原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「白蓮には興味がない」 との宇田川女史発言に同感!

2014年07月31日 | 時事論評
 日々高視聴率を記録している NHK連続テレビ小説「花子とアン」も、残すところ後2ヶ月、いよいよ終盤期に入る。

 本日の場面では関東大震災に突入し、今後の物語の舞台が大きく方向転換しそうな気配である。


 ところで原左都子は、現在放送中の連続テレビ小説「花子とアン」を好意的に捉えて“いない”事に関してバックナンバーで紹介している。
 その内容を少し振り返ってみよう。
 甲府の貧しい小作農家に生まれた主人公 花 が「神童」であるとのドラマ設定であるが、裕福な子女が通う東京の著名女学院に、給付生として入学出来た事実の描き方が粗雑過ぎる事を私は指摘した。 私の視点からは如何に好意的に考察しようが、残念ながら花には「神童性」が感じられないのだ。 
 その後も 花 は特段の努力もせずして、時は乙女期へと移行する。 どうやら、花とは(当時のレベルで)英語力のみには長けた乙女に成長しているようだが、これまたその成長過程の描き方が貧弱極まりない。
 そうこうしているうちに、女子学院への転校生として華族出身の“葉山蓮子”が物語に登場した。
 仲間由紀恵氏演じる、その役柄の濃厚さに衝撃を受けた視聴者が多かった事であろう。 それ故にこのドラマは未だかつて高視聴率を挙げていると私は理解している。 


 ここで少し、ドラマ名 葉山蓮子(後の加納蓮子)に関する補足説明をしよう。

 葉山(加納)蓮子氏とは、実在の人物である。
 ウィキペディア情報を頼り、以下にその人物像の一端を紹介しよう。
 柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日 - 1967年(昭和42年)2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)。大正三美人の1人。白蓮事件で知られる。  父は柳原前光伯爵。 母は前光の妾のひとりで、柳橋の芸妓となっていた没落士族の娘[1]奥津りょう。
 大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。

 NHKドラマ「花子とアン」内でも、過去に実在した柳原白蓮氏の生き様をほぼ忠実に、葉山(加納)蓮子として描いていると、私も理解している。


 片や主人公である村岡花子の描き方に関しては、物語終盤に差し掛かろうとしている現在、未だ主人公の存在感の無さに辟易とさせられている。
 これ、どうしたのだろう??  HNKはドラマ終盤に入って尚、白蓮を出すことにより「花子とアン」の視聴率が稼げることを虎視眈々と狙っているとしか考えようがない。
 あるいは、主人公の妹役 かよ を利用して視聴率を稼ぐとの魂胆か??
 いずれにせよ、主人公である 花(本人曰く花子)の生き様の描写力に欠けている事は確かだ。
 (もしかしたら、亭主役の男優がそもそも肉体派であることが災いしているのだろうか?? 申し訳ないが、原左都子自身もあの男優が体を張って映画に出演したらしき“肉体映像”を垣間見て以降、げんなり感が否めないのだが…) 


 ところで私は、登場人物の一人である宇田川満代氏との当時の“売れっ子”女流作家がドラマ内で発した見解に、いたく同感させられたものだ。

 この宇田川満代氏に関する情報を、ネットより得たので少し紹介しよう。
 花子とたった1歳違いの明治27年生まれで北川千代という児童文学作家がいた。 三輪田高等女学校在学中『少女世界』『少女の友』に投稿を重ねデビューするという経歴を持つ。 その後児童雑誌『赤い鳥』で作品を発表する。
 村岡花子が交流があったのは宇野千代であるが、童話でデビューというならばむしろこちらの北川千代の方が近いものはある。 昭和4(1929)年の市川房枝の婦人参政権運動を支持する女流文学者たちの署名に北川千代は花子と共に名を連ねていた。 北川千代の顔は山田真歩(宇田川満代役)と相当に似ている。
 (無断転載をお詫び申し上げます。

 この宇田川満代女史(あくまでも「花子とアン」内登場人物の名前に過ぎないが。)が、雑誌編集担当氏より「白蓮に関する小説を書いて欲しい!」とドラマ内で嘆願された直後に、言い放った言葉がある。

