オペラファンの仕事の合間に パート2

大好きなクラッシック音楽やフィギュアスケート、映画などを語ります。メインは荒川静香さんの美しさを語るブログ。

私のハンドル名

2013年09月12日 11時12分25秒 | フィギュアスケートとの出会い
昨晩と一昨晩、2日間をかけて、この前の日曜の深夜、NHK・BSで放送された今年のザルツブルグ音楽祭からヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」の公演の全曲を見る。
この公演は5幕版による公演だったので私の大好きなフォンテンブローの場があったのが嬉しかった。また「ドン・カルロ」の公演では一番長いヴァージョンだったのでは?4幕版の映像は、よく見ることが出来ますが、上演時間の長い5幕版による公演は珍しいので今回、録画した映像は貴重です。
演出は現在、オペラ演出でよくある読み替えの演出ではなく、オーソドックスなもので、安心してドラマと音楽に没頭出来ました。黒を基調とした衣装と舞台装置は、一層このオペラの重厚さを引き立てるものがありました。私は背広を着たフィリッポ2世など見たくはありません。
それにしてもヴェルディの音楽がズシリと心に響き渡りました。
今年はヴェルディとワーグナーの生誕200年の記念の年なのでオペラ大好き人間の私としては、当ブログでも何か特別なことをやりたかったが、日々の仕事の忙しさに流されて、何も出来ないで9月に入ってしまった。
ヴェルディとワーグナーの代表的なオペラをチョイスして、何点かのCDを挙げてコメントするのも、他の愛好家の方が既に、いろいろと行っているので今になっては面白味が私にとってありません。
どうするか?といろいろ思案しましたが、一度原点に戻るのも良いかと思い、私の今までのオペラの履歴をたどってみようと思いました。
それならば今年が終わっても来年以降も続けることが出来ますし、私のこだわりの作品や録音も紹介出来ますし、当然、今年、生誕200年のヴェルディとワーグナーにも触れることも出来ます。
ただ、時間の余裕を見つけて、気が向いた時に書き込みたいと思っているので、おそらく脱線ありの行き当たりばったりになるでしょう。
ですから、終わるのが、いつになるのか、ひょっとしたら永遠の旅になるかもしれません。
ただ、最後は私の大切な両輪である「オペラ」と「フィギュアスケート」を結ぶ1本の糸である歌劇「トゥーランドット」で終わりたいと思っています。

さて第1回の今回は私のハンドル名の由来を説明しておきたいと思います。
2006年、イタリアのトリノでの冬季オリンピックで女子フィギュアスケートで荒川静香さんが金メダルに輝きました。フィギュアスケートが大好きであり、荒川静香さんの大ファン、そして私の大好きな「歌劇トゥーランドット」の音楽での演技と言うことで私の喜びはたいへん大きなものがありました。
その当時、荒川静香さんのファンサイトに「しーちゃんパラダイス」という素晴らしいサイトがあり、私自身、コメントすることなく、かなり長い間スルーの状態でしたが、オリンピック後、「トゥーランドット」の件で、どうしてもコメントしたいことがあり、名前をどうするか思案したのですが、私の大好きな歌劇「トゥーランドット」の音楽でのフリープログラムの演技だったので、やはり私の大好きな「オペラ」や「トゥーランドット」にちなんだ名前と思い最初は「カラフ」を考えましたが、私自身、あまりにも王子様には、ほど遠い容貌なので、わかりやすく「オペラきちがい」を名乗りました。
ただ、しばらくして「きちがい」とは、あまりにもひどいと言うコメントを頂き「オペラファン」と改名して現在までに至っています。
なお荒川静香さんのファンサイトの「しーちゃんパラダイス」は、その後いろいろあって、無くなってしまい、本当に残念で、そのことを思うと今も心が痛みます。



さて現在も「オペラファン」と名乗っていますが、私自身、地方在住の単なる一人のオペラ好きの人間というだけで、今もミラノ・スカラ座が来日していますが、1枚4万円や5万と言った高額な金額のチケットを購入したりすることはとても出来ない、ましてや欧米の一流歌劇場や音楽祭に脚を運ぶことは絶対に不可能な人間。
そして私は音楽の専門教育を受けていないど素人。
そんな人間がオペラを語るのですから、経験豊かな方々みると私の名前やコメントは笑止千万かと思います。
ただ高校生の時にオペラに興味を持ってから、現在まで私の心の根底にあるのは、やはり「オペラ」です。
その「オペラ」に対する私の愛情を少しでも伝えることが出来たらと思っています。

