真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


相楽総三(赤報隊隊長)の処刑 明治という国家

2018年02月10日 | 国際・政治

 明治4年、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚房を副使とする岩倉使節団一行が、欧米諸国視察のために日本を発っていますが、その最初の訪問国の米国で、使節団一行は大歓迎を受けたといいます。その時の晩餐会において、伊藤博文が英語で、下記のような内容のスピーチを行ったということですが、問題があると思います。そのまま受け入れることはできません。

今日、わが日本の政府および国民の熱望していることは、欧米文明の最高点に達することであります。この目的のためにわが国ではすでに陸海軍、学校、教育の制度について欧米の方式を採用しており、貿易についてもとみに盛んになり、文明の知識はとうとうと流入しつつあります。しかも、わが国における進歩は物質文明だけではありません。国民の精神進歩はさらに著しいものがあります。数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました。このような大改革を、世界の歴史において、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでありましょうか。…”
 特に、”数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました”という部分がひっかかります。なぜなら、日本の近代化が始まる明治は、平和的に始まったのではなく、幕末に、外圧し対して、開国か攘夷かで激しく対立し、王政復古の大号令が発せられた後にも、戊辰戦争や西南戦争が続いて、多くの人が亡くなっているからです。詳しいことはわかりませんが、明治維新は、伊藤博文がいうような欧米のブルジョア革命とは同一視できない側面があるのではないかと思います。
 私は、王政復古の大号令が発せられた前後に、多くの人が戦いで亡くなったり、暗殺されたり、処刑されたりした事実から、明治新政府発は、「力は正義なり」を土台として天皇制国家をつくりあげていったように思うのです。

 薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て結成された相楽総三を隊長とする赤報隊が、「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで幕府に対して反発する民衆の支持を得て、幕府軍を追い詰め、挑発したことは否定しようがない事実だと思います。それが、計画通り進み鳥羽・伏見の戦いのきっかけになったもかかわらず、相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士は、結成を支援し、作戦を指示した人たちによって「にせ官軍」の汚名を着せられ、下記の資料1<「いい話ほどあぶない 消えた赤報隊」野口達二(さ・え・ら書房)から抜粋>にあるように、弁解の機会さえ与えられず、処刑されています。この時、下諏訪宿の外れで処刑されたのは相楽総三、大木四郎、西村謹吾、渋谷総司、高山健彦、金田源一郎、竹貫三郎、小松三郎の八名ですが、赤報隊三番隊の隊士の多くも処刑されたといいます。
 びっくりするのは、
そうだ、相楽という男に、”にせ官軍”になってもらうのだ。
みつのようなことばで百姓をまどわした男として、年貢半減の号令とともに消えてもらう。
と言って処刑を指示したのは、赤報隊の結成を支援した岩倉具視であるということです。西郷隆盛や大久保利通など、明治新政府発足当時の中心人物が深く関わっていることを見逃すことができません。

 司馬遼太郎が、「この国のかたち」のなかで、伊藤博文のスピーチと同じような内容で、明治維新を評価していますが、違和感を感じました。
明治憲法もまた他の近代国家と同様、三権(立法・行政・司法)が明快に分立していた。ただし、天皇の位置は哲学にいう空に似ていて、行政においては内閣が各大臣ごとに天皇を輔弼(明治憲法の用語)し、輔弼者をもって最終責任者として
とも書いていましたが、それはあくまで外面を整えたということで、その本質は一貫して「力は正義なり」を土台として進んだのではないかと思います。

 私は、幕末から明治のはじめにかけて、多くの人が暗殺されたり、処刑されたりしたこと、そして、それらに明治新政府発足当時の中心人物が深く関わっていたこと、さらにそうした不都合な事実が、その後隠蔽され続けたことなどから、明治が法や道徳を重視する民主主義的な近代国家ではなく、「力は正義なり」とする天皇制国家の方向に進んでいったように思います。そして、それが昭和の敗戦に至る道筋を作ったのだと思わざるを得ないのです。

 資料2は、「明治維新 暗殺 相楽総三」原田務(叢文社)から抜粋した文章ですが、赤報隊隊士の処刑がいかに巧妙に行われ、隠蔽されたかがわかります。特に、相楽総三の孫、木村亀太郎が赤報隊の生き残り隊士、藤井誠三郎に聞いた話が印象に残りました。


資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            ひとつぶのタネを胸に…
 ・・・
 あとは、相楽だけがのこった。検視は、
「相楽総三。そのほうには、総督のとくべつのごさたをもって、切腹を申しつける。なさけとこころえよ。」
といった。処刑役がなわをとこうとすると、相楽は、ことわった。
「無用のなさけだ。なさけとは、人のこころより発するものだ。もし、総督に、人のこころがあれば、とらえた理由をはっきりとあげ、それにたいする申しひらきを聞くべきだったろう。軍の会議などといつわって召し出し、だまし討ってなんのなさけだ。相楽は、なんの手むかいもせずとらえられ、しずかに申しひらきのときを待ったはずだ。その機会さえあたえられたら、おのれはべつとしておそらく、かれら有能な若者たちをこのように殺させはしなかったろう。」
と抗議した。そして、
「きみは、しゃぐまの色から見て薩摩藩の者のようだな?」
と、きいた。検視は、だまって目をそらした。すると相楽がいった。
「それなら、いつの日か西郷さんに会うときもあろう。…そのとき、相楽がこういって死んだとつたえてくれ。”手をかたくにぎりしめ、官軍先鋒隊として中仙道を進んでくれと、たのんだのはだれだ”と。…いまひとつ、人間は”はなせばわかる”とな。」
検視は、その間の事情を知っていたらしく、だまって聞いていた。相楽は、
「さあ、ころしてもらおう。」
といった。もう、切腹は無用、というように、胸をはっていた。
 二人の検視は、そんな相楽を見て、なにかささやきあったが、うなずきあい、
「斬罪に処す。」
と、刑の方法を変え、処刑役をうながした。相楽は、最期ときめ、
「天朝さまのおわす方は、いずれかな?」
とたずねた。そして、教えられた方角にむきなおり、深ぶかとあたまを下げた。そのあと、同志のなきがらをひとつひとつふりかえり、目をつむった。首斬り役人には
「太刀取り、しっかりたのむよ。」
といって斬られるのをまったという。
 処刑が終わり、夜になって、八人の首がさらされた。
 さらし場の矢来の外には高札がたてられ、青い月の光にてらし出されていた。
 百姓たちは、まるで自分の首をさらされているような思いがして、早ばやとそこを立ち去った。 
 五兵衛と、弥五郎と、りえがのこっていた。五兵衛は、りえに、
「花を。」
といった。りえは手おってきた寒梅を、矢来のかたわらへたむけた。
 五兵衛が、手をあわせた。
 りえは、おれたちは、ただこうすることしかできないのか…と思った。また、あれだけ集まったひとが、処刑されるのを、ただじっと見ていただけじゃないかとも思った。そう思うと、やりきれなくなって、なみだがこみあげた。
 りえは、小石をひろって、霊をとむらうように、つみあげた。
 弥五郎も、かたわらで、一つ、二つとつんだ。
 五兵衛は、ひくい声で、高札を読んでいた。それは相楽にかんするものであった。
「右の者、御一新の時節につけいり、勅命をいつわり、官軍先鋒ととなえ、総督府をあざむきたてまつり、かってに進退し、あまつさえ諸藩へ応接におよび、あるいは良民を動かし、ばく大な金をむさぼり、いろいろ悪業をはたらき、その罪、かぞうるにいとまあらず…。」
「なんてことじゃ!」
五兵衛はいかった。
いまひとつは、七人の同志たちのものであった。
「右の者ども、相楽総三に味方し、勅命といつわり、強盗無頼の党を集め…。」
とあった。弥五郎は、
「うそだ、うそだ!」
とさけんだ。りえは、むせび泣いた。
弥五郎は、あたまをかきむしって、
「おれたちが強盗け! おれたち百姓がならずものかよ! みな御一新という”世なおしに期待し、集まった者ばかりじゃねえか。まっ正直な、はたらき者ばかりじゃねえか! 御一新だなんて、こんじゃ、さむれえのやることばかりじゃねぇ天朝さまのやることもしんじられねえってことじゃねえか。おれたちは、なにをよりどころに生きていけばいいんだ!」
と泣いた。さらし首は、弥五郎にも、自分たちの首のように見えた。
 …、りえがつぶやいた。
「相楽さんたちからもらった、ひとつぶのタネだよ。みんながそれを、胸のそこにうえつけるのだよ。…いつか、若葉がでる。」
 雪風が、きびしくふきぬけていった。
 五兵衛がいった。
「御一新は、ただ、、ふきあれて、わしたちの頭をとおりぬけていった。…また、ふぶきがつづく。」

 その後も、百姓たちの暮らしは、なんにもらくにはならなかった。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
闇の維新 相楽総三
                             十
 ・・・
 八人の首は刑場に梟首(キョウシュ)され、高札が三本立てられた。その一本は次のような総三への宣告文である。
相楽総三
 右之者、御一新之時節ニ乗ジ、勅命ト偽リ官軍先鋒嚮導隊ト唱ヘ、総督府ヲ欺キ奉リ、勝手ニ進退致シ、剰(アマツサ)ヘ諸藩ヘ応接ニ及ビ或ハ良民ヲ掠(オビヤカ)シ、莫大ノ金ヲ貪(ムサボ)リ種々悪業相働キ、其罪数(カゾウ)ルニ遑(イトマ)アラズ、此侭打棄(コノママウチステ)候テハ、弥(イヨイヨ)以テ大変ヲ醸シツ、其勢ヒ制スベカラザルニ至ル、之ニ依テ誅戮(チュウリク)梟首、道路遍(アマネク)諸民ニシラシムルモノ也。

                             十一
 ・・・
 なんでも、西郷は最愛の弟子益満が戦死したと聞くと、人前も憚らずオンオン声をあげて哭いたそうだが、その至誠温情な西郷がよもや相楽、伊牟田、益満を自己権謀の犠牲に供したとは誰にも思えないが、しかし結果的にはとにかくそうなってしまったのである。現にそうだった。
 西郷というと、つい大西郷というイメージが浮かび、批判心がとたんにとろっと甘く溶けて無くなってしまうが、考えてみると、彼らのほか、何十人もの草莽隊の志士たちが使い捨てに殺されているのである。この全部について、官軍の総大将格の西郷は無関係ということになっているが、果たしてそんな不自然なことが有り得ようか?…。
 また官軍が江戸城への入城をはたした後、有馬籐太が西郷吉之助に、
「さて、いよいよこんどは攘夷ですね」
と意気込んでいうと、
「そうか、お前にはまだ言ってなかったな。攘夷というのはな、ほんとうは幕府を倒すためのただの方便だったのよ」
 と、実にあっさりと言ってのけたそうだが、幕府が朝廷に無断で米国と日米修好通商条約を結んだときの、あの藩内の嵐のような尊王攘夷の絶叫を鮮明に覚えていただけに、恐らく有馬は西郷の顔をエツ? と奇異な眼で見直してしまったにちがいない。
 明治時代から西郷きらいの学者や史家がいるが、こんなところにこの人を、<謀略の徒>と極めつけるゆえんがあるのだろう。

 ・・・
 --ここに、たった一件だが次のような話が残っている。相楽処刑から二ヶ月足らず後の四月下旬のことである。事件当時斥候などでよそへいっていた隊員や、総三らの悲惨な最期を様々な情報から克明に知り、その悪辣極まるやり方に激怒した在京の薩邸生き残りの同志が集まり、権田直助、科野東一郎を中心に、事件の元凶は、調査するまでもなく岩倉具視だと復讐の暗殺計画を立てた。だが、残念ながらこれは岩倉の側近に洩れてしまい未発におわってしまった。

                        終章  - 暴露の香華 -
 ・・・
--最後になってしまったが、この話も、大正年間にはいってからのことである。武州多摩の出身で、薩邸の浪士隊から赤報隊時代までずっと総三と行をともにした、藤井誠三郎という生き残りの隊士がいた。
 藤井は、薩邸焼討ちのときは、上の山藩の総指揮者金子六左衛門を至近距離まで迫って鉄砲で倒し、また野州行の竹内啓の隊が惨敗した時は、その復讐にわずかな人数で、新川河岸の八州方役人屋敷へ討ち入りを決行した人だ。殺伐だが、直情径行の竹を割ったような性格の男だった。
 だが、その時分にはもう若い頃の面影はなく、落魄のどん底に落ち、煎餅布団にくるまって下谷御徒町の裏店の片隅に横臥していた。その藤井誠三郎を、木村亀太郎が死ぬ少し前に尋ねている。
 身動きできない老残病苦でいながら、総裁の孫の訪問に感激して眼を輝かし、乏しい血を湧き立たせ、
「われわれが若いとき夢みていた、王政復古が実現をみますと、とたんに薩長が権力を妄(ミダ)りにいたしだし、われわれ関東武士が血みどろになって働いた功はすべて奪われて、彼らの独り占めなものとなってしまいました。明治維新の火蓋を切らすにいたったわれわれの功は、すっぽり闇から闇へ葬られ、それからの彼らは、われわれ関東武士の生き残りが一日も早く世の中から消えていくことのみ望んでいるのです。だからときに関東武士で勤皇に働いたものが、一人でも世に出ようとすると、かならず陰に廻って悪辣に迫害します。浪士隊の幹部だった落合源一郎さんは、伊那県の大参事にまでなられたのに、ありもしない飛んでもない嫌疑で叩き落されたし、やはり幹部だった権田直助さんは、大学教授をしているとき陰謀に引っかけられ、国事犯の嫌疑を受けて同じく追放されてしまいました。したがいまして、残念ながら将来とも薩摩屋敷の総大将としての相楽総裁の名は世間に出ないでしょう。必ずこれは私の言葉どおりとなりましょう。とにかくこのようにして、多くの勤王を叫んで戦死した関東の侍たちはみんな、薩摩の我利我利亡者(ガリガリモウジャ)どもを顕彰するための敷石になってしまいました…」
 と、火を吐くような憎悪を込めて薩藩を罵倒したあと、
「相楽総裁は、背の高さ五尺七寸ちかく、ちょっと見ると怖いようだが非常にやさしく、気性は上に強く下に弱かったですね。そういう点があるので、西郷と争論したり、総督府や参謀と争ったりして、これは是なりと信じたら梃子(テコ)でも動かない、というところがありました。そういったことが欠点といえば欠点で、そのためにずいぶん損もしたし、また落命の遠い原因はそこにあったと思います。しかし、下諏訪の梟首(キョウシュ)高札のあの文句は何たることでしょう。あれが強盗無頼なら維新のときに、強盗無頼ならざるものが幾人いるか、ほかのどのような事例と比べても、われわれの方は何もやっておらんといっていい。あの際は官軍の費用が不足なので土州とか薩州とか長州とかいう大藩が控えている藩士は、多少とも藩主から手当てがあったろうが、勤王浪士という側は、費用は全部自分持ち。総裁はもとより赤坂の実家からたびたび多額の金をもってこられたし、金原忠蔵は下総の富豪の子だし、渋谷もそうだし、小松三郎も家が豊かなので、こういう人たちが自分の家の金を注ぎこんだ。あのころの勤王浪士を二ツに分けて、一ツは資産のある者、一つは困窮の者、この二つがどっちも片寄らず旨く行ったのはそういう風であったからです。それにしても薩藩の出身者が世にときめいている限り、相楽総三の名はぜったいに有名にならないでしょう。総裁は筑波山のときも、藤田小四郎などの考えが小さいので袂をわかちました。不徹底が嫌いだったのです総裁はーーだから、下諏訪で命が助かったとしても、きっとどこかしらで、何とかかんとかして殺されていたに違いありません」
 こういって、しまいには堪えきれず声を放って哭(ナ)いた。

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明治維新 赤報隊 司馬遼太郎

2018年02月02日 | 国際・政治

 「幕末」司馬遼太郎(文春文庫)は、「桜田門外の変」と題された文章から始まっていますが、その終りの方に、私には受け入れがたい次のような文章があります。

この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬り込まれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。”


 当時の井伊直弼が、どれほど悪辣な人間であったか、私は知りません。しかしながら、いかなる思いで時代の難局に対していたとしても、”斬られたこと”によって”歴史的役割を果たした”などというのは、いかがなものかと思います。明治維新を肯定し、明治時代を明るい時代として描こうとするから、こういう無理な主張をせざるを得ないのではないかと思います。井伊直弼は殺されて当然の人物として、暗殺を肯定してしまうような主張は、私には受け入れ難いのです。さらに言えば、明治維新がそれほど素晴らしいものであったとは、私にはどうしても思えません。逆に私は、明治維新が、第二次世界大戦の敗戦にまで突き進む日本の端緒を開いたように思います。

 資料1は、「いい話ほどあぶない 消えた赤報隊」野口達二(さ・え・ら書房)「あとがき」ですが、薩・長を中心とする官軍の指導者にいいように使われ消された相楽総三の生涯は、明治維新の本質を象徴しているような気がします。明治政府は、確かに日本の文化・制度・風俗・習慣などの近代化につとめ、外見的には著しい飛躍を生み出しました。しかしながら、明治維新以来の日本は、もっとも大事な部分で、深刻な問題を抱え続けていたと思います。

 官軍の進軍にあたって多くの軍資金を出した三井や鴻ノ池などの資産家に多少でも返金し、さらに維新の大業を成し遂げるために「年貢半減」の「勅定」を取り消す必要に迫られた時、相楽総三を中心とする赤報隊に「にせ官軍」の汚名を着せ、年貢半減の勅定もろとも消し去ることを言い出したのは、維新十傑の一人、岩倉具視であるといいます。

 資料2は、「闇の維新 相楽総三」原田務(叢文社)から抜粋した文章ですが、その相楽総三率いる赤報隊に、「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで幕府に対して反発する民衆の支持をとりつけ、江戸を攪乱し、幕府を挑発する謀略を依頼したのは、維新の三傑として、今も日本が誇る西郷隆盛や大久保利通であることがわかります。

 こうしたことが明らかにされることなく、日本の新たな国づくりが進められたために、その後「朝鮮王宮占領事件」や日清戦争、「旅順虐殺事件」、日露戦争などが続いていくことになったように思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    あとがき

 歴史の上で、大きな変革があるときは、いろいろな人物が、さまざまなかつやくをしています。
 徳川幕府がたおれ、明治の新政府が生まれ、日本が「近代」にむかって歩みはじめたときも、そうです。中心になってはたらいた、西郷隆盛や大久保利通や、木戸孝允をはじめ、多くのひとが功労者として歴史に名をとどめ、伝記を書かれたリ、小説の主人公にえがかれたりしています。
 だが、明治の「御一新(ゴイッシン)」をおしすすめたのは、薩摩や土佐や長州の志士ばかりではありませんでした。日本じゅうのいろいろな藩の、下づみの武士たちが、「尊王」から「討幕」へと力をあわせ、その小さな力が、やがて大きな動きに変わっていったことを見のがしてはなりません。

 とくに、そのような力のひとつとして、武士よりは庶民にちかく「草莽(ソウモウ)の士」とよばれた人びとのいたことをわすれてはなりません。そのひとたちは、武士の身分ではなく、百姓や商人だったり、医者や学者、神官だったり、いろいろなひとがいました。わたくしはそのようなひとを、やさしく、「草の根の志士たち」とよんでいます。草の根の志士たちにも、多くの成功者がいて、このひとたちの伝記も多く書かれています。
 だが、そうしたなかで、だれかが計画して消してしまったひとも少なくありません。この「いい話ほどあぶない」でとりあげた相楽総三(サガラソウゾウ)そのひとりです。さんざん利用され、じゃまになったときは、申しひらきの機会さえもあたえられずに殺されてしまったのです。相楽の赤報隊のほかにも、九州での、花山院家理(カザンインイエマサ)を総裁としてはたらいた草の根志士たちも、やはりおなじような目にあっています。
 そんなひとたちは、おなじようにはたらきながら、ながい間、歴史のなかにしるされることはありませんでした。
 ところで、みなさんは、「勝てば官軍」ということばを聞いたことはありませんか。勝ちのこり、力をもった者が、いつも正しいとはかぎりません。きたないことをして勝つこともあります。ですから、人間は、正しいことを正しいとするか、強いものにしたがうかを、そのとき、そのとき、人間としてのルールにしたがってよく見きわめなくてはならないのです。