 「申し訳ないけど、私は白蓮には興味がないの。」

 その後その雑誌担当者が「それでは自分が書きます!」と言い返した後、宇田川満代が「好きにすれば。」と応えた事が原左都子として実に印象的だ。
 


 最後に原左都子の私論を展開しよう。

 実は私本人も宇田川満代氏同様に、白蓮の生き方にはさほど興味がなくなりつつあるのが現実である。
 「花子とアン」のドラマ物語は“作り物語”としては一応面白く日々欠かさず見ている身にして、白蓮の生き方には日々失望する連続である…

 時代の趨勢とはいえ、何故白蓮は石炭王である加納家に嫁いだのか。 そして白蓮は加納氏の財力を利用して自らが書き留めた「白蓮歌集」を出版した。  しかも加納伝助氏の財力のみを頼りに、青二才の学生との「駆け落ち」が叶ったのも歪み無き事実だ…
 その後の白蓮の実情とは駆け落ち青年との間に子供を設けたものの、その後も世の陰で青二才学生に身を委ねるばかりで、何ら自分らしい自己主張も自己実現もないまま、子供と共に陰の人生を歩み続けるはめとなる。
 

 そんな蓮子氏の「他力本願」駆け落ちは(史上でも事実叶ったらしいが)、今の時代、これを物語としてドラマ化にするには、誰も羨まない、もはや形骸化した恋愛形態ではなかろうか…。

 これをNHKが史実に忠実に基づくのではなく、現在にも通用するストーリー展開に改ざんする事に、私は期待したいものだ。

 それよりも何よりも、主人公である 花 の存在感の無さを、今後如何にNHKが描き直して物語の結末を迎えるつもりなのか、一視聴者として少しは期待申し上げたいものだ。 

小保方氏はもはや不正疑惑から逃れられない

2014年07月29日 | 時事論評
 7月27日夜9時からNHK総合テレビにて放送された NHKスペシャル 「調査報告STAP細胞“不正の深層に迫る 疑惑の論文を徹底検証」 を、元科学者の端くれの私は当然ながら視聴した。

 全体的な印象としては特段のトピックス的話題はなかったものの、さすがにテレビ報道番組だけあって、よくぞこの場面を撮影出来たものだとのサプライズ感は十分に得られた。


 報道内容の一部を、私論を交えつつ以下に振り返ってみよう。 (ただし我が簡易メモと記憶のみに頼るため、内容に誤りがある恐れが否めない点をあらかじめお詫びしておく。)

 小保方晴子氏が、現山梨大学生命環境学部附属ライフサイエンス実験施設長・教授、理化学研究所客員主管研究員であられる 若山照彦氏 と知り合ったのは、2010年夏の事だったらしい。
 その時、若山氏はハーバード大学研究室帰り直後の小保方氏を、(私論だが)“ただそれだけの理由で何の根拠もなく”「優秀な研究者」とみなしたようだ。 そして(後で思えば不正だらけの)STAP研究以外には何らの実績もない小保方氏との若造研究者に、自分の研究室の隣に個室研究室を与えた。

 その個室研究室映像をNHKテレビで実際に見て、私は実に驚いた。
 この「小保方個室」こそが、STAP不正騒動の着火点、諸悪の根源ではなかったかとの思いと共に…。

 私事を語ると、元科学者の端くれである私も個室研究室や実験室での作業経験が過去に於いて多々ある。 一つの実験・研究プロジェクト課題を達成するに当たり、ある一定期間個室実験室内で一人で研究に励む事は官民問わずよくある事だ。
 ただその場合重要なのは、プロジェクト目標に向けての計画進捗度合いや達成度の確認、一人で実施した実験内容に関するプロジェクト内での検証作業である。 そのため、例えば1日に一度はプロジェクトメンバーが集結してその状況を確認、話し合う場が設けられたものだ。
 さて、若山氏と小保方氏の間ではそのような会合の機会があったのだろうか?   NHK映像で見た閑散とした風景の理研内個室に於いて、もしや未だ若き小保方氏は科学者として未熟な身にして、日々ただただ孤立感を深めていったのではなかろうか…


