オペラファンの仕事の合間に パート2

大好きなクラッシック音楽やフィギュアスケート、映画などを語ります。メインは荒川静香さんの美しさを語るブログ。

元横綱・千代の富士死去

2016年08月01日 22時11分13秒 | 大相撲
最近、いろいろな訃報に接してのコメントが多くなってきた。
そして、またコメントしなければいけない事となった。
本当に辛い。
昨日、7月31日、元横綱・千代の富士の九重親方が膵臓がんで亡くなった。まだ61歳。
九重親方とは、私は年齢が2歳違い。
昭和30年代生まれの初めての横綱だった
本当に複雑で、寂しい気持ちである。
ニュースなどでは横綱時代の力強い相撲ぶりが映像で多く伝えられていましたが、私が、いまも強く印象に残っているのは入幕して三役の間を行ったり来たりしていた時代。
細い体で真っ向勝負の豪快で大きな相撲。そして、そのためか、よく脱臼して肩から大きなバンソコウして土俵に立っていた姿を忘れることが出来ません。
また私が大好きだった大関・貴ノ花(現在の貴乃花親方の父親)が目をかけていたのが千代の富士。
「タバコを止めると強くなるよ」とアドヴァイスしたのは有名な話。
そして現役最後の場所(1991年5月場所)の初日に千代の富士に土をつけたのが当時18歳だった大関貴ノ花の息子の貴乃花(当時のしこ名は貴花田)だった。物凄い因縁を感じます。
また貴花田との一番のように負けた相撲が印象に残っているのは大横綱の証(あかし)と言えるでしょう。
今日の朝日新聞のスポーツ欄に、こういう記事がありました。

引退後、その取り口を解説してもらった際に「体格差を補うために、変化を考えたりしたなかったのか」と聞いた。すると親方は「変化を覚えたら、はまれば勝つが、はまらなければ負ける。体が小さいからこそ、正攻法で勝つ相撲を覚えなければ、小兵力士で横綱を張ることは出来ない」と言われた。

引退後は大関・千代大海らを育てましたが相撲協会内では理事選で落選したりして不遇だったのが御本人にとって残念だったでしょう。
昨年の11月場所中に北の湖、そして昨日は千代の富士の訃報。
どんどん私の気持ちが大相撲から離れて行くような気持ちです。
まだ61歳だった。早すぎる!本当に早すぎる!同じ年代の者として本当に残念としか言えない。
最後に元横綱・千代の富士の九重親方のご冥福をお祈りします。





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追悼、横綱・北の湖

2015年11月22日 21時56分49秒 | 大相撲
本当はフィギュアスケートのグランプリシリーズに触れなくてはいけないのだが、やはり、このことを避けることが出来ない。
やはり、私の心の中のこと。
日本相撲協会理事長で元横綱の北の湖が亡くなった。まだ62歳だった。
今まで、いろいろな名横綱、名力士の訃報に接していたが、こんなに心の中にポッカリと大きな穴があいたことはなかった。
大鵬が亡くなった時も、これほどではなかった。横綱・北の湖の存在が、これほどまで、私にとって大きな存在だったとは、思いもよらなかった。何故だろう?
私が一番熱狂して大相撲を見ていた頃、その時の土俵の第一人者が横綱・北の湖だった。
本当に強かった。よく言われていますが憎たらしいほど強かった。
優勝回数では千代の富士や白鵬の方がが多いですが、その存在感の大きさ、そして横綱としての強さ、横綱としての大きさは、やはり北の湖である。
あの頃、私は大関・貴ノ花の大ファンでした。そして貴ノ花の前に立ちふさがった横綱・北の湖。何度、跳ね返されたか!
それだけに貴ノ花が優勝決定戦で北の湖を破って初優勝した時は本当に嬉しかった。
大好きだった貴ノ花の対極の存在だった北の湖。それだけに、今まで気が付かなかったのだが、自分にとって大きな存在だったのである。
本当に強かった。
また、あの頃は個性派力士が、たくさんいて本当に大相撲中継が楽しかった。
しこ名を見ただけで、その相撲振りが思い出すことが出来ます。そんな力士たちが北の湖に挑んでいったのである。
いつだったか忘れてしまったが押し相撲の富士桜(黒姫山だったかも?)が、真正面から北の湖にぶつかって行きましたが、アッと言う間に土俵際まで、跳ね飛ばされ、電車道で土俵下へ押し飛ばされた一番が強烈に印象に残っています。物凄い強さだった。これが横綱の強さか!と思いました。
死の数日前、立ち合いに猫だましを行った横綱を批判した北の湖理事長。私は北の湖の気持ちがよく分かります。
全盛期の出足勝負の押し相撲の力士の対戦でも、真正面から受け止めていた北の湖。それだけに横綱の猫だましは、おそらく信じられなかったのかもしません。私も信じられません。何故かというと、私は横綱・北の湖の相撲を知っているからである。
北の湖と輪島や貴ノ花の一番は、正に激闘という言葉がピッタリでした。
しかし貴ノ花は既にこの世の人ではなく、そして今回の北の湖の訃報。
何か自分にとって大切だった時代が完全に過去のものになってしまったことを強く実感するものがあります。
この数年、私は大相撲中継を見ていません。今日、千秋楽を迎えた九州場所の中継も、とうとう見ませんでした。
あの北の湖や貴ノ花が現役だった頃、まさか自分が、こうなってしまうとは予想も出来ませんでした。
もう一度、あの熱狂を見てみたい。
大相撲に、あの時のような時代がくることを願うばかりです。
それが大相撲に一生を捧げた今は亡き横綱の北の湖理事長の願いだと信じています。






