真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


教育勅語 全文

2017年05月19日 | 国際・政治

 

 「教育勅語」は、森友学園問題で一躍注目を浴びることになりました。園児に教育勅語を暗唱させている場面が、衝撃的だったからではないかと思います。その後、安倍政権の閣僚や副大臣、大臣官房審議官などが、様々な議論の中で、「教育勅語」を擁護するような発言を繰り返し、ついに内閣が、「勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定するに至っています。

 今までにも、「教育勅語の内容の中には、夫婦相和し、あるいは朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」として、「こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えない」というような主張をする国会議員がいたと記憶しますが、そうした考え方は、戦後間もないころの衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」や参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」を無視するものであるとともに、日本の歴史を修正し、歪曲しようとするものではないかと思います。

 いわゆる「教育勅語」は、明治天皇の「教育ニ関スル勅語」として、1890年(明治23年)10月に発布されましたが、敗戦後国会で排除・失効の決議が行われるまで、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理として、「軍人勅諭」とともに、軍国主義の日本を支える重要な役割を担っていたことは、忘れてはならないと思います。
 また同時に、「教育勅語」の教育的意味を考えるとき、その内容とは別に、教育勅語の政治的な「扱い」が、教育を受ける子どもたちに与えた教育的意味の大きさも見逃すことができません。
 教育勅語発布後、文部省はその「謄本」を作り、全国の学校に配布したようですが、それは、その後ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに「奉安殿」などと呼ばれる特別な場所(校舎とは別に設けた、小さな神社風の建物)に保管されるようになったといいます。教育勅語の謄本を丁重に取り扱うよう命じる旨の「訓令」が発せられたからです。また、「小学校祝日大祭日儀式規定」や、「小学校令施行規則」などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を「奉読」(朗読)することが定められました。
 教育勅語奉読を聞く子どもたちは、「頭を垂れて、校長先生が勅語を持って来るのを待っていた」といいます。また、勅語を奉読する校長は、フロックコートなどで正装し、真新しい白手袋をつけ、大事に納めた箱から謄本を取り出し、「勅語節」などといわれる独特の抑揚を付けて奉読したと言われています。
 さらに、子どもたちは、勅語の保管場所である「奉安殿」の前では、登下校時に「最敬礼」することが義務とされたようです。したがって、校長の勅語奉読を聞く子どもたちの多くは、その意味が分からなくても、「教育勅語」にただならぬものを感じたのだと思います。

 でも、その教育勅語の内容に関しては、発布直後から、いくつかの議論があったようです。「教育勅語」山住正己(朝日選書154)は、当時の帝国大学文化大学の著名な教授の発布直後の発言と、それに対する批判を取り上げています。(資料1)
 教育勅語を「五倫五常の道」と考える儒教主義的な解釈と「皇祖皇宗の遺訓」であることこそ重要であるという、資料1にみられるような考え方の論争です。
 そして、日本は、教育勅語の儒教主義的な解釈を否定し、日本の国体を「万世一系の天皇が神勅を奉体して永遠に統治する国であり、万古不易の国体を誇る」ものとするとともに、教育についても「その根源をここに発する(敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス)」とする考え方を徹底させる方向に進んでいったのだと思います。したがって、教育勅語が神聖視されるようになっていったことも不思議ではないと思います。

 日本は、「万世一系の天皇が神勅を奉体して永遠に統治する国」であるが故に、教育勅語は、国家に緊急の事態が起これば、国に命を捧げることを究極目標とし、教育勅語があげる日常の徳目は、究極目標のための手段として意味を持つという考え方で利用された、ということだと思います。でも、そうした考え方は、明治以降知識人に浸透しつつあった個人主義や自由主義などの西洋近代思想と相容れず、当然のことながら、自由民権運動などを抑えることにもなったのではないでしょうか。

 だから、「教育勅語の内容の中には、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」というような主張は、そうした教育勅語の考え方を無視するものだと思うのです。教育勅語で重視されたのは、そうした個々の徳目の遵守ではなく、国に緊急の事態が発生したとき、身命を捧げる覚悟であり、個々の徳目は、万古不易の国体を守るという目的達成のためにこそ意味があるという考え方です。そして、そうした考え方で、子どもたちの教育にあたることが皇祖皇宗の遺訓であるとされたわけです。

 教育勅語を園児に暗唱させたり、教育現場で教育勅語を活用することを認める人たちの本音はいったいどこにあるのか、と疑問に思います。

 皇祖皇宗ノ遺訓」を説く「教育勅語」ですが、発布当初は、その「皇祖皇宗」に関してさえ、様々な解釈があったようで、驚きました。
 
 下記の「教育勅語」全文(資料2)は「教育勅語」山住正己(朝日選書154)から抜粋しましたが、資料3は、その漢字の読みを確認しつつ平仮名にしたものです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 第四章 勅語の精神
一 国体
 ・・・
 最初に発言したのは、旧鹿児島藩士の歴史学者・重野安繹(ヤスツグ・1827-1910)であった。重野は11月3日の天長節に、帝国大学で開かれた勅語拝読会で、学生らを前に、「勅語の大旨は蓋し忠君愛国及父子兄弟夫婦朋友の道を履行するに在りて、即ち五倫五常の道なり(君臣父子等は其体、恭倹以下は其の目なり)五輪五常は儒教の名目なれば是を儒教主義と云ふも不可なかるべし。然るにその道は実に皇祖皇宗の偉勲なりと宜ひしは深き仔細ある事なり」と述べた。この演説は、もとより重野個人の見解の発表だが、しかし、何といっても、最高学府であった帝大で、帝大教授が、やがて国家の指導者になると約束されていた学生を相手に行った演説であるだけに、社会全体にも重大な影響があると関心を寄せられ、その内容を知って遺憾に思った人が出るのは、当時としては、当然のことであった。
 十日後の『国民之友』(100号、11月13日)は、「重野安繹氏誤れり」という標題の論説をかかげ、この重野演説を強く批判していた。その要点は「其ソ道」は、神道、仏教の道、儒教の道のいずれか一つに限定されるものではなく、あくまでも皇祖皇宗の遺訓であるというところにあった。そこから、たとえば神武天皇の時代に儒教があったかと問うている。『国民之友』記者の激しい反発、鋭い語気を知るにはその一端を直接引いた方がよいだろう。

 何ぞ必ずしも教育の方針を儒教主義にせよと限り給ふが如きことあらんや。勅語中に其道の文字あるを以て、猥(ミダリ)に井蛙の見を以て、勅語の大なるを模捉せんとす。其無礼も亦た甚だしと云ふべし。吾人は重野博士の演説を以て、痛く憂とするもに非ず。然れども一大虚に吠えて万犬実を伝へ、日本全国の暗黒裡に圧伏せられ、擯斥せられ、蟄居せられたる者が、時を得顔に其頭を擡(モタ)げ、誤解の上に誤解を加へ、勅語の旗を押立てて、勅語以外の妄言を放たんことを恐るる而已(=スギナイ)。

 徳富蘇峰(1863~1957)の主宰する『国民之友』は、勅語が儒教主義によるものではないとし、勅語を勝手に解釈し、その威光の陰に隠れようとする者を告発しようとしていた。『国民之友』は、重野批判の文章をのせた号に、もう一つ、「教育方針の勅語」という題の教育勅語に関する論説をかかげていた。そこには、「此勅語なる者は、此勅語の下らざる前に於ても」、矢張我国教育方針たりしに相違なし。此の勅語なる者は只従来の方針をば、辱(カズカシ)くも天皇陛下に依りて、明かに我邦人の心裡に彫刻銘記せる者にして、別に新たなる教育の方針を開示せられたるに非ざるなり」と書かれていた。ここでは勅語が儒教主義と誤解されることを警戒するだけでなく、日本の教育方針が一貫して儒教主義ではなかったと主張したのである。しかし、当時、国体と儒教とが密接な関係にあると見ていたのは、重野だけではなかった。…

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教育勅語

  朕惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス爾(ナンヂ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己(オノ)レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵(シタガ)ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是(カク)ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯(コ)ノ道ハ実ニ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スベキ所之ヲ古今ニ通シテ謬(アヤマ)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶(トモ)ニ拳々服膺シテ咸(ミナ)其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾(コヒネガ)フ
  明治二十三年十月三十日
御名御璽(ギョメイギョジ)

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
教育勅語(読み)

 ちんおもフニ わカこうそこうそう くにヲはじムルコトこうえんニ とくヲたツルコトしんこうナリ わカしんみんよクちゅうニ よクこうニ おくちょうこころヲいつニシテ よよそノびヲなセルハ こレわカこくたいノせいかニシテ きょういくノえんげんまたじつニここニそんス
 
 なんじしんみん ふぼニこうニ けいていニゆうニ ふうふあいわシ ほうゆうあいしんシ きょうけんおのレヲじシ はくあいしゅうニおよホシ がくヲおさメ ぎょうヲならヒ もっテちのうヲけいはつシ とくきヲじょうじゅシ すすんテこうえきヲひろメ せいむヲひらキ つねニこくけんヲおもんシ こくほうニしたがヒ いったんかんきゅうアレハ ぎゆうこうニほうシ もっテてんじょうむきゅうノこううんヲふよくスヘシ かくノごとキハ ひとリちんカちゅうりょうノしんみんタルノミナラス またもっテなんじそせんノいふうヲけんしょうスルニたラン

