オペラファンの仕事の合間に パート2

大好きなクラッシック音楽やフィギュアスケート、映画などを語ります。メインは荒川静香さんの美しさを語るブログ。

「ブルーノ・ワルター: 音楽に楽園を見た人」

2016年06月10日 09時31分29秒 | ブルーノ・ワルターとの出会い
エリック ライディング 、 レベッカ ペチェフスキー著の「ブルーノ・ワルター: 音楽に楽園を見た人」を、やっと読み切る。高額な本なので、長い間、市立図書館から借りっ放し状態だったので、これで何か気が楽になった気持ち。
大指揮者ブルーノ・ワルター(1876年生-1962年没)についての、決定版とも言うべき伝記と言えるでしょう。読み終えてワルターの重たかった一生がズシリと乗りかかってきたような気持ちである。
生い立ちから死まで、よくぞ、ここまで細かく徹底的に調べたものと感服するのみである。
私が持っている一番古いワルターの録音は1929年のもの。その1929年に行き着くまでがたいへんでした。
ワルターの正に尋常ならざる人生。嵐のような人生。
私が初めてワルターの録音を聞いたのは晩年のコロンビア交響楽団との録音。本当に、おだやかで温厚な演奏。長らくそんなワルターのイメージが強かったのですが、これは晩年のほんの一瞬の姿。
CDの時代になって、ニューヨークフィルの時代、アメリカへの亡命直後、そして戦前のウィーンフィルの録音と、どんどん時代をさかのぼってワルターの録音を聴いて行くにつれて、これは違うぞと実感するようになりました。
そして、この本を読み終えて、もう一度、ワルターの録音を聴き直していきたいと強く思いました。
また、いかにワルターが自身が生きていた時代の作曲家の作品を積極的に演奏していたか、よく分かりました。ワルターと言えばモーツァルトのイメージが強かったのですが、そんな感覚すら払拭させられるものがありました。私たちが録音で聴いているのはワルターのほんの少しのレパートリーに、すぎないのである。
それにしてもワルターの指揮するワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」が聴けないのは、やはり残念。メトロポリタン歌劇場での指揮を熱望しながら実現しなかった。「前奏曲と愛の死」だけでも聴いてみたいのだが・・・。
そしてワルターにとって欠かせない関係だった作曲家であり指揮者のマーラー。
私はマーラーの未完に終わった交響曲第10番は、いろいろ聴いてみてクックによる完成版も良いのではと思っていましたが、ハッとさせられるものがあり、目が覚めました。第1楽章にあたるアダージョと他の楽章を絶対に同列に見なしてははいけないのである。
ワルターの言葉。

「私はマーラーの交響曲第10番の完成と出版に強く反対するものです。巨匠が未完で遺さなければならなかった自分の最上の作品の一つを、一体誰が誰が引き継げるというのでしょうか?」

またワルターの女性関係も興味深かった。
作家トーマス・マンの娘と関係があったらしい。ワルターの娘の証言もあるので間違いないのでしょう。
この件(くだり)を読んで思い出したのは、ワルターのミュンヘン時代、当時、彼の元で修行していた後の大指揮者カール・ベームの回想禄「回想のロンド」の一節である。

「ブルーノ・ワルターを通じて私はトーマス・マンの知遇を得たが、マンは私のことを人間的にも芸術的にもひじょうに気に入ってくれ、のちに聞いた話だが、自分の娘と結婚させたい意向だったという」

最後に、たいへん印象に残ったヴァイオリン奏者アイザック・スターンのコメント。

「トスカニーニは爆発的な形で独裁者でしたが、ワルターは温和な形で、やはり同じくらい独裁者だったのです。しかしある意味では、音楽家はそうであらねばなりません。なぜなら何と言っても演奏家は、自分の意思を押しつけなければならないのですから。
もし指揮者ならば、まずオーケストラに、それに聴衆に、そうやって自分の意思を押しつけるには、内面の力と信念がどんな時にも必要なのです」

今回読んだワルターの伝記はワルターの録音を聴く幅を、さらに広げるのに十分すぎるものがありました。
これからも、もっともっとワルターの録音を集めていき、聴き込んでいきたい。







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ワルター没後50年

2012年02月17日 12時23分44秒 | ブルーノ・ワルターとの出会い
①マーラー 交響曲第1番「巨人」ニ長調 ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団 (1961年録音 SONY盤)
②ベートーヴェン 歌劇「フィデリオ」第2幕より レオノーレ序曲第3番とフィナーレ ブルーノ・ワルター指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団(1941年メトでのライブ録音 Guild HISTORICAL盤)
③モーツァルト セレナード第13番K525「アイネクライネナハトムジーク」 ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1936年録音 Opus蔵盤)