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日本相撲協会・北の湖理事長死去。

2015年11月20日 20時43分18秒 | 大相撲
訃報です。
元横綱で日本相撲協会理事長の北の湖親方死去のニュースが飛び込んできました。
本当に驚いた。
今日の昼過ぎ、ネットで貧血で救急車で病院へ搬送されたということを知っていましたが、かなり体調が悪かったのだろうか。
北の湖理事長の現役時代は本当に強い横綱だった。
特に同時代、同じ横綱だった輪島との対戦は手に汗を握るものがありました。
また当時、私が大好きだった大関・貴ノ花(現・貴乃花親方の父であり師匠)の前に、いつも立ちふさがっていたのが、横綱・北の湖だった。
また貴ノ花と同様に大好きだった大関・旭国が14勝1敗の素晴らしい成績をあげても優勝できなかった場所があった。その時の1敗は北の湖に負けてのもの。そして優勝は全勝の北の湖。旭国は、とうとう一度も賜杯を握ることが出来なかった。
いろいろ思い出がありすぎます。
62歳での死去。若すぎる!
北の湖理事長のご冥福を、ひたすらお祈りします。





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元大関・貴ノ浪死去

2015年06月23日 10時32分13秒 | 大相撲
この3日間ほど早朝出勤や残業が続いていて、まともに新聞を見ていなかった。
昨日、仕事も一段落して、昨晩、まだ読んでいなかった新聞をまとめ読みをしていて驚いた。
元大関貴ノ浪の音羽山親方が6月20日に亡くなっていた。
私は現在の貴乃花親方の父親であり師匠の今は亡き大関・貴ノ花の大ファンでした。
ですから貴ノ浪は、私の大好きだった貴ノ花の弟子ということで、どうしても特別な目で見ていました。
貴ノ浪自身も貴ノ花の弟子だったことを、たいへん誇りにしていたと聞いています。
急性心不全による死。まだ43歳。若すぎる。
そんなに急いで師匠のもとに行かなくても・・・・。
ひたすら元大関貴ノ浪の音羽山親方のご冥福をお祈りします。





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元横綱・千代の富士の九重親方が還暦土俵入り

2015年05月31日 22時36分46秒 | 大相撲
元横綱・千代の富士の九重親方が本日5月31日還暦土俵入りが還暦土俵入りを行ないました。
赤い綱を締めて、太刀持ちに白鵬、露払いに日馬富士の現役横綱を従え、気迫あふれる雲竜型の土俵入りだったとのこと。
九重親方は昭和30年代生まれの初めての横綱。
そして年齢は私と2歳違い。
私も、区切りの年齢が近くなってきたことを強く意識してしまいました。






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元小結・龍虎、死去。

2014年08月31日 22時37分56秒 | 大相撲
また1人、私が大相撲に熱中していた頃の力士の訃報を知ってしまった。
元小結の龍虎。
横綱・北の富士と同期生。
江戸っ子らしい、気風のいい美男力士だった。
金星は大鵬と北の湖から各1個。
そして忘れてはいけないのは、本場所の一番でアキレス腱を断裂。
3場所連続休場で番付けは幕内から、一気に幕下へ。
しかし不屈の闘志で幕内、そして小結へカムバック。
このことは特筆すべきことである。
大関・魁傑、関脇・金剛に続いて、今度は龍虎。
二所ノ関一門が続くなあ。
やはり寂しい。
73歳。
ご冥福をお祈りします。


