真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

キプロス紛争に対するアメリカの関与と国際法、国際条約 2

2022年08月24日 | 国際政治

 ウクライナ戦争の死者が毎日のように報道されています。また、悲惨なウクライナの人たちの様子も毎日のように報道されています。でも、停戦・和解の話し合いが進みません。さまざまな国際法や国際条約があり、国際組織があるのに、なぜ話し合いが進まないのか、と私は腹立たしく思います。

 日本では(西側諸国では)、ウクライナ戦争の死者は、すべてロシア侵略軍の犠牲者であり、ウクライナの悲劇は、独裁者プーチン大統領によってもたらされたというような一方的な報道になっているように思います。
 でも、アメリカのバイデン大統領は、ウクライナとロシアの国境付近で緊張が高かまっているときにも、それを止める努力をしたとは思えません。ロシアの侵攻を止めるための話し合いをしようとせず、もっぱら厳しい制裁措置や武器の供与に関する関係国との合意に力を入れていたと思います。そして、ロシアの体制転換を示唆するような発言までしていました。
 そこに、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを弱体化させることによって、アメリカの利権と覇権を維持拡大しようとする本音がはっきりあらわれていた、と私は思います。

 また、ウクライナのゼレンスキー大統領も、国民へのビデオ演説で「16日が攻撃の日という話を聞いている。われわれはこの日を結束の日にする」と強調し、ロシアのウクライナ侵攻を止めてほしいとは言いませんでした。
 さらに言えば、アメリカでは、ロシアによる侵攻開始日を「16日」とする報道がくり返され、ブリンケン米国務長官が2月14日、ウクライナの首都キエフにある米国大使館を一時閉鎖すると発表しています。ロシアの侵攻を迎え撃つ体制を整えるためとしか思えません。

 そして、2月24日、ロシア軍がウクライナに入り、4月に「ブチャの虐殺」報道がなされて以降、猛烈なロシア批判が展開されました。4月5日には、ゼレンスキー大統領が、国際連合安全保障理事会での演説の中で、ブチャの件は「第二次世界大戦以降、最も恐ろしい戦争犯罪」であるとして、ロシアを痛烈に非難しました。
 また、バイデン米大統領も、戦争犯罪裁判の実施を呼び掛けるとともに、ロシアに対し追加制裁を科す意向を表明しています。そして、ロシアのプーチン大統領を「戦争犯罪人」と呼び、ブチャでの民間人殺害を「戦争犯罪」と非難したため、西側諸国のロシア非難の姿勢は決定的なものになったと思います。
 でも、「ブチャの虐殺」が報道された当時、第三者機関による検証はなされていませんでしたし、今は事件そのものに対する疑問の声が、あちこちで上がっています。だから、「ブチャの虐殺」に関する戦争犯罪裁判はなされないのではないかと私は思います。
 また、ウクライナ戦争が、アメリカによって用意されたシナリオ通りに進んだように思います。

 「ブチャの虐殺」が「第二次世界大戦以降、最も恐ろしい戦争犯罪」との断定も、いかがなものかと思います。
 歴史をふり返れば、アメリカが関わったアジアやラテンアメリカ、中東やアフリカ諸国における虐殺の数々は、「ブチャの虐殺」をはるかに超えています。

  私は、ベトナムやインドネシア、イラクや東チモール、チリやニカラグアなどにおける大虐殺を見逃してはならないと思います。ベトナムでは、共産主義の拡大を懸念するアメリカのバックアップを受けたゴ・ジン・ジェム独裁政権が秘密警察と軍特殊部隊をつかって、南ベトナムの反政府勢力の人たちを多数虐殺しました。貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などに対する不満がゴ・ディン・ジエム独裁政権に対する反発なったと言われていますが、アメリカは、ゴ・ディン・ジエム独裁政権を支援したばかりでなく、北ベトナムの関与を疑い、ドミノ理論に基づいて一方的に北爆(絨毯爆撃)をくり返し、数え切れない民間人を殺しました。300万人以上とも言われているのです。