 こノみちハ じつニわカこうそこうそうノいくんニシテ しそんしんみんノともニじゅんしゅスヘキところ これヲここんニつうシテあやまラス これヲちゅうがいニほどこシテもとラス ちんなんじしんみんトともニ けんけんふくようシテ みなそのとくヲいつニセンコトヲこいねがフ

明治二十三年十月三十日

ぎょめいぎょじ

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軍人勅諭 全文

2017年04月30日 | 国際・政治

 下記の「軍人勅諭」は、戦時中に発行された「軍人勅諭謹解」三浦藤作著(鶴書房・昭和19年9月発行)から抜粋しました。したがって、最近あまり目にしない漢字の旧字体が多く使われていますので、その一部は新字体に変えました。また、同書の「勅諭」の文章では、すべての漢字に読みがなが付けられていますが、その一部の読みがなを半角カタカナで漢字の後に括弧書きしました。旧仮名遣いについては、維持するようにしました。

  『軍人勅諭』(正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』)は、1882年(明治15年)1月に明治天皇が陸海軍の軍人に「下賜」したものですが、それは、参謀本部を政府(当時の太政官)のもとにある陸軍省から独立させ、天皇が直接統帥権を掌握し親裁することに決定した、いわゆる「統帥権の独立」(明示11年)や、陸軍卿山県有朋の名において、陸軍部内に頒布された「軍人訓戒」(西周の起草・明治11年)を、発展的に「勅諭」というかたちにまとめ、より一層天皇制絶対主義的なものにしようと意図した結果だろうと思います。

 山県有朋は、明治天皇の名により宣言された王政復古の大号令による天皇親政のもと、日本では初めての近代軍隊の組織化に取り組み、天皇の統帥権を確立するとともに、天皇の命令に絶対服従する軍隊を作り上げ、政権を強化しようと、「軍人訓戒」を改め、さらに進めて、天皇直々の「軍令」にも等しい「勅諭」というかたちで、軍人・軍隊に示したのだと思います。

 その勅諭は、前文において、「兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり」として、武士の世が「失体(失態)」であったのだとしています。天皇が、文武の大権を掌握するのが、日本本来の姿だというわけです。
 徳目としては、下記のように「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」の五つをあげ、「己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ」、とか「上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」などとして、天皇に対する絶対的自己献身を軍人・軍隊の最も重要な道徳的価値にしています。

 
 同書の著者・三浦藤作は、「前篇 軍事勅諭謹解通義、第三章 勅諭下賜当時の国情」で、「明治天皇には、国民思想の混乱、社会情勢の紛糾を深く御軫念あらせられ、明治十四年に、国会開設及び憲法制定についての詔勅を賜り、明治十五年に、陸海軍人に勅諭を賜り、明治二十三年に、教育に関する勅語を賜り、政治上・軍事上・教育上の大本を明らかにしたもうたのであつた」と書いていますが、「国民思想の混乱、社会情勢の紛糾」の原因は、主として欧化主義によるものであったと受け止めたようです。天皇や天皇を取り巻く関係者が、欧化主義により「日本伝統の美風」が失われていくことを憂慮し、日本を天皇制絶対主義の国として発展させるため、「軍人勅諭」や「教育勅語」を「下賜」したのだというわけです。

 関連して見逃すことができないのは、当時、自由民権運動の指導者の一人であった「植木枝盛」が、国民に兵役の義務を課さない志願兵制を主張し、天皇制絶対主義的軍隊ではなく民主制軍隊の必要性を主張していたことです。彼は、天皇制絶対主義的軍隊が、民主主義の成立・発展に障碍となることを見ぬいていたということだと思います。
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   勅諭
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(ミ)つから大伴物部の兵(ツハモノ)ともを率ゐ中国(ナカツクニ)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(タカミクラ)に即(ツ)かせられて天下(アメノシタ)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換(カハ)るに随(シタガ)ひて兵制の沿革も亦屡(シバシバ)なりき古(イニシエ)は天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)にて時ありては皇后皇太子の代(カハ)らせ給ふこともありつれと 大凡(オホヨソ)兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(ナカツヨ)に至りて文武の制度皆唐国(カラクニ)風に傚(ナラ)はせ給ひ六衛府(ロクエフ) を置き左右馬寮(サウメリョウ)を建て防人(サキモリ)なと設けられしかは兵制は整ひたてとも打続ける昇平(ショウヘイ)に狃(ナ)れて朝廷の政務も漸く文弱に流れければ平農おのづから二つに分かれ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変はり遂に武士となり兵馬の権は一向(ヒタスラ)に其武士ともの棟梁(トウリヤウ)たる者に帰し世の乱れと共に政治の大権も亦其手に落ち凡(オヨソ)七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換(カハ)りて斯(カク)なれるは人の力もて挽回(ヒキカヘ)すへきにあらすとはいひなから且(カツ)は我国体に戻(モト)り且つは我祖宗(ソソウ)の御制(オキテ)に背き奉(タテマツ)り浅閒(アサマ)しき次第なりき降(クダ)りて引化嘉永(コウクワカエイ)の頃より徳川の幕府其政(マツリゴト)衰へ剰(アマツサヘ)外国の事とも起りて其侮(アナドリ)をも受けぬへき勢(イキオヒ)に迫りければ朕は皇祖(オホヂノミコト)仁孝天皇皇孝明天皇いたく宸襟(シンキン)を悩し給ひしこそ忝(カタジケナ)くも又惶(カシコ)けれ然るに朕幼(イトケナ)くして天津日嗣(アマツヒツギ)を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統(カイダイイットウ)の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼(チュウシンリョウヒツ)ありて朕を輔翼せる功績(イサヲ)なり歴世祖宗の專(モハラ)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ゴユイタク)なりといへとも併(シカシナガラ)我臣民の其心に順逆の理を辨(ワキマ)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(アラタ)め我國の光を耀(カガヤカ)さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定(タテサダ)めぬ夫(ソレ)兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ココウ)と頼み汝等は朕を頭首と仰(アフ)きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(ショウテン)の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡(ツク)すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威(ミイヅ)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維(コレ)揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽(ホマレ)を偕(トモ)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ヒトツココロ)になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福(サイハイ)を受け我國の威烈は大(オオイ)に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶(ナホ)訓諭(ヲシヘサト)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

一 軍人は礼儀を正くすへし凡軍人には上元帥(カミゲンスイ)より下一卒(シモイッソツ)に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己(オノレ)か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧(フル)きものに對しては總(ス)へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(イササカモ)も輕侮驕傲(ケイブキョウゴウ)の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇(ネンゴロ)に取扱ひ慈愛を專一(センイチ)と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若(モシ)軍人たるものにして礼儀を紊(ミダ)り上を敬(イヤマ)はす下を惠(メグ)ますして一致の和諧を失ひたらんには啻(タダ)に軍隊の蠧毒(トドク)たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし

一 軍人は武勇を尚(トウト)ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴(トウト)へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况(マ)して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨(ワキマ)へ能(ヨ)く膽力(タンリョク)を練り思慮を殫(ツク)して事を謀(ハカ)るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼(オソレ)れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人(ショニン)の愛敬を得むと心掛けよ由(ヨシ)なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(サイロウ)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難(カタ)かるへし信とは己か言を踐行(フミオコナ)ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(ツマビラカ)に思考すへし朧氣(オボロゲ)なる事を假初(カリソメ)に諾(ウベナ)ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(キハマ)りて身の措(オ)き所に苦むことあり悔(ク)ゆとも其詮なし始に能々(ヨクヨク)事の順逆を辨(ワキマ)へ理非を考へ其言は所詮踐(フ)むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速(スミヤカ)に止(トドマ)るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍(ワザハイ)に遭ひ身を滅し屍(カバネ)の上の汚名を後世(ニチノヨ)まて遺(ノコ)せること其例(タメシ)(スクナ)からぬものを深く警(イマシ)めてやはあるへき

一 軍人は質素を旨(ムネ)とすへし凡質素を旨とせされは文弱(ブンジャク)に流れ輕薄に趨(ハシ)り驕奢華靡(ゴウシャクワビ)の風を好み遂には貪汚(タンヲ)に陷りて志(ココロザシ)も無下(ムゲ)に賤(イヤシ)くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪(ツマ)はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚(オロカ)なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風(シフウ)も兵氣(ヘイキ)も頓(トミ)に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼(オソ)れて曩(サキ)に免黜條例(メンチュツデウレイ)を施行し畧(ホボ)此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(コトサラ)に又之を訓(オシ)ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(オシヘ)を等閑(ナホザリ)にな思ひそ
右の五ヶ條は軍人たらんもの暫(シバシ)も忽(ユルガセ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(マゴコロ))こそ大切なれ抑(ソモソモ)此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心(マゴコロ)は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言(カゲン)も善行も皆うはへの裝飾(カザリ)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况(マ)してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧(コゾ)りて之を悦(ヨロコビ)ひなん朕一人の懌(ヨロコビ)のみならんや