元関脇・金剛死去

2014年08月15日 16時01分36秒 | 大相撲
今日、新聞の朝刊を目を通していたら、社会面の片隅に一人の元力士の死が報ぜられていた。
先代の二所ノ関親方で、優勝経験もある元関脇の金剛である。
そして、記事を読んで、すぐに感じたのは、また一人、私が一番、大相撲に熱狂していた頃の力士が、この世を去ったと言う寂しさでした。
昭和50年7月場所、前頭筆頭で幕内最高優勝。
そして横綱北の湖からは金星3個と、北の湖には、めっぽう強かった。
27歳の若さで引退して二所ノ関部屋を継承しましたが、まだまだ現役を続けることが出来たはずで、その早かった引退は、今も残念に思っています。
先々代の二所ノ関親方の死去を受けて後継者問題でゴタゴタしたので、何かそれが、それ以降、暗い影を投げかけ、そして、それが結果的には名門・二所ノ関部屋の消滅につながったのではないかと思うと、御本人も悔いが残っていたのではないかと思ったりしています。
この5月に亡くなった、相撲協会前理事長の元大関・魁傑とは現役時代から仲が良かったのは有名で、理事長時代の魁傑を協会理事として支えたのが金剛の二所ノ関親方。
その魁傑のあとを、まるで追うように逝った金剛。
脳梗塞での長期療養中だったとのこと。
65歳。まだまだ若い!
ご冥福を心からお祈りします。


下の写真は昭和50年7月場所・千秋楽、鷲羽山を破って優勝を決めた写真。


北の富士対貴ノ花

2014年05月23日 22時58分28秒 | 大相撲


大相撲の昭和40年代後半の話題が続いています。
今日は、この一番。
昭和47年1月場所8日目。
横綱・北の富士対関脇・貴ノ花の一番。
最後、北の富士のつき手か、かばい手か、もめにもめた一番。
それにしても貴ノ花の粘り腰は本当に凄かった。
当時、NHK相撲解説者だった玉ノ海さんが、こう言いました。
「貴ノ花の下半身には、もう一つの命がある」
昔は、こんな相撲を取った力士がいたのです。
現在、これだけの粘り腰を持って、土俵を沸かせてくれる力士は、もういないであろう。

貴ノ花対輪島

2014年05月22日 22時18分13秒 | 大相撲


大相撲に熱狂していた、あの頃。
忘れられない一番。
昭和47年9月場所、千秋楽。
貴ノ花対輪島の関脇同士の大関昇進をかけた取組。
水入りの大相撲。
両力士による素晴らしい攻防でした。
場所後、2人は大関昇進。
新しい時代の幕開けに胸が躍ったものです。
貴ノ花対輪島。
これくらい胸がときめいた取組はなかった。
現在の大相撲界。貴ノ花対輪島に匹敵する取組はあるのだろうか?

余談だが私は「大関獲り」「横綱獲り」と言う言葉が大嫌いである。
昔は、そんな言葉は使わなかった。
「大関昇進」「横綱昇進」と言っていた。
いつから、言葉が乱れてきたのだろうか?



昭和47年3月場所

2014年05月21日 23時29分36秒 | 大相撲


今月18日に亡くなった前相撲協会理事長の元大関・魁傑には思い出がある。
私が生まれて初めて大相撲の本場所を見たのは昭和47年3月場所。
12日目だったか?
だから、私にとって、忘れることが出来ない場所である。
亡き父に連れられて訪れた大阪府立体育館。
私は取組そっちのけで、支度部屋の入り口に立って人気力士の出入りを見ていた。
高見山の大きさにビックリ!
また大好きだった貴ノ花(現在の貴乃花親方の父)を目の前で見て大興奮。
そして、その頃、今は亡き父は座席で大好きだった酒をちびりちびり飲みながら取組を楽しんでいた。
この場所の千秋楽。
関脇長谷川と前頭7枚目・魁傑による優勝決定戦。優勝は関脇長谷川。
しかし負けはしましたが、当時、若手力士だっ魁傑は一気に人気力士の仲間入りして、将来を期待されるようになりました。
本当に、いい時代だった。
魁傑の死で、昭和がまた遠くなってしまった。