 「STAP細胞は存在するか?」
 この絶対的命題に関するNHKの取材及び映像も的を射ていたと、私は評価する。

 NHKはこれに関して100名を超える科学者達を取材したようだ。 
 その取材力の賜物として、NHKは小保方研究室内で見つかった「ES細胞容器」の出どころを突き止めたようだ。 ここでは詳細記述は避けるが、理研所属研究員によるその出どころの証言は信憑性が高いと私も評価する。

 あるいは、小保方ネイチャー論文に関する科学者達の検証場面の映像も、大いなる信憑性があると私は支持する。
 小保方ネイチャー論文に関しては、一般発表によるとその一部のみに「捏造」「改ざん」があったと結論付けられているが、その実7割を超える画像に不正があるとの指摘を、NHKが科学者達の検証場面の映像と共に紹介した事実を私は評価したい。


 NHKの取材は、小保方晴子氏を大々的に取り上げ世に売り込んだとも言える笹井氏にも及んでいた。
 笹井氏なる人物こそが、若き小保方氏を利用して自らの利益(例えば将来の「ノーベル賞」受賞等)を得ようと企んだ張本人ではなかろうかと、私も以前より感づいていた。
 
 NHKの取材によると、笹井氏とはES細胞分野で名を挙げている科学者にして“マルチタレント性”があるとの事だ。
 そこで小保方STAP研究にその“力量”を発揮して、ネイチャー論文として仕立て上げ、自分こそが「STAP特許」でも取ってその後「ノーベル賞」に発展させれば、今後国家からの理研への膨大な資金援助にもつながると企んだとの原左都子の理解でもある。

 
 理研神戸センターの重要人物である、笹井芳樹氏に関するウィキペディア情報の一部を以下に紹介しよう。
 笹井 芳樹(1962年)は日本の医学者、研究者。京都大学博士。 神経系の初期発生の遺伝子・細胞レベルの研究者として知られる。世界で初めてES細胞による網膜の分化誘導に成功し、立体的な網膜を生成することにも成功した。
 京都大学助教授、教授、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(Center for Developmental Biology)グループディレクター、同 副センター長を歴任。受賞実績多数。2014年のSTAP研究不正事件では、様々な責任が追究されている。
 (以上、ウィキペディアより一部を引用。)

 NHK報道によると、笹井氏とは国家から「プロジェクトマネー」が取れる類まれな人物として、理研神戸センター(CDB)長である竹内氏らも大いなる期待を寄せられているらしい。
 理研神戸センター長の立場としては、今後も事件解決を先送りして、神戸センターの存続を望みたいとのNHKの報道だが…。

 世論を知るすべもなく、何だかもの悲しい結論を理研神戸センター(CDB)は求めているようだが……


 ただ未だ若き小保方晴子氏の未来を見つめた場合、ご本人よりの「科学者としての未熟さ」故の失態との訴えこそが正しい結論と受け止めて済む話なのだろうか??
 小保方氏の科学者としての資質(の無さ)に関しては、現在まで誰からも適切な指導を受けていない氏のその実態を、理研からまんまと利用された事は間違いないであろう。

 そうであるならば尚更、もしも今一度小保方氏が本来あるべく「科学者」として人生を出直したいのであれば、ここはきっぱりと「理研」を自主退職して欲しいものだ。
 いつまでも科学素人弁護士氏に頼っていたとて、らちが明かないであろうに……

 そして忌々しいまでの理研騒動に巻き込まれない新天地で、ご自身の科学力を今一度一から磨き直しては如何なのか!?