明治十五年一月四日
御名

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捕虜刺殺訓練と戦陣訓

2017年04月20日 | 国際・政治

 「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋した下記の文章の中で、捕虜の刺殺ができなかった大越二等兵に投げかけた中尉の言葉

よし、正義を愛するならば、不正義を撲滅することが出来るはずだ。つまり敵を殺すことが出来るわけだ。このことがよく解れば捕虜を殺すことはなんでもない。二度と今日のようなことがないように、戦場に出る時のために十分に度胸をつけるのだ。そのための訓練に震えてしまうようではいけない。いいな、解ったら帰ってよろしい
は、日本軍特有の残虐性を示すものとして、私は見逃すことができません。なぜなら、捕虜を裁判なしに殺害することは、「ハーグ陸戦条約」に反する行為ですが、当時の日本軍が「 俘虜は人道をもって取り扱うこと」という原則を中心に、細かく定められた捕虜に関する国際法を無視し、初年兵の訓練のために、捕虜を殺害させていたという事実を、はっきり示していると思うからです。そして、それは第五十九師団師団長・藤田茂中将の次のような言葉を思い出させます。

兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない
此には銃殺より刺殺が効果的である

 また、下記の文章(「閉ざされた少年の眸」)を読んで、私は、刺殺訓練のための捕虜殺害を拒否し、リンチを受けたという”渡部良三”に、下記のような歌があったことを思い出しました。

いかがなる理にことよせて演習に罪明らかならぬ捕虜殺すとや
捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ

 日本軍兵士は、「皇軍」の兵士であるがゆえに、「皇軍」の「訓」(オシエ)である「戦陣訓」に反して「捕虜」になることは受け入れられず、兵士が「捕虜」になることは「死」を意味しました。だから、敵国の捕虜の人命も尊重されることがなかったのではないでしょうか。

 ”深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せん”ことを義務づけられた皇軍兵士は、”生きて虜囚の辱めを受け”てはならず、”死して罪禍の汚名を残すこと”が許されなかったわけですが、なぜ、捕虜になることが「辱めを受け」ることなのか、なぜ捕虜になることが、「汚名を残すこと」なのか、そこに人命軽視の落とし穴があるのではないか、と考えさせられるのです。

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
というような「皇軍の訓(オシエ)」がなく、完全に弾薬が尽きたり、食糧が尽きたり、あるいはまた、銃が持てなくなったり、失明したりして、戦いを継続することが不可能になったら降伏する、ということが認めらていれば、戦地における「餓死」「玉砕」などという酷い死はなく、捕虜の刺殺訓練などというものもなかったのではないでしょうか。
 したがって、「戦陣訓」というような「皇軍の訓(オシエ)」から、日本軍の人命軽視や残虐性がうまれたのではないかと思うのです。
 
 下記は、「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋しました。
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                   閉ざされた少年の眸
                                               大越千速
 教官室、石油ランプの灯は暗い。粗末なテーブルを前に、木椅子に腰かけている中尉と、その中尉に向かって直立不動の姿勢で立っている二等兵。室内は重くよどんでいる。
 若い中尉の色の白い細面の顔には、鋭さは見られず怒りの表情もなかった。二等兵は困惑のあまり茫然としていた。二人は向かいあったまま長い沈黙の時間が続いていた。
「お前は他人から殴られても、殴りかえさないか」
 沈黙を破って中尉が静かに言った。
「はい……その時になってみなければ……」
 二等兵は細い声で答えた。
「そうか、その時になってみなければわからないというのか。それではお前が殺されようとした場合はどうか。自分を守るため相手を殺そうとはしないのか」
「……」
「どうなのだ、世の中は常に戦争が絶えないのだ。歴史がそれを証明している。簡単に言うと正義と不正義の戦いだ。不正なやつがお前の生命を奪おうとした場合、お前はそいつに黙って生命を与えてやるのか」
「……」
「どうして答えられないのだ。与えるか与えないか、二つに一つ、簡単ではないか。与えるときは自分が死ぬ。与えないときは相手を殺して自分が生きる。ただそれだけのことだ」
「……」
「どうして返事が出来ないのだ、どっちも嫌だなどという馬鹿なことはないだろう」
「……」
「よし、最後に聞こう。正義と不正義とお前はどちらを愛するか」
「はい、正義を愛します」
二等兵は蚊の鳴くような声で答えた。
「よし、正義を愛するならば、不正義を撲滅することが出来るはずだ。つまり敵を殺すことが出来るわけだ。このことがよく解れば捕虜を殺すことはなんでもない。二度と今日のようなことがないように、戦場に出る時のために十分に度胸をつけるのだ。そのための訓練に震えてしまうようではいけない。いいな、解ったら帰ってよろしい」
「はい」
 二等兵は教官に敬礼して室外にさった。

 愛しき者よ、父はわが子御前たちを、そう呼ぼう。父が体験した戦争、太平洋戦争について、かつて父は多くを語らず、お前たちも多くを聞こうとしなかった。
 父は言うべくして戦争を語る自信がなく、おこがましさを許してくれるなら、正義の所在を模索し続けているのだと言おう。
 色即是空。仏教の言葉を借りるならば、実在的独断を極力打破して、世の中の実相を把握しようと……だが暗中模索の中、いたずらに時日は流れ去るのみ。結論のない戦争体験の父の言葉は、愛しき者お前たちよ、お前たちの正しい判断に委ねよう。
 教官室の二等兵は、従軍中の父である。私が従軍した駐屯地の城壁には、巨大な文字が横に書かれていた。その文字は、同文同種、防共和平、の八文字である。円形の白地の中に一字一字黒く書かれたそれらの文字、その文字の見える城外で、或る晴れた早春のその日、捕虜刺殺の実地訓練に、初年兵の私は、青くなって震えあがり刺殺することが出来なかった。教官室での説教は、そのためであった。

 共産軍少年兵捕虜の朱良春に、私が初めて接したのは、私が震えてしまった刺殺訓練の日の数日後である。
 私は、その日初めて城門分哨の勤務についたのである。そして、その哨舎の中に朱良春を見たのだ。古年兵の話によれば朱良春は、数日前に初年兵の実地訓練に供された数名の者と同様、共産部落の攻略戦における捕虜だという。そして朱良春は、少年兵のために処刑されないで、やがて釈放されるのだと。
 古年兵からその話を聞き、後ろ手に縛られている朱良春と視線をあわせた時、私は心の中で思わず微笑するのを覚えた。
 昼食、夕食、食事当番が哨舎に運んでくるそれらの食事は、朱良春にも全く同じ物が与えられた。
 駐屯地に、黄昏が迫る頃、黄色い大きな月が東の空に出て、砂丘に波状の陰をつくった。
 城壁の上を動哨する兵士の耳に、何処からともなく幽かな鈴の音が響く。此処は内蒙古オルドスの草原、あの砂丘の何処かをキャラバンが通っているに違いない。城壁の兵士は幻想の中に鈴の音を聞くのである。
 哨舎の中の少年兵捕虜は、後ろ手に縛られたまま舎屋の壁に背をもたせて眠った。
 私は控兵として、銃を手にし木椅子に腰かけて、戦争にはやはり勝たなければと、そんなことを、ふと考えたりした。
 二十四時間の分哨勤務を終わって、翌朝、私たちは新しい分哨要員と交替した。哨舎を去る時、私は昨夜支給された甘味品、飴玉の残り数個を、軍衣のポケットから出して少年に与えた。後ろ手に縛られ壁を背に、土間に両足を投げ出している彼の前に、それを差し出したのである。勤務についた古年兵の一人が、
「よし、俺にまかせろ」
と、飴玉を受取り、一個の包紙をとって朱少年の口許に出した。朱少年は、素直に口を開けた。
 勤務あけの古年兵とともに、中隊に帰りながら私は、朱良春が何歳なのか、何故彼は軍服を着ないで普通一般人の衣服を着ているのかを聞いた。そして、彼が十五歳であること、共産地区の部落民は、平素は部落にあって農耕に従事し、戦闘の際には、その服装のまま男も女も、老人も子供も、武器を手にする事の出来る総ての者が戦うことを知らされた。
 古年兵が言った。
「朱良春も正規軍ではない兵隊ってわけさ」