元大関魁傑、死去

2014年05月19日 22時03分03秒 | 大相撲
前日本相撲協会理事長の元大関魁傑が亡くなった。
また1人、私が大相撲に一番熱狂していた頃の花形力士が、この世を去ってしまった。
本当に寂しい。
輪島、貴ノ花(現在の貴乃花親方の父)と並んで「阿佐ヶ谷トリオ」と言われていました。
現役当時「クリーン魁傑」と言われ、その真面目な性格からにじみ出る真面目な土俵態度は、今も忘れられないものがあります。
そして相撲協会理事長就任後、八百長問題が起き、大揺れに揺れた難局に敢然と立ち向かい、そして日本相撲協会の公益法人化への道筋をつけた業績は大きなものがあったと思います。理事長在職期間は短かったですが、現在の満員御礼の垂れ幕が下がる大相撲界に戻ってきた礎を作った素晴らしい理事長だったと、私は強く思っています。
理事長時代、協会内の多くの親方衆の反発は凄かったと聞いています。
しかし、そんな状況の中から大相撲存続の最大の危機と言うべき難局を乗り切ることが出来たのも現役時代から「クリーン魁傑」と言われ、「休場は試合放棄」とまで言った真面目な土俵態度から得た相撲哲学からくるものがあったにちがいありません。

さて私が魁傑の現役時代の取組で忘れられないのは昭和53年三月場所七日目の大関旭國戦。
この時、魁傑は二度目の大関からも陥落して前頭四枚目。それでも土俵への執念は消えることはなく、二度の水入り、そして取り直し。そして三度目の水入り寸前に、すくい投げで旭國を破った大熱戦。
この場所10勝5敗、敢闘賞候補に挙げられましたが、元大関と言うことで見送られました。その結果を聞いた当時NHKの大相撲解説者の玉ノ海さんが「元大関だからこそ敢闘賞だ!」とテレビ放送で言い放った言葉は今も心の底に残っています。

享年66歳。心より、ご冥福をお祈りします。






「決定盤!昭和の大横綱 大鵬のすべて」

2013年03月02日 22時37分05秒 | 大相撲
昨晩遅く、NHK・BS1で長時間「決定盤!昭和の大横綱 大鵬のすべて」が放送されました。
残念ながら翌日は仕事なので第1部のみ見て、あとは録画しました。
今、録画で第2部を見終えたところ。
司会はフィギュアスケートの中継でも、お馴染みの刈屋アナウンサー。何か安心して見ることが出来ました。
私が物心がついたころから、既に横綱でした。引退は私が中学生の時。昭和30年代の取組は、さっぱり憶えていませんが、40年代に入って小学校高学年から中学生時代にかけての取組は、全てと言って良いほど憶えていて、映像を見ていて、気持ちは、あの時代に戻っていました。
大鵬のライバルだった横綱柏戸との全取組の映像も見ることが出来ました。
凄い迫力!
現在の大相撲で、これだけの取組は、ないであろう。
優勝の回数は、かなり差がつきましたが、やはり大鵬にとって最大の対戦相手が柏戸だったことを改めて思い知りました。
大鵬の最後の優勝となった32回目の優勝は横綱玉の海を本割と優勝決定戦で破っての逆転優勝。
当時、私は玉の海の大ファンだったので、本当に悔しかった。
テレビの実況で優勝決定戦で玉の海を破った時、永田アナウンサーが「大鵬、立派!」と叫んだことを、現在まで強く憶えてましたが、番組で、この時の映像が流れ、きちんと再現され、その当時にタイムスリップしたような気分でした。
多くの取組の映像が流れましたが、対戦相手の力士たちも懐かしい顔ぶればかり。
明武谷、若浪、陸奥嵐、海乃山、藤ノ川、龍虎、長谷川、二子岳、栃東、高見山など個性派揃い。そして、四股名を並べただけで懐かしさが込み上げてきます。四股名を見ただけで、その相撲振りが思い出されます。
大鵬の時代は、個性派力士の時代だったとも言えるでしょう。
現在の力士の四股名を見ても、さっぱり、どんな相撲振りなのか、残念ながら思い浮かぶことはない。
もうすぐ春場所。
残念ながら、さっぱり興味が湧いてこない。
いつまで、こんな状態が続くのか、さっぱり分かりませんが、昔のように私を魅了する力士が早く登場して欲しいと願うばかりです。