見つめ見つめられてこその人間関係

2014年07月27日 | 人間関係
 他者との関係づくりに於いて、その最初のきっかけとなるのはお互いの「アイコンタクト」ではなかろうか。

 私など、このアイコンタクトに多くの意味合いを見い出しつつ、他者との人間関係に於けるその後の更なる充実を図ってきている人間と自覚している。


 例えば、つい先だっても義母所有不動産関連所用でとある場所へ出かけた。 この場へ出かけるのは3度目の事であり、私達に対応してくれる相手方2名ともお互いに認識済みの関係だ。

 主たる相手方である片方の人物との関係に於いては双方のアイコンタクトが上手く機能しているようで、会話もスムーズに運ぶ。  ところが従たる相手方氏は、どうやらアイコンタクト自体が苦手な様子だ。
 その辺を客観力がある私として気配りしつつも、ビジネス上の人間関係に於いては、お互いに物事をテンポよく進めねばならない任務も背負っているであろう。 結局はアイコンタクトが叶う主たる人物との間で取引を進めざるを得ない。
 結果としてそれが苦手な同席人物は無視しての取引成立だったのだが、何だか後味が悪い感覚でその場を去らざるを得なかったものだ。

 ここで一旦、私の結論を述べよう。
 特に商取引等ビジネスの場面に於いては、ビジネスマンとして相手方との間にまずは「アイコンタクト」を実行出来る事など必須・最低条件であろう。 これが苦手で、その後の取引談話が進展するはずもない事をわきまえて職業選択をするべきではなかろうか。


 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、「原左都子エッセイ集」バックナンバー検索元の足跡による。
 どうやら昨日、本エッセイ集 2008年11月8日 “旅行”カテゴリーに公開した「見つめるインド人」なるバックナンバーをご覧になられた方々が少なからず存在するようだ。

 そこで、そのバックナンバー内容の一部を以下に紹介しよう。
 
 インドは、(6年前の時点では)日本人を含む黄色人種系の観光客が少ないようだ。 私が今までに訪れた世界の国々の中で、一番日本人を見かけない国だったように感じる。  そのため物珍しいのか、インド人からの注目度が高い。 どこへ行っても大勢のインド人の大きな黒い瞳に見つめられる。 好奇心が強く純粋で素直な国民性なのかもしれないが、インドの皆さんは遠慮のない視線を投げかけてくる。
 私など、こういう現地の人とのふれあいが旅行の大きな楽しみのひとつであるため、注がれた視線にいつもすかさず微笑み返すのだが、相手もとてもいい顔で微笑み返してくれる。(ただし微笑みを返してくれるのは中流階級以上のインド人だ。 下流階級の人々は決して微笑まない。 最低限の衣食住に精一杯で微笑む余裕などないのが現状なのであろう。)
 子どもはもっと好奇心旺盛で、積極的に声をかけてくる。 「ナマステ!(ヒンズー語で“こんにちは”」「ハロー!」などなどと。 それに喜んで応じると、すぐになついてくる。至ってフレンドリーだ。 例えば、アグラの観光地“ファテープル・シクリー”で出会った、遠足か校外学習か何かで現地に来ていたプライベートスクールの小学生達は、目敏く日本人の私を見つけると、駆け寄って来て「ハロー!」と言って握手を求めてくる。 私が微笑みながら快く応じていると、引率の先生と思しき人や周囲にいた観光中のインド人の大人までが駆けつけてきて握手を求めてくる。 まるで売れっ子タレント並みの大人気者にでもなった気分の私である♪♪  その後、小学生(及び大人観光客も含めた)グループはずっと私の回りを取り囲みつつ付いてきて、皆が話しかけてきたりスキンシップを求めてきたり、とにかく何とも可愛らしい。 私が写真を撮ろうとすると皆が喜んで我先にとカメラの前に立ち、この写真(上記バックナンバー掲載写真を参照下さい。)のような満面の笑みを振りまいてくれる。 お陰でこの観光地を出るまで、この小学生たちとの楽しい一時を共有させてもらえた。
 (以上、当エッセイ集 「旅行記」より一部を引用。)


 ところが実に悲しい事には、現在東南アジア方面を訪れる日本人観光客にとって (インドを含めた)アジア圏の人々から観光客である自分を“凝視される事実”が迷惑、あるいは不可解らしいのだ……

 これには驚かされるばかりだ。

 何故に日本人観光客は、せっかく訪れた諸国現地の人達に「見つめられた」後、見つめ返して「笑顔」で対応出来ないのか?
 あるいは、「ハロー」でも何でもいいから一声かけてコミュニケーションを持とうと志さないのか!?
 それをせずして迷惑がっていては、相手方から「不審な人物」と疑われても致し方ないであろう…