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久し振りに、トリノ冬季オリンピック

2013年08月19日 16時49分56秒 | フィギュアスケートとの出会い
今日は、朝一番、久し振りに病院へ。
血圧を計ってもらう。上は150台。
茫然。ガックリ。このところ、体がしんどかったのは猛暑だけが理由ではなかったようだ。
意気消沈で帰宅。

とにかく気分転換と思い、好きな曲のCDを聴きながら、パソコンを開いてネットでCDの徳用盤、お買い得CD捜し。
聴いたのは、シベリウスの「四つの伝説曲」、グラズノフのバレエ音楽「四季」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番など。
このところ、どうもシベリウスやロシア音楽を聴くことが多くなった。ブルックナーやマーラーは、ほとんど聴かなくなってしまった。
年齢を重ねて、音楽の好みが変わってしまったのだろうか?
この齢になって、特にロシア音楽が身に沁みてくるようになった。そう言えば最近、さっぱりブルックナーのCDを購入していないなあ。別にブルックナーが嫌いになったわけではないのだが・・・。

このあと、久し振りのトリノ冬季オリンピックのフィギュアスケート女子シングル・フリープログラムの録画を見る。
本日見たのは、NHKの放送をビデオで録画したものをDVDにダビングしたもの。
佐藤有香さんの解説、刈屋アナウンサーの実況。
久し振りに見て、感激を新たにする。
ビデオテープからのダビングなので画像の状態は、あまり良くないが、見ていて、そんなこと気にならなくなる。
オリンピックという4年に一度の特別な大舞台。
世界のトップスケーター達のひた向きな演技に、やはり大きく心が動かされる。
見ていて、あの日に戻ったような錯覚すら憶える。
あの日は朝4時に起きて、表彰式まで実況をみていた。
2月の早朝、シンと冷え切った部屋で一人、テレビに見入っていた。あの時の部屋の寒さも蘇ってくるような感じ。

いろいろ編集しているので、いきなり冒頭、安藤美姫さんが登場。
冒頭のプッチーニの歌劇「蝶々夫人」からの第1幕後半の美しい音楽を聴いただけで、どうにもならないものを感じてしまいます。
転倒などで好成績ではありませんでしたが、その後の安藤美姫さんを思うと、この時の経験が大きく生かされていると思うものあり。
久し振りに見るアメリカのエミリー・ヒューズの演技。
確か、この時はアメリカ代表ミシェル・クワンの欠場による急遽の出場だったはず。
そんなハンディを物ともしない躍動感あふれる演技が胸を打つ。
やはり私は姉のサラより妹のエミリーの方が好きだな。
音楽は私の大好きなグラズノフのバレエ音楽「四季」からの音楽。
それだけでも私は胸が一杯になります。
彼女が全米選手権にも登場しなくなって久しくなります。元気なのかな?

最終グループ。
これまた久し振りの村主章枝さんのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。
やはり、この頃の村主さんは最高だったなあ。
コーチは佐藤信夫氏。現在は浅田真央さんのコーチ。村主さんと同じラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でソチ冬季オリンピックを目指しています。
何と言う因縁!そして年月の流れ!
単なる偶然とは思いたくない目に見えない何か強いものを感じます。

そして、荒川静香さん、サーシャ・コーエン、イリーナ・スルツカヤによるし烈なメダル争い。
金メダル最有力といわれましたが銅メダルに終わり、表彰式では目を真っ赤にしていたスルツカヤは、今は荒川静香さんプロデュースのフレンズオンアイスのフレンズとして出演。
今年で3年連続の出演。3年前、初出演を知った時は本当に驚きました。
これも大きな年月の流れ。まさかトリノの頃は、こんな時が来ようとは思いもよりませんでした。
荒川静香さんとスルツカヤの心の結びつきを思いながらトリノ冬季オリンピックの映像を見るのも、また違った気持ちになることが出来ます。