横綱・大鵬、死去

2013年01月19日 21時44分19秒 | 大相撲
元横綱の大鵬が亡くなった。
何か私自身の幼年時代からの大きな存在が亡くなり、今はたいへんな喪失感で一杯である。
私の心の中の一つの時代が終わったと言う気持ちがたいへん強い。
大鵬が横綱に昇進したのは昭和36年11月場所。
私が、まだ物心が付きだした頃。
そして現役引退は昭和46年5月場所。
私が中学2年の時である。
私の幼年時代から小学生時代、そして中学生の時まで横綱として一つの時代を作った大横綱だった。
「巨人・大鵬・卵焼き」の時代を、私は正にリアルタイムに生きてきた人間である。
「心・伎・体」の三つ揃えの化粧まわしをつけての土俵入りも、はっきりと憶えています。
一番印象に残っている取組は、やはり現役最後の一番。昭和46年5月場所5日目の小結・貴ノ花(現在の貴乃花親方の父親)との一番。
この一番に敗れて引退表明。
大鵬が土俵に立っているのが当たり前の感覚が物心が付いてから、ずっと続いていたので、引退を知って、私は大鵬が土俵を去るのが信じられなかった。
どんな大横綱でも、いつかは土俵から去る時が来るという現実を、この時、生まれて初めて知ってしまったと言えるでしょう。
晩年は娘婿の貴闘力が野球賭博で大相撲界から去ったり、自身が育った二所ノ関部屋の閉鎖で、辛いことが多かったのではと思うと胸が痛みます。
享年72歳。まだまだ元気で大相撲界を見守って欲しかった。
ご冥福をお祈りします。





上の写真は大鵬の最後の一番。
私はテレビの実況中継で見ました。
大鵬も貴ノ花も故人になってしまった・・・。

二所ノ関部屋、閉鎖。

2013年01月11日 22時07分26秒 | 大相撲
あさってから大相撲初場所が始まるが放送を見たいとは思わない。
このところ大相撲のNHKの中継は全く見ていない。見る気がしない。
そんな私だが、大相撲に関して驚きのニュースを知った。
名門・二所ノ関部屋が閉鎖!
すでに三段目以下の力士3人に師匠を含めて4人の親方という相撲部屋の体を成していない状態だったらしいが、やはり驚いた。
これも時代の流れかもしれませんが、やはり残念である。
二所ノ関部屋は戦前の大横綱・玉錦が再興、戦後は横綱・大鵬を生んだ名門の相撲部屋。
戦後の相撲放送の解説でお馴染みだった玉の海さんは玉錦の死去後、二所ノ関部屋を継いだ方だったし、また神風正一氏も二所ノ関部屋出身。
また元関脇のプロレスラー・力道山も二所ノ関部屋出身。
私が大相撲に夢中だった中学生から高校生時代、二所ノ関部屋は正に大相撲界の中心的存在だった。
そんな名門相撲部屋が、所属力士が、たったの3人の状態になり、遂に消滅とは・・・。
思えば1975年大鵬の師匠の二所ノ関親方が亡くなった時、既に引退して独立していましたが大鵬か、元大関の大麒麟が継げば、こんなことにならなかったのでは?と思ったりします。
全ては、1975年、二所ノ関部屋の継承をめぐる、あの時の混乱から始まったのかもしれません。やはり元関脇の金剛では荷が重たかった?
あの時の混乱で、相撲界を去ったのが、現在プロレスラーの天龍源一郎である。もし天龍が相撲界に残っていたら、どうなっていただろうかと今も、有望力士だっただけに、よく思います。
私事ですが、私の父方の祖父は戦前、二所ノ関部屋の大阪後援会に入っていたらしい。
そのため、私の今は亡き父は、生前、大の二所ノ関びいきでした。
もし、父が存命だったら、今回の二所ノ関部屋閉鎖は、たいへん悲しんだことでしょう。
二所ノ関部屋が消えてしまった大相撲界。私にとって考えられないことである。
願わくは、今後、二所ノ関に縁がある立派な親方がいたら、部屋を再興して二所ノ関の灯を再び灯して欲しいと願うばかりである。



写真は1971年1月の初場所千秋楽、横綱大鵬の優勝を祝っている二所ノ関一門の写真。
大鵬の左側に当時の二所ノ関親方、右側は横綱玉の海。
後ろには大関大麒麟と琴桜(当時)の姿。
二所ノ関部屋絶頂期の頃か。







横綱・双葉山、生誕100年

2012年05月31日 22時27分30秒 | 大相撲
今日、帰宅して、昨晩、NHKの地上波で放送された歴史秘話ヒストリア「日本中が愛したおすもうさん~生誕百年!ヒーロー双葉山の真実」の録画を見る。
そうか!今年は不世出の大横綱・双葉山の生誕100年なのか!気が付かなかった。
番組では双葉山を神格化しないで、人気力士・双葉山の視点から見つめていたのが良かった。
それでも引退の時期にさしかかった双葉山の心情には感慨深いものがありました。
引退後、時津風理事長として、部屋別総当たり制など、数々の大相撲界の改革を行なった双葉山。
今の大相撲界を、あの世から、どう見つめているのでしょうか?
今の両国国技館に受け継がれいる大鉄傘。
先人の思いを絶対に裏切ることのない様、願うばかりです。