 インドネシアでは、アメリカが支援したスハルト政権の下で、200万人ともいわれる人びとが「共産主義者」やその「支持者」として虐殺されたといいます。
 また、スハルト政権は、東ティモールの併合を意図し、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)の抵抗に対して激しい弾圧を加えたため、インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われているのです。
 アメリカのバイデン大統領は、ウクライナ戦争以降、「これは、民主主義と専制主義の戦いだ」などというような言葉をくり返していますが、歴史をふり返れば、アメリカの対外政策や外交政策は、一貫して民主主義や自由主義を否定するものであったいえるように思います。

 だから私は、まず、アメリカが原爆投下という戦争犯罪を謝罪し、力で他国を支配するような体制を転換して、国際社会の法治を実現するよう求めたいのです。 
 そして、古代ギリシャの哲学者・アナカルシスの言葉、”法はクモの巣のようなものだ。弱者を捕らえるが、強者は簡単に食い破る”を克服してほしいのです。

 今回抜萃したのは、前回の「アメリカの陰謀とキッシンジャー」クリストファー・ヒッチンス:井上泰浩訳(集英社)「第七章 キプロス」の続きです。キプロスに対するアメリカの関わりも、民主主義や自由主義を否定するものであったことがわかると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第七章 キプロス

 ところで、1986年に出版された当時ギリシャ軍司令官だったグリゴリオス・ボナノス将軍の回顧録によると、ギリシャ軍事政権がキプロスに攻撃を仕掛けたことに対し、承認と支援のメッセージがある男によってギリシャ諜報機関に届けられた。その男とは、トーマス・A・パパスだ。ギリシャ軍事政権とニクソン・キッシンジャー政権の間を取り持った男だ。パパス氏については、第九章に再度登場していただく。

 その後、国連の壇上に立ったマカリオスは、クーデターは「侵略」だと発言している。しかし、ワシントンでは、キッシンジャーの報道官ロバート・アンダーソンがクーデターは他国による介入ではなかったと言い切った。介入ではないかという記者の質問に、違うと答えたアンダーソン報道官は、「われわれの見解では、外部からの介入はなかったと判断している」と、あまりに非現実的な応答をしている。
 キッシンジャーの取った行動も同じだ。クーデター後にキッシンジャーが駐米キプロス大使と面談した際、亡くなったと伝えられていたマカリオス大統領への哀悼の意さえ表さなかった。「元凶」とマカリオスのことを毛嫌いしていた理由が、ここに表れている。民主選挙で選ばれたマカリオス政権を合法的な政権として承認しないのかとの問いに、キッシンジャーはむっとした顔をして何も答えていない。米国政府はサンプソン政権を承認する方向に動いているのかとの問いには、キッシンジャーの報道官は否定しなかった。

 7月22日に、マカリオスがワシントンに乗り込んできたとき、マカリオスを一民間人、司祭、キプロス大統領のいずれの立場として迎えるかという問題を国務省は問われた。答えはこうだ。「彼(
キッシンジャー)はマカリオス司祭と月曜日に会談する」。崩壊が急速に進んでいた独裁国家ギリシャを除いた世界各国は、マカリオスがキプロス共和国の合法的な元首だと承認していた。キッシンジャーのマカリオスに対する独善的な姿勢は外交上前例のないもので、彼と同類のギリシャ軍部のゴロツキに味方をし結託していたことを物語っている。
 マカリオスをキプロスの合法的な大統領としてワシントンに招いたのは、上院外交委員会議長のJ・ウイリアム・フルブライト議員と下院外交委員会議長のトーマス・モーガン議員の両氏だ。マカリオスの招聘が実現したのは、クーデターの可能性に警鐘を鳴らし続け、フルブライトの友人である前出のエリアス・P・デマトラコポウロスの功績だ。ロンドンで英国外務大臣と会談していたマカリオスに、デマトラコポウロスは米国からの招聘を伝えた。このキッシンジャーに対する先制攻撃は、デマトラコポウロスのジャーナリストとしての一連の反軍事政権活動の最後をかざるものだ。以前から彼はキッシンジャーに逆恨みされており、マカリオスの米国訪問を実現させたことによって報復の標的になる(第九章を参照)。結局、キッシンジャーはマカリオスを司祭としてではなく、大統領として迎え入れることを発表せざるをえなくなった。