それにしても約8年前の映像を見て喜んでいる私。
昔話大好きの年寄りになりつつあると言えるのでしょうか。
ただ、やっぱりトリノ冬季オリンピックは私にとって特別なオリンピック。
そして過去と現在を重ねると、また違った感情、感慨がわいてくるのは間違いありません。










総集編

2012年08月21日 11時19分58秒 | フィギュアスケートとの出会い
いよいよフレンズ・オン・アイスまで、あと4日となりました。ただ、まだまだ実感が湧いてこない。おそらく出発前日の夜、職場から帰宅している車の中で湧いてくるのでしょう。以前、出発の前日、閉店の1時間前にクレームがあり、翌日の出発の直前まで対応に苦慮したことがあるので油断は禁物である。
さて今月の8日に今まで何度か断片的にコメントしてきた私自身のフィギュアスケート、そして荒川静香さんとの出会いを自分自身を振り返るためにも、まとめてみたいと書き込みました。今日はフレンズ・オン・アイスまでの直近の最後の公休日なので、本日、駄文ですが、まとめてみたいと思います。

第1章 トリノ冬季オリンピック

あの日から、もう6年も経ってしまったのか!しかし、あの時のことは今も忘れられない。
2006年2月23日朝4時30分に起床。外は真っ暗。家族はまだ寝静まっていた。2月の早朝、シンと冷え切ったテレビを置いている部屋で、たった1人でテレビの実況放送を見ながら、その時が来るのを待っていた。
フィギュアスケートのフリープログラム。ショートプログラムを終えて1位サーシャ・コーエン、2位イリーナ・スルツカヤ、そして3位に荒川静香さん、しかし得点差は、たいへんな僅差で全てはフリープログラム、それも最終グループで全てが決まる。たいへんな緊張感を持って放送を見ました。コーエン、スルツカヤ、荒川静香さんのメダル争いは、今、思い出しても壮絶なものがありました。
そして結果は皆さんご存知の通り。
私の大好きな歌劇「トゥーランドット」の音楽での荒川静香さんの演技。
確か、このオリンピックの開会式の最後、テノールのルチアーノ・パヴァロッティが登場して歌劇「トゥーランドット」から「歌劇「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」を歌いました。
声!声!声!たった数分でしたがたった1人のオペラ歌手の大きなオリンピックスタジアムを圧倒した偉大な声!やっぱりオペラは凄い!
その「誰も寝てはならぬ」のメロディに乗っての荒川静香さんの演技。正に心に深く響くものがありました。
さてトリノから5年後の昨年、荒川静香さんプロデュースのアイスショーのフレンズ・オン・アイスに初めてイリーナ・スルツカヤが初めて出演しました。
トリノでの表彰式では、悔しさのためか目を真っ赤に腫らしていた銅メダルのスルツカヤ。トリノでは金メダルの最有力と言われていたスルツカヤ。そのスルツカヤが昨年フレンズ・オン・アイスに初めて登場、そして今年も出演します。時間の経つことの大きさ、またアスリート同士の心のふれあいを思うと感慨深いものがあります。



話が前後します。
トリノでの表彰式が終わったあと、私の母がやって来て言いました。
「(荒川静香さんの金メダル)本当によかったね。死んだお父さんが生きていれば喜んだでしょうね」
この母の言葉の本当の意味が、やっと最近、分かってきました。


