オペラファンの仕事の合間に パート2

大好きなクラッシック音楽やフィギュアスケート、映画などを語ります。メインは荒川静香さんの美しさを語るブログ。

映画「東京物語」の原節子さん

2015年11月27日 12時51分29秒 | 映画
私は若い頃から映画を見ることも大好きでした。当然、日本映画も当然、見ています。洋画は好きだが邦画はどうもという方も、いらっしゃるようですが、私は、そんな隔たりはなく、いろいろと見てきました。
さて、いろいろと見てきた日本映画でベストワンは?と聞かれたら、やはり迷うことなく答えるでしょう。
「東京物語」(小津安二郎 監督作品、松竹、1953年)と。
公開された1953年は私は、まだ生まれていないので、初めて見たのは、後年、大学生活を送っていた東京の都内の名画座が最初だろう。
そしてビデオ、DVDと時代が変わっても、時々、取り出しては見てきました。
私自身、年齢を重ねれば重ねるほど、感じることが大きくなってきている作品。
子供たちの顔を見るため、上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、年を取るということ、家族の死など、淡々と、丁寧に、そして静かに描いた見事な作品。
どうしても自分たちの今の生活を守ることが中心になってしまう長男と長女。私は何で、こんなに冷たいのだろうと若い頃は思っていましが、私も結婚し子どもも出来、家族のために働くようになると、何か分かるようになってきたものでした。親まで、かまっとおれない余裕の無さ。これが人間というものでしょう。
映画では長女役の杉村春子さんの、じゃけんな演技が見事でした。そして、そんな中、上京した両親を温かく迎えたのが戦死した次男の妻・紀子だった。
その紀子役を演じた原節子さんが亡くなっていた。
心から年老いた両親を包み込むような原節子さんの演技。
原節子さんの姿や演技がら、ただよってくる「品格」が、どれだけ、この作品を深いものにしたであろうか。
出演した「晩春」「麦秋」「東京物語」「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」の戦後の小津安二郎 監督作品に流れる「品格」。
原節子さんの存在なくしては、成り立たなかったでしょう。
小津作品以外では黒澤明監督の偉大なる失敗作?のドストエフスキーの小説を日本を舞台に映画化した「白痴」(松竹、1951年)の那須妙子役での圧倒的な存在感も忘れらえない。
この映画を映画館で見た時、こんなスケールの大きな女優さんが日本にいたとはと驚いたものです。
今日の朝、DVDの大手レンタル屋さんへ行ってきましたが、原さんの特別なコーナーはありませんでした。高倉健さんのコーナーは、ありましたが・・・。
本当は原さんが出演した戦前の作品も見てみたいのですが・・・、これは難しいでしょうなあ。
小津安二郎 監督が1963年に亡くなってすぐに、公的な場から姿を消し、小津監督が眠る鎌倉で暮らしていた原節子さん。
原節子さんと小津安二郎 監督。どのような心と心の、やりとりがあったのでしょうか?
今となっては、何も分からない。
残っているのは映像で残っているその姿。
特に「東京物語」の最後の笠智衆扮する義父・周吉との、やりとりは、正に圧巻。
笠智衆さんの淡々した台詞まわしを全身で受け止める原節子さん。2人の台詞のみ。
その中から、何か大きなものが、ズシリと心に響いてくる。
現在、CGなど何かと派手な演出の映画が多くなりましたが、2人の俳優の力量だけで圧巻といえるシーンが生まれた映画があると言うことを忘れないで欲しい。

東山千栄子扮する義母が尾道で急死、葬儀ののち、子供たちが東京へ帰ってしまったあと周吉と紀子、二人だけ。そして紀子も東京へ帰る時が来る。


周吉「お母さんも喜んどったよ。東京であんたんとこへ泊めてもろうて、いろいろ親切にしてもろうて」
紀子「いいえ、なんにもおかまいできませんで」
周吉「いや、お母さん言うとったよ。あの晩がいちばんうれしかったいうて。わたしからもお礼を言うよ。ありがと」
紀子「いいえ」
周吉「お母さんも心配しとったけえど。あんたのこれからのことなんじゃがな。やっぱりこのままじゃいけんよ。なんにも気兼ねはないけえ。ええとこがあったら、いつでもお嫁にいっておくれ。もう昌二のこたァ忘れてもろうてええんじゃ。いつまでもあんたにそのままでおられると、かえってこっちが心苦しうなる。困るんじゃ」
紀子「いいえ そんなことありません」
周吉「いやそうじゃよ。あんたみたいなええ人はない言うて、お母さんもほめとったよ」
紀子「お母さま、わたくしを買いかぶってらしったんですわ」
周吉「買いかぶっとりゃァしェんよ」
紀子「いいえ、わたくし、そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません。お父さまにまでそんな風に思っていただいてたら。わたくしのほうこそかえって心苦しくって……」
周吉「いやァ、そんなこたァない」
紀子「いいえ、そうなんです。わたくしずるいんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そういつもいつも昌二さんのことばかり考えてるわけじゃありません」
周吉「ええんじゃよ 忘れてくれて」
紀子「でも、このごろ思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。わたくし、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このままこうして一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて。夜中にふと考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか心の隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」
周吉「いやァ、ずるうはない」
紀子「いいえ、ずるいんです。そういうこと、お母さまには申し上げられなかったんです」
周吉「ええんじゃよ、それで。やっぱりあんたはええ人じゃよ。正直で」
紀子「とんでもない」
周吉「(懐中時計を持ってきて)こりゃァ、お母さんの時計じゃけえどなァ。今じゃこんなものもはやるまいが。お母さんがちょどあんたぐらいの時から持っとったんじゃ。形見にもろうてやっておくれ」
紀子「でも、そんな」
周吉「ええんじゃよ、もろうといておくれ。いやァ、あんたに使うてもらやァ、お母さんもきっとよろこぶ。なあ、もろうてやっておくれ」
紀子「(嗚咽しながら)すいません……」
周吉「いやァ、お父さん、ほんとにあんたが気兼ねのう。さきざき幸せになってくれることを祈っとるよ。ほんとじゃよ。妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、いわば他人のあんたのほうがよっぽどわしらにようしてくれた。いやァ、ありがと」


最後に原節子さんのご冥福を深くお祈りします。








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