今日2月17日は私がたいへん敬愛する指揮者ブルーノ・ワルターの命日である。そして今年は没後50年の節目の年である。
私自身のワルターとの出会いやワルターの生涯は「ブルーノ・ワルターとの出会い」をご参照下さい。
先月、(株)音楽之友社より宇野功芳編集長の本「没後50年記念 ブルーノ・ワルター」と言う本が発売され、興味深く読みました。音楽評論家の宇野功芳氏は生前のワルターと文通した、おそらく唯一の日本人でしょう。その時のワルターの返信も掲載され、若き日の宇野氏の音楽や演奏に対する問いかけに、巨匠が真正面から真摯に答を返している文面に、たいへん感動しました。
また、この本の宇野氏の前書きに、ワルターは「音楽の友」の指揮者のファン投票で、20位にも入らなくなったと書かれていました。レコード会社も特別企画も無いようである。時代の流れとは言え、一抹の寂しさを感じました。

さて、今日は朝から私が、いろいろ所持しているワルターのCDの中で、お気に入りのCDを聴きました。
コロンビア響とのマーラーの「巨人」はワルターの録音の中で、私が一番好きな録音、そしてワルター開眼となったCDである。
詩情あふれる演奏。まさに夢の世界。何かワルターが、この曲の魅力を目の前で語ってくれているような気になります。
マーラーの巨人は、やはりワルターが最高である。

ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」から第2幕の後半を聴く。
1941年のライブ録音。晩年の録音に慣れている方が、この録音に収録されているレオノーレ序曲第3番を聴いたら、とても同一人物とは思えないのではないでしょうか?ワルターは温厚な指揮者と言うイメージをひっくり返す気迫あふれる、フルトヴェングラーも吹っ飛ぶ物凄い演奏。演奏後の延々と続く聴衆の拍手が物語っています。
ワルターは時として、このような演奏を聴かせます。それがワルターの魅力の一つだと思っています。

モーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」はSPレコードからの復刻版。
聴いていて、とてもSPレコードからの復刻だと思えないくらい素晴らしい響きである。
よほど状態の良いSPレコードが見つかったのでしょう。
どこまでワルターの魅力か、ウィーンフィルの魅力か分からないくらい両者の魅了が詰まった演奏。
テンポも最高!そして最高のモーツァルトが鳴り響きました。

今日は偶然ですが何故かワルターの生涯から見ると戦前のウィーン時代、アメリカへの亡命直後、そして晩年の録音を逆にさかのぼって聴いたこととなりました。
ワルターの録音は聴けば聴くほど、ますます私を魅了するものがあります。
これからも私の心のより所として聴き続けて行きたい。

ブルーノ・ワルター没後50年

2012年01月24日 22時06分09秒 | ブルーノ・ワルターとの出会い
数週間前、NHKのBSで放送されたNHK交響楽団によるマーラーの交響曲「大地の歌」の演奏を聴いて、たいへん感動しました。そして改めて、この作品の素晴らしさに目覚め、今、この作品にハマってしまった状態である。そして、その他のマーラーの作品も!

さて「大地の歌」のレコードを初めて買ったのは高校3年の時。ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィルによる録音でした。
そして、今年はブルーノ・ワルター没後50年の記念の年である。
昨日、音楽之友社より発売された宇野功芳編集長の本「ブルーノ・ワルター」が届きました。
音楽評論家の宇野功芳氏はおそらく生前のワルターと文通した、おそらく唯一の日本人でしょう。それだけに、没後50年の節目に、大変いい企画の本が登場して私は喜んでいます。
まだ、全てに目を通していませんが、やはり圧巻なのは、初めて公開されたワルターの宇野氏への手紙です。
最初の手紙は1952年。そして最後の手紙は、死の前年の1961年。
当時、現在以上に、アメリカから見ると日本は遥か遠くに感じる国だったに違いありません。
そんな極東の島国からの音楽を志す全く無名の若者の手紙に対して、世界的巨匠が真摯に、そして真剣に宇野氏の問いに答えている文面を読んで、強い感動を憶えました。

一番、印象の残った手紙。1960年8月の手紙。
「(前略)ウィーンへの旅も体力を求められるものであり、この先はもう、行くべきでないでしょうが、(今回は)言って良かったと思います。なぜなら、私の音楽に対する期待が、今回の旅によって素晴らしく満たされたからです。(後略)」