第2章 札幌冬季オリンピック

私がフィギュアスケート、いやアイススケートを身近に感じたのはいつだっただろうか?
やはり私が小学6年生の時まで戻らなければいけないでしょう。
私の亡き父は大手建設会社に勤めていたのですが、その頃、四国で初めてのスケートリンク、今は無くなりましたが「高松スポーツパレス」の新築工事の工事責任者を担当することになりました。四国初のスケートリンクと言う事で、たいへんな工事だったらしい。
そして建物もいよいよ出来上がり初めてリンクに氷をはる工程の時、家での夕食の直後、氷の状態が心配だったらしく突然、現場へ見に行くと言い出し、何と小学生だった私も一緒に付いて行ったのであります。
初めて見るスケートリンク、それも、まだ誰も脚を踏み入れていない全く無垢の真っ白なスケートリンク。小学生の私にも何か神々しいものを強く感じました。現在では、私は最低でも年に1回はスケートリンクを訪れていますが、会場に入って客席からスケートリンクを見ると、必ず小学生の時のその時の気持ちを思い出す、その時の気持ちに戻るよう心掛けています。
新築のスケートリンクのオープニングは、三笠宮様やいしだあゆみのお姉さんも登場して、たいへん華やかだったらしい。他に誰が出演したのだろうかと、いろいろ調べましたが、あまりにの年月の隔たりで、今となっては、もう分からなかった。ただ、父は関係者として前の方で、感慨深くリンクを見つめていたに違いありません。
このあと父は酒を飲んで酔っ払ったら、このオープニングのことばかり言うのですが、私はさっぱり分からない。今のようにフィギュアスケートの番組が頻繁にある時代でなかった。いやフィギュアスケートという言葉すら知らなかったと言えるでしょう。まだアイススケートなのである。
そんな状況が続いていましたが、いよいよ1972年の札幌冬季オリンピックを迎えることとなりました。私は中学生になっていました。
その頃、私はトワ・エ・モアの大ファンでしたが、当時、トワ・エ・モアが歌っていたのが札幌冬季オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」でした。あの希望あふれる歌詞、親しみのあるメロディーをレコードで聴きながら、まだ見たことがない冬のオリンピックへの期待が高まったものです。
そしてオリンピックが始まって飲んだくれていた父に引っ張られるように見たのがフィギュアスケートの放送でした。女子シングルのフリーとエキシビションの放送を父と見たことを、はっきりと憶えています。
初めて見たフィギュアスケート。こんな華やかで美しい世界があるのかと初めて知ることが出来ました。特に、その頃、私はクラシック音楽にも興味を持ち出したので余計だったかもしれません。
そして1人のアメリカのフィギュアスケートの選手に魅了されました。
ジャネット・リン。このオリンピックでは銅メダル。
真紅の衣装。転倒しても、絶えることのなかった笑顔が今も忘れられません。
ジャネット・リンこそ、私のフィギュアスケートの原点と言えるでしょう。




第3章 荒川静香さん

札幌冬季オリンピックから4年後、父はこの世を去りましたが、父から教えてもらったフィギュアスケートの放送は、ほとんど見ていました。ただ昔はフィギュアスケートの放送と言っても冬季オリンピック、世界選手権、NHK杯ぐらいしか放送がなかったので大きくのめり込むまでは行っていませんでしたが、放送は見逃さないようにしていました。
日本のフィギュアスケート界は渡辺絵美さんの時代、伊藤みどりさんの時代を経て行きました。伊藤みどりさんが1992年のアルベールビル冬季オリンピックで初めて日本人で初めてフィギュアスケートのメダリストになりましたが、まだ個人的にファンになったスケーターは1人もいませんでした。まだまだフィギュアスケートは欧米の競技、欧米のトップレベルの選手の演技を理屈抜きに楽しむもの、そんな気持ちに支配されていました。
1998年の長野冬季オリンピック。フィギュアスケートの放送、当然見ました。女子シングルの金メダルはタラ・リピンスキー。
日本の代表は1人のみ。仙台の高校生でした。フリーでは転倒もあり13位。
その高校生の名前はアラカワ・シズカ。



長野冬季オリンピックから何年か経ち、いつだったか、何の競技会だったか記憶にありませんが、ある世界大会の放送を見ていて1人の日本人選手に心を奪われました。
けっして好成績ではありませんでしたが、他の選手と何かが違う。何か奥に深いものを秘めた演技に、この方はちょっと違うぞと強く感じるものがありました。
そして彼女が、あの長野冬季オリンピックの時の転倒した仙台の高校生だったことに気が付きました。
「こんなに美しく、そして立派になって!」
私の心の中でアラカワ・シズカが荒川静香になった瞬間である。
私にとって、初めてファンになるスケーターに出会えた瞬間でした。
これ以降、2004年の世界選手権、トリノ冬季オリンピック、そしてプロに転向してのフレンズ・オン・アイスのプロデュース。
今もなお、荒川静香さんからフイギュアスケートの神髄を伝えてもらっています。それは、これからも続くでしょう。