 お盆の海外旅行混雑時期も迫っているが、今年海外へ出かける予定がある人々には何のための海外旅行実施なのか、少し考えて欲しいものだ。
 たとえ語学が苦手でも、現地の人から笑顔をもらったならばすかさず「笑顔」で返して欲しい。
 それを実行する事により、必ずや訪れた諸国に対するさらなる興味や認識が深まる展開となる事と、私自身の経験からお伝えしたい。

飲食店は顧客の「席」案内を甘く見てはならない

2014年07月25日 | 時事論評
 最近私が昼食や夕食等でよく利用する自宅近くのレストランがある。

 それは、全国何処にでもあるいわゆるファミリー向けチェーン展開レストランなのであるが、何故その店舗が原左都子のお気に入りなのかと言うと、私にとって外食するに当たり絶対外せない“ある条件”が必ずや満たされる故である。

 その“外せない条件”とは案内される座席である。  これには執拗なまでのこだわりがある私だ。

 当該レストランを仮に「Jレストラン」と表現して、話を進めよう。

 まず、「Jレストラン」は全国チェーン展開レストランの例外ではなく、個々の座席自体が広いのに加えて店内すべての座席をゆったりと配置している。
 しかも実際に座席に着席して気付くのだが、顧客が座って視野内に入る隣接した座席間との距離間隔において少しずつ位置をずらす事により、出来るだけ他の顧客との視覚的聴覚的距離を置くべく座席配置を工夫していると私は感じるのだ。

 しかももっと評価できるのは、必ずや店員氏が案内した座席を顧客が着席した後に「このお席でよろしいでしょうか?」と尋ねてくれる点だ。 これを未だ座っていない状態で尋ねられても意味がない。 一旦座席に着席した後でなければ気付かぬ隣席の鬱陶しさが必ず存在するものだ。
 ところが他のほとんどの飲食店の過ちとは、顧客が未だ着席していない状態でこれを尋ねる事にある。 今少し顧客の心理を尊重してくれるならば、一旦座った後にこれを確認して欲しいものだ。  

 このレストランの座席対応が気に入って以来もう何度も訪れているのだが、隣席の顧客の鬱陶しさに厳しい原左都子にして、未だかつて心地よく食事が出来る事に感謝申し上げている。


 2年程前の事だっただろうか。
 東京メトロ副都心線が開通した後、渋谷駅にヒカリエなる巨大ビルが完成した直後の話だ。
 大学生の娘と渋谷まで(おそらく文化村までクラシックバレエ公演を観に行った帰りに)、せっかくだからヒカリエで食事をして帰ろうとそのビルの飲食街を訪れた。
 イタリアン好きな娘が「このお店がいい」と言うのでそこに入店したところ、娘世代の若者達でごった返している。
 その直後、店員氏に案内された席の劣悪さに私は仰天した!  隣席とはほぼ同席状態の間近さ。 これがもし格安で美味しい料理を振る舞っている店舗ならばまだしも許せるが、(場所代もあろうが)いっぱしの料金設定だ。  要するに、単に一時の若者渋谷志向を利用して“ぼったくろう”との店舗の意図感が否めない。  「申し訳ありませんが、ここでは我々は食事は出来ませんので帰らせて頂きます。」なる私の訴えは、若き女子店員氏にとって初めての経験だっただろうか。 困惑した若者の表情を今も覚えている…。 
 それでも一応娘からのヒカリエで食事をしたいとの意向に従って、比較的空いている別レストランを訪れた。 ところがここも隣席が同席状態の近さ…。 隣席の客が案内された後は、娘の声よりも隣の声の方が大きい座席でよくぞまあ、若者達は食事をしたいと思うものだとの不可思議感の下、そそくさと店舗を去った。  その食事代金の高額ぶりに驚かされつつ、その後娘もヒカリエへ行きたいとの希望がまったく消え失せたようだ…


 ただ「居酒屋」に限って考察するならば、若かりし頃より現在に至って尚頻繁に「居酒屋」を愛好している飲兵衛の私である。
 「居酒屋」が混雑している状況下では店舗全体が飲兵衛どもによる轟音の渦中と陥るため、相対的に周囲の様子が気にならないものだ。  
 私同様、飲兵衛の皆さんにとっても同じ思いであるからこそ、「居酒屋」とは時代を超越し形態を変貌しつつ長きに渡り発展を遂げているものとも考察可能だ。