1960年5月29日、生涯最後のウィーンフィルの指揮台に立った時の思いが込み上げているのでしょう。ヨーロッパで生まれ、ヨーロッパでキャリアと名声を積んできたワルターがユダヤ人ゆえに、第2次世界大戦でヨーロッパを去り、アメリカに亡命しなければいけなかった。
おそらく、その時の悪夢の思い出も消えていないはず。そんなウィーンに対して「私の音楽に対する期待が、今回の旅によって素晴らしく満たされたからです」と言い切ったコメントを読んで、ワルターの音楽とウィーン(ヨーロッパ)に対する思いが伝わってきて、ワルターの生涯を思うと感慨深い気持ちで一杯になりました。
余談ですが、この時のウィーンフィルとのマーラーの交響曲第4番の録音状態の良いCDはあるのだろうか?大昔、LPレコードで発売された時、あまりにの音のバランスの悪さに閉口したことがあります。

この本のまえがきで宇野功芳氏は音楽雑誌「音楽の友」の指揮者のファン投票で、ワルターは最近20位にも入って来なくなったと述べられています。私は、この数年「音楽の友を購読していないので知りませんでしたが、全くの驚きでした。時代の流れと言えば、しかたがないのですが、やはり残念です。私にとってワルターは一番大好きな指揮者の4人の内の1人です。

以前「ワルターとの出会い」でもコメントしましたが、晩年のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音、その前のニューヨークフィルの時代、さかのぼって亡命直後、そしてさらにさかのぼってウィーン時代の録音を聴いてワルターがその時代によって演奏スタイルが違う事に気が付いて来ました。このような面白さはフルトヴェングラーにはありません。ワルターの録音の収集はこれからも続行です。まだまだこの指揮者の素晴らしさや面白さに気が付いていない事がたくさんあるはずです。

今年も、いろいろと復刻盤が発売されるようです。ますますブルーノ・ワルターに傾倒してしまう1年になりそうです。




ブルーノ・ワルターとの出会い 最終回

2007年10月01日 17時55分42秒 | ブルーノ・ワルターとの出会い
マーラー 交響曲第1番「巨人」
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団 (1961年、ワルター84歳の時の録音)

久しぶりにこの録音をCDで聴く。夢見るような詩情あふれた素晴らしい演奏である。他の指揮者で聴かされるようなやかましさは皆無で本当にこの曲の美しさに陶酔するだけである。バーンスタイン、オザワ、マゼール、小林研一郎の録音も持っているがこの曲はワルターが一番である。何かワルターが私の前でこの曲の魅力を語っているような気がする時があります。こんな事はベームやフルトヴェングラーでは絶対感じない事である。しかし、これだけの演奏なのにレコードの時代は全くこの演奏の素晴らしさに気が付かなかったのである。



カール・ベームにつながる指揮者としてワルターに興味を持ち彼の指揮するコロンビア交響楽団の演奏のベートーヴェン、シューベルト、マーラーなどレコードを購入して聴きましたがさっぱり面白くない。ベートーヴェンは弦は薄っぺらく聴こえるしマーラーの「巨人」も木管や管楽器が弱く聴こえ楽しめない。他の作曲家も同様で、よくレコード雑誌の名盤選びでは常にワルターの録音が上位で、ワルターを支持している人たちは自分が生きてきた年代にワルターの晩年が重なっていて、独特の感情があるのではと思ったりしたものです。

ワルターを聴かなくなった頃、時代はいよいよレコードからCDの時代に大きく変わり突入しました。ちょうどその頃私自身、前に努めていた会社と感情的もつれが大きくなり遂に半年ほど失業、そしてやっと今の会社に就職した時やっとCDの再生装置を購入する事ができました。22年前の事です。その時一緒にその頃話題になっていた5枚のCDを購入しました。(あの頃のCDは高かった!)
その頃ワルターのコロンビア響との録音がCD化され(故人の名演奏家の録音がCDされたのはワルターが最初だったはずである)大変話題になりました。そして何か惹かれる様にワルターの指揮する「巨人」を5枚の内の1枚として購入しました。初めて聴いた時、本当に驚きました。見違えるような、レコードと全く違う録音のように聴こえました。CD化に当たりレコード会社はオリジナル・マルチ・テープから、当時の録音プロデューサー自らの手によりリミックスされマスターテープなみの音で再生できるようにしたそうです。またワルター晩年の録音が優れた音質で録音されマスターテープとして残っていたことも大きな要因でしょう。一気に私の中のワルターの存在が大きくなってしまいました。
ワルターの録音をまた一から買い直す事となりました。今度は失望はありません。弦が薄っぺらいと思っていたベートーヴェンもCDで聴くと逆にスケールの大きさを感じるようになりました。(特に「田園」)またCDのおかげでもっと古い録音が見事に復刻され収集の巾が一気に広がりました。ニューヨークフィルの時代、さかのぼって亡命直後、そしてさらにさかのぼってウィーン時代の録音を聴いてワルターがその時代によって演奏スタイルが違う事に気が付いて来ました。このような面白さはフルトヴェングラーにはありません。ワルターの録音の収集はこれからも続行です。まだまだこの指揮者の素晴らしさや面白さに気が付いていない事がたくさんあるはずです。
ワルターの大変な生涯のなかで残してくれた貴重な録音の数々。これからも宝として大切に聴いていくつもりです。