  万朶の桜か襟の色
花は吉野に嵐吹く
大和男子と生れなば 
散兵線の花と散れ

 午前の演習のため完全武装した初年兵は、軍歌を歌いながら城外へ向って行進していった。私が城門の分哨勤務についた日から二日後のことである。城門を過ぎる時、私は朱少年のことを、ちらと思いうかべたが、私自身も声をはりあげて歌う軍歌のために、その思いは瞬時にかき消された。
 城門を出ると急に視界が拡がって、遙か北方に連なる陰山山脈は、樹木のない岩石の肌を早春の淡い霞の中に見せていた。
 その一連の山系の外は、東、南、西と視界の総ては、海洋の波濤のうねりように起伏する砂丘の彼方に模糊としてかすむ地平線がオルドス草原の広大さを思わせた。やがて隊列は停止した。私はその時、停止した隊列の前方に、数名の古年兵とともに立っている朱良春の姿を見た。そして名状するすることの出来ない予感に襲われた。
 古年兵はシャベルで大地を掘り木柱を立てた。朱良春は、白布で目隠しをさせられて木柱にくくりつけられた。私は陰山山系に視線を移した。
 駐屯軍がA山と名づけた高峯に、白い雲が流れていた。更に今私たちが通って来た方をふりかえると城壁が夢のように浮かんでいた。
 同文同種、防共和平
「気をつけ!着剣!」
 鋭い号令に私は、我にかえって歩兵銃に腰の剣を装着した。
「○○二等兵、前へ出ろ」
教官が私を呼んだ。
「はい」
鸚鵡がえしに私は答え、隊列から数歩前へ出た。
「今から突撃の訓練を実施する。○○二等兵よいか、お前が今日は一番乗りだ。目標はあの敵だ。号令は教官がかける」
 教官は木柱の方を手で示すと腰の軍刀の鞘を払った。
私は木柱の朱良春を見つめた。
「突撃!進め!」
教官の号令に私は、銃剣を右手にさげ大地を蹴って走った。二十メートル、十五メートル、十メートル ――
「突っ込め!」
 私の横を走る教官の号令。
「ウオー」
 私は絶叫し銃剣を両手に構えた。朱良春の姿が目前に大きく迫る。そして私が絶叫したその時、朱良春の唇を洩れる悲痛な声を、私は聞いた。
「ムーチン(母親)」
 母を呼ぶ声である。私は目標の数歩前で停止した。全身にはりつめていた気力が虚脱したのである。「こいつ!」
 教官の黒い長靴が私の脚を蹴った。私は地上に倒れ鉄帽をかぶった頭や、背や腰に、教官の足蹴りの洗礼を受けた。
「立て!」教官にひきたてられて、再び朱良春を見ると、どうしたことか彼の目隠しの白布が少しずれ下がって、双眸が現れ私を見つめていた。
 静かな眸の色であった。そうだ、それが私が城門分哨の勤務についた日に、初めて彼と視線をあわせた時の眸の色であった。朱良春は眸を閉じた。
「構え!銃」
 教官の号令に私は銃を両手で構えた。
「突け!」
 私は突いた。殆ど手ごたえもなく銃は朱良春の胸を貫いた。
 朱良春は声もなく頭を前にがくんと垂れた。

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戦陣訓 自決

2017年04月12日 | 国際・政治

 藤原彰教授によると、戦地における日本の軍人軍属の戦没者はおよそ230万名で、そのうち140万名を餓死とみることができるといいます(一般邦人30万、内地での戦災死者50万を加えると戦没者は全体でおよそ310万とのことです)。

 私は、「解説 戦陣訓」における、陸軍中将・岡村寧次の解説を読んで、なぜ、これほど酷い戦争を続けることができたのか、ということの答えを見出したように思いました。

 「解説 戦陣訓」において、「本訓第七 死生観」および「本訓第八 名を惜しむ」の項目の解説を担当した陸軍中将・岡村寧次は、資料1のように書いています(但し、漢字の旧字体は新字体に変えています)。
 岡村寧次は、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが「崇高な戦陣死生観」であるといいます。また、一時捕虜となった空閑昇(クガノボル)少佐が「奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたこと」を賞讃しています(空閑昇少佐の自決について詳細を知りたいと思ったのですが、空閑昇少佐に関する書籍が見当たらないため、「Wikipedia」で検索したところ、下記のような文章がありました)。

しかし空閑は中華民国の将校甘介瀾に救われ(甘は陸軍士官学校区隊長時代の空閑に教育指導を受けたと報道された)、一時は捕虜として真茹野戦病院に収容される。3月の日中捕虜交換によって身柄は上海兵站病院に移された。空閑は捕虜となったことを恥じ、部下らの戦没五七日忌にあたる3月29日、自らの部隊が奮戦した地点へ戻り拳銃により自決した。その死は美談として映画や小説等が作られた。1934年4月に靖国神社に合祀された。

 下記に抜粋した資料2の「戦陣訓は許すことなし」における「鈴木一等兵」同様、一時「捕虜」となった空閑少佐も生きることを望まず、自ら命を断ったのですが、岡村中将はそうした「自決」を賞讃しているのです。「戦陣訓」に書かれていることは、命を投げ出しても「皇国」の「(オシエ)」を守れ、ということなのだと思います。「皇国」の「訓」に従うということは、捕虜になってはならないということです。このような皇国の訓に従うことは”人命よりも尊い”ことなのだという考え方が、前線部隊や兵自らが降伏することを許さず、また、補給の不可能な戦地においてさえ、命を投げ出しての戦いを強いる無謀な作戦命令を出すことにつながったのだろうと思います。そして、それは七三一部隊における捕虜の「人体実験」や様々な部隊における、いわゆる「刺突訓練」で、初年兵に捕虜を突き殺させるというような人命軽視を生み出していったのではないかと思うのです。
 さらにいえば、特攻隊の戦死者第一号といわれる海軍大尉(戦死後に海軍中佐)「関行男」を、その死後、「軍神」などと称して畏敬の対象としましたが、同様のことが繰り返され、命を投げ出して戦った様々な兵士が「軍神」として靖国神社に祀られました。それは、「全滅」を「玉砕」などと美化して伝えることにもつながっているのではないかと思います。

 諸外国の軍隊では、命をかけて勇敢に戦い、食糧や弾薬が尽きて戦うことが不可能になったら降伏する、というのが常識で、何ら恥ずかしいこととは考えられていないため、捕虜の扱いや自決に対する考え方が日本とは根本的に違うのだと思います。だから、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが、「世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観である」などと主張するところに、日本の戦争の特殊性があり、そこにひそむ人命軽視の考え方が、数えきれない悲劇を生み出す結果につながったのだと思うのです。

 「皇国」の「訓(オシエ)」(戦陣訓)を、自らの命を投げ出しても守るべき「訓(オシエ)」した「皇国日本」の復活の兆しは、閣僚の靖国神社参拝にとどまらず、様々な法案の成立や憲法を変えようとする動きの中に感じます。そして、戦時中、父母が味わった塗炭の苦しみの話を思い出します。 

 下記資料2は「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋しました。こうした悲劇は忘れられてはならないことだと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   「天皇陛下万歳」を叫ぶ心
                                              陸軍中将 岡村 寧次
 本訓第七『死生観』― 戦陣に臨む将兵が哲学といふ程の死生観を持ってゐるわけではないでせうが、将兵の全部が日本精神に徹してゐるといふことはいひ得ます。大きな戦闘が始まる前、陣中の将兵は何を思ふかといへば、一様に、故郷の父母兄弟に、知友に、小学校の先生に、これが最後となるかも知れないと便りを書く。このことは孝道の現はれと見るべきです。そして、いよいよ戦ひに臨むと、中隊長は兵を想ひ、兵は中隊長を想ふ ― の一念に一致してしまふ。敵弾を受けて倒れた刹那、兵が口にする言葉は「陣地は奪(ト)れたか」といふことであり、最後に息をひきとる瞬間は「天皇陛下万歳」であります。内地などでよくいろいろの会合の時など「大日本帝国万歳」と唱へますが、 将兵が戦死する瞬間は「天皇陛下万歳」であります。このことは日本人の精神の中(ウチ)に天皇陛下の兵 ― といふ意識が潜在してゐるからで、この点、世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観を持ってゐます。
 私の部下には、インテリ部隊と呼ばれた学士の兵隊が五、六百名はゐたでせう。かうした兵隊について心配しましたが、いざ戦ひに臨んでみると、いづれも立派な態度で戦ひ、戦死してゐます。日本は武士道の国であり、武士道は死ぬことを教へたものであります。悠久三千年に亘る祖先の血は、立派な日本精神として、我々の中に生きてゐることが、よく判ります。