 わたくしがここで相楽総三と赤報隊の人びとをとりあげたのは、政治は民衆のためになくてはならない、という正しいことを信じて行動していながら、殺され、「賊」というよごれた名まで着せられた人びとを、うずもれたままにしておきたくなかったからです。じゃま者だから歴史から消してしまうとうことでは、人間として、すじ道がとおりません。
 それと、明治の「御一新」が、ほんとうはどういうものだったかも、知ってもらいたかったのです。
 この本をお読みになったひとは、相楽総三がなぜじゃま者にされたか、おわかりになったでしょう。
 ひとつは、「御一新」で、だれがいちばんはたらいたか…その手がらをあらそうようになってきたところで、薩摩など大きい藩のめざわりになったということです。草の根の志士たちがはたらきすぎていては、自分たちの手がらがかすんでしまうからです。あるいは、それだけでは、殺す理由はなかったかも知れません。しかし、ひとつの理由になったことはたしかです。
 それからもうひとつは、「年貢半減」つまり、力をあわせる者には、税金を半分にしてやるという、太政官のごさた書をもって民衆を手なづけて進んでいったということです。この、朝廷のみとめた命令が、じつは相楽総三とその同志のいのちとりになったのです。「御一新」のいくさをはじめたころは、官軍も、勝てるかどうか自信がなかったのです。そこで、中心になった人びとは、民衆を手なづける方法として、「年貢半減」を考えいたようです。
 しかし、相楽総三は、まずしさに苦しんでいる民衆のすがたをよく知っていて、「どうにかしてたすけなくては」と思っていたので、それを、心から信じて行動をおこしたのです。そのために、悪政をつづけてきた幕府をたおすことに、人いちばい熱心だったのです。
 だが、官軍がしだいに力をつけてきたとき、「年貢半減」の大号令がじゃまになったのです。それで、じゃまな者と、じゃまな号令をいっしょに消そうとしたのが、この悲劇なのです。しかし、官軍は、相楽たちを殺した後も東北のいくさなどで、官軍が不利になってくると、いつも、この「年貢半減」の号令を出し、百姓たちをみかたにつけ、いきおいをもりかえすと、またとり消しています。

 そんなすがたを見ていると、明治の「御一新」には、民主主義につながってゆく「四民平等」のこころは、まったくなかったのではないかということがわかってきます。だから、やがて、国民を戦場にかり立てて、外国とたたかい、力をほこってみせるような国に変わっていったのでしょう。
 相楽総三と赤報隊の人びとが、「賊ではない」とみとめられたのは、ずっとのちのことでした。しかし文部省がみとめるような歴史の教科書には、ついに、いちども登場してきませんでした。明治百年をむかえたとき、わたくしは、これを「草の根の志士たち」というドラマに書き、文化座のひとたちが全国を上演してまわりました。
 そのとき、多くの人びとが、感動の声をよせてくれました。
 しかし、なかには、「つくりごとだろう」といい、「官軍がまさか、こんなことを」ともんくをいってきたひともいました。でも、これは、まったくほんとうの、片いなかにうずもれていた歴史なのです。
この本をつくるにあたって、斎藤三勇さんが美しい版画を描いてくれました。斎藤さんは、文化座の公演のとき、岩倉卿の役で芝居をした俳優さんだったので、人物のこころや表情を、じつによく書きあらわしています。 
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        闇の維新 相楽総三
                            一
 ・・・
 ええじゃないか、ええじゃないか
 おめこに紙張れ 
 破れたらまた張れ 
 ええじゃないか、ええじゃないか
 両手をあげ、卑猥な風に科を作って腰を振り、男はたいてい掻っ払った(カッパラッタ)緋縮緬(ヒジリメン)の女装、女は男装をして眼をいっときの解放感に恍惚とうるませ、老若男女、子供までまじえて踊り狂っている。
 ・・・

 --この騒ぎは、つい先月名古屋地方にとつぜん伊勢神宮のお札が降ったときから始まる。日々暗さを増す社会不安におののいていた民衆は

「なにっ、お札が降った? そいつぁまさしく天のお助けだッ!」   
 と、この降札に飛びついた。
 ・・・
 しかし、今回のこの騒ぎはどこか違う。前回の文政十三年から三十七年目と時期は早いし、踊りの先頭にたいがい浪人体の男が立つなど、なんとなく胡散臭(ウサンクサ)さがあるのだ。<岩倉公実記>に次のような記事がある。
「中山忠親、西郷吉之助、大久保一蔵、坂本龍馬など、王政復古の大挙を図議(トギ)するの時に於いて、相互に往来すること頻繁なり。而して幕府および会津・桑名二藩の偵吏(テイリ)が絶えてこれに気付かざりしは、つとめてその踪跡(ソウセキ)を韜晦(トウカイ)したるのみならず、あたかもこの時に当たり京師(ケイシ)に怪事(「ええじゃないか踊り」のこと)あり、それは八月旬に始まり、十二月九日王政復古発令の時に至って止む。けだし具視が挙動もこの喧閙(ケンドウ)のために蔽われて、自然と人目に触るることを免れたるなり」
 事実その通り、この莫迦騒ぎのさなかの九月には、薩・長二藩と長州・広島二藩の討幕の出兵密約ができ、同時に岩倉具視は王政復古の計画に着手。十月には薩・長二藩に討幕の密勅が下される。十一月には薩摩藩藩主島津茂久兵を率いて入京。そして十二月には王政復古発令。同時に全国諸藩に万機親裁を布告する。そこで(あたかも所期の目的を達成したように)ぴたりと「ええじゃないか」騒ぎは終結した。
 そこで、昔から、この騒動は旧来の「お陰参り」のように、民衆のあいだから自然発生したものではなく、誰か確たる黒幕がいたのではないか? という疑問がある。
 この年、慶応三年の十一月末、幕府軍と長州軍が対峙していた西宮で、この「ええじゃないか」騒ぎに遭遇した福地源一郎<幕臣・のち桜痴(オウチ)・新聞記者・劇作家>は、
「あのお礼降りは、京都方(討幕派)の人々が人心を騒擾(ソウユウ)せしむるために施したる計略なり」とその著書で断定している。
 ・・・
 ーー狂舞の先頭が宿の下にさしかかるころは、ウワーンという音の渦と、群衆の発散する熱気に寒気も薄らいでしまった。四郎が左側をみると、十間ばかり先に今日の午後お札が降ったという造り酒屋の店先には、豪勢にも四斗樽が五本も並べられ、その後ろで下女や近所の娘たちが法被すがたの男の身形(ミナリ)になり、向こう鉢巻きで団扇太鼓(ウチワダイコ)や空桶(カラオケ)を打ち叩いていた。
ええじゃないか、ええじゃないか
へのこに紙着せ
破れたらまた着せ
ええじゃないか、ええじゃないか
 この歌詞、実は松平春獄公史料や尊攘(ソンジョウ)党書類雑記によると、おめこの「お」は大を意味し、「め」は樹生芽、「こ」は公。これをつなぎあわせると、新大樹公(将軍の別称)となる。それから、「紙」は神、「張れ」は張る・振るう、「破れ」は敗れ、負くるで、これをまとめると、
「天下億兆に、もはや人望のなくなった新将軍徳川慶喜、こやつを神威を振張して伐(ウ)ち、敗れたらまた伐ち、これを万遍なく繰りかえせば、かならず勝利する」
 また次の「へのこ」は、夷の子に通じ、「着せ」は被せ蒙るで、つまり二番目の歌詞は、
「神威を振張して夷賊を伐つ」
 の意になるのだそうだ。だが、…群衆はそんな小煩(コウルサ)いことはナンにも知らない。ただ言葉どおり鄙猥(ヒワイ)に唄って踊って浮かれまくっているだけだ。
 小島四郎は旅すがたで階下におりると、入口で行列を見ていた父の知り合いで、上洛以来長いこと彼の身の安全を計ってくれていた旅籠(ハタゴ)の亭主に、
「じゃ、立つことにする。世話になったな、おぬしも達者でな」
 と笑顔で声をかけた。おやじは急いでふりかえると、
「お名残おしゅうございます。では道中ご無事でーー江戸のお父上さまによろしくお伝えください」
としんみりといった。
 以前は同志の打ち合わせには、時を見計らい笠で面をおおってこっそりと忍び出たものである。いまは堂々と素顔で群衆の列にまぎれこんだ。
 行き先は三条の旗亭(キテイ)である。そこには薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)と、彼の配下の益満久之助(マスミツキュウノスケ)・伊牟田尚平(イムダショウヘイ)、それに大久保一蔵(大久保利通)も激励にくることになっていた。
 西郷と何度か会って打ち合わせをすませ、謀略のおもむきはすでに充分承知している。今宵はその密命への旅立ちの、西郷の招待による餞(ハナムケ)の会である。いやむしろ死出の旅の送別の宴といったほうがふさわしいだろう。
 密命の内容は、将軍不在中の江戸、および関東一円の攪乱(カクラン)である。目的は武力討幕計画の実現を図るため、幕府を挑発して戦端をひらかしめることであった。
 先月九月七日、土佐の藩論を代表して上京した後藤象二郎は、西郷を訪ねて大政奉還建白のことを相談したが、西郷は時すでに遅く、薩長両藩の体制は討幕の軍をおこす段階まできていると後藤の申し出を断った。しかし後藤は諦めずふたたび西郷を訪ねて討幕の延期を求め、ついに理詰めで西郷の承諾を得てしまった。
 そこで後藤は、老中板倉勝清(カツキヨ)をたずねて老公山内容堂の大政奉還建白書を提出した。
 その建白書にしたがい、土佐案では大政奉還後、列藩会議を開きその議長には旧将軍を就任させるということになっていたからだ。西郷・大久保が、頭脳明晰(メイセキ)な策士とみていた慶喜が列藩会議の議長になってしまえば、これを幕権強化の手段に利用しないはずがない。そうなれば大政奉還は有名無実なものとなり、なんのことはない、徳川幕府の形をかえた存続になってしまう。
 もうこうなったら、その土佐案が固まらないうちに一日も早く幕府と戦端を開かなければならない。西郷と大久保はそこで、
「最早かくなる上は、錦の御旗獲得と、幕府挑発戦略以外無い!」
 と、宮廷工作と江戸内外の攪乱戦術という二面作戦をたてたのだ。そしてこの<江戸攪乱、幕府挑発策謀>の指導者に、草莽(ソウモウ)の志士である小島四郎<江戸に入ってから相楽総三(サガラソウゾウ)と変名>を西郷らは起用したのだ。
 料亭の裏口につくと、慎重に辺りをうかがってからスッと入った。火を消した上がり框(カマチ)の暗がりに潜んでいた西郷の身辺警護の若侍いが、つと出てきて無言で四郎に会釈(エシャク)し、彼をともなって奥まった部屋に案内した。
 障子をあけると、西郷はこちらをふりむき、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を泛べてうなずいた。それから、
「さっ、こちらへ直(ナオ)られい」
 と四郎を前の座に手招(テマネ)きし、おもむろに威儀を正すと、
「お待ち申しておりもうした」
 とまるで目上の人に対するように深々と頭を下げた。四郎は恐縮(キョウシュク)して、急いで座ると両手をついて挨拶を返した。それから、
「いやあ、乱痴気(ランチキ)騒ぎの連中にまぎれこんでやってきましたので、だいぶ遅れてしまいました。申し訳ございません」  
 きびきびした口調でいい、人懐(ヒトナツ)こい微笑みを泛べた。先着していた益満久之助と、伊牟田尚平が、
「おかしげな世になり申したのう」
「いや重畳重畳、この騒ぎで新撰組も見廻り組もお手上げだろうて」
 それぞれがおどけていうと、あとは若々しい爆笑になった。
 西郷は正座したまま先に徳利をとり、四郎の杯になみなみと酒を満たした。「くだんの件、よろしゅう、おたの申すーー」
 あとは何もいわなかったが。だが、言外に明らかに(貴殿の江戸での働きに、討幕の成否のあらかたがかかっておりますんでのう……)といっていた。
 四郎はそれを聞きながら、やはりこれを選んでよかったんだと思った。じつは、彼はついこの間まで、公卿の鷲尾隆聚(タカツム)をいただき、近畿地方で挙兵を目論んでいた討幕運動に参加しようとしていたからだ。
 酒宴はやがて佳境にはいり、ことがことだけに女は呼べないが、江戸ぐらしのながい益満と伊牟田が、年季のはいった端唄(ハウタ)や新内節を小粋に唄って座を盛り上げた。
 そのころになって、大久保一蔵が遅れてやってきた。平生、寡黙な彼にはめずらしく四郎の手をかたくとって、
「江戸からの吉報、ひたすらお待ち申しておりますぞーー」
 と熱っぽく言った。
 このとき、岩倉具視も激励にやってきたという説があるが、謀略の規模の大きさと重要さからみて、彼も発想段階から関わっていたのではないか? その後の岩倉の挙動からして充分考えられる。
 益満久之助は、すこしまえ西郷に呼ばれて、
「おまえ、すまぬが、江戸にいってくれ。かねておまえは同志仲間も広いから、江戸へ出て浪士らとまぜっかえしてこい。そうすれば、幕府はかならず兵をむけてるであろう。そのとき出たり隠れたりして充分にまぜっかえしてくれ。その挙句は抵抗してこい」
 と申しつけられていた。
 彼は、薩摩藩士益満新之丞の四男として天保十二年に生まれた。幼少時より江戸で育ち、藩から隠密蝶者(オンミツチョウジャ)としての訓練を受けている。剣術は長沼流をまなび、その道場で幕府直参山岡鉄太郎と知り合い懇意になった。
「西郷は、勇胆で陽気な益満を好んでよく遣い、彼もそれはそれはよく働いたそうです。益満はその時分江戸の八官町辺の旅宿に泊り、そこを常宿としているうちに、その家の娘が女房のようになって子供までできたそうです。金はたくさん持っていても、みんな気前よく子分たちにわけ与えたそうです」  
 という市来四郎(薩摩藩士・東京史談会中心人物)の話が残っている。
 伊牟田尚平は、天保四年鹿児島の在で生まれた。彼の家は代々加持祈祷をこととする山伏であったが、彼はこれを嫌い、島津家の支族肝付(キモツキ)家の家来となり、やがて島津斉彬の侍医、東郷泰玄に医学をまなび医者になった。
 その後脱藩して攘夷運動に加わり、万延元年十二月五日、清川八郎と共にアメリカ公使館の通訳ヒュースケンを斬った。これも市来四郎の話だが、
「伊牟田は、いまで申す壮士のようなものでございました。私もよく付き合ったので承知していますが、<彼は陪臣(マタモノ)なので>城下の者よりやや僕役され、刺客などにも遣われたものでございました。とはいえ、伊牟田は、義のためには一歩も引かぬところのある男でした」
 といっている。誰がみても、乱世向きのこうした仕事にはぴったりの男で、そのうえ伊牟田は益満の子分ともみられていたので、西郷にはよけい適任者と映ったのだろう。
 --小島四郎ら三人は、その夜深更、京を旅立った。
 中村半次郎(のちの桐野利秋)の京在日記の慶応三年十月三日の項に、(益満休之助ほか二名、今日より江戸へ差立てられ候こと、尤(モット)もかの表において義挙賦(サズカ)り云々……その夜は、満天これ銀砂をばらまいたような星空であった)と記してある。

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日本国憲法押し付け論と自由主義史観

2018年01月23日 | 国際・政治

 私は、自由主義史観の提唱者藤岡信勝氏の「日本国憲法」に対する考え方にとても疑問を感じます。大事なことは、戦後、「国民は圧倒的に新憲法を支持」したという事実だと思います。なぜその制定過程にこだわるのか、不可解です。本当は、「押しつけ」を理由に、圧倒的支持を得た日本国憲法を都合よく変えようとする意図があるのではないか、とさえ思います。

 下記に抜粋した「日本国憲法の成立」の文章の中にあるように、藤岡氏は
日本国憲法は、形式上、日本の国会の審議による明治憲法の改正という手続きをとってはいるものの、アメリカ占領軍が六日六晩で起草し、これを日本側に押し付けたものである。占領下におけるこのような憲法の改正はハーグ陸戦条約に規定された国際法の違反である
と書いていますが、私は、この”国際法の違反”の主張は間違っていると思います。日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことを考慮していないのではないかと思うのです。ポツダム宣言には

六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
とあり、また、
十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

とあります。こうした内容の「ポツダム宣言」を、現実のものとするための「日本国憲法」が、ハーグ陸戦条約に規定された”国際法違反”であり、”押しつけ”だというのは、どういうことでしょうか。日本国憲法の内容に、何か戦勝国(連合国)を利するような不平等な条文や、他国の憲法に比して不当な条文があるでしょうか。特に問題とされるような条文はなく、圧倒的に支持されたのであれば、国際法違反は当たらないと思います。
 さらに、”国際法違反”という主張は、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことに加えて、当時の日本の状況も無視していると思います。戦後の日本には、ポツダム宣言受諾に反対して反米や抗米を主張し、ポツダム宣言を受諾した関係機関や占領軍に武力的抵抗を繰り返すような組織や団体はなかったのではないかと思います。したがって、「占領下におけるこのような憲法の改正」は、国際法違反であるという主張は、当たらないと思うのです。こうした主張は、当時の日本の戦争指導層の主張であって、一般国民の主張ではないと思います。

 さらに言えば、藤岡氏は

GHQは自ら憲法を起草した事実をひたかくしにし、そのために占領下で発行されるすべての印刷・出版物の厳密な事前検閲を行った。”とか、”こうした事前検閲が行われていること自体を絶対の秘密とした。言論の自由を保障することをうたった憲法が言論の自由のまったくないない状況下で作成されたことはまことに皮肉である

と書いていますが、こうした受け止め方も、事実に反するのではないかと思います。
 GHQの占領政策は、ポツダム宣言にあるように、日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ”に基づくもので、憲法の起草をひたかくしにしたり、出版物の事前検閲を絶対の秘密にしたりしなければならないようなものではなかったと思います。GHQの内部組織である民政局(Government Section、通称:GS)が、軍閥や財閥の解体、軍国主義集団の摘発・解散、軍国主義思想の無効化遂行の任務をになったことは、よく知られており、公然の事実だったのではないでしょうか。

 一例をあげれば、戦時中、皇国史観を代表する歴史家で、皇国史観の教祖とか、皇国史観の総本山とさえいわれ、学者でありながら、国粋主義的活動を扇動し、海軍大学校や陸軍士官学校で講義・講演を繰り返し、皇族にも「日本と支那及西洋諸国との国体及び道義の根本的差異に関する講話」などを進講したといわれる平泉澄は、戦後、公職を追放されますが、追放を解除されると、また、戦時中の考え方で講演活動などを再開しています。なかには、公職追放を逃れた軍や政権中枢の関係者もいます。そういう状況を踏まえれば、”言論の自由を保障することをうたった憲法が言論の自由のまったくないない状況下…”というのは的外れではないかと思います。日本国憲法は、戦時中の軍や政府の指導層の影響を排除しなければならなかったのであり、それができなければ、日本の民主化ができないことになるわけで、日本国憲法を”国際法違反”であり、押しつけだというのは、公職追放などで排除された戦争指導層の主張ではないかと思うのです。戦後の日本を、”論の自由のまったくないない状況”などと受け止めたのは、軍国主義的な戦争指導層で、一般国民ではないと思います。

 藤岡氏のいうような意味で問題にすべきは、日本国憲法の制定過程ではなく、GHQが当初の日本の民主化・非軍事化の政策を転換し、社会主義運動を取締まるような方向に進んだ「逆コース」と言わる占領政策、およびその後のアメリカの対日政策だと思います。日本の再軍備や公職追放解除、日米安全保障条約締結の問題、また、日米安全保障条約に関わる日米地位協定や沖縄返還協定に関わる密約の問題などなど、様々なものがあると思います。それら、国民には真実が知らされず進められた多くの政策を問題にすることなく、日本国憲法の制定過程ばかりを問題にされるのは、やはり、何か意図があるのではないかと疑わざるを得ません。