長々となってしまいました。「ワルターとの出会い」を述べるに当たっていきなりCD時代から述べるのも良かったのですが私の敬愛する指揮者の一人のカール・ベームとの関係は無視できない事であり、そうすると私のベームとの出会いも触れなければいけないという事でダラダラと長くなってしまいましたが私自身のクラッシック音楽の遍歴を顧みるよい機会だったと思います。今後はワルターやベームのお気に入りの録音も取り上げていくつもりです。


最後に私が旧ブログに書き込んだ「ブルーノ・ワルターの生涯」のコピーも掲載しておきます。

ブルーノ・ワルターの生涯



私がいつもお世話になっているシフ様のブログで往年の大指揮者ブルーノ・ワルターが話題になっているのでワルターの生涯を簡単に紹介します。
①生誕からデビューそしてマーラーとの出会い
ブルーノ・ワルターは1876年絹織物商の事務をしていたユダヤ人の父と音楽才能豊かなドイツ人の母を両親としてベルリンで生まれた。本名はシュレジンガー。(デビュー後ワルターという芸名を名乗っていたが1911年オーストリア帰化後本名をワルターと改名する)
6歳の時本格的にピアノを習い始めたが、その上達は早く1885年母親の母校シェテルン音楽院に入学。1886年10歳の時、初のリサイタルを開き1889年にはベルリンフィルの演奏会にも登場、正にピアノの天才少年だった。しかし同年彼の一生を決める出来事があった。当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローが指揮するベルリンフィルの演奏会を聴き指揮者になる事を決意する。13歳の時の事だった。音楽院も指揮科に移り、作曲法や読譜法も学ぶ。
17歳の時ケルン歌劇場で練習指揮者として採用され、翌年オペラ指揮者としてデビューする。その年、ハンブルク歌劇場へ移るが、運命的な出会いがあった。当時の主席指揮者だったマーラーである。若く多感な時期での大音楽家との出会いは圧倒的な影響があったはずである。また気難しいマーラーにとってワルターは弟子というより数少ない友人だったとも言われている。
②ミュンヘン時代
その後、マーラーと別れプレスラウ、リガ、ベルリンと移り、そして1901年マーラーのいるウィーンへオペラ楽長として赴任する。1911年ミュンヘンで「大地の歌」。1912年ウィーンフィルとマーラーの交響曲第9番を初演。
1913年37歳の時現在のバイエルン国立歌劇場の総監督に招かれる。1922年ミュンヘンを去るまで彼のオペラに対する理想が見事に花が咲いた時と言われているが一番の収穫はモーツァルトへの愛が深まった事である。またこの時期オーストリアのグラーツ出身の若い指揮者が彼の元で研鑽を積んでいた。彼の名はカール・ベーム。ワルターとベームの関係はまたの機会に取り上げるつもりである。
1922年ベルリンフィルの指揮者二キシュが死去。後継指揮者の候補はワルターとフルトヴェングラーだった。後継はご存知の通りで、かなりショックだったらしい。
1923年現在のニューヨークフィルに初の客演。1925年ベルリン市立歌劇場の総監督。1928年よりライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者。
1930年代にはいるとヒットラー率いるナチスが台頭。1933年には1923年から始まり毎年大好評だったベルリンフィルとの「ブルーノ・ワルター演奏会」が中止に追い込まれるなど、このままドイツに留まることに危険を感じ活動の拠点をウィーンへ移すのである。
③ウィーン時代、そして嵐の時代。
1934年ウィーンフィルに招かれ、1936年ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。正にその名声は世界に響き渡る。この時期ウィーンフィルとの名コンビによる素晴らしいSP録音が生まれ、戦前の絶頂期のワルターを知る事が出来るのである。
しかし事態が悪化する。1938年3月ナチス・ドイツはオーストリアを併合。そのときワルターは客演先のアムステルダムにいたがウイーンでの国籍や財産を全て失う。モナコ、フランスと転々とするが、1939年8月ルツェルン音楽祭に登場 する予定だったが次女が夫に射殺されるという事があり茫然自失のワルターに代わって急遽指揮台に立ったのはトスカニーニであった。
そして同年9月ナチス・ドイツがポーランドへ侵入して第2次世界大戦が始まり、10月ついにヨーロッパを去りアメリカへ亡命するのである。
④アメリカ時代
アメリカ亡命後ニューヨークフィルやメトロポリタン歌劇場を中心に活躍。アメリカの文明、トスカニーニの存在、ヨーロッパとは違うアメリカのオケなどの影響かウィーン時代には聴けなかったスケールの大きさや力強さなどを聴く事が出来る。1945年ロサンゼルス郊外のビヴァリー・ヒルズに自宅を購入。大戦後1946年にはエジンバラ音楽祭でウィーンフィルと再会を果たす。
1949年アメリカ楽団を大きく揺るがす事件が起きる。シカゴ交響楽団がフルトヴェングラーの招聘を公表。トスカニーニを筆頭にアメリカの著名な音楽家はほとんど全て反対、シカゴ響への出演をボイコットを表明する中でワルターは彼らに同調しなかった。ここに彼の心の中の強さを感じる。
⑤晩年
1956年引退を表明。翌年、心筋梗塞による発作を起こし約10ヶ月療養するが、この間レコードはステレオ録音という画期的な時代に突入する。ワルターは米コロンビアの強い説得で録音を開始する。レコード会社は彼の為にレコーデイングの為のオケのコロンビア交響楽団を組織して数々のステレオ録音を行う。その多くが今も名盤として最高の遺産となっている。
1960年5月マーラー生誕100年記念で生涯最後のウィーンフィルを指揮。同年12月ロサンゼルスフィルでの客演が生涯最後の演奏会となった。
1962年2月17日ヒヴァリー・ヒルズの自宅で心臓発作のため死去。享年85歳であった。その遺体はスイスのルガーノにて埋葬された。