第4章 稲田悦子さん

一昨年の暮れ、テレビで全日本選手権を見ていたら、突然、母が言い出した。
「死んだお父さんがえっちゃんを見た。えっちゃん、えっちゃんと、よく言っていた」
えっちゃん?何のこと?えっちゃんて誰?さっぱりわからないが、フィギュアスケート関係の方であることには違いないと思い、まずは2007年の大阪での全日本選手権を見た時に会場で買ったパンフレットに記載されている年度別の入賞者一覧を見てびっくりしました。
昭和10年、12年~16年の優勝者に稲田悦子という名前を見つけ、母に確認すると、稲田悦子さんが父の言っていた、えっちゃんとのこと。
稲田悦子さん(1924年生~ 2003年没)は長い歴史の全日本選手権での最初の女子シングルの優勝者。1936年ドイツのガルミッシュパルテンキルヒェン冬季オリンピックに12歳で出場。日本人女性で初めて冬のオリンピックに出場した方だったのである。オリンピックでは26人中で10位とのこと。
現在、全盛を誇る日本の女子フィギュアスケートの先駆けの選手といって間違いありません。



上の写真は1936年の冬季オリンピックのもの。右から2番目が稲田悦子さん。

えっちゃんは大阪生まれの大阪育ち。父も大阪生まれの大阪育ち。大阪のどこかのスケート場でえっちゃんの演技を見たのでしょう。父より少し年上のえっちゃん。亡き父の憧れ的存在だったのかもしれません。
そうか!父は稲田悦子さんを見たのか!彼女の思い出を胸に閉まって、大阪空襲、そして終戦直後の混乱をくぐり抜けてきたのか!私は言いようもない感情になりました。
正に日本のフィギュアスケート界の黎明期を実際に見ていた父。その頃の話を全く聞くことが出来なかったのは本当に残念です。
私はてっきりスケートリンクの建設にたずさって時に、父がフィギュアスケートを知ったものと長年、信じていたので、まさか戦前まで逆のぼるとは思いもよりませんでした。父が会社からスケートリンクの新築工事を命ぜられた時、心の中で、どう思ったのでしょうか?戦前に見た稲田悦子さんのことに思いを馳せたのか、今となっては知る由もありません。
荒川静香さんがトリノで金メダルに輝いた直後の母の言葉「本当によかったね。死んだお父さんが生きていれば喜んだでしょうね」の重さを実感します。
父が、その時、もし生きていれば稲田悦子さんと荒川静香さんを重ねていたはず。荒川静香さんのトリノでの「トゥーランドット」の演技、父に見せて上げたかった。
「日本のフィギュアスケートも遂に、ここまで来たよ!」と。
そんな気持ちが、今、ますます強くなってきています。


以上、長々と駄文を書き並べて申し分けございませんでした。ただ書き込んでいて日本のフィギュアスケート界の歩みを何か実感するものがあり、それと自分自身の歩みを重ねることができるのも、長い間、フィギュアスケートを見続けてきたお蔭と思っています。
本当は荒川静香さんプロデュースのフレンズ・オン・アイスのことも、もっと踏み込んでみたかったのですが、いよいよこの週末、見に行くので、今年のショーを見終わったあと、改めてコメントするつもりです。
フレンズ・オン・アイスを見に新横浜スケートセンターへ脚を運ぶのも、5年連続となりました。
荒川静香さんからのフィギュアスケートへのたくさんの愛情をしっかりと受け止めてきたいと思っています。

札幌のジャネット・リン

2012年06月25日 23時37分37秒 | フィギュアスケートとの出会い



1972年の札幌冬季オリンピックを憶えている世代は、もう50代以上の世代かな?

たいへんな大昔になりました。

ジャネット・リン!

赤色の衣装。演技の途中での尻もち。そして、演技の最後でのベートーヴェンの「レオノーレ」序曲 第3番のフィナーレの音楽。今も鮮明に憶えています。

札幌でのジャネット・リンの演技をテレビで見て、私は初めてフィギュアスケートというものを知りました。

私のフィギュアスケート遍歴の原点と言っていいでしょう。


2010年、全日本選手権、番外編

2010年12月29日 10時46分03秒 | フィギュアスケートとの出会い

本日12月29日は大切な日。荒川静香さんの誕生日です。全日本選手権の放送では的確な解説で私にとって、たいへん良い指針となりました。願わくは八木沼純子さんに悪いのですが、荒川ファンとしては、荒川さんだけの解説で、たっぷりと聞きたかったのが本音です。(八木沼ファンの皆様、ゴメンナサイ)
私は、年明けそうそうの1月8日に大阪へ「スターズ・オン・アイス」を見にいきます。このアイスショーには荒川さんも出演します。私は元旦から仕事なので、これが初詣のようなものです。新春から荒川静香さんを拝むことが出来るとは、来年はいい一年になりそうです。