 藤岡氏は日本国憲法にかかわる教科書の記述をあれこれ問題にされていますが、教科書会社や教科書の記述を担当した歴史家などに、藤岡氏のいうような特別な意図はない、と私は思います。また、”一体「国民」が批判の声を出したというが、それは何パーセントの国民の声なのか。”などという文章もありますが、いかがなものかと思います。政府側が用意し憲法草案「乙案」に対して、直接批判の声をあげた人がたとえ少数であったとしても、それが国民の声を代表していることが明白であれば、教科書のような記述に何ら問題はないと思います。大事なのは直接声をあげた人の数ではなくて、国民の「思い」であり、「声」であると思います。圧倒的多数の国民が新憲法を支持した事実をしっかり受け止めて、教科書の記述を受け止めてほしいと思います。

下記は、「汚辱の近現代史 いま克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)から抜粋しました。

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                     Ⅱ 戦後史記述の何が問題か
「日本国憲法の成立」
 占領期の文書の公開により、1980年代以降憲法制定過程の実証的研究は著しく進展した。日本国憲法は、形式上、日本の国会の審議による明治憲法の改正という手続きをとってはいるものの、アメリカ占領軍が六日六晩で起草し、これを日本側に押し付けたものである。占領下におけるこのような憲法の改正はハーグ陸戦条約に規定された国際法の違反である。

 アメリカ占領軍はそのことをよく知っていた。だからこそ、GHQは自ら憲法を起草した事実をひたかくしにし、そのために占領下で発行されるすべての印刷・出版物の厳密な事前検閲を行った。そのやり方は、戦前の日本で左翼文献などに対してなされた伏字のような拙劣なものではなく、新聞であろうと雑誌であろうと検閲の痕跡をまったく残らないように、削除したページ分の記事を作り差し替えるという、巧妙・徹底したものであった。もちろん、こうした事前検閲が行われていること自体を絶対の秘密とした。言論の自由を保障することをうたった憲法が言論の自由のまったくないない状況下で作成されたことはまことに皮肉である(江藤淳『一九四六年憲法-その拘束』文藝春秋、1988年)。
 ただし、このような憲法制定の経過から、直ちに憲法の内容の是非が決まるというものではない。制定過程と内容の評価はまったく関係ないとは言えないが、一応区別されるべき問題である。だから、教科書としては、新しい研究成果を反映させて、現行憲法の評価とは別に、その制定過程とそれが含む問題点をハッキリさせなければならない。
 ところが、教科書の記述は、相変わらずその点を曖昧にし、日本の国会が自主的に制定したかのようなフィクションに頼っている。その点で最も著しいのは、次の記述である。

 国会は、新しい日本国憲法草案について六ヶ月にわたり慎重に審議し、いくつかの修正後可決した。憲法草案は総司令部が作成したものであるが、憲法研究会案などを参考にしていた。

 第一文は、日本の「国会」を主語にして、憲法がその国会の自発的作為として作成されたかのように言う。そのため、1946年4月の衆院議員総選挙の記述のすぐあとにこの憲法制定の記述をもってくるという「工夫」をしている。ただし、その憲法草案はGHQが作成し日本政府に与えたものであることを言わないとあまりにも事実に反することになる。そこで、そのことを述べる代わりに、今度は、GHQ案そのものは日本の民間側の案を参考にして作成されたものであることを強調する。そうすることで、憲法のアイデアが基本的には日本人に由来するものであるという印象を作り出そうとしているのである。
 このことをさらに強調するために、上記<日書>の教科書は「歴史を考える-三つの憲法草案」という一ページ分の特別記事を設けている。その中には、次の記述もある。

 すでに二月一日、乙案が一新聞社にもれてけいさいされた、これに対して国民から帝国憲法と同じで非民主的だという批判の声が出ていた。(日書)

 ここで「乙案」とは、政府側が用意していた二つの案のうちの一つを指す。一体「国民」が批判の声を出したというが、それは何パーセントの国民の声なのか。残念ながら、食うや食わずの当時の国民大衆には憲法草案についてハッキリした見解を持つ余裕などなかったとおいうのが正直な実態ではなかろうか。「批判」した人はもちろんいたに違いないが、それをもってこのような記述が許されるとすれば、どんなに一部の意見でも「国民」の名のもとに紹介されてよいことになる。これは、憲法制定過程の問題に限らない。教科書記述の一般的な原則の問題でもある。
 私は、この教科書を使う教師には、それが憲法制定過程に関する「一つの」見解であることを生徒に伝え、それと対立する見解とディベートさせるような扱いを求めたいと思う。
 <帝国>には、憲法原本の写真に付して、次の解説がある。

 日本国憲法 一部には「総司令部のおしつけ」と受け取られましたが、国民は圧倒的に新憲法を支持し…(帝国)

 この教科書も問題を混同している。国民が圧倒的に新憲法を支持したことと、それが「総司令部のおしつけ」であったかどうかは別のことである。新憲法発表当時は国民はそれがどのような経過でつくられたのかまったく知らなかったから、上記のような書き方はそもそも不適切なのだが、そのことは不問に付すとしても、国民が新憲法を支持したことによって制定過程の法的問題点が解消するわけではないのである。
 憲法制定過程で最大のポイントは、さきに述べたように、それが「検閲」下でおこなわれたとおいうことである。ところが、この検閲の事実にふれた教科書は次の一種類しかない。

 占領政策のさまたげにならないかぎり、言論・出版・結社の自由が認められた。(東書)

 これは、逆に言えば、占領政策の「さまたげになる」言論・出版・結社は禁止されたことを意味する。この記述は、右の教科書の中では憲法制定過程の記述とはかけ離れた位置におかれている。だから、この記述が憲法と関係があるとは読めないようになっている。
 占領下の検閲について正面から書いてある教科書がないか調べた。やっと見つかった。あの悪名高い(?)高校日本史教科書『新編・日本史』(原書房)に「占領軍の検閲」と題する囲み記事があった。予断と偏見で教科書を評価することはきわめて危険であることをこの例は示している。
 なお、最近、憲法制定の過程と憲法解釈の変遷を戦後の憲法教育史と関連させて究明した研究が書が出た。(小山常美『戦後教育と「日本国憲法」』1993年、日本図書センター)。著者は、「民定憲法として『日本国憲法』は有効なのだという戦後の定説は、完全に崩壊する」とし、このような結論になることは、著者にとって研究着手の時点では思いよらなかったことであった、と述べている。一読を勧める。

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「従軍慰安婦」問題と自由主義史観

2018年01月15日 | 国際・政治

 自由主義史観の提唱者、藤岡信勝氏はその著書「汚辱の近現代史 いま克服のとき」(徳間書店)で、自らの歴史観(自由主義史観)が、司馬遼太郎の作品との出合いからはじまったと書いています。

 ところが、不思議なこと「汚辱の近現代史」の内容は大部分、司馬遼太郎が”あんな時代は日本ではない。”と激しく非難した「昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年」も含めて正当化しようとされているように、私は思います。
 そして、その第一にあげられるのが、「従軍慰安婦」の問題です。

 藤岡氏は、同書を「汚辱の近現代史 ー 近代日本を貶める歴史教科書の深刻な実態」というタイトルで書き始めています。その中に、”「従軍慰安婦」全社に登場”と題された文章があるのですが、第一から第五まで、五つの問題点を指摘されています(次の”教科書に「従軍慰安婦」は要らない ー 「慰安婦」の嘘を中学生に教えるな”でもほぼ同じような内容で、繰り返して五つの問題点を指摘されています)。でも、私はいずれの指摘も全く受け入れることができません。

 藤岡氏は、書いています。
第一に、七社中三社の教科書が「従軍慰安婦」という言葉を使っている。しかし、「従軍慰安婦」なる言葉は当時存在しなかった。「従軍」には、弾の飛び交う戦場にまで軍隊につき従うというニュアンスがある。従軍看護婦はいた。戦場の負傷した兵士を手当てする役目だからである。軍人・軍属という時のカテゴリーに入るのが従軍看護婦である。これと同じ意味で慰安婦が「従軍」するはずもない。かつて存在しない言葉を使い、しかも指示対象の性格について明らかに誤解を生むような通俗的な用語を用いるのは、そもそも最初から不適当である。(以下、従軍慰安婦をすべて「 」つきにするのは、用語の不当性への批判を込めてのことである)。

 また、”教科書に「従軍慰安婦」は要らない”のなかでは、
そもそも、「従軍慰安婦」なる言葉は、戦前には存在しなかったのだ。従軍看護婦、従軍記者、従軍僧侶などは存在した。「従軍」という言葉は、軍属という正式な身分をしめす言葉であり、軍から給与を支給されていた。慰安婦はそういう存在ではなく、民間の業者が連れ歩き、兵士を顧客とした民間人である。だから、お客様としての兵士は、慰安所を訪れるごとに料金を払っていたのである。
 と書いています。でもこの記述は正確ではないと思います。「従軍」というのは、”軍属という正式な身分をしめす言葉であり、軍から給与を支給されていた。”とは言えないのではないでしょうか。ただ単に、軍命に従い、軍について歩いて、仕事をする人たちも含まれるのではないかと思います。戦地に、様々な新聞社・雑誌社・放送局・映画会社などの記者が同行したことは、よく知られていますが、それらの人たちは「従軍記者」と呼ばれました。でも、それらの「従軍記者」は、自らの会社から派遣されていたのであり、軍属として給与を軍から得ていたのではないのではないでしょうか。軍命に従うことを文書をもって約束し、軍の許しを得た外国人従軍記者などもいたと思います。それらの記者に、軍が給与を支払っていたとは思えません。
 また、軍の行くところについていった、「従軍慰安婦」という存在が、それまでのいわゆる「売春婦」という存在とは異質な側面があったことを無視して、当時「従軍慰安婦」という言葉がなかったから、そういう言葉を使ってはいけないと主張することは誤りであると、私は思います。「従軍慰安婦」と呼ばれる人たちの証言にしっかり耳を傾け、どういう状況のもとにあったのかを把握すれば、「売春婦」という表現が適当ではないことがわかると思います。

 次に、
 ”第二に、「従軍慰安婦」問題の焦点は、軍に慰安施設があったかどうかではなく、強制連行があったかどうかである。というのは、戦前の日本では売春は合法的な商売と認められていたからである。だから、内地で売春が商売として行われたのと同じく、戦地でも軍の保護と承認のもとに売春業者が男性の集団である軍隊を相手に営業したのである。日本で売春が法的に禁止されたのは、戦争が終わって十年あまりも経ってからのことである。”

 と書いています。また、関連して”教科書に「従軍慰安婦」は要らない”では、さらに、教科書の「…慰安婦として従軍させ…」というような文章を引用し、
これらはいずれも、慰安婦が日本軍によって「強制連行」されたかのように事態を描き出している。つまり、本人の自由意思に反して連行され、奴隷的に拘束され、性的サービスを強要された「セックス・スレイブ」(性奴隷)として慰安婦の女性たちを描き出している。
 これははなはだしく事実を歪めるものである。実際は、慰安婦たちは業者に伴われて戦地に働きに来たのであり、彼女らは「プロスティチュート」(売春婦)とよばれるべき存在だったのである。つまり、彼女らは「人類最古の職業」に従事していたのだ。

とも書いています。でも、根拠とした文書資料や証言はひとつも示されていません。逆に、歴史家が収集した資料や慰安婦の証言は、藤岡氏のこの文章こそが、事実に反することを明らかにしています。

 戦地の慰安所に行き、日本兵を相手に毎日「性交渉」をしなければならない立場を告げられ、合意して戦地に向かった朝鮮や台湾からの「従軍慰安婦」は皆無ではないでしょうか。また、軍は戦地における日本兵による強姦を防ぎ、また、兵士の性病を防止するために戦地に慰安所を必要として要請したのであり、業者が金儲けのために、自ら戦地に慰安所を設置したかのような主張は、多くの場合事実に反すると思います。軍直営というべき慰安所があったことも明らかにされています。

 元「従軍慰安婦」の証言では、様々な理由で、自由に外出することさえ許されませんでした。さらに、朝鮮や台湾から連れられていった「従軍慰安婦」の多くは、売春の経験のない処女でした。未成年の少女も少なからず含まれていました。これも、軍の要請に基づくものですが、その理由を、戦地で性病の検査等に当たった兵站病院の軍医が、その著書「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」兵站病院の産婦人科医麻生徹男(石風社)に詳しく書いています。
 結論としては、「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」というのです。「既往花柳病ノ烙印ヲオサレシ、アバズレ女ノ類ハ敢ヘテ一考ヲ与ヘタシ。此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何(イカガ)ハシキ物」とも書いています。しかしながら、そのころすでに国内外で、戦地へ慰安婦を送ることに批判が高まっており、下記に抜粋した「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」の最初にあるように、
1、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト”
と通知せざるを得なかったのです。したがって、この通知によって、未成年の女性や処女の女性を戦地へ送ることはできなくなっていたということです。それで、「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」という戦地の要求との板挟み状態を打開するために、日本の軍や政府は、差別的に植民地下にあった朝鮮や台湾から若い女性(未成年の処女を含む)を送ることにしたのだと思います。
 藤岡氏がこうした文書や元「従軍慰安婦」の証言を無視して、”彼女らは金儲けのために戦地に行った売春婦だった”というのであれば、下記の文書に規定されている、身分証明書の発給記録や、戦地で売春することに同意した本人の「同意書」、さらに、それを認めた親族の承認の文書などを示す責任があると思います。
 それらが提示できないのであれば、「従軍慰安婦」の証言を否定することは出来ないように思います。証拠書類を保存していない日本側に責任があることになるのではないかと思うのです。
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 内務省発警第5号
 秘  昭和13年2月23日 
                                    内務省警保局長   各庁府県長官宛(除東京府知事)

              支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件

 最近支那各地ニ於ケル秩序ノ恢復ニ伴ヒ、渡航者著シク増加シツツアルモ、是等の中ニハ同地ニ於ケル料理店、飲食店ニ類似ノ営業者ト聯繋ヲ有シ、是等営業ニ従事スルコトヲ目的トスル婦女寡ナカラザルモノアリ、更ニ亦内地ニ於テ是等婦女ノ募集周旋ヲ為ス者ニシテ、恰モ軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄スル者モ最近各地ニ頻出シツツアル状況ニ在リ、婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ、実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルルモ、是等婦女ノ募集周旋等ノ取締リニシテ、適正ヲ欠カンカ帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フノミニ止マラズ、銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フルト共ニ、婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キヲ保シ難キヲ以テ、旁々現地ノ実情其ノ他各般ノ事情ヲ考慮シ爾今之ガ取扱ニ関シテハ左記各号ニ準拠スルコトト致度依命此段及通牒候

1、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト

2、前項ノ身分証明書ヲ発給スルトキハ稼業ノ仮契約ノ期間満了シ又ハ其ノ必要ナキニ至リタル際ハ速ニ帰国スル様予メ諭旨スルコト

3、醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女ハ、必ズ本人自ラ警察署ニ出頭シ、身分証明ノ発給ヲ申請スルコト

4、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ニ際シ身分証明書ノ発給ヲ申請スルトキハ必ズ同一戸籍内ニ在ル最近尊属親、尊属親ナキトキハ戸主ノ承認ヲ得セシムルコトトシ若シ承認ヲ与フベキ者ナキトキハ其ノ事実ヲ明ナラシムルコト

5、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ニ際シ身分証明書ヲ発給スルトキハ稼業契約其ノ他各般ノ事項ヲ調査シ婦女売買又ハ略取誘拐等ノ事実ナキ様特ニ留意スルコト

6、醜業ヲ目的トシテ渡航スル婦女其ノ他一般風俗 関スル営業ニ従事スルコトヲ目的トシテ渡航スル婦女ノ募集周旋等ニ際シテ軍ノ諒解又ハ之ト連絡アルガ如キ言辞其ノ他軍ニ影響ヲ及ボスガ如キ言辞ヲ弄スル者ハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト

7、前号ノ目的ヲ以テ渡航スル婦女ノ募集周旋等ニ際シテ、広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重(ニ)之ヲ取締ルコト、又之ガ募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ、正規ノ許可又ハ在外公館等ノ発行スル証明書等ヲ有セズ、身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 未成年の「従軍慰安婦」は、どこともわからない戦地へ連れてこられ、自由な外出も許されず、毎日ほとんど言葉の通じない多数の日本兵を相手に、性交渉を強制されたことをしっかり受けとめる必要があると思います。多くの元「従軍慰安婦」の証言から、断る自由がなかったことが分かります。したがって、「強制連行」ではなくても、慰安所における性交渉が合意に基づくものでなければ、「強制売春」や「強姦」にあたり、法的に合法だったというような主張は通らないのです。
 さらに言えば、当時すでに、下記のような国際法が定められていたのです。
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          2、醜業婦ノ取締ニ関スル1910年5月4日国際条約
 前文略
第1条 何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス 

第2条 何人ニ拘ラス、他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ詐偽、暴行、強迫、権勢其他強制的手段ヲ以テ成年ノ婦娘ヲ雇入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス

第3条 現ニ各締盟国ノ法規カ前2条ニ規定セラレタル犯罪ヲ処罰スルニ足ラサルトキハ締盟国ハ各自国ニ於テ其犯罪ノ軽重ニ従ヒ処罰スル為メ必要ナル処分ヲ定メ若クハ之ヲ立法府ニ建議センコトヲ約束ス
 以下略
       3、婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約(1921年条約)
 前文略
 第1条 
締約国ニシテ未タ前記1904年5月18日ノ協定及1910年5月4日ノ条約ノ当事国タラサルニ於テハ右締約国ハ成ルヘク速ニ前記条約及協定中ニ定メラレタル方法ニ従ヒ之カ批准書又ハ加入書ヲ送付スルコトヲ約ス

 第2条
締約国ハ児童ノ売買ニ従事シ1910年5月4日ノ条約第1条ニ該当スル罪ヲ犯スモノヲ発見シ且之ヲ処罰スル為メ一切ノ措置ヲ執ルコトヲ約ス
 以下略
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 藤岡氏は”戦前の日本には遊郭があり、売春は政府も公認する職業の一つだった”と言うのですが、戦地に送られた慰安婦について、「女衒の甘言にに騙されたり、親に言い含められたり、親に売られたりというケースも多かったにちがいない」とも書いています。金銭をやりとりして女性を海外に送るのは、「人身売買」にあたるうえに、上記の国際法は、

第1条 何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス 

と定めて、そうしたことをを禁じていたのです。

 また、藤岡氏は

戦地での慰安所の料金は平均して内地の三倍程度に設定されていた。いわば独占的な事業であるから、慰安婦の収入は高かった。月給に直して当時の大学新卒者の十倍、一般兵士の十倍の収入を得ていた慰安婦も多かった。お金が使いきれず、故郷に送金し、さらに二、三年も働けば、家族のために立派な家を建てることができたという。
 と書いているのですが、ほんとうでしょうか。こうした重要な内容のことを書く場合は検証ができるように、その根拠となる資料や文書や証言の出どころをきちんと示す必要があるのではないかと思います。

 比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の「慰安所(亜細亜会館 第1慰安所)規定」には、”料金ハ軍票トシテ前払トス”とあります。常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊の”慰安所使用規定”には”第61 実施単価及時間”に下記のようにあります。
     1 下士官、兵営業時間ヲ午前9時ヨリ午後6時迄トス
     2 単価
      使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス
      支那人   1円00銭
      半島人   1円50銭
      内地人   2円00銭
     以上ハ下士官、兵トシ将校(准尉含ム)ハ倍額トス
     (防毒面ヲ付ス)
時間や料金も軍が定めているのですが、朝鮮や台湾から戦地に送られ、軍票を受けとっていた「従軍慰安婦」が、二、三年働いて家を建てたというような事実はどこにあるのでしょうか。料金に差別があることも確認しておきたいと思います。