駆け足での紹介となってしまいました。またの機会に詳しくふれましょう。昨年はワルターの生誕130年の節目の年でした。戦前のキャリアを見るとフルトヴェングラーやトスカニーニに負けないたいへんな大指揮者です。少しでもワルターの魅力に気付いてくれるならば幸せです。


ブルーノ・ワルターとの出会い その5

2007年09月27日 01時20分41秒 | ブルーノ・ワルターとの出会い
(お断り)
ブルーノ・ワルターとの出会い その1からその4は私の旧ブログよりコピーしました。

ブルーノ・ワルターとの出会い その1

私の大好きな往年の大指揮者ブルーノ・ワルターとの出会いを書いていきます。ただ「この録音を聴いてワルターを好きになりました」というだけでは面白くないし、この6月で私も半世紀生きてきた事になるので、この機会にワルターにたどり着くまでの自分自身の歩みをいろいろ思い出しながら振り返るのも良いのではないかと思いました。ぐどぐどと文章を並べる事になりますが、どうかご容赦下さい。

意識してクラッシック音楽を聴き始めたのはいつからであろうか?今は亡き私の父が音楽好きだったので家には映画音楽や歌謡曲などいろいろなジャンルのレコードがありました。(私自身、物心付いた時は自分でプレーヤーを操作して童謡のレコードを聴いていた記憶があります)さて、いろいろあるレコードの中で何故かクラッシック音楽が1枚ありました。曲目はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」演奏はカラヤン指揮ベルリンフィル。父は特に第1楽章が好きだったようで日曜日の朝はしょっちゅう聴いていたので当時小学生の私もこの曲を憶えてしまいました。そしてカラヤンの名前も当然頭の中に入ってしまいました。後年、父から聞いたのですが、この頃カラヤンとベルリンフィルが我が町にやってきたそうで当時、建築会社に努めていた父は丁度その頃カラヤンが泊まったホテルの増築工事を担当していたのでホテルでカラヤンを見た(見に行った?)そうです。夫人も一緒で、たいへんきれいな方だったと聞いた記憶があります。
ただこれらの事が現在に至る私のクラッシック音楽歴の下地になっているかもしれませんが直接大きく関係があったとは思えません。学校の音楽の時間も退屈だった。何か大きなきっかけがあったはずである。それはやはり中学生のときテレビで見た「札幌冬季オリンピック」しか考えられません。初めて見る雪と氷の祭典!夏のオリンピックには無い神秘さ、美しさ、雪や氷といった自然の中での競技や演技。一番感受性に富んだ時期、感じやすい時期だっただけにどれだけ心をとらえたでしょうか?開会式や閉会式も素晴らしかった!今も札幌五輪以上の開・閉会式は無いと思っています。
さてここでクラッシック音楽と札幌五輪との接点である。開会式の直前、テレビで岩城宏之指揮NHK交響楽団が札幌でのオリンピック記念の演奏会の模様を見ました。曲目はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第三番。(武満徹の「ウィンター」も演奏されたらしいが全く記憶が無い)生まれて初めて聴いたこの作品、本当に衝撃的でした。そしてベートーヴェンには自分の知らない作品がたくさんあるという事を思い知らされました。
話が前後しますが、初めて見た冬季五輪の競技の中で一番心をとらえたのは何といっても「女子フィギアスケート」です。サッポロの恋人といわれたジャネット・リンの登場です。赤い衣装とにこやかな笑顔。そしてフリーの演技の後半使用された曲が何と数日前聴いて感激した序曲「レオノーレ」第三番の劇的なフィナーレ。あの驚きは今も忘れません。リンの演技にも当然魅了されましたが改めてこの曲の大きさ、素晴らしさに感激を新たにしました。