これからは全くの余談。
先週、母と全日本選手権の男子SPの放送を見ていました。番組の前半、クイズ形式でいろいろとやっていましたが、戦前の話題の時、突然、母が言い出しました。
「(死んだ)お父さんがエッちゃん、エッちゃんとよく言っていた。エッちゃんを見た時の話をよく聞かされた」
いったい何のことかと思いました。そしてエッちゃんて誰?大昔のスケート界に関しては全く無知の私には、その時はサッパリわかりませんでした。そして、いろいろと調べてみました。
亡き父の思い出のエッちゃんの本当の名前は稲田悦子さん(大正13年生 -平成15年没)。稲田悦子さんは父と同じ大阪生まれの大阪育ちである。昭和10年のフィギュアスケートの全日本選手権で女子シングルの初代選手権者になり、昭和12年から昭和16年まで連覇を果たしている。また昭和11年2月、ドイツで行われたガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに12歳で出場。戦前の冬季オリンピックに参加した唯一の日本女子選手とのことである。正に、日本の女子フィギュアスケートの先駆けの選手である。 

上の写真はオリンピックの時のもので、右から2番目が当時12歳の稲田さんである。

調べれば調べるほど本当に驚いた。私は父から生前、稲田悦子さんの話は全く聞いていない。先週のテレビを前にしての突然の母のつぶやきが初めてである。父がフィギュアスケートに興味を持ったのは昭和40年代、今は無くなりましたが四国で初のスケートリンクである高松スポーツパレスの建設に関ってからだと、今まで思っていたので、父の子供の頃の戦前までさかのぼるとは、本当に驚きました。稲田さんも父も大阪生まれの大阪育ち、実際に見る機会が多かったに違いありません。昭和10年代前半、まだ小学生だった父にとって少し年上のエッちゃんは、正にアイドル的存在であったのでしょう。おそらく日本人として最も早い時期に生でフィギュアスケートというものを見ていた人間でしょう。戦前の稲田悦子さんの思い出を胸にしまっていたとは・・・。もし父が生きていたら正に女子フィギュアスケート創生期の話を聞けたはずなので、今となっては本当に残念ですが、しかたがありません。

今回、稲田悦子さんの事を調べていて、改めて痛感したのは現在の女子フィギュアスケート界の凄さである。昭和10年代、このような時代が来るとは夢にも思わなかったでしょう。今年の全日本選手権を父に見せてあげることが出来なかったのは本当に残念である。もし父が元気だったら誰のファンになったかな?たぶん安藤美姫さんかな?いろいろ思いを馳せるものがあります。

以上、全くの余談でした。本当に失礼しました。

さて、これが今年最後の更新となると思います。今年は私自信、3月肺炎になり、たいへん苦しい思いをしながら仕事を続けたり、4月から1番店へ配属先も変わり、激動の一年でした。また音楽面では、たいへん迷いを生じ、不愉快な思いをさせてしまった方もいたのではと今も心苦しく思っています。ただ、今は自分の感性を頼りにCDを聴きこんでいます。ただ、いろいろなことがあった中で、一番嬉しかったのは全日本選手権での浅田真央さんの復活です。演技を見ていて熱いものが込み上げてくるものがありました。人間にとって「感動」することが、生きて行く為の一番の良薬であることを深く痛感しました。

皆様には、今年も、たいへんお世話になりました。
来年もよろしく御願い申し上げます。
何卒、良いお年をお迎え下さい。


父とフィギュアスケート

2009年06月01日 15時56分05秒 | フィギュアスケートとの出会い
イベントの為、一週間振りの休みである。また、この数日、朝の7時前に出社していたので、ヘトヘト状態である。昨日も仕事していて夕方に気持ちが悪くなってしまいトイレへ駆け込んでしまった。やはり自分の年齢を考えてしまう。
今日は、ゆっくりと寝ようと思っていたがいつも通りの時間に目が覚めてしまった。やはり齢をとって来たのであろうか?しかし、さすがに体中しんどくてたまらないので、今日はまだ一歩も家の外へ出ていない。