次に”史実の捏造をもとにした教育”と題して
 ”では、強制連行を主張している人々は何を根拠にそう言い立てているのだろうか。
 その最も有力な証拠は、自分が強制連行したと称する日本人の証言である。他ならぬ実行犯の告白であり、しかも一見したところ自分に不利な事実の暴露なので信用できると思われるのがネライである。吉田清治著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983年)がその「証言」である。
 しかし、この本はすでにその虚構性が完全に暴露されており、このような資料にもとづいて強制連行があったかのように教えることは、いわば史実の捏造をもとにした教育を行うことを意味するのである。これが、教科書の慰安婦記述に反対する第三の理由である。”
と書いています。でも、吉田証言が虚構であったとしても、それで、慰安婦が戦地の慰安所に行くことに合意して行ったということにはならないと思います。吉田証言は様々な証言や資料のなかの一つに過ぎず、吉田証言だけで、慰安婦の連行に強制性がなかったと結論づけるわけにはいかないのです。
 一例をあげれば、陸軍省兵務局兵務課起案の1938年3月4日の文書に下記のようなものがあります。
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  軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
                副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案
 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 慰安所設置当初は、日本国内においてさえ、「募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等…」というようなことがあったことが分かります。まして、多数の慰安婦が必要となり、朝鮮や台湾から多くの慰安婦が戦地に送られたのに、それらは合法的であったという根拠はどこにあるのでしょうか。こうした資料や元「従軍慰安婦」の証言を無視してはならないと思います。

 次にダブルスタンダードの教育と題して、下記のように書いています。
教科書の慰安婦記述に反対する第四の理由は、それが日本人だけを貶める驚くべきダブルスタンダード(二重基準)の教育を意味するからである。
 軍隊であると日本国内であるとを問わず、売春そのものが許しがたい悪徳であるという観点から慰安婦問題を教科書にとり上げるべきであるという主張があるかもしれない。だが、それなら、戦後の日本でも1958年まで売春は普通に営業されていたことを教えなければならない。
 そればかりではない。軍隊と性の問題は、人類の歴史に一貫してつきまとっている問題である。軍が慰安婦をかかえていたのは日本だけではない。日本の軍の慰安施設をどうしても書くというなら、同じ基準を他国の軍隊にもあてがうべきだ。そうすると、第二次大戦末期の歴史叙述は次の様になる。 ・・・
 こんな瑣末な事実を書く込むのはバランスを失していると批判する人が多いだろう。私もそう思う。だとすれば、日本軍についても慰安婦のことを記述するのはバランスを失しているのだ。
 また、どうしても日本軍の慰安婦を書くのであれば、同じ基準をあてがって、アメリカの日本占領についても次のように書くべきである。

 マッカーサーを最高司令官とする連合国総司令部(GHQ)は、日本政府に命令して占領政策を実行した。初めに、占領軍のための慰安所を置くことを日本政府に命令した。
              (教育出版、270ページに傍線部分を加筆):注加筆は藤岡氏

 随分乱暴な主張だと思います。「売春そのものが許しがたい悪徳であるという観点から慰安婦問題を教科書にとり上げるべきである」などと主張している歴史家や歴史教科書執筆者等の関係者がいるのでしょうか。私は聞いたことがありません。
 また、藤岡氏はダブルスタンダード(二重基準)を指摘されていますが、日本政府や軍が、植民地下の多くの未成年者を含む女性を慰安婦として国境を越えて送り込み、戦後、裁判で訴えられているような国がほかにあるのでしょうか。また、国連の関連機関や法律関係の団体から「従軍慰安婦」問題で勧告されている国がほかにあるのでしょうか。
 
 2007年7月31日、アメリカ合衆国下院121号決議には、日本の「従軍慰安婦」の問題について、「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達の問題は、残虐性と規模において前例のない20世紀最大規模の人身売買のひとつである」と断定し、「日本軍が強制的に若い女性を”慰安婦”と呼ばれる性の奴隷にした事実を、明確な態度で公式に認めて謝罪し、歴史的な責任を負わなければならない」とあります。また「現世代と未来世代を対象に、こうした残酷な犯罪について、教育をしなければならない」とも要求しています。

 その後、アメリカにとどまらず、オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議、オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議、カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議などが続き、フィリピン下院外交委、韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択をし、さらに、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択したといいます。サンフランシスコ講和条約締結国が、次々にこうした日本のみを対象とする決議を出すに至ったことをどのように受け止めるのでしょうか。

 さらに言えば、”連合国総司令部(GHQ)は、初めに、占領軍のための慰安所を置くことを日本政府に命令した”と書いておられますが、それは事実でしょうか。それが事実であることを示す証拠があるのでしょうか。逆に、下記の敗戦直後の資料は、それが事実に反することを物語っているのではないかと思います。連合国軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーが神奈川県の厚木海軍飛行場に到着したのは8月30日です。下記文書には(1945年8月18日)とありますので、交渉が始まる前の文書です。日本政府は、自ら占領軍のための慰安所を設置したということだと私は思います。
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           外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒

外国軍駐屯地における慰安施設に於ては別記要領に依り之が慰安施設等設備の要あるも本件取扱に付ては極めて慎重を要するに付特に左記事項留意の上遺憾なきを期せられ度。
                    記
1 外国軍の駐屯地区及時季は目下全く予想し得ざるところなれば必ず貴県に駐屯するが如き感を懐き一般に動揺を来さしむ如きことなかるべきこと。
2 駐屯せる場合は急速に開設を要するものなるに付内部的には予め手筈を定め置くこととし外部には絶対に之を漏洩せざること
3 本件実施に当りて日本人の保護を趣旨とするものなることを理解せしめ地方民をして誤解を生ぜしめざること。
(別記)
             外国駐屯軍慰安施設等整備要領
1 外国駐屯軍に対する営業行為は一定の区域を限定して従来の取締標準にかかわらず之を許可するものとす。
2 前項の区域は警察署長に於て之を設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす。
3 警察署長は左の営業に付ては積極的に指導を行い設備の急速充実を図るものとする。
     性的慰安施設
     飲食施設
     娯楽場
4 営業に必要なる婦女は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之を充足するものとす
                               (1945年8月18日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ”教科書の慰安婦記述に反対する第四の理由は、それが日本人だけを貶める驚くべきダブルスタンダード(二重基準)の教育を意味するからである。”
 という考え方は、根本的に間違っていると、私は思います。多くの戦争体験者が「戦争は人を変える」というようなことを書いています。また、「戦争は人間から人間性を奪う」と書いている人もいたように思います。「従軍慰安婦」の記述が求められるのは”日本人だけを貶める”というようなことではなく、繰り返してはならない戦争の過ちのひとつとして、忘れてはならないことだからだと思います。下記の「村山談話」の一節をかみしめたいと思います。
 
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました
 きちんと歴史の事実に向き合えば、近隣諸国の信頼を得ることは難しいことではないのではないかと思います。”日本人だけを貶める”などとして、責任回避をしようとせず、戦争による過ちは素直に反省するべきだと思うのです。

 最後に、”子どもの人格を崩壊させる教育”と題して下記の文章があります。
慰安婦記述に反対する第五の、しかも最大の理由は、それが、子どもの人格を崩壊させる教育になるということである。
 そもそも、学校教育で慰安婦をとり上げることは教育的に意味のないことである。人間の暗部を早熟的に暴いて見せても特に得るところはないからだ。暗部に目をふさぐべきではないという議論もあるが、そういう類の知識は大人になる過程で子どもは自然に身につけていくものなのだ。学校教育という限られた時間の中で、教室で、教科書にまで載せて、教師が教えなければならない事柄では断じてない。”
 この考え方も、私は全く受け入れることはできません。日本軍や日本政府が主導し設置した慰安所の問題は、戦争がもたらした過ちの一つであって、平和な世の中ではあり得ないことです。”人間の暗部”などと捉えるべきではないと思います。
 戦争がどれほど愚かで恐ろしいものであるかを、子どもたちに学んでほしいからこそ、「従軍慰安婦」の問題を記述するのであって、そのことによって、元「従軍慰安婦」であった人たちも、救われる面があるのではないかと思います。
 「従軍慰安婦」の問題を記述することが”日本人が他国民に比べ世界でもまれな好色・淫乱・愚劣な国民であることを教える”ことになるなどということはないのです。戦争がもたらした過ちとして、きちんと向き合うことが大事であり、従軍慰安婦の問題をなかったことにするような教育をすれば、近隣諸国の理解を得て友好関係を築くことが困難になります。それこそ、将来世代に大きな負担を背負わせることになるのではないでしょうか。きちんと向き合って根本的解決を目指してほしいと思います。 

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司馬遼太郎の歴史の修正 兵站軽視や村落焼夷作戦

2018年01月09日 | 国際・政治

 司馬遼太郎は「この国のかたち 一」司馬遼太郎(文芸春秋 1986~1987)に”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いています。こうした司馬遼太郎のいわゆる「暗い昭和」に、「明るい明治」を対立させる歴史認識を利用するかのような動きが、今じわじわと日本社会に広がりつつあるように思います。

 それは昨年、菅義偉官房長官が「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」というような発言していること、関連して11月3日を「明治の日」にしようとする動きや「明治150年」に向けた関連施策の推進が進められていること、また、子どもたちの使う教科書が、明治維新による王政復古によって形づくられた明治時代を、近代化の時代として美化しつつ、要所に神話が取り入れられたものに変えられつつあること、さらには、幕末から明治はじめの人物を高く評価して取り扱った出版物や番組などの増加となって表れているような気がします。

 しかしながら、明治維新以降の日本の歴史は、多くの歴史家が明らかにしているように、”非連続”ではなく連続したものだと思います。司馬遼太郎は前掲書で、昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年を”─あんな時代は日本ではない─と、理不尽なことを、灰皿でも叩(タタ)きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである”とも書いていますが、あの悪名高い関東軍戦車部隊の一兵士としての酷い体験が、「智の巨人」と言われる国民的大作家、司馬遼太郎が、冷静な目で歴史を客観的に見ることを許さないのではないかと、私は想像します。

 下記資料1は、「歴史の偽造をただす」中塚明(高文研)から抜粋したものですが、日清戦争当時の参謀総長、熾仁親王(タルヒトシンノウ)が、大島義昌混成旅団長に宛てた訓令です。極めて重要な文書だと思います。この兵站を軽視した補給なしの現地調達主義が、その後、日本の敗戦に至るまで続き、どれほどの悪影響をもたらしたか、見逃してはならないと思います。「餓死した英霊たち」藤原彰(青木書店)によれば、ガダルカナル、ポートモレスビー、ニューギニア、インパール(ビルマ戦線)、太平洋の孤島、フィリピン、中国戦線などにおける日本軍兵士の餓死者はおよそ140万名で、軍人軍属の戦没者230万名の6割以上であるといいます。それだけではありません、補給なしの現地調達主義によって、日本軍が戦地のいたるところで「徴発」を繰り返したことが、直接戦争と関わりのなかった戦地住民の抵抗を生み、抗日組織・反日組織との戦いともなって、被害を拡大させたと思います。

 また、資料2は「兵士と軍夫の日清戦争 戦場からの手紙を読む」大谷正(有志社)から抜粋したものですが、下関講和条約の結果日本の領土となった、台湾・澎湖島でも、現地住民の激しい抵抗があり、日中戦争における「三光作戦」にも似た無差別の「村落焼夷作戦」や「沿道の住民ノ良否判明せざるに付惨酷ながら一網打尽」というような戦いが、日清戦争当時からあったことがわかります。”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年”も決して非連続ではないということだと思います。旅順虐殺事件と南京大虐殺、日台戦争と日中戦争、間違いなくつながっていると思うのです。だから、いわゆる「暗い昭和」の端緒が明治にあることに、目を閉ざしてはならないと思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第六章 朝鮮人は忘れない

2 朝鮮に広まる抗日の動き

 「因糧於敵」(糧を敵に因る)という日本軍
 私が福島県立図書館に『日清戦争史』の草案を調査に行った理由の一つに、日清両軍の初めての会戦であった成歓(ソンファン)の戦いを前にして、前衛部隊の大隊長が補給の困難に直面して自殺した、その詳細を調べたいということがあったと、本書のはじめに書いた。力を尽くして集めた朝鮮人および馬匹(バヒツ)がみな逃亡し、まだ本格的な戦争がはじまる前に、すでに食糧に窮したため、歩兵第二十一連隊第三大隊長古志正綱少佐が引責自殺したのである。
 満州事変以後、とくに中国との全面戦争、そして西南太平洋の島々にまで戦線を拡大し、補給らしい補給もなしに、日本軍が現地徴発に走らざるをえず、それが中国はじめ日本軍によって占領された諸地域の住民にいちじるしい犠牲を強い、反日運動を引き起こす重要な要因一つになった。
 しかし、十分な補給なしに現地調達する方針は、なにも戦線が拡大した中国との全面戦争以後からのことではない。その「伝統」は日清戦争の時からのものであった。
 次の資料は、朝鮮に出兵して間もない混成旅団から補給の困難を訴えてきたことに対する参謀総長名による大本営の訓令である。

  訓令                          ニ十七年六月廿九日
 軍を行(ヤ)るに要するのこと一にして足らざるも、煩累物随伴を減ずるをもって最も緊切の要務とす。煩累物とは何ぞや。すなわち敵を殪(タオ)すの力を有せざる非戦闘員の謂(イイ)にして、いやしくもこれを減ぜざれば軍隊の運動自在なることあたわず。ただ自在に運動することあたわざるのみならず、更にこれを保護せざるべからざればなり。輜重(シチョウ)運搬の人夫のごときはすなわち非戦員の首(シュ)なるものなるをもって、つとめて地方の人民を雇役しもって常備の輸卒を減ぜざるべからず。
 古昔、兵家の格言に因糧於敵の一句あり。爾来内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものはこの理由の外ならず。人民の生命に関する糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、いわんやこれを運搬する人夫においてをや。
 進軍もしくは屯駐地方の人民を徴発、もしくは雇役し我が使役に供せしむるすでに可なり。いわんや賃銀を直ちに支給してこれを使用するにおいておや。何のはばかることかこれ有らん。そもそも適地、もしくは外国の賃銀はもとより内国より貴(タカ)かるべし、しかれどもこれを煩累物減省の点より考うればその利益たる勝(ア)げて言うべからず。いわんやその人夫に給する食糧旅費及び輸送の金額を積算するときは幾倍の賃銀もかえって内国の者より低廉なるを得べきにおいておや。
 けだし軍の要は一に煩累物減省し、もって進退の自由に最も顧慮し、且つ運搬はつとめてその地方によるの方法に慣熟するに在り。

 今般、朝鮮国へ派遣の混成旅団には臨時輜重隊を付し、これを幹部となし糧食などの運搬はすべて徴発の材料を用うべきことを命令せられたり。しかるに六月二十八日、仁川発兵站(ヘイタン)監の報告に、軍隊は輸卒を備えざるため給養を行われず飢渇におちいらんとすうんぬんの言あり。これ甚だ解せざる所なり。
 それ目下混成旅団の給養額は僅かに八千余名に過ぎず。又仁川と京城は僅かに八里の距離にして、先頭すなわち在京城の軍隊はまさに停止して行動せず。かくのごときの場合においてなお数多(アマタ)
の人夫を内国より送発せざれば給養行われ難しと言うときは、もし一朝兵站線路延長するか、あるいは全師団もしくは数多の師団渡韓して運動戦をなすの日に至らば、いかにしてこれを給養せんとするか。果して給養の道なくして全軍餓死を免れざるべきか。これ決してしからざるなり。
 けだし目下いまだ戦時ならざるをもって運搬材料を求むるにやや著大なる費用を要するならん。しかれどもこれ万やむを得ざるの事情なれば、決して入費をおしむべきの時にあらず。よろしく百方努力して徴発材料を得るの方法を講究し、且つ我が帝国外交官の幇助(ホウジョ)を求め、もって各自の任務を完(マツタ)くすべし。
 試みに思え、若し糧食運搬のため重ねて人夫を内国より送るときは、この人夫に要する糧食もまた追輸せざるを得ず。果してしかるときはこの運搬人夫の糧食のため更に又運搬人夫を要するに至り、層々増発あに底止する所あらんや。
 これ大いに因糧於敵の原則に背き煩累物減省の道に戻(モト)る故に、成るべくその地に現在する運搬材料に因(ヨ)るものと決心し、内国よりの追送を請求することを慎むべし。
  明治二十七年六月二十九日                   参謀総長 熾仁親王
 混成旅団長 大島義昌 殿
(防衛研究所図書館所蔵『自明治廿七年六月至同廿八年六月 命令訓令 大本営副官部』、請求番号:日清戦役・15、所収 四九号文書「非戦闘員減少スヘへキ訓令」)

 「内国よりの追送を請求することを慎むべし」とのきつい訓令を受けた混成旅団では、この訓令にもとづいて行動するほかなかった。牙山(アサン)への進撃にのぞんで人馬の供給は、必須の課題であった。
 杉村濬(フカシ)は当時を回顧して、次のように書いている。

 ……しかるに出兵に臨みて人馬の供給充分ならず。しばしば朝鮮政府に照会し、議政府より公文を出し、日本兵の通行には地方官よりその求めに応じ人馬その他を供給し、充分の便利を与うべし、もっともその代価は日本兵隊より相応これを償うべしとの意を諭示したるも、地方の官民皆疑懼(ギク)をいだきあえて官命に従わず。皆言う、これ倭(ワ)党等の所為にして本政府の意にあらずと。けだし一朝敵と味方との地位を変じたることなれば地方官民の疑懼するうべなりと言うべし。

 当時、余は中間に立って一面は旅団の要求に迫られ、一面は無能力なる韓廷を相手として苦慮の余り非常手段をとることに決せり。すなわち軍隊より機敏なる兵卒二十余名を選抜せしめ、これに混ずるに二十名の巡査を以てして、これを京城近郊の要路〔龍山(ヨンサン)、鷺梁(ノヤン)、銅雀津(トンジャクジン)、漢江(ハンガン)、東門(トンムン)外等の処〕に分派し、およそ通行の牛馬は荷物を載せたると否とにかかわらず、ことごとくこれを押拿(オウダ)しすることとせり。これがため人民に多少の迷惑を与えたるも一時軍用に供するを得たりき(杉村濬『在韓苦心録』、59~60ページ)。

 王宮占領といい、否応なしの人馬の押拿・徴発といい、公使館・混成旅団一体となったこうした日本側の行為が、朝鮮官民の反日運動を各地に広めたのは当然のことであった。 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第七章  台湾の戦争

1 台湾民衆の抵抗

 近衛師団の上陸と戦争の開始
 下関講和条約の結果、台湾・澎湖島と遼東半島は日本の領土となった。その後、三国干渉の結果、日本は遼東半島を放棄したので、講和条約の結果獲得した領土は台湾・澎湖島のみとなった。日本政府は海軍大将樺山資紀(カバヤマスケノリ)を台湾総督に任じ、近衛師団〔師団長北白川宮能久キタシラカワノミヤヨシヒサ)中将〕とともに台湾に向かい新領土を接収するよう命じた。樺山は薩摩出身で、1874年(明治7)の台湾出兵の前に現地を調査した経験があり、台湾への思い入れが深かった。同じ頃、台湾では日本領土となるのを拒否する邱逢甲(キュウホウコウ)ら地元士紳は台湾省巡撫唐景崧(トウケイショウ)に独立を迫り、唐は五月二十五日台湾民主国総統に就任した。虎旗を国旗とする、アジアで最初の共和制国家が誕生し、諸外国に援助と承認を求めるとともに、日本軍への武力抵抗を試みた。
 台湾民主国の樹立の報に接したが、台湾接収にに向かった樺山総督は近衛師団のみで接収する計画を変えなかった。日清戦争当時、近衛師団は歩兵連隊と砲兵連隊がそれぞれ二個大隊で編制されたので、連隊が三個大隊で編制される通常師団より兵力が少なく、戦闘能力が低かったにもかかわらず、事態は楽観視されていたのである。
 五月二十九日、近衛第一旅団を中核とする部隊は基隆東方の澳底(オウテイ)に上陸を開始し、基隆と台北は簡単に占領された。台北城占領の前日、唐総統は淡水港から大陸に逃亡してしまった。六月十七日には早くも台北で総督府始政式がおこなわれた。しかし六月十九日に始まった新竹(シンチク)への侵攻作戦は、六月二十二日に近衛歩兵第二連隊が新竹城を占領したものの、直後から抗日義勇軍の逆襲を受け、台北の司令部との連絡が途絶え混乱した。ここで作戦が変更され、台湾南部に上陸する予定であった近衛歩兵第二旅団を台北に呼び、近衛師団の全力を集中して台北周辺の治安を確立した後、南進を計ることになった。