 本訓第八「名を惜しむ」― 軍人として、絶えず念頭に置くべき訓(オシエ)であります。上海事件において、空閑昇(クガノボル)少佐が奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたことは、今尚、世人の記憶に存するところであります。少佐の遺書の一節に「武士の本領として腹一文字と行きたかったが、軍刀は先の奮戦で刃がこぼれピストルを使用するのやむなきに至った」とあります。
 生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れこの項については、多くを語るを要しますまい。将兵の凡てが、空閑少佐の心意気を持って、戦陣に臨むならば「名を惜しむ」の項を冒涜するするやうなことは起こらぬでありませう。”
 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    戦陣訓は許すことなし
                                                 平野 正巳
 昭和十六年、私たちの部隊は、北支那山東省の南西、河南省との省境に駐屯していた。川ひとつへだてた対岸は、共産第八路軍の政治工作の行届いた部落であって、わが部隊の動向は、たえず敵側につつぬけになっていた。
 私は部隊の主計として、糧秣、給与、酒保などを受けもっていたが、炊事係の兵隊に召集兵の鈴木一等兵がいた。炊事には人夫として、李、王、方の三人の現地人がいた。ともに二十歳くらいの青年であったが、私たちは便宜上、背の高い李を太郎と呼び、以下二郎、三郎と日本名で呼んでいた。中でも、太郎は主人(鈴木一等兵)思いで、行動は常に正しく、正義と人間愛に燃える青年であった。三人の中で一番教養もあり、日本語もよく理解していた。
 酷暑の八月、部隊は敵の一隊が対岸より十キロ離れた部落に集結していることを情報で知り、鈴木一等兵も急遽戦列に加わり、夜襲を敢行すべく出動して行った。
 敵は予想外の、われに十数倍する大部隊であり、わが方は数多くの戦死者と行方不明一名を出す大激戦であった。その行方不明が鈴木一等兵であった。

 鈴木一等兵は戦死したのかも知れない。しかし死体がない以上、行方不明として処理しなければならない。行方不明であっても、捕虜にはならないで、きっと戦死しているだろう。これが部隊幹部の希望的憶測であった。
 鈴木一等兵の行方不明を知った太郎は、声をあげて泣いた。炊事下士官に、早く救出してくれと嘆願し、私のところにも「何とかして、日本兵全部で探し出してくれ」といって来た。
「鈴木大人(ダイジン)には妻も子供もいる。その妻と子供のために探すべきではないか」と、しまいには私にくいつくような始末だった。私には兵を動かす指揮権はない。しかし、太郎の言葉が胸に強く響いたので、部隊長に進言した。
「太郎よ、私も小さくして父を失った。父のない子の悲しさは誰よりも私が一番よく知っている。だけれど、部隊長は兵隊を出すことを許可してくれない。だからあきらめてくれ」
と言うと、太郎は悲しい顔をしていた。太郎の国境を越えた人間愛に打たれて、私は思わず涙を流した。  
 太郎の父は県庁の要人であったが、共産軍に殺されたとのことであった。太郎が日本軍に入ったのも、何かそこに原因があったのだろうし、鈴木一等兵の子供に、父を失った悲しみを味わわせてはならないという人間愛も、己の体験に根ざした真実の叫びであったのだろう。
「太郎よ、鈴木がいなくたって、鈴木の妻や子供は手厚い国家の保護を受けて、不自由なく暮らせるのだから安心してくれ」
 私の言葉を聞く太郎の目から涙がこぼれ落ちていた。
「平野大人、この金を鈴木大人の家族に送ってくれ」と、太郎は大切にしまっていた三十円を私の目の前に差し出した。
 太郎の月給はたったの三円である。炊事場の片隅に寝泊まりして貯めたとはいえ、彼らの三十円は苦力(クーリー)として妻一人買える金額である。いつの日か妻を持ち、家庭を築きたいと、血と汗と涙で貯めた貴い金である。私は太郎の善意を断ったが、太郎も頑としてきかなかった。「太郎よ、ありがとう」私は声がつまって後の言葉が続かなかった。
 二郎も三郎も少しではあったが金を出した。私は部隊長室に太郎を連れて行った。部隊長も涙を流して太郎たちの金を受取り、礼を言った。
 この時の太郎は、鈴木一等兵をさがしてくれない憎しみの感情からなのだろうか、敵意を持った目で部隊長を見ていた。部隊長の言葉が終わると、太郎はハッキリとした日本語で「バカ野郎」といって逃げるように去り、そのまま部隊から姿を消して行った。
 太郎が去って十二日目の夕方、突然、二郎が私の部屋に来た。太郎が「ぜひ会いたい」といっているから来てくれとのことだった。
 薄暗い炊事場の裏に太郎が立っていた。 
 平家荘(ピンチャシャン)と言う部落に鈴木一等兵は捕虜になっている。大腿部骨折の貫通銃創を受けて、共産軍の手厚い看護を受けている。敵の主力部隊はすでに移動して、十二、十三人の敵兵の監視の中で治療している。二郎たち三人で救出に行ってくるから鉄砲を貸してくれ…とのことだった。
 私はびっくりした。生きているのは嬉しいことであるが、捕虜になっているのは悲しいことである。部隊長に話せば直ちに救出するであろうが、捕虜になった以上、せっかく帰って来ても、軍法会議で銃殺刑にされるのは必至である。戦死であるならば、鈴木一等兵の家族は靖国の妻として、子として、周囲からも暖かく迎えられるだろうが、銃殺刑に処せられた夫の遺骨を受け取った妻の悲しみはいかばかりか、それを考えるとどうすることも出来ない。
 日本軍隊には、捕虜になったら死ね…と言う戦陣訓がある。死ぬことが国家の至上命令なのである。
 私は迷った。しかし、太郎の必死の涙の嘆願で私の腹は決った。部隊長に黙って、私一人が救出に行こう。私は自分の拳銃を太郎に渡し、二郎と三郎に手榴弾を、私は兵隊の鉄砲を借りて布で巻き、支那服を着て兵営を脱出した。
 平家荘は三十戸に足りぬ部落である。救出作戦はすべて太郎のいう通りにした。途中の部落を通過する時、太郎は適当なことを住民にいって、ようやく平家荘にたどりついた。
 太郎と二郎は敵の詰所(衛兵所)でしばらく話していたが、難なく通り過ぎた。私と三郎は詰所の裏の草ムラの中にひそんだ。太郎の拳銃の音とともに行動を起こす作戦だった。十分もたったころ拳銃の音がした。私と三郎は詰所に手榴弾を投げ込み、逃げる敵兵に銃弾を浴びせた。
 救出にかけつけた私を見て鈴木一等兵は、
「申し訳ありません」
といって泣いた。足には副木をあててあり、目は落ちくぼんで、顔はやつれはてていた。
 体の大きい太郎は、鈴木一等兵を背負って高梁(コウリャン)畑の中を走って行った。私たちは太郎が安全地帯に逃れるまで応戦した。
 夜の明けきらぬ内に部隊にたどりつき、鈴木一等兵を炊事当番室に寝かせた。
「鈴木、お前は捕虜ではない。重傷で動けなくなっていたのを親切な民家の人が助け、私たちが収容したことにする。だから決して捕虜になったのではない。従って軍法会議にはかけられない。お前は病院に収容され、名誉ある戦傷者として内地に送還されるのだ。安心してくれ」
 事実を知っているのは私だけである。私はウソをあくまでも通して助けるつもりでいた。
 まだ起床ラッパまで二時間もある。私は自分の部屋に戻った。部隊長にどんなふうに報告しようかと考えた。
 五時二十分、爆発音が窓ガラスを響かせた。胸騒ぎを押さえて炊事場に走った。鈴木一等兵はうつ伏せになり、腹に手榴弾をあてて自決したのだった。腸がちぎれ飛び手首が血の海の中に転がっていた。
 ―捕虜になって申しわけありません ― たったこれだけの遺書であった。
 せっかくここまで連れてきたのに … 太郎は死体に取りすがって泣いていた。やがて部隊長が来た。私は詳細に報告した。
「鈴木、よく死んでくれた。武人の花である」とほめたたえ、ニコニコしながら副官に、「行方不明を戦死と訂正するよう師団司令部に電報を打てと命令した。
 これを聞いた太郎は部隊長に向かって「東洋鬼(トンヤンキー)」と叫び、私に向かって「平野大人再見(ツァイチェン・さようなら)」と言って出て行った。そして二度と再び帰ってこなかった。
 ― 恥を知る者は強し。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ ―
 戦陣訓のこの一節は氷のごとく冷たく、一片の人間愛もなかった。二十八歳の鈴木一等兵は、このために自らの命を断ったのだった。
 太平洋戦争では二百五十万の若き命が、アッツ、サイパンなどに玉砕し、ニューギニア、ビルマなどでは食糧のない餓鬼地獄の中で散って行った。食糧、弾薬が尽きたなら、すでに戦いの責任は果たしたはずだ。降伏さえすれば、どのくらいの貴い命が助かったことであろうか。
 そして現在、よき父、よき夫として暖かい家庭の中に生きていることであろうか。
 思えば、この戦陣訓は憎みてもあまりあり、本人はもとより、遺族にとっても、痛恨きわまりなきものであった。
 いったい、だれがこの戦陣訓をつくったのだ。そしてこれを全軍に布告した者こそ、太郎のいう人命の貴さ、人間愛を知らぬ東洋鬼である。
 昭和十七年、日本は太平洋戦争の勝利に明け暮れていた。しかし、それとは逆に、われわれの部隊は激しい敵の攻撃を受け、多くの犠牲者を出していた。
 東洋鬼と叫んで去って行った太郎は、そのころ共産第八路軍の若き中隊長となっていた。そして豪胆、沈着、神出鬼没、東洋鬼を撲滅せよと、日本軍に激しい攻撃をかけていたのだった。
 あれから二十五年、現在、太郎が生きていれば、きっと中華人民共和国の大幹部になっていることであろう。
 そして火の玉のごとき正義感と、あの人間愛を持って、真に民衆のために働いていることであろう。