 ギリシャ軍事政権によるクーデターをつぶすため、トルコや英国が軍事力に訴えることにキッシンジャーは猛反対した。英国はキプロスとの条約の取り決めにより、英国軍を駐留させていた。しかし、ギリシャの軍事政権が崩壊したのちに取ったキッシンジャーの行動は一転する。トルコは二度の侵略攻撃を行ない、キプロスの四割を占有した。トルコの暴挙に対し米国議会は報復措置を取るように動いた。だが、キッシンジャーはかつて肩入れしてきたギリシャから今度はトルコを守るべく議会工作に奔走したのだ。キッシンジャーはギリシャの軍事政権など聞いたこともないかのようにトルコ擁護へ寝返った。結局、キプロスが分断されてさえいればよかったのだろう。

 ギリシャ軍事政権を支持し、マカリオスは大きらいだと公言していたからといって、キプロス分割政策の責任のすべてをキッシンジャーひとりにかぶせることはできない。しかし、裏ルートを使い、民主主義を無視する手段を使ったキッシンジャーは、マカリオス暗殺計画の共犯者だ。暗殺計画が頓挫すると、何千人もの市民が犠牲となり20万人の難民を出した紛争を引き起こした。その結果、キプロスを政情不安に陥れズタズタにしてしまい、四半世紀たった今も平和はおびやかされ続けている。それにしても、この件に関する記録を封印させてしまうキッシンジャーの努力は並々ならぬものだ。しかし、いつか文書が公開されたときには、延々と続く彼の起訴状の一部に使われることは確かだ。
 
 1976年7月10日、欧州委員会人権問題小委員会は、トルコによるキプロス侵略をまとめた報告書を採択した。J・E・S・フォーセット教授を議長とする18人の一流の法律家によって作成されたものだ。報告書によると、トルコ軍は民間人の虐殺をはじめからねらっており、処刑、拷問、強姦、略奪をくり返した。また、民間人を裁判なしで罰し投獄した。捕虜となった者や民間人の多くが姿を消してしまい、今もなお行方不明のままだ。行方不明者の中には、米国人もふくまれている。
 残虐行為やクーデターの責任を取りたくないキッシンジャーは、新しく朋友となった中国に大ぼらを吹く。1974年10月2日、キッシンジャーは、中国の喬冠華(キョウ・カンカ)・外務副大臣と高官協議をおこなった。
 鄧小平の訪問以来、実質的に初めて米中会談で、最初の議題はキプロス問題だった。「トップシークレット/国家機密/完全マル秘」と題された議事録によると、米国がマカリオス打倒工作を手助けしたのではないかという中国の質問に対し、キッシンジャーはきっぱり否定した。「われわれは何もしていない。われわれはマカリオスと敵対してはいない」(彼の回顧録では、これとまったく異なることを発言尉していたことになっている)。キッシンジャーは、「クーデターが起きたとき、私はモスクワにいた」といっているが、これもうそだ。さらに「わたしの部下は、(クーデターが差し迫っているという)情報を深刻に受けとめていなかった」と発言しているが、これもまったく逆だ。キッシンジャーは、こうもいっている。──マカリオスはギリシャの軍事政権がクーデターを企んでいるとマスコミを通じて非難しているが、クーデターが本当に実行されるとは思っていなかったとも。最後に、びっくりすることだが、「ソビエトがトルコに侵攻するよう勧めたことを、われわれはつかんでいる」とまでキッシンジャーは発言している。そうすると、トルコによるキプロス侵略は、米国の軍事援助を受けたNATO加盟国のトルコの軍隊が敵対するソビエトの煽動でおこなった史上初の侵略行為となる。
 大ぼら吹きもいいところだ。トルコの侵攻はソ連が煽動したという病的なうそは、当時の情勢、つまり、反ソビエト包囲網に中国を引き入れる必要があったことに起因するのかもしれない。しかし、それにしてもうその度がすぎているのは、ほかに何かうまいうそをつかなければならない理由があったのか、それとも妄想を抱いていたのだろうか。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« キプロス紛争に対するアメリ... | トップ | マニフェスト・デスティニー... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際政治」カテゴリの最新記事