 黄昭堂『台湾民主国の研究』は、五月末から十月の台湾陥落までの台湾攻防戦を三期に分け、各段階の抵抗勢力と抵抗の原因についてつぎのように説明する。
 第一期は日本軍上陸から六月七日の台北陥落まで、第二期は日本軍が台北から南進を開始した六月十九日から九月七日台湾中部彰化(ショウカ)で南進を一時停止した時まで、第三期は日本軍が南進を再開した十月始めから台南を占領した十月二十二日までである。そして、台湾側の武力抵抗の主体勢力について、第一期は台湾民主国の統制下にあった軍隊で、多くは大陸で募集した兵士であり、戦意は低く、日本軍の攻撃に直面すると大陸に逃れたものが多かった。これに対して第二期と第三期の抗日勢力は、それぞれの村落街鎖の士紳を指導者とする地元民が中心となり、第三期には台南を守備していた台湾民主国大将軍劉永福(リュウエイフク)が加わった。彼は元々清朝に武力抵抗を試みた黒旗軍の指導者で、清朝に帰順後、清仏戦争の際にベトナムでフランス軍を打ち破ったという輝かしい経歴を持つ軍人であった。実際の抗戦意欲はともかく、抗日義勇軍を組織する住民の精神的支柱になった、と評価されている。
 台湾住民の多くは、対岸の福建・広東からの移住者で、台湾原住民や隣接する移住者集団と対立抗争(分類機闘)しながら開拓を進めてきたので、土地に対する強い愛着心と郷土愛を持つとともに、戦闘にも慣れ、煉瓦塀・銃口・櫓を備えた民家や村落は要塞のような防禦機能を有した。日本軍が台湾を占領するために基隆東方に上陸すると、台湾民主国を支持する人々の抵抗のみならず、さまざまな流言蜚語や誤解に基づく住民の自然発生的抵抗が起こった。台湾占領を担当した近衛師団は、想定外の住民のゲリラ的抵抗に直面して、抵抗運動者とそうでないものの区別ができず、予防的殺戮や村落放火、時には略奪を行い、さらにそれが住民の恐怖と報復のための抵抗を惹起させる、という悪循環を発生させた。
 台湾義勇軍の組織した抗日義勇軍は武器が劣悪、かつ銃を持つものは十分の二程度であったので、正面からの戦闘ではなく、主として分散した日本軍を地の利を生かして攻撃するゲリラ戦法を採用して日本軍を悩ました。村落単位の抵抗で、女性子供も参加した。しかし時には、1000人以上の集団で攻撃したり、大砲を利用し、堡塁を築いて抵抗することもあった。第二期はちょうど雨期で、河川が氾濫して日本軍の行動を阻害した。寒冷な冬を体験した後で満州から転進してきた日本軍、つまり近衛師団や第二師団は台湾で炎暑に悩まされ、マラリアやコレラなど疫病の流行で戦闘力を殺がれて、抗日義勇軍に活躍する余地を与えた。

 台湾北部鎮圧作戦--ゲリラ戦と村落焼夷--
 孤立した新竹の日本軍を救援するため、七月十二日から、台湾 -- 新竹間の補給線を確保するための作戦がはじまった。その時、山沿いの台北を流れ淡水河上流地域の掃蕩作戦を担当した、公家出身の伯爵坊城俊章少佐指揮の近衛歩兵第三連隊第二大隊を中心とする部隊は抗日軍に攻撃された。川を船で遡っていた糧食輸送隊(35名)は最初に全滅、坊城隊本隊も包囲攻撃され、多くの犠牲者を出しながら、かろうじて脱出するありさまであった。
 思いがけない敗北に近衛歩兵第二旅団長山根信成(ヤマネノブナリ)少将を長とする部隊が編制され、坊城隊が苦戦した淡水川上流の掃蕩を命じられた。七月二十二日から二十五日にいたる間に、「賊ヲ屠(ホフ)ルコト数百、家ヲ焼夷スルコト数千ニ及ヒ、十三日以来兇焔ヲ逞フセル賊徒ハ一時全ク屏息スルニ至レリ」(『日清戦史』第七巻)アルイハ「三角湧付近ハ土匪(ドヒ)ノ巣窟。再ビ敵ヲシテ之ニ拠ラシムベカラザレバ、我支隊ハ火ヲ放チテ、悉ク其村落市街ヲ焚燬セリ」(川崎三郎『日清戦史』)という軍事行動をおこなった。
 この台湾北部掃討作戦は、残存した清国軍との戦闘ではなく、台湾住民の組織した抗日義勇軍とのはじめての戦闘であった。抗日軍のゲリラ戦に対して日本軍は、無差別の村落焼夷作戦を実施し、以後、これが台湾での戦闘の基本形の一つとなった。この頃軍隊に同行した樺山資英(スケヒデ)は、「沿道の住民ノ良否判明せざるに付惨酷ながら一網打尽」(『現代史資料・台湾』第1巻)と両親に書き送っている。

 宮城県出身の近衛師団所属兵士も戦闘に参加した。志田郡松山町出身の今野良治近衛騎兵一等軍曹の父親宛て手紙は、坊城隊が連絡を絶った後、偵察部隊である近衛騎兵第二中隊第三小隊が三角湧を偵察中、ゲリラの攻撃をうけて三名を残して全滅した事件を報告する。
小隊長山本特務曹長以下ニ十二名三角湧付近偵察の任を帯び、七月十五日台北を発して三角湧に向ふて前進せり。然るに沿道の土民皆国旗を掲げて大日本善良民の紙票を戸前に貼し、茶を汲み粥をすすめ大いに我偵察隊を犒(ネギラ)ふを以て、我亦大に意を安んじ益々前進し、将に三角湧に出んとするの頃ひ、全面の高地に監視兵の如き者処々に徘徊せるを以て三名の斥候を派捜索せしめたるに、、唯茶摘(タダチャツミ)のみなる故後方部隊の前進を促すに依り、更に進む5、60米(メートル)にして俄然砲声の耳に轟く者あり。其方向を視定むる遑(イトマ)もなく四面より乱射する小銃雨の如し。故に後方の村落に拠り防御せんと隊を収容して背進せしに、前に我が軍を犒ひし土民は皆敵軍となり、男子は銃を携え女子も亦小銃を放ち、小児は竹槍を以て我が退路を遮きる故、素より勇武を以て聞えたる同小隊なれども、右は峨々たる山岳にして左は洋々たる河流なり。嗚呼此の地我が隊をして進退攻守共に自由を失はしめたり。背進三里殆ど中途に仆(タオ)れ、其命を全ふして帰りしは僅かに下士上等兵一等卒の三名なり。(奥羽・九十五年九月四日、「台湾戦況」)
 この地域の抗日軍は、日本軍騎馬偵察隊を歓迎すると見せかけ、日本軍弱しと見るや一斉に攻撃を開始したのであった。男女、小児まで含んだ、村ぐるみのゲリラ戦である。今野は前記の手紙の最後に、後日出動した近衛騎兵大隊長渋谷在明中佐が率いる部隊は三角湧住民に対して、「彼等の家屋を焼き彼等を屠殺せる者挙けて数ふべからず」という報復をおこなったと述べている。台北城の郊外でさえ、住民、婦女子を巻き込んだゲリラ戦となっており、対する日本軍も無差別殺人をおこなっていたことが手紙から明らかである。
 そしてゲリラの勇敢さに対する驚きは多くの手紙に共通していて、ある近衛師団関係者も「土人は清国盛京省等の比に非ずして、敏速且つ胆力あり、死に就くは各自期する者の如し、従て戦争の熱心なる邦人の驚く処なる由、故に我歩兵の吶喊杯(トッカンナド)も敢て恐れさる」状態であり、対抗上近衛師団は「形跡の疑ふべき土人は殺戮遺類なからしむ故に、或は苛酷に失することあるも事情已むを得ざる次第」と述べている。 (奥羽・九十五年九月三日、「台湾近信」)。

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司馬遼太郎 統帥権 天皇大権 歴史の修正

2018年01月03日 | 国際・政治

『「明治」という国家』(日本放送出版協会)にも、理解しがたい歴史認識があります。下記に抜粋した中に、「明治憲法はプロシア憲法にくらべて、大きく特徴的なことがあります。双方、君主が統治の”大権”をもっているということになっていながら、明治憲法はあくまでも”大権”であって”実行権”ではないということです。」という部分がその一つです。  

 大権はもっているけれど実行権はないということはどういうことでしょうか。”実行権のない大権”というのがよくわかりません。また、「明治憲法における日本の天皇は、皇帝(カイゼル)ではなかったのです。日本の伝統のとおり、立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした」という部分や、「天皇の場所は、哲学的な空になっていまして、生身の人間として指図をしたり、法令をつくったり、人を罰したりすることは、いっさいないのです」という部分も引っかかります。

 大日本帝国憲法の第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とありますが、これは、他のいわゆる君主国の憲法の条文と違い、神勅に関わるもので、単なる法的権限を超えた意味をもっていたのではないでしょうか。したがって、天皇大権はプロシア憲法などの君主の大権と同格に論ずることはできないように思います。
 確かに明治の日本は、運用上は三権分立国家かも知れませんが、大日本帝国憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、さらに、第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められているように、現人神として、必要なときには議会の制約を受けずに条約を締結(13条)する権限をもっていたし、独立命令による法規の制定(9条)も可能であり、また、緊急勅令を発する権限などもあったことを忘れてはならないと思います。

 現実に明治天皇は、「日清戦争 秘蔵写真が明かす真実」檜山幸夫(講談社)から抜粋した文章にもあるように、上奏書を持参した衆議院議長に拝謁を許さなかったり、「日清戦争は朕の戦争に非ず」と言って、要請されたことに応じなかったり、求められた案件の裁可に応じなかったりして、様々なかたちで、統治行為に関わっています。
 明治天皇のみならず、昭和天皇も、「田中義一叱責事件」として知られているように、張作霖の爆殺事件に端を発する関係者処分の田中義一首相の奏上が、それまでの説明とは相違することに語気を強めてその齟齬を詰問され、辞表提出の意を以て責任を明らかにすることを求められたといいます。そして、田中首相が弁明に及ぼうとした際には、その必要はないとして、これを斥けられています。
 また、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月「敗戦必至」という近衛の奏上に対し、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」として、終戦の要求を蹴ったこともよく知られていると思います。
 そういう意味で、天皇が「立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした」というのは事実に反するのではないかと思います。また、同じように「天皇の場所は哲学的な空になっていまして、生身の人間として指図をしたり、法令をつくったり、人を罰したりすることは、いっさいないのです」というのも、事実に反すると思います。

 さらに、司馬遼太郎が取り上げた張作霖の爆殺事件や満州事変は、「統帥権」の問題というより、むしろ、軍中央を無視した出先関東軍の独断専行を防げなかった軍の組織や統制の問題であり、また、国際法違反や犯罪的行為さえも、日本にとって有利な結果が得られたときは、黙認し追認してきた軍部や政権の差別的・侵略的姿勢にあったと思います。

 したがって、「この点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。それでも、明治時代いっぱいは、すこしも危なげなかったのは、まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。この憲法をつくった伊藤博文たちも、まさか三代目の昭和前期(1926年以後45年まで)になってから、この箇所に大穴があき、ついには憲法の”不備”によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう。」というのも、おかしな捉え方だと思います。戦争による亡国の悲惨は、伊藤博文を含む明治以来の政権中枢や日本軍にあった差別的・侵略的姿勢によってもたらされたのではないかと思うのです。
 
 資料1は、『「明治」という国家』司馬遼太郎(日本放送出版協会)から抜粋しました。
 資料2は 「日清戦争 秘蔵写真が明かす真実」檜山幸夫(講談社)から抜粋しました。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第十一章 「自由と憲法」をめぐる話 ネーションからテートへ

 ・・・
 私は明治憲法を非難しようとも讃美しようとも思っていません。机上に客体としてそれを置いて見つめているだけです。
 まず、明治憲法があきらかに近代憲法であることは、近代憲法にとって不可欠なものである三権(立法、行政、司法) の分立があることです。これは、みごとというべきものでした。ただ国民にとってのゆたかすぎるほどの自由はそこにあるとはいえません。しかし、法律の範囲内という制約下ながら、”言論の自由””著作の自由””出版の自由””集会の自由””結社の自由”はありました。言っておかねばなりませんが、これらの自由のなかで、明治の言論・文学・学問・芸術はうまれたのです。
 さて、明治憲法はプロシア憲法にくらべて、大きく特徴的なことがあります。双方、君主が統治の”大権”をもっているということになっていながら、明治憲法はあくまでも”大権”であって”実行権”ではないということです。
 この点、プロシアを参考にしながら、その真似をしなかったのです。ドイツのカイゼル──皇帝です──は、政治においてきわめて能動的な権力をもっていましたが、明治憲法における日本の天皇は、皇帝(カイゼル)ではなかったのです。日本の伝統のとおり、立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした。
 明治憲法の最大の特徴は、
「輔弼(たすけること)」
 という、法律用語とその中身をつくったことです。内閣の首相その他各国務大臣および、立法府、司法機関の長は、それぞれかれらにおいて一切の責任が終了します。かれらが責任をとります。天皇の場所は、哲学的な空になっていまして、生身の人間として指図をしたり、法令をつくったり、人を罰したりすることは、いっさいないのです。責任は、総理大臣なら総理大臣どまりです。天皇は、行為をしないかわり、責任はない。ひたすらに、首相など各機関の長の案に承認を与えるのみでした。
 問題は、統帥権(軍隊を動かす権)です。これだけは、三権から独立して、天皇に直属します。英国では行政府の長である首相が軍隊を動かす最高の指揮をとりますが、明治憲法では、軍隊を動かす権については、首相も手を触れることができず、衆議院議長もクチバシを入れることができません。三権分立国家が国家であるとすれば、国家の中で別の国家があるのと同然です。
 ちょっとこまかく申しますと、同じ軍でも、内閣に所属しているのは、陸軍大臣と海軍大臣で、これは行政権のみで、統帥緒権をもちません。統帥権の府は、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部でした。このそれぞれが、首相と無関係に、じかに天皇を輔弼〔この場合は、輔翼(ホヨク)といいました。意味は同じです〕したのです。ただし、天皇という神聖空間は、哲学的な空ですから、ここに大きな”抜け穴”がありました。もし参謀本部という統帥府が、理性をうしない、内閣に相談せずに他国を侵略したとしても 、首相はなすすべがないということになります。
 この統帥権の独立は、まったくプロシア憲法・ドイツ憲法どおりでした。
 ただし、ドイツ憲法の場合は、カイゼルに能動性があります。ですから、カイゼルがこっそり他国を攻めようと思えば、首相もそのことにあずかり知らず、国境で砲声がおこってから気づくということになります。ただ、ドイツの場合、ウィルヘルム一世とビスマルクが健在だったころは、これでも大過(タイカ)がありませんでした。つぎのウィルヘルム二世という若旦那めいたカイゼルが、ビスマルクを追い、モルトケという参謀総長と相謀らっていろんなことをしはじめてから、帝政ドイツはつぶれてしまうのです。カイゼルは第一次大戦をおこしてしまったのです。帝政ドイツもまた、統帥権の独立が、国をほろぼしました。

 まことに、この点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。それでも、明治時代いっぱいは、すこしも危なげなかったのは、まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。この憲法をつくった伊藤博文たちも、まさか三代目の昭和前期(1926年以後45年まで)になってから、この箇所に大穴があき、ついには憲法の”不備”によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう。〔ついでながら1928年の張作霖の爆殺も統帥者の輔弼(輔翼)によっておこなわれましたが、天皇は相談をうけませんでした。1931年、陸軍は満州事変をおこしましたが、これまた天皇の知らざるところでした。昭和になって、統帥の府は、亡国への伏魔殿のようになったのです〕

 以上、お話ししてきて、この話にどんな結論を申しのべるべきか苦しんでいます。太古以来、日本は、孤島にとじこもり、1868年の明治維新まで、世界の諸文明と異なる(となりの中国や韓国とさえもちがった)独自の文明をもちつづけてきて、明治期、にわかに世界の仲間に入ったのです。五里霧中でした。まったく手さぐりで近代化をとげたのです。そのくるしみの姿を、二つの世界思潮──自由民権と立憲国家──の中でとらえてみたかったのです。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                第一章 朝鮮出兵事件と日朝・日清開戦

1 出兵政策の決定

 条約改正と国内政局
 ・・・
 第二次伊藤内閣は、議会に提出された議案に対する列国、とくに英国の抗議に屈して強権を発動した従属的外交政策と、議会解散についての法的手続き上に違憲の嫌疑があったことから、先例に反して解散理由を表明しなかったため、衆議院はもとより貴族院からも内閣不信任の声が巻き起こる。
 翌明治二十七年三月一日、議会解散にともなう第三回衆議院総選挙が行われ、五月十二日第六回議会が招集された。そこで待っていたものは、第五議会解散に対する伊藤内閣の責任追及であった。開院して間もない五月十七日、衆議院に大井憲太郎などから内閣弾劾上奏案が提出され、「議場は、議論沸騰、鼎が沸くが如く、一大混乱の光景を演出」(『大日本憲政史』」したという。
 議会は、この建議案をきっかけに紛糾し、五月三十一日、決議案起草特別委員会に付託された新たな上奏案が衆議院本会議で可決され、ここに内閣弾劾上奏案が成立した。帝国憲法では、議会に内閣不信任権はないが、不信任をうけた内閣が予算を含む議案を通過させることは困難で、事実上解散か総辞職しか選択肢は残されていない。伊藤は、翌六月一日、天皇と二度にわたって時局への対応について相談し、天皇の信任を獲得する。
 この日、上奏書をさしだすため楠木正隆衆議院議長が参内するが、天皇は拝謁を許さず、上奏書は土方久元宮内大臣に預けられている。明治天皇は、衆議院の弾劾決議に不同意だったのである。天皇の説得もあり、伊藤は内閣存続と議会解散を決意し、翌二日、臨時閣議を召集することになった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第二章 「軍人天皇」と「国民」の形成

1 広島大本営と軍人天皇

 「この戦争は朕の戦争に非ず大臣の戦争なり」
『明治天皇紀』の八月十一日の条に、つぎのような記述がある。
 天皇が宣戦詔勅を公布したことから宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)への宣戦奉告祭と伊勢神宮・孝明天皇後日輪東山陵(先帝陵)への宣戦奉告勅使派遣の議が起こり、土方久元宮内大臣は勅使の人選案を具して天皇に上奏した。しかし、なんの沙汰もないので勅使派遣の人選を強く催促したところ、天皇は「其の儀に及ばず、今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之を神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ」と答えた。
 そこで、土方は天皇の主張は「過まりたまふことなきかと極諫」したところ「忽ち逆鱗に触れ」、「朕復た汝を見るを欲せず」と激怒し、土方は「恐懼して退出」したという。
 「日清戦争は朕の戦争に非ず」という、日清戦争でもっとも衝撃的な出来事となった明治天皇の逆鱗事件は、じつは伊藤首相・陸奥外相の開戦外交指導と開戦過程の不透明さを象徴するものであった。
 明治天皇の逆鱗は容易に解けず、宣戦奉告勅使派遣問題は天皇の妥協によって、八月九日に九条道孝掌典長を伊勢神宮へ、岩倉具綱掌典を孝明天皇陵に派遣して決着する。しかし、日清戦争は「不本意」であるとする天皇は、自らが主祭する八月十一日の宣戦奉告祭へは出御せず、やむなく鍋島直大式部長が代拝せざるを得なかった。これが、戦争に反対した場合の、天皇のとるべき行為としての先例になったことはいうまでもない。
 『明治天皇紀』には、この出来事がいつあったのかについての記載がないため推測するしかないが、土方が勅使の人選を催促した時であること、勅使が派遣されたのが九日であることから、おおむね八月五日から七日ころではなかったかと思われる。
 では、この出来事の原因はなんであったのだろうか。佐々木高行は『保古飛呂比』の中で「畢竟内閣大臣の不注意より起りしならん」として伊藤にその責があると記している。たしかに、天皇の逆鱗に触れたのは土方の、不本意ならばなぜ宣戦詔勅を裁可したのかとの極諫にあったわけだが、天皇がそれに激怒した背景には、宣戦詔勅を裁可しなければならなかった状況に天皇を追い込んだ、伊藤と陸奥の開戦外交指導とその過程にあったといえよう。
 明治天皇は、出兵そのものには反対ではなかったが、出兵政策が対清関係悪化の方向に向かいはじめると、政策遂行に懐疑的になっていく。六月十五日と七月一日の閣議決定を、天皇は容易に裁可せず、伊藤と陸奥が委細を報告しなけらばならなかった。
 四三歳になった睦仁天皇は、青年天皇から壮年天皇となり、自らの意志を持ち、天皇としての地位を自覚し、「大帝」への道を一歩踏み出そうとしていた。それまでのように、伊藤や維新の元勲に利用されるだけの存在ではなくなっていた。こうしたなかで、伊藤と陸奥はしだいに天皇を疎んじるようになり、詳細を天皇に報告しなくなる。
 七月十九日、日本は期限付最後通牒を清国に交付しているが、これは天皇の裁可を得ていなかった。朝鮮出兵と日朝清開戦外交にとって重要な外交政策にかかわる外交文書の原文書には、欄外に天皇への上奏と各大臣や枢密院議長、参謀本部や軍令部への通知の経過が墨筆・朱筆・鉛筆等によって記録されている。ここから、天皇への上奏と関係者への通知の経過をみることができるが、それによると、日清戦争にとってもっとも重要な外交文書である七月十九日の最後通牒文は、交付してから三日後の
二十二日の夜に、天皇に上奏し各大臣と枢密院議長へ通知されていた。では、なぜ二十二日の夜に文書を上奏し通知しなければならなかったのだろうか。
 陸奥は七月二十二日にパジェットへ対英反駁書を交付しているが、これは対清最後通牒について英国が二十一日に交付してきた対日抗議書への反駁書で、この文書は二十一日に上奏通知されている。しかし、実際的には、陸奥は、この対英反駁書を交付した二十二日の夜に天皇に上奏する予定であった。対韓最後通牒にかかわった一連の文書も、二十二日に上奏・通知されており、対英反駁書のみが二十一日に上奏されたことになる。
 この間の天皇と伊藤・陸奥の関係をみると、天皇は七月二十日に徳大寺を伊藤のところへ差し向け、翌二十一日に対英反駁書が上奏され、ついで二十二日に再び徳大寺を伊藤と陸奥のところに差し向けていた。
 このもっとも重要な時期に、首相と外相は天皇との接触を避けていたため、天皇はどのような状況になっているのかを知るために、徳大寺を差し向けざるを得なかった。
 対英交渉に限るならば、二十日徳大寺を経て下問された伊藤は、陸奥と相談し、翌日二十二日に交付する対英反駁書を上奏する。二十二日、再度、徳大寺の訪問を受けた伊藤と陸奥は、その日の夜にやむなく対清最後通牒文を上奏する。天皇は、ここではじめて事態が重大な局面に達していたことを知るのであった。