話が長くなりました。本日はこれまで。

ブルーノ・ワルターとの出会い その2


前回、札幌冬季オリンピックまで、やってきました。早くワルターにたどり着きたいのですが、まわり道ばかりで申し訳ございません。
その1でもお判りかもしれませんがクラッシック音楽、フィギアスケート、大相撲など私が大好きな事に関しては私の父親の影響や存在なしでは語れません。私が大相撲に興味を持ったら大阪へ本場所へ連れて行ってくれたり、クラッシック音楽を聴きだしたら我が街の市民会館にNHK交響楽団が来た時には連れていってくれたりで今から思えば絶妙なタイミングで本物を見せてくれました。感じやすい時期に生で本物に接するという事はどれだけ自分自身大きい事だったか本当に感謝するばかりです。
私の父は大阪生まれで終戦まで大阪で過ごし親類縁者にもハイカラな方も多かったらしく幼い時から音楽や映画に身近に接していたそうである。私が中学生の時だったでしょうか。東京出張の時、岸洋子さんのリサイタルを聴いて来て感激したらしく日曜日の朝はいつも岸さんのレコードばかりかけて家族皆閉口したのも懐かしい思い出です。また戦前、大阪の関目というところに国技館があったらしく準本場所がよく開催され父方の祖父が二所ノ関部屋の後援会に入っていたとの事で、しょっちゅう見に行っていたらしいです。ある時、国技館へ行くと祖父が芸者さんを引き連れて升席にいて驚いたという話も聞いた事があります。戦前の良き時代の話でしょう。その頃は双葉山や玉錦の時代で後年よく話しを聞かされ、私の描いている横綱像に大きな影響がありました。今日もテレビのワイドショウーでは朝青龍の話題ばかりで精神科医まで登場して本当に嫌になってきました。
戦後、ある建築会社に就職したのですが私が小学6年の時、県下で初のスケートリンクの工事を担当する事になりました。(ここからは昨年しーぱらの掲示板にも書いた事がありますので重複しますがご了承下さい)社を挙げての大変な工事だったと後年、母から聞かされました。私自身忘れはしないのはある夜、急にほとんど完成された工事現場に連れて行かれました。その夜は初めてリンクに氷を貼る日で父も初めての事で落ち着かなかったのでしょう。初めて見た氷の貼った真っ白い、そして誰も足を踏み入れていないリンクの様子は私のフィギアスケートの原点かもしれません。大変な工事だっただけにオープニングの華やかさは父にとって忘れることの出来ない事だったと、これも母から聞いた事があります。
そんな父も私が高校3年の時、病気で他界。もっといろいろな事を聞きたかったものです。昨年は父が他界してちょうど30年の節目の年で、命日の10日前に荒川静香さんが金メダルに輝き何とも言えない気持ちでした。父が生きていたら本当に喜んでいたでしょう。