朝CDを数枚、聴いた後、久しぶりに映画「砂の器」(1974年、松竹映画)のDVDを見る。そう言えば今年は「砂の器」の原作者である松本清張の生誕100年のはずである。
久ぶりにこの映画を見て映像と音楽の素晴らしさや美しさに圧倒されました。また若き日の現在の千葉県知事さんも若い刑事役で登場していて年月の経つことの大きさを感じます。
この映画の大きなテーマの一つに「父と子の絆」があると思います。
映画のラストで今の千葉県知事の扮する若い刑事が丹波哲郎扮するベテラン刑事にたずねるシーンがたいへん印象に残りました。
若い刑事「(犯人の)和賀は父親に会いたかったのでしょうね?」
ベテラン刑事「そんな事、わかっている!和賀は今、音楽、音楽の中で父親と会っているのだ!」

私自身、18歳の時、病気で父を亡くしましたが、もう父と過ごした年月よりも、死後の年月の方が、はるかに長くなってしまいました。
父と過ごしたのはたった18年でしたが今だに私の内面では父の影響が大きく残っており、終生、消えることはないでしょう。
考えてみると、時々書き込みましたがクラシック音楽、大相撲、そしてフィギュアスケートは父の影響がなければ、これだけのめり込まなかったかもしれません。
かつて一度だけ書き込んだ記憶がありますが、私の様なフィギュアスケートとの出会いをした人間はあまりいないかもしれません。きっかけを作ってくれたのは、やはり今は亡き父です。

父はある大手の建築会社に勤めていました。私が小学6年の時、県下で初(四国でも初?)のスケートリンクの新築工事を担当しました。とにかく初ずくしで大変な工事だったらしい。
建物もほとんど完成していよいよ初めてリンクに氷をはる時、ある夜、家にいた父はやはり心配でたまらなかったらしく新築現場へ様子を見に行ったのですが、何故か私も連れていかれました。
そして初めて見る誰もいないスケートリンク、そして、まだ誰も脚を踏み入れていない真っ白い氷をはったリンクの美しさ、荘厳さは子供心にも忘れられないものがありました。
最近、何度かアイスショーなどで、なみはやドームなどを訪ねていますが、会場に入るたびに、やはり氷のはった真っ白いリンクの美しさに心を奪われます。やはり小学生の時のインパクトが強かったからでしょう。
新築のスケートリンクのオープニング(今で言うエキシビションか?)が大変華やかだったらしく父は酒を飲むたびに、この時の事をしゃべるのですが私にはどういう事なのかさっぱりわからない状態でした。当日は現在の作詞家のなかにし礼の嫁さんも出演していたらしい。
そして中学生の時、札幌冬季オリンピックが開催されました。その時、初めてテレビでフィギュアスケートを見ました。いや、無理やり父に見さされたと言うべきか?そして父がこれを言いたかったのかと、やっとわかりました。また、その頃クラシック音楽に興味を持ち出した時だっただけに、私自身も深く興味を持ち、現在も続いているしだいである。
トリノ冬季オリンピックで荒川静香さんが金メダルに輝いた当日、私が母と初めて顔を会わせた時の母の第一声は今も忘れることが出来ません。
「お父さんが生きていたら物凄く喜んだでしょうね」
父が生きていたら現在の日本のフィギュアスケート界の隆盛を本当に喜んでいたでしょう。荒川静香さんや浅田真央さん、安藤美姫さんたちの演技を一目見せてあげたかった!もし、長生きしていて、見る事が出来たら本当に喜んでいたでしょう。
もし、生きていて元気だったらアイスショー会場のなみはやドームでヨイヨイのじいさんと頭の薄くなったおじさんさんのコンビがフラフラと歩いているという珍妙な光景が見れたかもしれません。
父が担当したスケートリンクも数年前、解体され現在は別の建物が建っています。やはり年月の経つ事の大きさを痛感します。

映画「砂の器」を語るつもりが大きく脱線して私事ばかりグダグダと書いてしまいました。どうかお許し下さい。