 
 それにしても、飲食店開業を志向する業者及び個人営業者の目的や意志の方向は千差万別であろう。
 料理人であるご主人の得意な分野の料理を振る舞いたい。 あるいは、親の店を継ぎたい。 はたまた企業の立場としてテナントに飲食店を出店したい、等々、飲食店が開業する目的とは多種多様であることには間違いない。

 それでも私は、種々雑多な顧客をターゲットとしている各種飲食店に於いて、おそらく今の時代は顧客の“席案内”こそが店舗の存続に於ける「命とり」ともなる危険性を孕んでいるとの私論を展開したい思いだ。

 さすがに最近は、飲食店側の業務上の都合で強引に「こちらのお席にどうぞ!」と身勝手に案内する店舗は減った気がする。 何処の店舗でも、一応「こちらのお席でよろしいですか?」なる声掛けが聞けることを前進と受け止めたい。


 せっかくの腕の良い料理人氏が作ったご馳走を、混雑した座席で人の喧騒に邪魔されつつ胃を傷めつつ食するよりも、顧客である自分が好む良い席でゆったりと頂きたいものだ。

 えっ? それにはお前こそがもっと金を払えって?! 
 う~~~ん、そうではなくて、たとえ庶民が身近に通えるレストランだって、ちょっとした座席の工夫次第で心地よい食事タイムが堪能できるよ!と言いたかったのが、今回の「原左都子エッセイ集」の趣旨なんだけど…。

“色の後からものが見える”

2014年07月23日 | 芸術
 (写真左は、ラウル・デュフィ作「オーケストラ」、右は同「オペラ座」。 国内美術館で買い求めた絵葉書より転載したもの。 画像不鮮明で恐縮ですが…)

 当エッセイ集2012.10.10バックナンバー 「原左都子プロフィール」内に、私は以下の記述をしている。
 お気に入りのアート :  アンリ・マチス、 ラウル・デュフィ、 ……

 実は、私は以前より人知れず画家ラウル・デュフィのファンである。 

 ファンとは言えども何分芸術にはズブの素人である私にとって、デュフィという画家を十分に理解した上でそう言っている訳ではない。 ただ単に、その色遣いや筆のタッチ等を直感的に好むだけの話である。

 私が一番最初にデュフィにはまったのは、今から遡ること9年前の2005年に東京で開催されたフィリップスコレクションを、おそらく上野の何処かの美術館へ未だ11歳の娘と一緒に観に行ったのがきっかけだ。
 その時に展示されていたのが冒頭写真の右側 「オペラ座 」である。 東京開催フィリップスコレクション目玉の一つが、本邦初公開のこの作品だったと記憶している。
 当時クラシックバレエをたしなんでいた我が娘だが、娘が通うバレエ教室がパリオペラ座バレエスタイルを採用していた。 普段の練習着等もパリオペラ座直輸入ものを教室が取り寄せて生徒達に使用させていたため、娘本人もオペラ座には興味津々だったようだ。
 さほど混雑していない美術館会場内で、デュフィ作「オペラ座」の前には人だかりが出来ていた事を記憶している。 予想に反して小さいサイズの作品であり、列に並び順番待ちをして観賞したものだ。
 ピンク色を好む私にとって、この作品は実に美しかった。 (実はピンクではなく、専門家の間ではこの作品は「赤」主体と表現されているようだが)  特にオペラ座の中2階、中3階、中4階当たりの座席のピンク色が私の目にはとても綺麗で、一生に一度はあの席に座ってバレエを観賞してみたい思いに駆られたものだ。  (参考のため、その後年月が流れ娘が高校の修学旅行でパリを訪れることとなり、自由行動時間に娘は迷いなくパリオペラ座を見学に行ったようだ。)