今回は父の思い出を語らしていただきました。話がなかなか前へ進みませんが次回は中学生時代から高校生時代に進みたいと思います。いよいよカラヤンからベームに移ります。

ブルーノ・ワルターとの出会い その3

早くワルターにたどりつきたいのですが、まだ見えてきません。話を飛ばしても変なので順を追って行きます。

札幌冬季オリンピックが終わりました。中学生ですがますますクラッシック音楽に興味が出てきました。その頃、私にとって予想もしなかったことが起きました。
それはコーラス部入部です。クラスメートに引きずられたという事もありますが当時好きだった女の子がソプラノで在籍していて追いかけてしまったというのが入部の大きな理由でしょう。いざ入部するとそこは、それまで体験した事のない環境でピアノをバリバリ弾く女の子はゴロゴロいるし、(後年東京芸大をはじめ音大に進学した者も多数いる)、クラッシック音楽に詳しい医者や牧師の息子がいて訳のわからん事を言って来るし、大変刺激的な毎日でした。ちょうどその頃NHKのテレビで「NHKコンサートホール」という番組(今のN響アワーのようなもの。木曜日の夜の放送だったかな?)があり放送の翌日はよく盛り上がっていました。忘れはしないのはベートーヴェンの「皇帝」の放送があり、その時のソリストの弾き方が大変変わっていたので次の日、大変話題になりましたが、その時のピアニストがグレン・グールドだった事を知ったのはかなり年数が経ってからでした。
高校受験は県下でもナンバーワンのコーラス部がある公立高校を目指したのですが見事に失敗!コーラス部のない私立高校へ入学という事になり大学受験勉強以外は音楽を聴くしかないという状態になってしまいました。

暗黒の高校生生活を送っていましたが一番の楽しみは夜のNHKのFM放送を聴く事でレコードを買いまくるほどお金が無かったので最大の情報源でした。
高校1年の秋、カラヤン指揮のベルリンフィルが来日し東京で1週間ほど連続演奏会があり全演奏会がFM放送で生放送され全て聴きました。この来日公演のプログラムはバッハからシェーンベルクまで演奏されるという実に多彩で私自身このとき初めてブルックナー、R.シュトラウス、シェーンベルクの作品を聴きました。ブルックナーはよく解からなかったのですがシュトラウスの「英雄の生涯」には本当に驚かされました。またワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死もこの来日公演の放送で初めて聴き、この来日公演の放送は正に私にとって音楽的視野を広げる大変インパクトのあるものでした。

これ以降しばらくはどうしてもカラヤン中心だったのですが高校3年になる直前の春、それまでの流れをひっくり返す、現在の私の音楽志向につながる私にとっては大変な放送がありました。話が長くなってきたので、また次回に。うっすらと遠くですが、かすかにワルターの姿が見えてきました。

ブルーノ・ワルターとの出会い その4

今日、朝からビデオでワーグナーの楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」を観る。最初は冷静に観ていたが第3幕でエヴァがザックスの仕事場に現れるあたりから、だんだん熱くなってくる。歌合戦の場はピークである。まさに自分の音楽!自分の世界!
いつからこの世界に脚を踏み入れたのだろうか?そのきっかけは何だったのだろうか?

高校1年の時FM放送でカラヤン指揮のベルリンフィルの連続演奏会を聴いて以来購入するレコードは全てカラヤンオンリーという時期が続きました。しかし予期しなかった事があり方向転換する時がきました。
高校2年も終わり3年になる直前の3月でした。NHKがベーム指揮のウィーンフィルを招聘し、これも連日放送されました。今では都会ではウィーンフィルの来日は年中行事になっているようですが当時は何年かの1度の事件でした。(私の4年間の東京での大学生時代でも来日は1回だけだった)当時、私自身はベートーヴェンやブラームスの交響曲は全て聴いており知っている(つもり)状況でした。
初日はFMの生放送でベートーヴェンの4番と7番の交響曲を聴きましたが別に何とも思いませんでした。そして・・・今も強烈に記憶が残っています。
2、3日後テレビでブラームスの交響曲第1番を聴き(観)ました。第1楽章の冒頭のティンパニの連打を聴いた瞬間、今迄聞いて来たものと全く違う事に驚き、別世界に連れて行かれるようであった。この作品はカラヤンのレコードを持っていましたが冒頭は単にティンパニを叩きましたという感じでしたが、この日聴いた演奏は指揮者の強い意思、そして気迫がオケに乗り移り物凄い緊迫感を第1楽章で感じました。ベームの指揮ぶりもカラヤンのような外面の良いものではありませんが作品に寄り添っているのがよくわかりました。そして第2楽章では気高さと第1楽章に反するような美しさ!特にコンサートマスターのソロの美しさ!初めてこの作品を聴く感じであった。第3楽章を経て第4楽章。あの有名な主旋律では、ここぞとばかり歌うウィーンフィル。そして速度をあげて力強い響きの圧倒的といえるクライマックス。カラヤン指揮ベルリンフィルのレコードと次元が違いすぎる!クラッシック音楽というものが、こんなに物凄く、決してきれい事でない世界である事を始めて知った!クラシック音楽を聴き初めての感動だったのではないか?
数日後FMでの生放送でシューべルトの交響曲9番も聴きましたがブラームスと同様でした。アンコールでの「マイスタージンガー」前奏曲も素晴らしかった!

