真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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松代大本営 ”アリ輸送”中止の独断

2008年09月26日 | 国際・政治
 昭和20年4月中旬、大本営移転準備命令が発せられた。にもかかわらず、小林四男治中佐は移転にそなえる輸送を中止した。梅津参謀総長や阿南陸軍大臣から、関係部署に命令が発せられているにもかかわらず、陸軍省次級副官兼大本営参謀であったとはいえ、小林中佐は独断で輸送を中止したというのである。帝国陸軍において、大本営の行く末にかかわる軍命がそれほど軽いものであったとは考えにくい。なぜ、何の進言や相談もなく命令を無視できたのか、一部に合意があったのか、あるいは、大戦末期、それぞれが独断で行動するしかないほど混乱していたということなのか、疑問が残る。下記は「昭和史の天皇 3」(読売新聞社)から小林四男治中佐の証言を中心とする部分の抜粋である。
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”アリ輸送”を中止

 大本営移転にともなう通信基地の設置は大前提であり、常識であるが、いよいよ御本尊の大本営そのものの移転準備命令が出たのは、20年4月の中旬だった。この命令は、阿南陸相から陸軍省の副官部に伝えられた。そして、ほとんど同時に、梅津参謀総長から参謀本部総務課にも同じ命令が出された。陸軍省は軍政面、参謀本部は軍略面を担当していたからである。
 小林四男治氏(当時、陸軍省次級副官兼大本営参謀、中佐、現
は略)の話
 「阿南陸相から、高級副官を通じてだったと思うが、大本営移転命令を受けたのは、確か4月の中旬だった。わたしは、杉山陸相のときから副官をしていたが、小磯内閣が桂冠、杉山元帥も第一総軍司令官に出られ、わたしも4月から次級副官になっていた。
 命令の内容は、20年7月中旬(確か15日だと思う)から移転を開始し、1ヶ月後の8月15日までに完了させるというもので、その最後の15日には、両陛下も松代の行在所にお移しするという計画だった。ともかく松代へ行って様子を見ることだが、その前に、食糧などの物資を集めるのがうまくて、しかも、現地の官民に顔のきく助手が1人ほしいと思った。というのは、大本営が松代に移るとなると、要員は相当の人数になる。これらの人たちの食糧や日用品は、できるだけ現地で調達自給した方がよいと考えたからだ。
 当時、軍は相当の物資を確保していた。東京周辺にもかなり集積していた。国内で、しかも近いんだから、そんなものは東京から送ればいい、と思うかもしれないが、戦況はすでに東京ー松代間さえ遠いものにしていた。そのころ、わが軍の暗号はほとんど敵に解読されていたし、飛行機による偵察も行き届いている。そんな中での”大移動”は、何らかの手段で敵に知られ、途中でねらい打ちの空襲をうけるに決まっている。鉄道やトラックを使っても、碓氷峠を無事こせるかどうかが危ぶまれるほどの状況だった。だから、東京からの物資輸送は最小限にとどめ、できる限り現地自給体制を整えようと考えたのだ。
 わたしは、どうもそんな工作は不得手なので、だれかいないかと、あれこれ知り合いの顔を浮かべていたら、そのころ陸相官邸に料理を入れていた、東洋軒の社長の金子信男(故人)という人が浮かんだ。長野県諏訪の出身、長野の知事も知っているし、仕事の関係で大蔵省の人たちともつき合いがある。気っぷもいい、顔も広い。そこで、金子さんを呼んで事情を話したら、『決死の覚悟でご奉公しましょう』という。
 そこでわたしは金子さんを佐官待遇の軍属に採用、4月下旬、彼を連れて長野へ行った。その足で長野師管区司令官平林中将をたずね、金子さんとその任務を紹介、物資調達とその輸送に協力してほしいとお願いした。もちろん平林中将は『全力をあげてやろう』といってくれた。金子さんはすぐ腹案として、米や野菜、魚、薪炭は裏日本の富山、新潟、石川方面から集める考えだというようなことを説明していた。帰りに2人で松代の工事現場をひと通り見てきた。そして5月になって、もう一度工事の進みぐあいを見に行った。

 そのころ、参謀本部の総務課では、消耗品や毛布類を汽車やトラックでどんどん運び込んでいたが、そのうちに、わたしはどうも気が進まなくなってきた。命令を受け、移転準備の段取りは一応、整えたものの、空襲はますます激しく、結局、アリ輸送のようなことになる。しかもそれさえうまくいくかどうかわからない。それに肝心なことは、大本営が、敵が上陸してこないうちに、いきなり松代へ引っ込んでしまったのでは本土決戦なんてできない。敵がきたら大本営は戦況に合わせて適時、適当の場所にいないとほんとうの指揮はそれない。そう考えると、何でもかでも松代へいいものかどうか、決心がつかなくなってきたのだ」
 荏苒日が過ぎる。イライラしてきたのは、金子氏である。食糧をはじめ諸物資の手当をつけたから、できたものから松代へ運び込みたいのだが、やれという小林中佐からの指示がない。まだか、まだか、と催促するが、中佐は一向腰をあげない。とうとう7月にはいった。命令では7月15日から引っ越し開始になっているが、その7月も5日、10日と過ぎた。

 小林氏の話。
 「たしか、移転開始期日の15日だったと思うが、金子さんがこの日もヒザ詰めの催促にやってきた。そこでわたしは、はじめて決心した。輸送を開始せよ、ということでなくて『輸送はやめる』ということだ。金子さんは怒ったね。
 『移転完了目標の8月15日までにあと一月しかない。いま始めないと、間に合わない。どうするんです。』
 とくってかかる。
しかし、わたしはとうとう輸送はしなかった。処分されればされていい、と覚悟を決めていた。終戦後、金子さんは 『さては、あなたは終戦を一月前から知っていたんだな』
 といったが、そんなこと知るわけがない。先にもいったように、わたしは敵もこないうちに、大本営が松代へ直行することに賛成じゃなかったからだ。本土決戦が始まったら、適宜、最重点のところへ大本営を移す方がよい。この考えからすれば、いきなり松代にすべての物資を送り込んでしまうのは考えものだ、と思ったからやめたのだ。もっとも、わたしも大本営参謀を兼ねていたから、軍略的には、敵が本土へ上陸した場合は、陛下と大本営の安全を図り、指揮、統帥に遺憾ないよう準備する責任は痛感していたが、実際問題として、この時点では松代へ、アリ輸送にしろ、物資を送れる状況ではなかったのだ」

 
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