 ・・・

 これは、首都京城と国王の居城である王宮を軍事占領するという、戦争行為に当たる方策実施であることから、天皇大権の外交大権および戦争大権を干犯した憲法違反的行為でもある。もちろん、陸奥より権限の大幅な委任を得て、二十三日早朝に趙督弁に交付した大鳥の対韓宣戦布告に類する通告書は、事前に本国政府の承認を受けたものではなかった。天皇の下問は、陸奥の独断専行への憤懣の現れといえる。
 伊藤と陸奥は、重要な外交情報を隠し、天皇を無視し、閣内にも詳細を知らせずに、まったく独断で開戦外交を展開していく。そこに、宣戦詔勅である。天皇睦仁の名で渙発する宣戦詔勅文案をめぐって、閣内がまとまらず、あらかじめ天皇の理解を得るための了解すら得ていなかったのである。
 そこへ、清国政府が宣戦上諭を発したため、これへの対抗として急遽、宣戦詔勅を渙発しなければならないからとして、突然、詔勅案を示され、熟考の余地なく裁可させられた睦仁天皇が天皇を蔑ろにして盲判を押させようとした伊藤と陸奥に、激怒するのは当然であった。

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司馬遼太郎 明治の日、歴史の修正

2017年12月25日 | 国際・政治

 司馬遼太郎の歴史観にかかわる文章を、司馬遼太郎自身の著書から抜粋し、いろいろ考えているのですが、彼は、『「明治」という国家』(日本放送出版協会)でも、やはり”明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした”と評価する一方、”昭和にはー昭和20年までですがーリアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思えるほどです”と酷評しています。

 そうした考え方が源流となって、自由主義史観研究会が生まれたことは、「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)、に書かれています。そして、それがさらに歴史修正主義や、「新皇国史観」と呼ばれるような考え方に、いろいろところでつながっていることを、私は見逃すことができません。

 しばらく前、「明治の日推進協議会」という団体が国会内で、11月3日の「文化の日」を「明治の日」にしようという集会を開いたといいます。11月3日は1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日で、祝日法で「文化の日」と定められたわけですが、もともとこの日は、明治天皇の誕生日であり、大日本帝国憲法下の明治時代は「天長節」、明治天皇が亡くなった後は「明治節」と呼ばれる休日だったのです。「明治の日推進協議会」の集会開催の目的は、そのことに関連します。

 「明治の日推進協議会」の集会では、”日本の近代国家立脚の原点は明治にある。しかしながら、かつての『明治節』はGHQ(連合国軍総司令部)の指導で変化を余儀なくされた。だから、再び明治の時代こそ大切だったとすべての日本人が振り返る日にしたい”というような決意が述べられたといいます。要するに、日本国憲法も「文化の日」もGHQの押しつけだから、“本来の姿”に戻したいということのようです。安倍総理の「日本を取り戻す」という主張も、そういうことではないかと思います。
 自民党の元閣僚は、「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるというのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」というような発言をしたことが報じられましたが、”神武天皇の偉業に立ち戻る”ということは、まさに”皇国日本”に戻すということではないでしょうか。
 したがって、11月3日を「明治の日」にしようという主張も、また、「明治150年」に向けた関連施策を推進しようとする政府の動きも、皇国史観の復活や戦前回帰につながるものではないかと思います。司馬遼太郎が、そんなことまで支持するとは思えませんが、司馬遼太郎の明治を肯定的に評価する歴史観が、そうした動きに大きな力を与えるものであることは否定できないと思います。

 だから私は、”明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした”などと評価できるものでなかったことを、日清戦争の実態や残されている様々な文書によって確認したいと思うのです。

 歴史を辿れば、明治は、大日本帝国憲法の
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
にはじまり、
兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を・・・”
というような「軍人勅諭」や、

朕惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス・・・”
というような「教育勅語」のイデオロギーで人びとを縛り、皇国日本の教育を徹底した時代であったのではないでしょうか。そして、「天皇陛下万歳」を叫び、いさぎよく命を投げ出して戦うことが日本人のあるべき姿であると教育された人達が、昭和のはじめに活躍したのだと思います。したがって、昭和のはじめを「別国」ととらえたり、”別の民族だったのではないかと思える”と言ったり、「非連続」の時代ととらえることは客観性を欠く捉え方ではないかと思います。

 また、それは、資料2に抜粋した”日清開戦直後に「太平洋戦争に連なる構想」”でも、明らかではないかと思います。旅順虐殺事件が南京大虐殺とそっくりであることはすでに触れましたが、朝鮮王宮占領から日清戦争に至る流れも、国際法無縁の差別的侵略行為で、昭和の始めの日本と少しも変わらないものだと思います。
 だから、大政奉還による王政復古から、先の大戦における降伏まで、歴史を連続したものとして捉えることが、社会科学的に正しいのではないかと私は思います。

 司馬遼太郎は『「明治」という国家』(資料1)に、
イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります”と書いています。その評価は私にはできません。でも、その考え方に基づけば、大日本帝国憲法にはじまる明治の時代の”正義の体系”は、天皇の人間宣言といわれる、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」における

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

とのことばで、「うそ」であったことが明らかにされたということになるのではないかと思います。

 下記の資料1は、『「明治」という国家』司馬遼太郎(日本放送出版協会)から抜粋しました。
 資料2は『歴史の偽造をただす-戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)から抜粋しました。 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第一章 ブロードウェイの行進

 ・・・
リアリズムといえば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。 ここでいっておきますが、高貴さをもたないリアリズム-私どもの日常の基礎なんですけれども-それは八百屋さんのリアリズムです。そういう要素も国家には必要なのですが、国家を成立させている、つまり国家を一つの建物とすれば、その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧搾空気といってもよろしいが、そういうものの上にのった上でのリアリズムのことです。このことは、何度目かに申し上げます。

 そこへゆくと、昭和にはー昭和20年までですがーリアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思えるほどです。

 右にせよ左にせよ、60年以上もこの世に生きてきますと、イデオロギーというものにはうんざりしました。イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります。キリスト教では唯一神のことを大文字でGodと書きます。絶対であるところのGod。絶対だから大文字であるとすれば、イデオロギーにおける正義も、絶対であるがために、大文字で書かねばなりません。頭文字を大文字でFictionと書かねばなりません。 ここで、ついでながら、「絶対」というのは、「在ル」とか「無イ」とかを超越したある種の観念ということです。極楽はあるか。地理的にどこにある、アフリカにあるのか、それとも火星か水星のあたりにあるのか。これは相対的な考え方です。「在ル」とか「無イ」とかを超えたものが、絶対というものですが、そんなものがこの世にあるでしょうか。ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー、つまり”正義の体系”というものです。イデオロギーは、それが過ぎ去ると、古新聞よりも無価値になります。ウソである証拠です。いま戦時中の新聞を、朝の食卓でコーヒーをのみながらやすらかに読めますか。あるいは毛沢東さんの晩年のプロレタリア文化大革命のときの人民日報をアタリマエの顔つきで読めるものではありません。ヒトラーの「わが闘争(マインカンプ)」を、研究以外に、平和な日曜日の読者として読めますか。すべては、時代がすぎると、古いわらじのように意味のなさなくなるものらしいですね。

 昭和元年から二十年までは、その二つの正義体系がせめぎあい、一方が勝ち、勝ったほうは負けた方の遺伝子までとり入れ、武力と警察力、それに宣伝力で幕末の人や明治人がつくった国家をこなごなにつぶしました。

 まあそんなことは、このたびの主題ではありません。
 しかし、作家というものは、天の一角から空をつかんでくるようにしては話せない。すわっている座布団の下から話さねば落ち着かない。話していることも、自分の感覚でたしかに手ざわりのあるものしか話せないし、話す気にもならないものです。以上は座布団の下の話です。つまり私は戦車の中で敗戦をむかえ、なんと真に愛国的でない、ばかな、不正真な、およそ国というものを大切にしない高官たちがいたものだろう。江戸末期や、明治国家をつくった人達は、まさかこんな連中ではなかったろう”というのが、骨身のきしむような痛みとともにおこった思いでありました。それが、これから何を申し上げのかわりませんが、私の、座布団の下につながる話です。

 さて、このシリーズだけに通用する定義ですが、明治を語る上で、明治時代とせずに、
 ことさら、
「明治国家」
 とします。明治時代とすると、流動体みたいな感じになりますが、「明治国家」としますと、立体的ないわば個体のような感じがするから、話しやすいんです。そんな国家、いまの地球上にはありません。1868年から1912年まで四十四年間つづいた国家です。極東の海上に弧をえがいている日本列島の上に存在した国家でした。そのような感覚で、私は、この机の上の物体を見るような気分で語りたいと思います。

 ちょっと申しあげておかねばなりませんが、私がこれからお話しすることは、明治の風俗ではなく、明治の政治のこまかいことではなく、明治の文学でもなく、「つまり」そういう専門的な、あるいは各論といったようなことではないんです。「明治国家」のシンというべきものです。作家の話というのは、どうも具体的です。以下、いろんな具体的な例をあげますが、それに決していちいち即した
、それにひきずられるようなことはなさいませんように。それら断片のむれから、ひとつひとつ明治国家のシンはなにかということを想像してくだされば幸いなのです。

 象徴ということばがあります。symbol 。十九世紀の世紀末に、フランスの文壇で、象徴主義というのが流行(ハヤ)りました。サンボリズム、シンボリズム。ボードレールに代表されます。具体的なコトやモノを示して、宇宙の秘密を感知するという大げさな表現形式です。日本には、明治末年から大正にかけて入ってきて、蒲原有明(カンバラアリアケ)、北原白秋、三木露風なども象徴詩を書きました。そのために、象徴という言葉や意味、概念がむずかしくなりましたが、そんなものじゃなくて、ごく簡単なものです。割符をご存じでしょう。古代、遠くへ使者を出したりするとき、木や金属を割ってその片方を、使者のしるしとして持たせる。受けとる方は、もう片方をもっていて、合わせてみて使者が本物であることを知る。ギリシャ語で、symblon というのは、割符のことだそうですね。それが、だんだん象徴という意味につかわれるようになった。わたしは、いろんな事例を割符として話します。あわせるのは、聞き手としてのみなさんです。 それらを合わせつづけることで、だんだん”明治国家のシン”という私のこのシリーズの主題を理解してくだされば、文字どおり私のしあわせです。小説も、割符の連続なんです。作者は割符の半分、つまり50%しか書けないものなんです。あとの50%をよき読者、よき聞き手が”こうだろう”ということであわせて下さるわけで、それによって一つのものになるのです。
 第一回目ですから、右のようなゴタクをたくさんのべました。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      第五章 生きつづける歴史の偽造

日清開戦直後に「太平洋戦争に連なる構想」

 ・・・
 福島県立図書館「佐藤文庫」に残された四十二冊の『日清戦争史』草案を読んでいくと、早くも日清戦争直後に、この「太平洋戦争に連なる構想」が見られる。
 草案のなかに、『第十六編第七十二章第二草案』というのがある。「第七十二章 南方作戦に関する大本営の決心およびその兵力」と題された草案がそれである。その冒頭部分に次のような記述がある。

 日本大本営が南方作戦の必要を感じたるはけだし一朝一夕のことにあらず。この議早くすでに二十七年八月九日の陸海軍参謀会議において本冬季間の作戦大方針を議するに当たり、〔会議の要旨は「季節許さざるが故にたとい海戦勝利を得るも作戦大方針第二期の作戦は、明年氷雪融解の期まで延期し、本年においてはまず大方針乙の場合における如く、朝鮮半島へ後続師団を送り敵を同島より駆逐し、明年作戦の地歩を占め置くべし」云々〕〕これに付随して一の動議となりて発生せり。
 いわく「朝鮮半島に送るべき後続兵を一師団にとどめ他の一師団をもって台湾を占領し、本冬季を経過せん」と。しかるにこの議は同月三十日に至り「戦略上の関係によりあるいは一部の兵を派して冬季間台湾を占領することあるべし」との決議をなすに過ぎざりしといえども、南方用兵談の公然議に上りたるは実にこの動議をもって嚆矢とす。しこうしてこれよりその後、征台問題の議に上るただに一再のみにとどまらざりし。

 そもそも当局がかくのごとく南方に意を用いたるはひとり当役における作戦上の関係のみにあらずして、大いに永遠の国是に考慮する所ありてしかるなり。故に当時大本営参謀佐官などにおいて研究せし議題、すなわち「もし我が国今後大決戦勝利を得、清廷和を請うの暁において東洋の平和を維持する戦略上清国をしていずれの部分を割譲せしむるを要するや」との案に対する意見書中にも、澎湖島、台湾の両島は他の二、三の要地と共に必ず我が領有に帰せざるべからざるの理由を反復詳論せり。
 今他の地点に関する意見はしばらくこれをおき、単に該当両島に就いて論断せし所の大要を掲ぐ。
 いわく「澎湖島は水深く湾広く四時風浪の憂い少なき良港にしてその位置は台湾海峡を扼し、黄海支那海の関鑰を占め、我が対馬とともに東亜無比の要衝なり。故に旅順、威海衛と共にこれを我が領有に帰し、もって清国の首尾を扼制(ヤクセイ)するときは、ひとりその抵抗力を微弱ならしむるのみならず、将来東亜の覇権を握り太平洋の海上を制するに極めて必要なり。
 露国において侵略の政策を逞しうし東亜の平和を攪乱するの恐れあるものは英国なり。しこうして香港は実にその禍心を包蔵するの地たり。故によくこれを掣肘してその跳梁を制するに足るの要地は澎湖島の外また他に求むるあたわざるなり。
 もし今回戦争の目的をして単に朝鮮を扶掖(フエキ)するに在らしめばすなわちやむ。いやしくも東洋全局の平和を将来に図るに在らしめば、必ずまずこの要地を軍港となし、ここに完全の守備を設けざるべからず。しかれども台湾海峡に孤立する澎湖島の領有を確実ならしむるには必ず台湾を併有し、これを約一師団の兵を駐屯して警戒せざるばからずこと論をまたず。
 且つ欧州列国と馳騁して雄を東亜に争わんには、必ず新物産の収穫地を求めて財源を増やさざるべからず。しかるに呂宋(ルソン)(フィリピンのこと-中塚)は東西両洋交通の衝に当たり、後来(コウライ)東洋商業の中心たるべきは必然にして、我いやしくも好機会を得ば必ずこれを占領せざるべからざるの所とす。しこうして台湾は実にその階梯たるのみならず、琉球列島と相連接し地勢上より論ずるも我に併有するを至当となす。いわんや帝国の自衛防御上においても実に領有せざるべからざるの要あるにおいておや」と。
 これによりこれを観るも初めより当局者がいかに南方に意を用いたるかを想像するに足る。

 「二十七年八月九日」と言えば、日清戦争の宣戦の詔勅が出されて、まだ十日もたっていない、日清戦争のごく初期の話である。その日の陸海軍参謀会議で、早くも南方作戦が論じられているのである。しかも南方作戦については、その後、台湾の中国からの分割が問題になるにつれ、再三おこなわれ、しかもこの議論は、ただ日清戦争をどう戦うかということにとどまらず、「永遠の国是に考慮」してのものであったという。
 フィリピン占領まで構想したこうした議論は、参謀たちの間のものであって、当時の政府の対外政策にはなっていないにしても、すでに日清戦争の開始早々の時に日本軍の中枢において、こうした議論が重ねられていたことは注目に値する。日清・日露の両戦争に勝利して、こうした構想が加速されたということはあるであろうが、「無敵皇軍の神話」が生まれて、非合理な戦略で突っ走った太平洋戦争への道が、日清・日露の両戦争に勝利して突然生まれたというものではないことに注目してほしい。  

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司馬遼太郎 「別国」と祖国防衛戦争の問題

2017年12月10日 | 国際・政治

 司馬遼太郎が、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の中で「…だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう」と書いていることは、”司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策”で触れました。

 また、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いていることにも触れました。さらに、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の「別国」では、下記資料1のように「昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた」と昭和初期について、ここでも徹底的に批判しつつ、その昭和初期十数年間の”別国”は、統帥権の解釈の変更によって生まれたというようなことを書いています。

 しかしながら、多くの歴史家がそうした捉え方を批判し、様々な事実や資料を取り上げていることを無視してはならないと思います。例えば、中央大学の檜山幸夫教授は「日清戦争 秘蔵写真が明かす真実」(講談社)の中で、軍医として日清戦争に従軍した森鴎外の資料2のような文章を紹介しています。
 戦争特派員・クリールマンの「日本軍大虐殺」の記事によって、アメリカのニューヨークやワシントンで大騒ぎになったという「旅順虐殺事件」は、日清戦争の際の事件ですが、鴎外の文章は、そうした記事を裏付けるものではないかと思います。統帥権の解釈の変更によって、突然日本軍や日本兵が野蛮になったというようなことではないのだろうと思います。特に、鴎外の文章に出てくる中国人蔑視の思想は、統帥権とは直接関係のないことで、むしろ明治時代の皇国史観とかかわりがあるのではないでしょうか。

また、京都大学の高橋秀直助教授は「日清戦争への道」(東京創元社)の中で、ロシアの朝鮮政策に関する資料を取り上げ、資料3のように、ロシアの南下政策(朝鮮支配)というのは、「神話にすぎない」と、書いています。日清戦争前には、ロシアは日本の支配どころか、朝鮮支配さえ考えてはいなかったというのです。

 「祖国防衛戦争」論は、国民を明るく元気にする文章を書きたいという司馬遼太郎の思いこみであり、決定的な根拠はないということだろうと思います。
 でも、国民的大作家といわれる司馬遼太郎の歴史観が、学校教育における歴史の修正や、明治150年の施策と無関係ではないとすれば、その影響は極めて大きく、見逃すことのできない問題だと思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       81  別国
 国家がながいその歴史の所産であることはいうまでもない。当然ながら日本でもそうである。日本史のなかに連続してきた諸政権は、大づかみな印象としては、国民や他国のひとびとに対しておだやかで柔和だった。
 ただ、昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた。