それまでは、どちらかと言うと「作品を聴く事」が勝っていたが、べーム指揮ウィーンフィルの演奏を聴いて初めて知った事は今にして思えば「演奏を聴く事」の面白さだったのではないか?

長くなったので続きは次回に。いよいよワルターが近くまで来たようです。

ブルーノ・ワルターとの出会い その5

ベーム指揮のウィーンフィルの来日公演の放送を聴いて知ったのは「演奏を聴く」という事の面白さであった。それまでカラヤン一辺倒でしたが、これ以降色々な指揮者の演奏を聴くようになりました。クナッパーツブッシュ、モントゥー、朝比奈隆といった今も熱心に聴いている面々を知ったのはこの頃でしょう。しかし中心はベームでした。来日公演から少ししてある日、本屋でベームの回想録の「回想のロンド」という本を見つけ迷わず購入しました。音楽の知識があまり無い時代でしたのでまだ理解できない点も多々ありましたが、ベームと親交のあった作曲家のR・シュトラウスやベルクの事を知り、バイロイト音楽祭の事も知り、カラヤン一辺倒だった頃と比べて音楽的視野が広くなっていきました。そして、この本の中で一人の興味深い指揮者の名前を見つけました。「ブルーノ・ワルター」です。この頃になるとワルターの名前は雑誌「レコード芸術」のレコードの広告などで知っていましたが当時、私にとってコロンビア交響楽団という今一つよく解からないオケの指揮者というイメージで全く興味の無い存在だったのでワルターという名前の登場は私にとって、たいへん以外でした。

1916年ベームは郷里のオーストリアのグラーツで指揮者としてスタートし、その後グラーツの歌劇場の主席に着く事が確実になっていた頃ミュンヘンの歌劇場より第三または第四指揮者の契約のためにミュンヘンで指揮してみないかという誘いの電報がベームに届く。電報の発信者は当時のミュンヘンの歌劇場の音楽監督であったブルーノ・ワルターであった。グラーツと縁の深いの当時の名指揮者のカール・ムックがワルターに推薦したらしい。とうとうワルターが私の目の前に登場した。
 
ミュンヘンでの「魔弾の射手」「蝶々夫人」の二つのオペラの試演の後、ワルターは若いベームに「ベーム君、ミュンヘンは気に入りましたか?」とたずねるとベームは「素晴らしく気に入っています。」と答え、ワルターは「ミュンヘンもあなたを非常に気に入っています」と答えグラーツで「フィデリオ」を指揮した事を述べるとワルターは「あなたはここでそれを振る事は無いでしょう。あなたは私の元でまだたくさんの事を学ぶ事ができるのが私の意見です。(中略)私は欲の為にいうのではないが私はあなたに勧めたい。ここにとどまることを。あなたは昇進していき多くの事を学び取る事でしょう。ミュンヘンの席を引き受けなさい。」
1921年ベームは郷里の主席指揮者を約束されたグラーツを去り末席の指揮者としてミュンヘンに移るのである。

「この時から私とワルターとは親密な関係が成立した。私たちは第二次世界大戦中も手紙を交換し友情は彼の生涯の最後まで続いた。」
「何よりも決定的な事があった。ワルターが私をモーツァルトに近ずけてくれた。」
「私はワルターの指揮で行われるモーツァルトの公演は、ほとんど欠かさ無かったし、可能な限り練習も傍聴もした。ワルターは私の興味に気が付きミュンヘンで活動して最初の年なのに、私のような末席で一番若い指揮者に「後宮からの誘拐」(ベルモンテ役はタウバー)がまかされるという信じがたい出来事が生じた」(ベームの生涯最後のオペラのプレミエはミュンヘンでの「後宮からの誘拐」である!)
「ワルターはよく師のマーラーの事を思い出して語った。その際どれほどこの先生に恩を受けているかを強調するのを忘れなかった。」
ワルターの秘蔵っ子のソプラノがミミを歌った「ラ・ボエーム」の公演でワルターはベームに繰り返して言う。「彼女は魅力的な声だが、まだ声量が小さい。彼女はまだ17歳だからね。プッチーニの管弦楽は恐ろしくやかましい。迎えたまえ。極力迎えたまえ。」彼女こそ後年ベームの妻となるテアである。

ベームの回想録を通じてワルターという指揮者に大変興味を持ちマーラーやベートーヴェンなどのレコードを買い求めて聴いてみましたが「レコード芸術」では名盤とされているものも今一ついいとは思いませんでした。

ワルターが私のすぐそばにいるのですが私が彼の芸術に開眼するには、まだ年月が必要でした。続きは次回に。(いよいよ最終回かな?)