 

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戦陣訓 全文

2017年04月07日 | 国際・政治

 下記の「戦陣訓」は、「解説 戦陣訓」と題され、昭和十六年三月に、東京日日新聞社および大坂毎日新聞社によって発行された本から解説部分を除き、抜粋したものです。当然かも知れませんが、当時の陸軍大臣、東條英機の言葉が「陸訓第一号」として掲載されています。そして、井上哲次郎東大名誉教授や今村均中将、西原勝少佐、岡村寧次中将、荻洲立兵中将、谷壽夫中将、田中隆吉少将、桑木崇明中将、馬淵逸雄大佐、藤田進中将、作家の菊池寛、末松茂治中将が、項目を分担して解説に当たっています。

 すべての漢字には、読みがなが付けられ、それぞれの項目で、難しい用語の意味が説明されていますが、読みがなの一部はカタカナでかっこ書きにし、難しい用語の意味の説明は、一部のみ抜粋しました。また、「陸海軍軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)の「五ヶ条」も、「序」の部分で、簡単な説明がされていましたので、合わせて抜粋しました。

 この「戦陣訓」が、戦時中どれほどの悲劇を生んだのかを学ぶにあたっては、まず、「戦陣訓」そのものをしっかり理解しておく必要があると思いました。

 今なお、森友学園の諸問題が毎日のようにメディアに取り上げられていますが、塚本幼稚園では、園児たちに「教育勅語」を集団で暗誦させるという、常識では考えられない教育がなされていたといいます。まさに「洗脳」教育ではないか、と私は思うのですが、見逃してはならないのは、それを後押ししていたと思われる、安倍自民党政権を中心とする政治勢力の存在です。

 ふり返れば、そうした教育が平然と行われる背景は、着々と準備されてきたのではないかと思います。
 例えば、1948年に占領軍 (GHQ)によって廃止された「紀元節」が、 1966年には「建国記念の日」と、名前を変えて復活しています。また、 日本国憲法にあわせ、1947年に制定された現皇室典範では条文のない元号が、1979年に「元号法」として法制化されました。さらに、戦時中重要な意味を持った「日章旗」(日の丸)や「君が代」を、何ら変更することなく、そのまま戦後日本の「国旗」、「国歌」と定める「国旗及び国歌に関する法律」が、1999年に成立しました。そして、最近、ある閣僚からは「教育勅語」の内容を肯定する発言があり、政府も、「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することは否定しない」と述べるに至っています。
 安倍自民党政権の「日本国憲法改正草案」では、天皇は元首とされ、国旗は日章旗、国歌は君が代、そして、元号の規定も新設される内容になっているようです。2013年に政府主催で行われた「主権回復の日」の式典では、最後に「天皇陛下 万歳!」という「万歳三唱」が行われています。だから、「主権在民」を否定し、皇国史観に基づいた日本を復活させようとしているように思われるのです。「戦争法」といわれる「安全保障関連法」や「特定秘密保護法」などの成立と考え合わせると、日本の前途多難は避けられないように思います。

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陸訓第一号

  本書を戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
                      昭和十六年一月八日 

                            陸軍大臣  東條英機


戦陣訓

 夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。

 惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜りたる勅諭に炳乎(ヘイコ)として明らかなり。而して戦闘並びに訓練等に関して準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎(ト)もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべんや。乃ち既往の経験に鑑み、戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠(ヒョウキョ)を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

※軍人に賜りたる勅諭
 明治十五年一月四日、明治天皇が陸海軍人に対し、天地の公道、人倫の常経として服膺(フクヨウ)すべき忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五ヶ条を賜り、これを貫く一誠を以てすべき旨御諭しになったところの軍人精神の信条である。その五ヶ条は
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尚(タット)ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすへし。

【御稜威】天皇陛下の御威光 【四海】世界 【炳乎として】はっきりとして 【憑拠】よりどころ(服膺)心にとどめて忘れないこと

                  本訓 其の一
 第一 皇国
 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在(オワ)しまし、肇国(チョウコク)の皇謨(コウボ)を紹継して無窮に君臨し給う。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克(ヨ)く国運の隆昌を致せり。
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓って皇国守護の大任を
完遂せんことを期すべし。

【肇国】皇祖が我が国をおはじめになったこと 【皇謨】天皇の大きな御はかりごと
【聖徳八紘に光被す】天皇の御めぐみが地の隅々にまで広く大きく及ぶ

 第二 皇軍
 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。
 常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟(イヤシク)も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。假令(タトヒ)峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全(マッタ)しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御稜威を仰がしむるに在り。
【威並び行はれ】なさけと威光が共々に行はれ


 第三 軍紀
 皇軍軍紀の神髄は、畏(カシコク)くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉(ヒト)しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大権の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極地を発揮すき處とす。死生困苦の間に處し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として獻身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

【大権の承行】天皇陛下の御命令を承け奉ってこれを行ふこと  【脈絡一貫】つながりがあってすじみちが一つに通っていること   【獻身服行】一身をささげ心から身につけて実行すること

 第四 団結
 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。
 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、強固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし、上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ誠心を他の腹中に置き生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。

【聖慮】天皇陛下のお心持

 第五 協同
 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。 各隊は互いに其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ、相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

【戮力協心】力をあはせ気持ちをひとつにすること  【没我協力】 我が身のためということを離れて多勢と力をあはせること。

 第六 攻撃精神
 凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方(アタ)ては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已(ヤ)まざるべし。防御又克く攻勢の鋭気をを包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿(ナカ)れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。                    
 勇往邁進百事懼(オソ)れず、沈着大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

 第七 必勝の信念
 信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須(スベカラ)く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。

【千磨必死】幾度も危ない目にあふことによって心が鍛へられ何時でも死んでよい覚悟が出来ること

                  本訓 其の二
 第一 敬神
 神霊上(カミ)に在りて照覧し給ふ。
 心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

【照覧】神仏が御覧になること

 第二 孝道
 忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

【忠孝一本】忠義と孝行とは一つであるということ

 第三 敬礼挙措
 敬礼は至純なる服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。礼節の精神内に充溢し、挙措(キョソ)謹厳にして端正なるは強き武人たる証左なり。

【挙措謹厳】動作が慎しみ深くて重々しいこと

 第四 戦友道
 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互いに信頼の至情に致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶(トモ)に軍人の本分を完うするに在り。

【非違相戒め】間違ったことをしないように互ひに戒め合ふ

 第五 率先躬行(キュウコウ)
 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず紊(ミダ)る。戦陣は実行を尚ぶ。躬(ミ)を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

 第六 責任
 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽(ユルガ)せにせず心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

 第七 死生観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

 第八 名を惜しむ
  恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

【郷党家門】郷里の仲間や一家一門の者  【虜囚の辱】捕虜となるはづかしめ   

 第九 質実剛健
 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる志気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

 第十 清廉潔白
 清廉潔白は、武人気節の由って立つ所なり。己に克つこと能わずして物欲に捉はるる者、争(イカ)でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に處するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧(ハ)ぢざるべし。

【俯仰天地に愧ぢず】心中やましい事がなく公明正大なこと

                  本訓 其の三
 第一 戦陣の戒め
一、一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備え厳に警(イマシ)めざるべからず。
 敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭うこと勿れ。不注意も亦禍の因と知るべし。
二、軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
三、哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きを任じ、厳粛に之を服行すべし。
 哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四、思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧(ハサイ)するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
五、流言飛語は信念の弱きに生ず。惑うこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
六、敵産、敵資の保護に留意するを要す。
 徴発、押収、物資の燼滅等は總べて規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七、皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八、戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九、怒りを抑へ不満を制すべし。「怒りは敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔いを後日に残すこと多し。
 軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初めにも身を罪科に曝すこと勿れ。

【軽侮】相手を軽んじて馬鹿にすること 【哨務】哨兵のつとめえ 【敵産、敵資】敵の財産と物資
【燼滅】焼きすてること

 第二 戦陣の嗜(タシナ)み
一、尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の錬磨に勉むべし「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二、後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜みを肝要とす。
 屍を戦野に曝すは固より、軍人の覚悟なり。縦(タト)ひ遺骨の還らざることあるも、敢えて意とせざる様予て家人に含め置くべし。
三、戦陣病魔に斃るるは遺憾の極みなり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
四、刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜みを心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹(バヒツ)を愛護せよ。
五、陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄雄しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
六、総じて武勲を誇らず功を人に謙は武人の高風とする所なり。
 他の栄達を妬まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
七、諸事正直を旨とし誇張虚言を恥じとせよ。
八、常に大国民たるの襟度を持し、正を踏み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
国際の儀礼亦軽んずべからず。
九、万死に一生を得て帰還の大命に浴することあぱらば、具に思ひを護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。

【後顧の憂】自分のゐない後が心配になる  【異郷辺土】他国や片田舎  【襟度】度量、心のひろいこと

                   結び
 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるばからず。
 戦陣の将兵、須く此の趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。