 『この国のかたち』は、主として柔和なほうに触れ、”別国”のほうには、わずかにふれただけだった。しかしながらわずか十数年の”別国”のほうが、日本そのものであるかのようにして内外で印象づけられている。

 わたしは、二十二歳のとき、凄惨な戦況のなかで敗戦を迎えた。
 おろかな国にうまれたものだと、とおもった。昭和初年から十数年、みずからを虎のように思い、愛国を咆哮し、足もとを掘りくずして亡国の結果をみた。
 そのことは、さて措(オ)く。

 この回は、昭和初期十数年間の”別国”の本質について書く。
 ”日本史的日本”を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあったということは、この連続の冒頭のあたりでのべた。
 こまかくいいえば、統帥権そのものというより、その権についての解釈を強引に変えて、魔法のたねとした。この十数年の国家は日本的ファシズムなどといわれるが、その魔法のたねの胚芽のあたりをふりかえってみたい。

 旧憲法的日本は、他の先進国と同様、三権(立法、行政、司法の三権)の分立によってなりたっていた。大正時代での憲法解釈では、統帥権は三権の仲間に入らず、「但し書き」として存在した。要するに統帥権は、一見、無用の存在というあつかいだった。さらには、他の三権のありかたとは法理的に整合しなかった。
 もし統帥権が三権を超越するという考え方が、勢力として確立すれば、議会の承諾を得ることなく、また行政府の代表である総理大臣の知らぬまに、たとえば勝手に軍を動かして他国をーーたとえば満州事変のようにーー侵略することもできるし、他国どころか、日本そのものも”占領”できる。

 自国を”占領”したなどおだやかではない表現だが、実態は支配した、などよりはるかに深刻で、占領したというほかない。
 亡国への道は、昭和六年(1931年)から始まる。このとし統帥権を付与されている関東軍参謀らが、南満州鉄道の柳条湖付近で密かに線路を爆破し、それを中国軍のしわざであるとしてその兵営を攻撃し、いわゆる満州事変をおこした。
 翌七年、”満州国”を独立させた。統帥権の魔法の巧妙さは、他国を占領することによって、やがて自国を占領するというところにある。ついでながら、事変というのは宣戦布告のない戦争行為もしくは状態をいう。

 この”事変”が日本の統帥部(参謀本部)の謀略からひきおこされたことは、いまでは細部にいたるまではっきりしている。
 ”事変”を軍部が統帥権的謀略によってつくりだすことで日本国を支配しようとしたことについては、陸軍部内に、思想的合意の文書というべき機密文書が存在した。

 『統帥綱領』『統帥参考』
 が、それである。この文書については、以前にふれた(第一巻「機密の中の”国家”)。『綱領』のほうは亜昭和三年(1928年)に編まれ『参考』のほうは昭和七年(1932年)に編まれた。
 編んだのは統帥権の機関である陸軍の参謀本部であった。この書物は軍の最高機関に属し、特定の将校だけが閲覧をゆるされた。修辞学的にいうと、統帥権の保持者である天皇といえどもみせてもらえなかったはずである。

 『綱領』が編まれた昭和三年といえば、統帥権を分与されている陸軍の参謀将校によって満州軍閥のぬしの張作霖が爆殺されたとしである。統帥権に準拠していればどんな超法行為でもできるという意味で、魔法の杖だった。
 また、『参考』が編まれた昭和七年といえば、”満州国”樹立のとしであって、この翌年に国際連盟を脱退することになる。偶然の暗号というよりも、マニュアルどおりにすすんだという印象がある。
 むろん、そんな本がこの世に存在するなど、陸軍の高級軍人の一部のほか、当時の日本人のたれも知らなかった。同書が復刻されたのは昭和三十七年(1962年)、財団法人偕行社によってである。当時の販価は1500円で、どのくらい刷られたものかわからないが、いま古本屋をまわってもよほど幸運でないと見つからない。

 その本のなかに「非常大権」という項目がある。
 簡単にいえば、国家の変事に際しては、軍が日本のすべてを支配しうる、というものである。以下直訳する。
「軍と政治は原則としてわかれているが、戦時または国家事変の場合は、兵権(注・統帥権のこと)を行使する機関(注・参謀本部のこと)は、軍事上必要な限度において、直接に国民を統治することができる。それは憲法三十一条の認めるところである。この場合、軍権(統帥権のこと)の行使する政務(政治行動のこと)であるから、議会に対して責任を負うことはない」
 という。このみじかい文中で兵権と軍権という類似語がたがいに無定義につかわれている。兵権も軍権も同じ意味で、統帥権のことである。

 右の文中、「兵権ヲ行使スル機関ハ軍事上必要ナル限度ニ於テ直接ニ国民ヲ統治するコトヲ得ルハ憲法三十一条ノ認ムル所ナリ」(原文のまま)というくだりにでてくる憲法第三十一条についてふれたい(むろん、戒厳令ではない。戒厳令についての規定は、憲法第十四条である)。
 憲法第三十一条は、第二章の「臣民権利義務」のなかにある。
 その章には、この憲法の近代的な性格を著す条文が含まれている。日本臣民は裁判をうける権利をもち、所有権を侵されることがなく、また居住・移転の自由、信教や言論、著作、印行、集会、結社の自由をもつなどである。第三十一条は、それらの条文のあとに設けられている。
 「本章(注。臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」
 という。この憲法第三十一条は、要するに国家の大変なときは、国民の権利や自由はこれを制約したり停止したりできるというものである。
 一見、おそろしげにみえるが、当時、どこの国の憲法にもこの一項は入っていて、人間のくらしでたとえると入院治療とかわらない。入院中、その人の自由は制限され、医師の指示下におかれるようなものである。むろん、あくまでも常態ではなく、一時的なものである。

 この憲法第三十一条でいう事変とは、なにか。むろんさきにふれた”満州事変”の事変ではない。”事変”がどういう意味かについては、すでに明治二十一年、憲法草案の条文逐条審議の段階において問題になった。
 もし、事変の解釈をあやまって非常大権が発動されたりすればはじめから憲法などをつくる必要もなく、いわば無法の国家になってしまう。そんなむちゃな国家をつくるつもりは、むろん明治人にはなかった。

 ・・・

 この憲法第三十一条には、事変のほか、戦時ということばもつかわれている。戦時とは字義どおりで、わざわざふれるまでもない。
 昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領・統帥参考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、”統帥国家”を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        はじめに
 ・・・
 鴎外は、日清戦争に従軍した体験をもとに、明治42(1909)年8月1日に発行された雑誌『昴』第8号に、森林太郎の名前で「鶏」という作品を発表している。この作品は、主人公の陸軍少佐参謀の石田小介が小倉の聯隊に赴任するところから始まるが、そのなかに石田の下宿先へ、日清戦争の時に軍司令部にいた麻生という輜重輸卒が、鶏を持って訪ねてくる場面がある。

 「ふむ。立派な鶏だなあ。それは徴発ではあるまいな。」
麻生は五分刈りの頭を掻いた。
「恐れいります。つひ(イ)、みんなが徴発徴発と申すもんですから、あゝいふことを申しましてお叱りをうけました。」
「それでも貴様はあれ切り、支那人の物を取らんやうになつたから感心だ。」
「全くお蔭を持ちまして心得違を致しませんものですから、凱旋いたしますまで、どの位肩身が広かったか知れません。大連でみんなが背嚢を調べられましたときも、銀の箸が出たり、女の着物が出たりして恥を掻く中で、わたくし丈は大息張りでござりました。あの金州の鶏なんぞは、ちやんが、ほい、又お叱りを受け損なう処でござりました。支那人が逃げた跡に、卵を抱いてゐたので、主はないのだと申しますのに、そんならその主のいない家に持って行つて置いて来いと仰やつたのには、実に驚きましたのでござります。」

 麻生が持ってきた鶏を、石田は食べようとせずに、そのまま飼うことにした。その飼っている鶏が南隣の畠を荒らしたため、隣家の40歳くらいの女が石田に、

 豊前には諺がある。何町歩とかの畑を持たないでは、鶏を飼ってはならないといふのである。然るに借屋ずまひをしてゐて鶏を飼ふなんぞといふのは僭越も亦甚しい。サアベルをさして馬に騎つてゐるものは何をしても好いと思ふのは心得違である。…女はこんな事も言ふ。借家人の為ることは家主の責任である。サアベルが強(コワ)くて物が言へないやうなら、サアベルなんぞに始から家を貸さないが好い。

 と、声を張り上げて怒鳴られる。
 この作品は、鴎外が陸軍軍医監に任ぜられたのち、第十二師団軍医部長として小倉に赴任した明治32(1899)年6月19日から、同職を免ぜられ第一師団軍医部長に補せられた明治35(1902)年3月14日までの小倉時代を素材にしたものであることから、日清戦争の国内の状況を描いているともいえよう。このわずかな文章に、戦地での日本兵の情況と日清戦争と日本人、日清戦後の日本とがみごとに描かれている。
 麻生が石田に叱られたのは、日本の兵士が「徴発徴発」といって中国人の住民から略奪するのをとがめられたこと、「ちゃん」という中国人に対する蔑視語を使ったこと、であった。隣の女が石田に怒鳴ったのは、日清戦争に勝利し、その威勢を借りて傍若無人にに振る舞う「サアベル」つまり、軍隊が聖域化し、軍人が闊歩する姿に、民衆がかなりの怒りと反発を感じていたことを表現していよう。

 明治17(1884)年8月、陸軍二等軍医の鴎外は、23歳でドイツに留学し、27歳になった21年9月に帰国した。青年時代にヨーロッパ文化に触れた鴎外は、西洋合理主義と西洋の文明論を身につけるが、文明を意識し、戦場に臨み、日本への野蛮な行為に戸惑いを見せる。自らを文明人と認識する鴎外にとって、戦場や日本の社会における現実は、あまりに文明とかけはなれ、野蛮にさえみえる。そこでの葛藤が、明治という時代をある意味で表現していたといえよう。
 鴎外が、明治42年これを描いたのは、日清戦争後次第に進行し、日露戦争後、顕著となってきた軍紀の乱れと、目にあまる軍人の横暴、そして民衆の中国人への差別に、一つの警鐘を鳴らしたかったからというではあるまいか。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    序論 日本近代化と大陸国家化
 ・・・
 たとえば、極東分割への列強の動きとしてすぐ頭に浮かぶ国家は、ロシアである。ロシアは不凍港を求め沿海州よりの南下を一貫してめざしている、という固定観念がある。しかし、そのロシアは、日清戦争前においては、「朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすだろう」(1888年4月26日の朝鮮政策についての特別会議議事録、本書295頁で後述)と考えており、極東においては南下=朝鮮支配をめざしてはいなかった。一貫した南下政策など神話にすぎないのである。しかし、もちろんロシアは南下をまったく考えていなかったわけではなく、清軍事力の弱さが白日のもとにさらされた日清戦争後においてはそうした政策をとるようになる。つまり、列強には、一貫した不変の政策(たとえばロシアの南下政策)があるわけではなく、その時々の状況のなかでもっとも有利と判断する政策をとるのである。
 ・・・
 上記(本書295頁で後述)の部分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第一篇 近代化過程における外交と財政  -1882~1894-
                   第三章 初期議会期の朝鮮政策と財政
 付論 日清戦前期の極東情勢
 ・・・
 第二に朝鮮政策、英露両国は、朝鮮をどのようにしようと考えていたのだろうか。イギリスの朝鮮政策の目的は、すでに見たように、それがロシアの支配下に陥るのを阻止することであり、その支配は考えていなかった。(本書173頁)。一方ロシアはどうだろうか。1888年、侍従武官長・沿アムール総督のコルフと外務省アジア局長ジノヴィエフが朝鮮政策について協議したが、彼らの下した判断は、「朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすだろう」(『19世紀末におけるロシアと中国』29頁)、というものであった。ロシアは朝鮮へ南下しようとは考えておらず、その朝鮮政策の目的は、それが敵対国の手におちるのを防ぐことであり、1886年には朝鮮の領土保全を保障する協定を結ぶことを清に提議していたほどであった。
 ・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策

2017年12月03日 | 国際・政治

  司馬遼太郎は、明治時代の戦争を肯定的に描き、逆に昭和時代の戦争を否定的に描いていることで知られていますが、そうしたことについては、下記の資料1「歴史と視点 -私の雑記帳ー」司馬遼太郎(新潮文庫),資料2「この国のかたち 四」司馬遼太郎(文藝春秋),資料3「この国のかたち 六」司馬遼太郎(文芸春秋 1996)などで、自ら語ってもいます。司馬遼太郎が、いろいろな側面で、明治時代を高く評価していることがわかります。

 でも、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである。”という考え方と同じように、下記の資料1の文章にみられるような、明治の軍人が”昭和初期に中国へ侵略戦争をやった軍部指導者たちにくらべると、まるで別な民族であったような観さえある”というのも、私には受け入れがたいとらえ方です。
 特に、資料2の文章にある、”日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう”というのも、私にはとても受け入れがたいです。

 その明治時代を肯定的にとらえる司馬遼太郎の考え方が源流となって、自由主義史観研究会が生まれたことは、資料4の「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)に抜粋した文章でわかります。
 そして、歴史教育は改革されなければならないとする同研究会の主張に基づいて、『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』がつくられたこと、さらに、その教科書で日々学んでいる子ども達がいることは、私には看過できません。

 だから、私は、司馬遼太郎とは逆に、先の大戦の惨禍は、明治維新以後に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)や確立された組織体制の継続・拡大・強化・徹底などの結果であると考え、旅順虐殺事件や朝鮮王宮占領事件のみならず、歴史学者が取り上げている当時の資料や証言を正しく理解して、時代の雰囲気に流されないようにしたいと思っています。

  それは、政府発表の

平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から起算して満150年の年に当たります。この「明治150年」をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。このため、政府においては、こうした基本的な考え方を踏まえ、「明治150年」に関連する施策に積極的に取り組んでいます。

にも関わることで、「歴史に学ぶ」ということの意味を考えることでもあると思います。子ども達に誇りをもたせるために、過去の過ちや日本にとって不都合な歴史的事実をなかったことにするような歴史教育では、近隣諸国の理解が得られないでしょうし、また、日本国内の圧政の復活にもつながってしまうのではないかと思っています。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        大正生まれの『故老』
 ・・・
 私の手もとに、日清戦争のとき広島大本営の軍事内局長だった少将岡沢精(オカザワクワシ)の各師団長へ送った通達文の草稿がある。
 「我軍ハ仁義ヲ以(モツ)テ動キ、文明ニ依(ヨツ)テ戦フモノナリ。故ニ我軍ノ敵トスル処(トコロ)ハ敵国の軍隊ニシテ、其(ソノ)一個人ニアラズ。サレバ敵軍ニ当リテハ素(モト)ヨリ勇壮ナリト雖(イエド)モ、其降人、捕虜、傷者ノ如(ゴト)キ、我ニ敵抗セザルモノニ対シテハ之(コレ)ヲ賞撫(ショウブ)スベキ事、嚮(サキ)ニ陸軍大臣ヨリ訓示セラレタルガ如シ」
 戦うについても
 「文明を準拠として戦う」
 などというあたりが、明治の新興国家の軍人らしい昂揚であり、昭和初期に中国へ侵略戦争をやった軍部指導者たちにくらべると、まるで別な民族であったような観さえある。
 軍隊内部に対しても、「戦陣訓」のような督戦隊的などぎつい脅迫的布達文はなかった。
 ・・・以下略
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        日本人の二十世紀
  ロシアへの恐怖  
 日露戦争がなぜ起こったのかは教科書に任せるとして、基本的には朝鮮半島問題をめぐる国際紛争でした。
 朝鮮半島については、当時の日本の国防論では地理的な形態としてわが列島の脇腹に突きつけられた刃(ヤイバ)だと思っていた。その朝鮮に対し、既に洋務運動に目覚め近代化しつつある清国が、宗主国としていろいろ介入し始めた。日本はこれが怖かったのです。そして日清戦争を起こす。日本の勝利で、清朝は一応朝鮮から手を引きました。そこへ、真空地帯に空気が入ってくるようにしてロシアが朝鮮に入ってくる。ロシアは、まるで新天地を見出したかの如き振る舞いで、それがやはり日本にとって恐怖でした。結局ロシアを追っ払うためにいろいろなプロセスをへたあと戦争になってしまう。
 いまから思えば、その後の日本の近代は、朝鮮半島を意識し過ぎたために、基本的な過ちを犯していくことになります。この二十世紀初頭に、朝鮮半島などうち捨てておけばよかったという意見もあり得ます。海軍力さえ充実しておけば、朝鮮半島がロシアになったところで、そんなにおそろしい刃ではなかったかもしれない。しかし、当時の人間の地政学的感覚は、いまでは想像できないのですが、もう怖くて怖くてしようがなかった。ここを思いやってやらないと明治というのは分かりにくい。
 たとえば日露戦争をしないという選択肢もあり得たと思います。しかしではロシアがずるずると朝鮮半島に進出し、日本の前まで来て、ついに日本に及んでもなお我慢ーー戦争しないことーーができるものなのか。もし我慢すれば国民的元気というものがなくなるのではないか。これがなくなると、国家は消滅してしまうのではないかーーいまなら消滅してもいいという考え方があり得るでしょうがーー当時は国民国家を持って三十余年経ったばかりなのです。
 新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。
 ・・・以下略
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「明治憲法が上からの欽定憲法であり、また戦後憲法が敗戦によってえた憲法であるなどといういきさつ論は、憲法というものの重さを考える上で、さほど意味をもたない。明治憲法は明治の最大の遺産だった。しかし、それが健康だったのは、統帥権の台頭までわずか四十年にすぎなかった」
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)

                        司馬史観の説得力
  ーーー「東京裁判=コミンテルン史観」を覆す『坂の上の雲』
 歴史教育と「司馬史観」
 戦後日本の歴史教育は、日本の近現代史をもっぱら暗黒・非道なものとして描き出し、歴史を学ぶ者に未来を展望する知恵と勇気を与えるものではなかった。そのようになった原因は、七年間にわたるアメリカ占領下に、アメリカの国家利益を代弁する「東京裁判史観」と、1930年代のソ連の国家利益に起源をもつ「コミンテルン史観」が「日本国家の否定」という共通項を媒介にして合体し、それが歴史教育の骨格を形成したことにある。日本国家のために弁ずる余地は存在しなかったのである。

 私自身はこうした歴史教育を受けて育った世代である。日本断罪史観は、長い間、わたしにとって空気のように当たり前のことであった。その歴史観の部分的なほころびはあちこちで感じていたが、自分自身の歴史観を根本的に組み替える必要に迫られる体験をしないできた。その認識の枠組みを変える最初の、しかもおそらく最大の要因が、司馬遼太郎の作品との出合いであったと今にして思えてくるのである。もし、その出合いがなかったら、私が戦後歴史教育の呪縛から抜け出すことは困難だったと思われる。

 現在、私は、歴史教育の改革運動を進めている。「東京裁判=コミンテルン史観」の克服が最大の課題だが、その裏返しとしての「大東亜戦争肯定史観」にも私は与(クミ)することはできない。そこで、私は、新しい近現代史教育の枠組みとして「自由主義史観」という第三の史観を構想し、自由主義史観研究会を組織して教材の開発や実践の創造に取り組んでいる。その成果については、さし当たり、季刊雑誌『近現代史の授業改革』(明治図書)、および単行本『教科書が教えない歴史』(扶桑社)と『産経新聞』のオピニオンのページに連載されている読み物教材「教科書が歪めた歴史」をご覧いただきたい。

 さて、私が「自由主義史観」を構想する上でも司馬作品は大きな位置を占めた。もちろん、私は、歴史教育の見直しなどという特別の意図をもって司馬作品を読んできたわけではない。私の世代の多くの人々がそうであるように、私も松本清張を読み、森村誠一を読む、その延長上で、流行作家の一人としての司馬遼太郎を読んだに過ぎない。それは、何かの目的のためではなく楽しみのためだった。そして、今から考えると不思議なことなのだが、司馬の幕末・維新期に取材した作品を読んでいた段階では、歴史学のほうから植え付けられた近現代史像の枠組みを根本的に変えなければならないと切迫した状態には追い込まれなかった。
 例えば、私は、坂本龍馬を描いた『龍馬がゆく』、吉田松陰と高杉晋作を描いた『世に棲む日々』、大村益次郎を描いた『花神』、西郷隆盛と大久保利通を中心人物とする『翔ぶが如く』のような一連の作品を読んできたにもかかわらず、それらの作品の描き出すイメージは、一方で私の頭を占領していたマルクス主義的傾向の強い明治維新観と付き合わせることもなく、両者は平和共存していたのである。