 ここで、ウィキペディアを頼り、画家ラウル・デュフィに関して少し紹介しよう。

 ラウル・デュフィ(Raoul Dufy, 1877年6月3日 - 1953年3月23日)は、野獣派に分類される19世紀末から20世紀前半のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。 
 アンリ・マティスに感銘を受け、彼らとともに野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられるが、その作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。 デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。 また本の挿絵、舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー、陶器の装飾、『VOGUE』表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残している。 
 1938年 パリ電気供給会社の社長の依頼で、パリ万国博覧会電気館の装飾に人気の叙事詩をフレスコ画の巨大壁画「電気の精」として描く。イラストレーターと兼アーティストとしての評判を得る。
 (以上、ウィキペディアより引用。)


 今回このエッセイを綴るきっかけを得たのは、7月20日にNHK Eテレにて放送された「日曜美術館」を見た事による。
 「色彩の魔術師デュフィ …」と題された番組のゲストは、日比野克彦氏であられた。
 この日比野氏の解説が何ともソフィスティケートされた内容で、私は1時間に渡りラウル・デュフィの世界に引き込まれた。

 その中でも、私の脳裏に一番刻み込まれたのは今回のエッセイ表題に掲げた 「“色の後からものが見える”人物」 との、日比野氏が発したラウル・デュフィなる画家に関するフレーズである。

 咄嗟にこの言葉を聞いて、それが何を意味しているのかが理解出来る人間は恐らく少数なのではなかろうか。
 ところが、実は私は、我が娘幼少期から現在までを通じてこの事象を実際に幾度も経験しているため、容易に理解可能だったのだ。

 それでは、我が娘が持って生まれている“特異性”の一部を以下に披露しよう。
 何分、産まれ持っての事情を抱えている我が娘だ。 発語は遅いし運動能力の開花も遅れている中、親として気付く“特異性”があった。
 人より遅く歩き始めた娘をよく散歩に連れ出したのだが、未だ発語のない娘が東武東上線の電車を指さして「ワイン」と言う。 最初何を言ったのか理解できなかったが、我々の前を通り過ぎる電車に塗られたラインカラーが娘の言う通り「ワイン色」である事に気付かない私ではなかった。 電車が走る事象よりも、この子は「色」に着目したものと、初めて我が娘の特異性に気付かされた事件だった。

 その後、家庭内でも娘の“色表現”は続く。
 電話が鳴ると「クロ、クロ」と騒ぐし(参考のため当時の我が家の電話は黒色だった)、花の名前が言えない段階から「赤」「黄色」「ピンク」などの色彩表現力は鋭かったようだ。

 極めつけは、娘の発語が多少出て来た時点(恐らく2歳半頃)地下鉄(現在の東京メトロ有楽町線だが)に幾度か乗せた後の出来事だ。  娘が地下鉄駅に着く都度繰り返す。「次は白」「次はピンク」「次は灰色」「次は虹色」等々と…。 これに関しても母である私は娘が意図する思いを十分に理解した上で、親馬鹿ながら娘の色彩記憶力に脱帽させられたものだ。 (私自身も、新富町駅がピンク色、江戸川橋駅が娘が言うところの虹色程度は記憶しているが…
 地下鉄とは道中が真っ暗闇である。 そんな電車に乗せられた幼き娘の関心事とは、次に着く駅の「壁の色」だったとの事だ。 それにしてもよくぞまあ、地下鉄有楽町線内のすべての駅の壁色を記憶しているとは、我が子ながら“天才”素質があると驚かされたものである。

 現在20歳を過ぎた我が娘は、今尚、ものを“色”で表現する特質性から完全に抜け出ていないのが困りものだ。 例えば「お母さん、そのピンク取って!」 「お父さんが茶色を持って出かけたよ。」等々…。
 娘が持つ特質を十分理解している母であるが故に、これが家族内で成り立ってしまうところが弱点なのか?!?


 そんな娘の“色特異性”こそを芸術方面で活かそうと過去に於いて策略した親としての思いは、当の昔に挫折している。

 それでも今後娘が社会に旅立つに当たり、「色彩の魔術師」ラウル・デュフィを参考にして、娘が持つ色彩感覚の特異性の一面を尊重してやるべきなのか!?

 (庶民の立場にして既にそうではないとの結論に達していますので、皆様ご心配なきように…)