【聖諭服行の完璧】天皇陛下のお諭(サトシ)をしっかり身につけてあます所なく実行すること
【皇恩の渥き】天皇陛下の御恩の深いこと

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満州事変の舞台裏 花谷 正

2017年03月28日 | 国際・政治

 『日本よ、「歴史力」を磨け』櫻井よしこ(文藝春秋)「第四章 第二次世界大戦の嘘」のなかに”「河本大佐供述書」の信憑性”と題された対談の文章があり、そこで、瀧澤一郎氏や北村稔教授、伊藤隆教授が、資料1のような、ちょっと気になる話をしています。張作霖の爆殺が、関東軍高級参謀・河本大作の計画に基づくものであったという定説を、いくつかの視点から疑問視する内容です。でも、私は、下記に抜粋した文章の中にあるのですが、

瀧澤 もともと日本犯行説は動機が薄弱だと指摘されていました。日本では田中義一首相はじめ、多くの政治家、軍人が張作霖との友好関係の維持を重視していましたからね。

北村 当時の日本側の政府首脳は事件に大変なショックを受けて、田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していたことは、台湾に逃れた国民党の関係者が書き残しています。関東軍の中堅がやったことになっていますが…。

などという会話には、とても違和感を感じます。定説を覆し、ソ連特務機関犯行説」によって「張作霖爆殺事件」の歴史を修正するため、歪んだ捉え方をしているのではないかと思うのです。
 「日本犯行説は動機が薄弱だ」と指摘しているのが、いったい誰であるのかは明らかにされていませんが、当時の満州で事を進めていたのは、田中首相ではなく関東軍であり、関東軍高級参謀・河本大作の「張作霖は私が殺した」の手記は、下記のように始まっているのです。

” 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。 そこで、久しぶりに満州に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ヶ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満に蔓(ハビコ)っている。日本人の居住、商祖権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満州が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。…

 また、河本大作は、事件の前に知人宛に、具体的に張作霖の名前をあげて、「今度という今度はぜひやるよ」というような手紙を書き送っているといいます。

 さらに、張作霖爆殺事件の首謀者・河本大作の後任として関東軍に赴任した高級参謀板垣征四郎や作戦参謀石原莞爾と共に、柳条湖事件を首謀したとされる関東軍司令部付(奉天特務機関)花谷 正の「満州事変の舞台裏」と題する文章にも、下記のように河本大作の文章と同じようなことが書かれています。

” 長い年月にわたる中国の排日、張学良が奉天政権となって以来の満州全土にわたる侮日。日露戦争以来満州在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされ、日本政府の温和政策を非難し、日本内外物情騒然たる世相が続きこのままではとても収まるまいとは国民の勘で想像されていた。
 昭和6年9月18日夜勃発した満州事変に日本国民の血潮が沸き立たったのは当然であった。
 特に満州在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員など興奮感激その極に達したことは現地にいた当時の者でなくてはちょっと想像されない程である。各地に日本人大会が開催され、この際徹底的に満蒙問題を解決し、武力衝突の起こった現在中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響きわたり奉天に出動しておる関東軍司令部へは非常な激励が続いた。

 したがって、「張作霖爆殺事件」を知って”田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していた”ということを書き残した、国民党の関係者が誰であるかは知りませんが、そうしたことは「張作霖爆殺事件」そのものとは、あまり関係のないことではないかと思います。
 当時、関東軍を率いた人たちが、参謀本部や陸軍省といった陸軍中央の国防政策から逸脱する作戦を展開することが多かった事実、そして「張作霖爆殺事件」や「満州事変」を独断で実行したとされる現地の関東軍関係者が、当時の満州をどのように捉え、何を考え、どうしようとしていたのか、ということこそが重要であり、そこから目を逸らすような会話は、いかがなものかと思うのです。
 
 資料1の『「河本大佐供述書」の信憑性』は、『日本よ、「歴史力」を磨け』櫻井よしこ(文藝春秋)から、資料2の「満州事変の舞台裏」は『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   「河本大佐供述書」の信憑性
中西 実は私は前々から単純に河本大作ら関東軍の仕業と言うには、国際的な背景が強すぎる、何かが今だに隠されているのでは、という心証を抱いていました。さらにごく最近、『蒋介石日記』(未訳)から明確になったことですが、張学良がすでに父作霖の爆殺の前年七月に国民党に極秘入党していた(産経新聞2006年4月17日参照)。これは爆殺の背景として、学良=蒋=コミンテルンのつながりを検討ぜざるを得ないことを意味しています。モスクワで息子を人質に取られている蒋が、ソ連とは「四・一二上海クーデター」以後も常に地下でつながっていたことを考えれば、これは爆殺問題に絡む重大な新事実です。

瀧澤 もともと日本犯行説は動機が薄弱だと指摘されていました。日本では田中義一首相はじめ、多くの政治家、軍人が張作霖との友好関係の維持を重視していましたからね。

北村 当時の日本側の政府首脳は事件に大変なショックを受けて、田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していたことは、台湾に逃れた国民党の関係者が書き残しています。関東軍の中堅がやったことになっていますが…。

瀧澤 関東軍高級参謀河本大作大佐ですね。でも、「私が張作霖を殺した」と題された彼の手記(「」文藝春秋」昭和29年12月号)とされるものもあやしいんですよ。この手記は河本の自筆ではなく、義弟で作家の平野零児が口述をもとに筆記したと言っているものですが、この義弟は戦後、中共の強制収容所に長くいたので、マインドコントロールをされていた可能性があるんです。平野は昭和31年に帰国していますが、河本自身は中国の太原収容所で昭和28年に獄死しており、口述テープがあるわけでもなく、本人の死後現れたものが手記と言えるのかどうか。
 ユン・チアンが「ソ連犯行説」の参考にしたのは、2000年にモスクワで出版されたコルパキヂとプロホロフの共著『GRU帝国第一巻』(未訳)です。GRUとはソ連諜報本部情報総局のことです。私はこの原著を読みましたが、『GRU帝国』は張作霖爆殺のソ連犯行説については次のように書いています。
 <「グリーシカ」機関の実行したいくつかの工作の中でも、いちばん世間を騒がせたのは1928年6月の張作霖爆殺であったろう。張作霖は北京政権を牛耳り、露骨な反ソ姿勢をとっていた。特別列車が爆破されたとき、張作霖の乗っていた車輌の隣の客車にはイワン・ヴィナロフ(エイディンゴンの部下)が乗車しており、事件現場の写真を撮った。謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったように見せかけた>

北村 張作霖がソ連にかなり恨まれていたのは事実です。彼は北京を支配していましたが、1927年4月に北京のソ連大使館に踏み込み、国民党とソ連が組んでいることを示す証拠を押収したうえ中国語に翻訳して大部の冊子として公表していましたから、命を狙われる可能性はあったんです。

瀧澤 1920年代、30年代のソ連では暗殺は日常茶飯事。喜んでやるような連中がソ連諜報部にはたくさんいましたからね。当時彼らが実行した多数の謀殺行動の連鎖に、この事件はぴったりおさまります。同一犯人による殺傷方法の特徴をロシアでは殺しの「筆跡」と言いますが、まさに「筆跡」が一致するのです。ただ、ソ連犯行説も完璧ではありません。『GRU帝国』には情報の出所が明示されていないんです。プロホロフは元軍人なので、未公開文書に触れた可能性はあるものの、それについては本の中でも何も語っていない。私も裏付け情報が出るのを待っているのですが、出版から6年以上たっても出てきません。この部分の情報は、まだ全面公開が許可されていないのです。

伊藤 私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね。

瀧澤 おっしゃる通り、仮にそうした文書が残っていたとしても、”偽の報告書”である可能性もあります。ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多いですから。

