態度だ。  欧米の多くの国では「同化」はマイノリティのアイデンティティを脅かすということから、差別の同義語として理解されている。
 しかし日本では「同化」は好ましい事と考えられている。 例えば「転校生が土地の言葉を話すようになったとき、本当の仲間になれた気がした」とのエピソードが美談として語られる。
 「同化」との言葉とは日本人にとってはある種のロマンチシズムを喚起し、レイシズムへと繋がるような疎外の現実がいつも語られずに終わっている。 その意味でヘイトスピーチの原因は日韓の政治対立である。 そうした「異常事態」が収まれば(日本にとっての)異常事態が収まり「普通」に戻るとの主張は問題が多過ぎる。 日本に於ける「普通」に同化すれば問題が解消するとの楽観的な態度こそが、何年もの間ヘイトスピーチを放置する始末となっている。
 日本に於けるレイシズム問題を乗り越えるためには、「普通」に戻るのではなく一人ひとりが「同化」を美化する物語を克服せねばならない。 極端で分かり易い「排外主義的レイシズム」だけを他人事のように問題化して、穏健で分かり難い「同化主義的レイシズム」を「普通」の事として温存する構造を打破しない限り、ヘイトスピーチの被害を食い止めることは出来ない。
 (以上、朝日新聞掲載の金明秀氏による記事から引用)


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 金明秀先生、朝日新聞紙面上でよくぞここまでご論評して下さったものだ。
 国際問題に関してはさほど詳しくない私だが、「同化主義的レイシズム」こそが日本人が昔から背負っている「負の気質」の“諸悪の根源”と私が忌み嫌っている現象である。

 金氏が記されているように、「排外主義的レイシズム」とは誰にも分かり易い差別主義的思想であろう。 これに関しては、「それはいけないよ」「今は皆平等なんだから、肌の色や習慣が違っても皆が仲良くするべきだよ」と、たとえ小学生であれども応える事が可能だろう。
 
 ところが一旦「同化主義的レイシズム」に移行するなり、この国の市民達とは「やっぱりこの国に来たならば我々に馴染んで欲しいし、我が国の文化に従ってくれたら嬉しい」と志向し始め、そう努力させる事こそが「普通」と感じるのが常であるのが嘆かわしい。

 やはり日本とは未だに「島国」であることを実感させられる思いだ。  
 「絆」「絆」と、その言葉の本来の意味すら理解せずして自分本位に周囲を「同化」しようと企てている輩が多い現状に、辟易とさせられるのみである。 
 しかもその思慮なき言動により傷付く相手の存在も理解出来ずにいる単細胞気質こそを、この国日本の国民達は本気で終焉させる努力をせねば、今後の真の世界親交が叶うすべもない。