 決定的な分岐点は、日露戦争を扱った『坂の上の雲』との出合いであった。この作品は私の中にあった「東京裁判=コミンテルン史観」を根底から揺るがすのっぴきならない問いをつきつけるものであった。
 私は、日露戦争は日本とロシアの双方の側からみてまぎれもない帝国主義戦争であり、日本の大陸侵略の第一歩(日清戦争から数えれば第二歩)だと信じ込んでいた。そして、正直に打ち明ければ、日本陸軍の創設者山県有朋のような人物のみならず、明治憲法の草案者であり、のちにハルピン駅頭で朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された伊藤博文などをも含むこの時期の日本の国家指導者たちを、極悪非道なマフィアの一味であるかのようにイメージしていたのである。なるほどある者は他の者より少し穏健で平和的であるといった個人差はあるにしても、彼らに共通する本質は帝国主義的侵略主義者であることだと考えていたのである。こういう見方と矛盾する日露戦争評価は、右翼ないし軍国主義復活を狙う勢力の宣伝にすぎないと、私の頭の中では「情報処理」されていた。偏見として固定した先入観はおそろしいものである。
 『坂の上の雲』で、日露戦争期の国家指導者の良質な部分が、いかに渾身の力をふりしぼってこの民族的危機を防いだか、その事績に接して、私は彼らをならず者の一味のようにイメージしていたことを誠に恥ずかしく、申し訳ないことであったと感じた。
 司馬は日露戦争以後の時代に取材した歴史小説を書いていない。それ以後の時代は、日本に否定的な記述が多くなることをおそれて、司馬の美学からは書けなかったのであろう。しかし、史論の形ではいくつかの発言を行っている。そこで、司馬の小説と史論を組み合わせると、ひとつのまとまりをもった「司馬史観」を浮かびあがらせることができる。このような意味での「司馬史観」を日本近現代史のもっとも具体的なイメージとして歴史を教える教師の間で広く共有されるようにすることが、もっとも現実的な近現代史教育の改革の第一歩だと私は考えた。
「東京裁判=コミンテルン史観」の影響を受けてしまった人々を説得するにはこれ以外の方法はないとすら思えたのである。だから私は拙著『近現代史教育の改革』(明治図書)で、「自由主義史観」の提唱にあたり、まず、「司馬史観」を最初にとり上げて全体的なイメージを与えることを先行させ、次いで、戦略論、数量経済史、という分析的な議論に進んでいくストラテジーを採ったのである。
 では、その「司馬史観」とは何か。歴史教育の改革という問題意識に立って、その骨格を再構成してみたい。
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 「司馬史観」の四つの特徴
 以上、私が理解する限りでの「司馬史観」の要点をのべた。「司馬史観」の発想の特徴としてあげられるのは、次の四点である。そして、これらは、今後の歴史教育改革の観点として最も重要な点である。
 「司馬史観」の特徴は、第一に、健康なナショナリズムである。これについては、すでに日露戦争の紹介で述べたことと重なるのであまり説明を要しないだろう。
 この点は、戦後の「東京裁判=コミンテルン史観」が、ナショナルなものの全面否定に陥ったのと対照的である。それは結局「東京裁判=コミンテルン史観」が外国の国家利益に奉仕する歴史観だからである。しかし、この側面に正当な位置を与えることなしに近現代史教育の改革はあり得ない。
 ・・・以下略
第二に、リアリズムである。・・・以下略
第三に、あらゆるイデオロギー的なるものから自由になろうとする志向である。・・・以下略
第四に、官僚主義批判である。・・・以下略

 

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司馬遼太郎 「明るい明治」? 二つの事件

2017年11月27日 | 国際・政治

 先日、大連である歴史家の日中関係に関わる話を聞く機会があったのですが、その歴史家は、日清戦争における旅順攻略戦の後、旅順に入った日本兵が市内及び近郊で、無抵抗の市民を多数虐殺した旅順虐殺事件について、日本がきちんと事件に向き合っていれば南京虐殺事件は起きなかったはずだというようなことを話しました。でも、その旅順虐殺事件に関わる著書は極めて少なく、また、事件を知る日本人も決して多くありません。日本ではほとんど知られていないと言っても過言ではないと思います。それは、日本が明治以来そうした加害の事実を伏せることに腐心し、適切に対処することなく葬り去って来たからではないかと思います。

 そして、そうした姿勢が、いろいろな組織の勧告や国際世論を無視して、「従軍慰安婦」に関する記述を教科書から削除するというような方針に象徴されるように、現在の安倍政権にまで続いているように思います。

 すでに「日清戦争と旅順虐殺事件 蹇蹇録より」で一部抜粋したように、旅順虐殺事件当時外務大臣であった陸奥宗光の「蹇蹇録」には、事件に関する海外の報道を懸命に抑えようとした陸奥宗光と海外公使のやりとりが記録されています。工作資金に関するようなやりとりもありました。ところが、犯罪行為である虐殺事件対する法的な処置や対応策、関わった人間に対する裁きのようなものは何も確認できませんでした。二度と同じような事件を起こさないようにするための取り組みは、ほとんどなかったのではないかと思います。
 旅順虐殺事件は、虐殺や略奪などの態様のみならず、報道に対する圧力や工作などの面でも、事件に対する法的処置や対応策の面でも、南京虐殺事件と極めて似通っていると、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)を読んで感じました。

 事件については、外国人記者の記事による海外での報道とともに、当時検閲の対象ではなかった日本軍兵士の「従軍日記」や「手記」に記録されており、

毎家多キハ十数名少キモ二三名ノ敵屍アリ白髯(ハクゼン)ノ老爺(ロウヤ)ハ嬰児ト共ニ斃(タフ)レ白髪ノ老婆ハ嫁娘ト共ニ手ヲ連ネテ横ハル其惨状実ニ名状スヘカラス(中略)海岸ニ出ツレハ我軍艦水雷艇数隻煙ヲ上ケテ碇泊波打際ニハ死屍(シシ)ノ漂着セルヲ散見セリ(中略)帰途ハ他路ヲ取ル何ソ計ラン途上死屍累々トシテ冬日モ尚ホ腥(ナマグサ)キヲ覚ユ           砲兵第四中隊縦列兵士小野六蔵

などというような文章が残されていることから、老人や女性、嬰児までもが殺されたことがわかります。
 また、とにかく事実が公になることをできるだけ抑え、公になってしまった事実については、「便衣兵が…」と巧みに言い逃れをする姿勢が、南京虐殺事件につながっていったということだろうと思うのです。

 したがって、司馬遼太郎の「昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである」というような考え方の下記資料1のような文章は、私には理解できません。彼の「明るい明治」と「暗い昭和」の言葉で言えば、「暗い昭和」は、すでに明治時代から始まっており、明治維新以後に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)や確立された組織体制の継続・拡大・強化・徹底などの結果、さらに問題が深刻化して司馬のいう「暗い昭和」に至ったということではないかと思います。

 下記に抜粋した「朝鮮王宮占領事件」に関する資料も、「明るい明治」ではなく、「暗い昭和」を連想させる事件であると思います。

 日清戦争における「旅順虐殺事件」や、下記資料2の「朝鮮王宮占領事件」に目を向ければ、「明るい明治」の言葉は出てこないのではないでしょうか。
 資料1は 「この国のかたち 一」司馬遼太郎(文芸春秋 1986~1987)から抜粋しました。
 資料2は『歴史の偽造をただす-戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)から抜粋しました。日本軍の「朝鮮王宮占領」の事実も、決して無視されてはならない事件だと思います。
資料1-------------ーーー-------------ーーーーーーーーーー---------------

                       この国のかたち 一

 4 ”統帥権”の無限性

 以上、何回か堅くるしいことを書いてきた。ありようは、ただ一つのことを言おうとしている。昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである。
 たとえば戦後”社会科学”的な用語として使われる「天皇制」などというえぐいことばも、多分にこの非連続な時代がイメージの核になっている。

 ーーーあんな時代は日本ではない。
 と、理不尽なことを、灰皿でも叩(タタ)きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。
 さきに”異胎の時代”ということばをつかった。
 その二十年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇(ソウギ)の生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続性がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期とこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる。つなぐとは単純接着という意味でもあり、また電流が通じうるという意味でもある。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
                     第一章 百年目の発見

  2 《公刊戦史》と「佐藤文庫」の『日清戦史』草案

『日本外交文書』や《公刊戦史》はどう書いているのか

1894(明治27)年7月23日早朝の日本軍による朝鮮王宮占領、景福宮(キョンボックン)の占領について、朝鮮駐在日本公使大鳥圭介から陸奥宗光外務大臣にあてた公電の第一報は、当日午前8時10分に打電された。それには、次のように述べられていた。

 朝鮮政府は本使の --- 電信に述べたる第二の要求に対し、甚だ不満足なる回答をなせしをもって、やむを得ず王宮を囲むの処置をとるに至り、本使は7月23日早朝にこの手段を施し、朝鮮兵は日本兵に向かって発砲し、双方互いに砲撃せり。(『日本外交文書』第二十七巻第一冊 四百十九号文書、「朝鮮国政府ノ回答不満足ナル故王宮ヲ囲ム処置ニ出デタル旨報告ノ件」)

 これはごく簡単な報告だけで、その状況を具体的に初めて伝えたのは、当日午後五時発信の大鳥圭介公使から陸奥外相にあてた公電、「王宮ヲ囲ミシ際ノ情況報告ノ件」(同右、四百二十一号文書)である。
 この公電の全文は次の通りである。

 発砲はおよそ十五分間も引続き今はすべて静謐に帰したり。督辧(トクベン)交渉通商事務は王命を奉じ来たりて本使に参内(サンダイイ)せんことを請えり。本使王宮に至るや大院君みずから本使を迎え、国王は国政及び改革の事を挙げて君に専任せられたる旨を述べ、すべて本使と協議すべしと告げたり。本使は外国使臣に回章を送り、日韓間談判の成り行きに因(ヨ)り龍山に在る我兵の一部を京城へ進入せしむること必要となり、しこうして龍山の兵は午前四時頃入京し、王宮の後に当たる丘に駐陣するため南門より王宮に沿いて進みたるに、王宮護衛兵及び街頭に配置しあるところの多数の兵士は我兵に向って発砲せり。よって我兵をして余儀なくこれに応じて発砲し、王宮に入りこれを守衛せしむに至りたることを告げ、且つ日本政府においては決して侵略の意なき旨を保証せり。

 つまり大鳥公使は朝鮮に駐在していた外国の外交官に対して情況説明の文書を送り、その中で、朝鮮政府との交渉の成り行きにより、日本軍が王宮の後にある丘に陣取るため王宮に沿って進んでいたところ、王宮やその周辺に配備されていた朝鮮兵の多数が日本軍に発砲した、そこで日本軍は余儀なく応戦し、王宮に入って王宮を守ることにしたのである。日本政府には侵略の意図は無い旨を保証したと言うのである。
 参謀本部が公刊した『明治廿七八年日清戦史』第一巻でも、この朝鮮王宮占領については、右の大鳥公使の公電の趣旨と同様で、次のように書かれている。

 ……大鳥公使は韓廷に対する秕政(ヒセイ)改革談判のたやすく進捗せざるのみならず、ちかごろ韓廷とみに強硬に傾き我が要求を拒否せんとし、人民は清兵増発もしくは入京の風聞に依頼してようやく不遜となり、事態すこぶる容易ならざるをもって、更に旅団の一部を入京せしめんことを請求するに至れり〔第一章参照〕。因って旅団長は歩兵第二十一連隊第二大隊(釜山守備隊たる第八中隊欠)及び工兵一小隊を王宮北方山地〔此高地中玉瀑壇と称する地点あり、当時号砲の如きもの有りて我が公使館に対す、よってこれらの監視を兼ねこの地方を選定したるなり〕に移し幕営せしめんとし、人民の騒擾を避けんがため特に23日払暁において右諸隊を京城に入れ、その進んで王宮の東側を通過するや、王宮守備兵及びその附近に屯在せる韓兵突然たって我を射撃し、我兵も亦匆卒(ソウソツ)応射防御し、なおこの不規律なる韓兵を駆逐し京城以外に退かしむるにあらざればいつ如何の事変を再起すべきも測られざるに因り、ついに王宮に入り韓兵の射撃を冒してこれを漸次北方城外に駆逐し、一時代わりて王宮四周を守備せり。すでにして山口大隊長は国王雍和門内に在るの報を得、部下の発火を制止し国王の行在(アンザイ)に赴けり。しかるに門内多数の韓兵麕集(グンシュウ)騒擾するの状あるをもって、韓吏に交渉しその武器を解いて我に交付せしめ、ついで国王に謁を請い両国軍兵不測の衝突に因り宸襟(シンキン)を悩ませしを謝し、且つ誓って玉体を保護し決して危害なからしむべきを奏せり。
 龍山屯在諸隊はこの報を得一時入京せしも、すでに平定の後なるに因りその一部をもって京城諸門を守備して非常を警(イマシ)め、他はその幕営に帰らしめたり。しこうして午前十一時大院君参内し、ついで大鳥公使、韓廷諸大臣及び各国公使相前後して王宮に入る。この日午後大鳥公使は韓廷の請求により王宮の守備を山口少佐の率いる大隊に委嘱す。午後五時旅団長その幕僚を従え騎兵中隊に護衛せられ、入りて国王に謁し宸襟を慰安する所あり。(『明治廿七八年日清戦争史』第一巻、東京印刷株式会社、1904年3月発行、119~120ページ)

 わずかに八〇〇字たらずの叙述である。また、 『明治廿七八年日清戦争史』第八巻の「付録第百二十二
」として「日清戦暦」があり、日清戦争中の諸戦闘に参加した兵力を日付順に記載しているが、この朝鮮王宮占領については、戦闘名は「京城における日韓両国兵の衝突」、参与した兵力は「歩兵三中隊、工兵一小隊」ときわめて小規模な戦闘であったかのように記録されている。
 日本政府は、日清戦争が始まった後、この朝鮮王宮占領から約一ヶ月の八月二十日、朝鮮政府と「日韓暫定合同条款」を結んだが、そのなかで、「本年七月二十三日王宮近傍において起こりたる両国兵員遇爾衝突事件は彼此(カシ)共にこれを追究せざるべし」との一項を朝鮮政府に認めさせた。朝鮮政府が事件の真相を口外するのを防ぎ、王宮占領の事実に蓋(フタ)をしてしまったのである。

 要するに、日本政府の公式見解として、大鳥公使の公電の趣旨が貫かれ、王宮占領は、最初に発砲した朝鮮の兵士と偶発的な衝突から始まり、日本軍はやむを得ず応戦し、王宮に入り、国王を保護した、小規模な衝突事件に過ぎないということに終始したのである。この見解は現在に至るまで日本政府から公式には修正されていない。
 日清戦争当時の新聞報道や巷間に流布した戦記類はもちろん、第二次世界大戦後に刊行された戦記の類でもこの見解は踏襲され、また最近の日清戦争研究でも、なおこれによっているものもある。

 従来の研究では

 しかしこうした日本政府や日本軍の公式見解に疑問を持ち、真相究明にメスをふるった歴史家がごく少ないながらいた。もちろん第二次世界大戦後のことであるが、朝鮮人としての鋭い歴史感覚から、この王宮占領の歴史的な意味を初めて系統的に論じたのは、在日朝鮮人の歴史家、朴宗根(パクジョングン)熊本学園大学教授であった。朴教授によれば、日本軍の朝鮮王宮占領の目的は、「第一に、国王が王宮から脱出することを防止して、これを『擒(トリコ)』(=虜)にすること、第二に、朝鮮政府から清軍の『駆逐依頼』を要望させるためであり、第三には、閔(ミン)氏政権を倒して親日的な開化政権を樹立すること」の三つであった(『日清戦争と朝鮮』、青木書店、1982年、63ページ)
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                     第二章 朝鮮王宮占領の実相

2 王宮占領計画
 ※「王宮威嚇」の目的
 大鳥公使が最後通牒を朝鮮政府につきつけ、「王宮威嚇」のことが現実の問題になった。大鳥公使の意を受けて、七月二十日午後一時、本野一郎参事官が第五師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて、朝鮮政府を威嚇するため王宮を囲むことを提案するのである。
 『日清戦争』の草案は、本野参事官の申し入れを次のように書いている。(以下、『日清戦争史』草案からの引用は、福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『明治廿七八年日清戦史第二冊決定草案
自第十一章至第二十四章』による)

 ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来り。因(ヨ)って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出(イ)でんがため、本日該政府に向って清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を二十二日と限れり。もし期限に至り確乎(カッコ)たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君(テウオングン)〔李昰応(イハウン)〕を推して入闕(ニュウケツ)せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘(ゲキジョウ)を我に嘱託せしむるを得べし。因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。

 つまり、この王宮占領は、朝鮮の国王高宗(コジョン)を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎだして政権の座につけ、朝鮮政府を従属させて、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる。つまり「開戦の名義」を手に入れる、さらにソウルにいる朝鮮兵の武装を解除することによって、日本軍が南方で清朝中国の軍隊と戦っている間、ソウルの安全を確保し、同時に軍需品の輸送や徴発などすべて朝鮮政府の命令で行う便宜を得る。こういう目的で遂行しようというのである。

 作戦計画の立案
 大島旅団長は、翌二十一日、大鳥公使を訪ね「一個大隊」で威嚇するという公使の提案を改め、「手続きを省略して直ちに旅団を進めてこれに従事せしむること」にした。そして歩兵二十一連隊長武田秀山中佐に作戦計画の立案をひそかに命じた。
 作成された「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」は、草案によると次のようなこのであった。日本軍の行動が『日本外交文書』や《公刊戦史》の言うところと、どんなに違っているかを知る上で、詳しくなるが全容を紹介する。

   朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画・・・略

計画の精神
 以上の計画の精神を案ずるに、歩兵第二十一連隊長の直接率うる同連隊の第二大隊(第八中隊欠)及び工兵一小隊より成る一団を動作の核心とし、これをして不意に起こりて王宮に侵入し、韓兵を駆逐し国王を擁し(第三草案の原文では、「国王を擒(トリコ)にし」となっていた--(中塚)これを守護せしむるに在り。〔国王を擁するは当時日本公使の希望する所なりしも、これが逃走を拒まんがためその身体を傷害するがごときこと在りては容易ならざる大事を引き起こすの恐れあるに因り、公使はたといこれを逸するもその身体に加害なきことを旅団長に要求したり。これ公使の意はもし国王にして逃走したる場合に遭遇せば、李昰応(イハウン)を摂政となし仮政府を組織するの考案なりしによる。すなわち王宮威迫の際、彰義門を開放し在らしめしゆえんなり。--- この割注は、第三草案修正の過程で新たに書き加えられたものである--中塚)。しこうしてその他の諸隊は外部の動作に任じたるものにして、すなわちその一部は主として京城諸営の韓兵を監視し武器を奪取して王宮に赴援(フエン)するあたわざらしめ、もって核心をして目的を達するに容易ならしめ、且つ日本及び欧米の官民ならびに李昰応一派の者に危害を及ぼさざらしむるに任じ、他の一部は万一の場合をおもんばかり京城に対して旅団幕営地を守護するに任じたるものなり。

 「核心部隊」である「歩兵第二十一連隊長の直接に率うる同連隊第二大隊」に「工兵一小隊」が同行したのは、王宮を囲んでいる塀あるいは門を破壊するには、爆薬の取り扱いに慣れている工兵部隊が必要だったからである。
 七月二十三日の王宮占領事件が「日韓両国兵士の偶然の衝突」といったものでは決してなく、日本公使館・日本陸軍の混成旅団が一体となって、事前に周到に準備した作戦計画に基づくものであったこと、そしてその作戦は王宮とその周辺のソウル中枢地域の全面占領であったことは、右の参謀本部自身が書いた記録によって今や明らかであろう。

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