・・・以下略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 昭和六年
                      満州事変の舞台裏
                                                      花谷 正
 長い年月にわたる中国の排日、張学良が奉天政権となって以来の満州全土にわたる侮日。日露戦争以来満州在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされ、日本政府の温和政策を非難し、日本内外物情騒然たる世相が続きこのままではとても収まるまいとは国民の勘で想像されていた。
 昭和6年9月18日夜勃発した満州事変に日本国民の血潮が沸き立たったのは当然であった。
 特に満州在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員など興奮感激その極に達したことは現地にいた当時の者でなくてはちょっと想像されない程である。各地に日本人大会が開催され、この際徹底的に満蒙問題を解決し、武力衝突の起こった現在中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響きわたり奉天に出動しておる関東軍司令部へは非常な激励が続いた。
 兵力移動の輸送に任ずる満鉄鉄道部の現地職員の張り切り方は軍隊と競争であり、大連本社の職員の各種専門家連中も大連を飛び出して軍司令部へ来て何でも御手伝いをすると各人非常な意気込みである。我々軍の参謀連中もこれには感激させられて不眠不休懸命の努力を自ら誓った。日本における時の民政党政府若槻礼次郎内閣は幣原喜重郎外相、井上準之助蔵相の宥和政策に押され、南次郎陸相、安達内相、の強硬主張と対立し、内閣不統一の状態を続け、若槻総理にはこれを一に纏める力がなかった。外相からは満鉄に対して「事件不拡大、武力行使停止の考えだから満鉄は関東軍と一緒になって事件の進展を図らぬよう静観せよ」との電報があり、満鉄理事以上の重役は無風地帯の大連で傍観的の無為無策の態度を採った。
 もともと鉄道の警備、満鉄マンを含む在満日本人の生命財産の保護から端を発した事変に満鉄首脳部のこの態度を軍司令部内では不快に思い、一般居留民は憤慨していた。
 誰が言い出したか忘れたが一つ内田康哉総裁を奉天に引っ張り出し、おおいに軍司令官以下と現在および将来に関し胸襟を開いて協議させようではないかという事になり、非公式にこれを大連本社の者に伝えた。
 しかし出て来たのは副総裁の江口定条氏であり、本庄繁軍司令官、三宅参謀長と会って月並みの儀礼的挨拶があったばかり、林総領事とも会ってアッサリと大連へ帰った。事件の現在将来に関する政策的問題には少しも触れず負傷者の慰問さえもしなかった。そして江口氏は大連で、
「軍司令官や軍参謀長は老熟した人々で、わざわざ挨拶に来られた副総裁に怒りの色を表すなどはしたない事はされぬのは当然だ。また江口氏が満州政策などは持ち合わせのある人ではない事を知っておるためニコニコと愛想良く応接したに過ぎない。これで軍と満鉄とが良くいって居る証左とはいささか呆れる」
 との話を大連の満鉄社員倶楽部で社員連中にやらせた。
 もちろんこれが内田総裁や江口副総裁の耳に入った事は確かである。内田伯は日本内地、満州その他世界情勢の推移を静観しつつ今度の事変をいかに処理すべきであるかを毎日考えていたのである。一日、理事の十河信二を呼んで、
「東京の中央部と出先の関東軍との意見が不一致のまま、関東軍としては敵を前にし作戦を続けつつ電報その他で政府と意見調整を図っておるようであるが、軍は積極的であり、政府は事なかれ主義で収めんとし、現地の満鉄としては容易に動きが取れぬ。それで私が東京に行き政府の意見を聞き、満鉄社内の統一を計らねばならないと思うがどうか」
 といった。十河は、
「総裁は外相の職も経験済みであり、総理大臣代理もやられた日本の重鎮であり外交畑の大先輩です。若槻総理からも幣原外相からも現地の実情と、現在および将来に関する対策を質問されるにきまっております。現地においては何といっても在満二十万同胞の輿望をになって満州三千万人民の安寧を企図し、幾万の軍人と幾千のシビリアンの有志達を指揮しつつあるのは軍司令部なのです。しかも軍司令官は法制上、満鉄に対し軍事指示権を持つ機関です。従って軍司令部の意見というものを十分明らかにしておらねばなりません。ゆえにまず奉天に行き軍司令官と胸襟を開いて対策を検討せられ、しかる後東京政府と折衝して意見を十分述べられる事が必要であると思います」
 と主張した。内田伯ただちにこれに同意し、その旨奉天の関東軍司令部に電話すべく命じた。
 十河は附言して、
「非常に多くの満鉄社員が軍司令部に入って職員となり、事務室内で政策の立案から、現地の活動にまで死力を尽くして働いています。また参謀中に各種の立案画策に当たっておる者がいますから、ぜひこれらの者とユックリ懇談せられる必要があります。軍病院の戦傷患者の慰問もわすれぬのが肝要です」
 といい、内田伯はいちいちこれを了承して奉天へ向かったのである。

 奉天ヤマトホテルにひとまず落ちついた内田総裁は満鉄関係の人を呼んで奉天の情況、軍司令部の様子を聞いた上、本庄司令官を訪れ、事件発生以来の軍諸機関の敏速なる活動と機宜に適した数多の処置を賞讃し、その労苦と心労とを犒った上、三宅参謀長を交えて時局に対する要談をなし、軍病院に傷病兵を見舞い、ヤマトホテルの特別室に帰り、軍司令部の幕僚板垣征四郎大佐(後の板垣大将)石原完爾中佐、竹下中佐、それに私の四人に午後三時よりヤマトホテルで会見したいと申し込んだ。四人は快諾して約束の時刻に総裁の部屋を訪れた。私はまず地図を開いて満州全般にわたる日満両軍対立の状況、イルクーツク以東浦塩に及ぶソ聯軍の配置、熱河省以遠支那本部における張学良軍および南京政府軍の状況を述べ、この事変勃発を契機として日、満、漢、蒙、鮮五族を基幹とする民族協和の新天地を作り交通に産業に、政治に、教育に大発展をするような新国家を仕上げねばならぬ。もちろん日本は満州を領土とする
意志があってはならぬと結んだ。

 次いで、石原、竹下、板垣等がそれぞれ自らの経綸、抱負を述べたのであるが、この間、4時間以上にわたり熱心に聴いて居た内田伯はいちいち首肯し、「そのような諸般にわたる構想が練られ、他民族を含む多くの人々と、従前から交わりがひそかに結ばれ、強大な武力が現在までに把握せられ、諸計画の大綱が出来ておるとは夢にも知らなかった。
 私はかつて外務大臣もやり、総理大臣代理もした者でありながら、日本民族および満州三千万民衆を厚生さすそのような具体的な雄大な計画を考えたことも作ったこともないのは、まことに諸君後輩に対して面目次第もない。よく腑に落ちるように将来のことまで胸襟を開いて話して下さった。外国に対しては秘密なことばかりのようだが外務省はもとより、陸軍中央部でも一部の人々を除いて自分で研究し、立案して見識をもっておる人は少ないであろう。それだから事に当たって危ぶみ遅疑するのだ。私も老躯に鞭打ってただ今以後、関東軍に全幅の信頼を寄せ、満鉄の財産全部を投じても諸君に協力する同志となる。一緒に夕食を取ろう」
 別室に秘書がすでに食事の準備をさせていた。老伯爵は秘書に命じて、大コップとウィスキーとをボーイに出させ、
「この年になるまで、今日のような愉快な感じになった事がない。私の決心が決まった以上老躯を提げておおいにやるゾ、乾杯」
「私は陸大の学生で中尉の頃、閣下は外務大臣でした。その頃新聞や世間では閣下をゴム人形と申していましたネ。どうか上京せられましても総理や枢府の老人や元老に会われ、無為の安全論にヘコマヌようにお願いします。まことに失礼な言い分ですが」
「俺も九州男児じゃ」
 服の釦を外し下腹まで、出しポチャポチャ叩きながら微酔と共にますます上機嫌だ。子か孫のような者から何といわれても可愛くなったものらしい。老いの一徹、老人なかなか意気盛んだ、と感じた。
 辞去せんとすれば「今夜、この感激を乱さぬため他の誰とも会わぬ。皆一度に帰らず半数位は残れ」との事にて板垣大佐と筆者は残ってさらに歓談した。

花谷「この調子では現内閣は国民感情で押し潰され、次は政友会内閣となりますネ。犬養さんは孫文以来南方の支那要人と連絡が多いでしょうから支那と満州とをいかに調節するかの夢でも見ていますかネ」
板垣「日本の政局は国民感情もそうであるが一蓮托生であるべき閣僚の中から割れ、内閣不統一で若槻さんは投げ出すヨ。もうその臭いがするではないか」
内田「君らはまだ壮年の盛りだから臭覚もよいネ。至誠天に通じ、人に通ずるゾ。君らが退官して義勇軍を作るような破目にまで、政府が追い込まぬように私共老人が働くよ」
板垣「閣下御上京早々拝謁の御沙汰があるよう、その筋に電請しますよ。御下問に対し御奉答の件、あらかじめ想を練って置いて頂きたいのです」
内田「君らはなかなか同志がおり、各方面に連絡が出来るようになっておるのだネ、若い者は機敏だ」
花谷「少し事務的になって相済みませんが、臨時議会が開かれて臨時軍事費が令達されるまで、作戦軍部隊および軍需品の輸送費は後払い証という書類を駅か輸送事務所へ差し出すことで満鉄は軍隊輸送を担任して下さい、後日精算します。
 それから満鉄社員が奉天へはもちろん各地へ来て軍の職員となって働いています。本社へ辞表を出して来ている者も多いですが満鉄ではこれらの者を依然会社の籍に置いて出張旅費を支給してください。」
内田「よろしい、二三日以内に責任者を奉天に来させて軍司令部との打ち合せを実施させる。後の件は上級幹部の頭の問題で中級どころの若い人は眼を開かすとすぐ順応する柔軟さがあるよ、おおいに鼓吹する」
板垣「理事中二名位は奉天に常駐させて軍司令部と連絡し、おたがいに構想を練り軍事以外の事に関しては軍を援助指導する位の気位をもって接触してほしいものです」
内田「軍事と政治との関連性があるから、軍力の保護がなければ調査すら出来ぬであろうし、奥地に飛び込むには軍からピストルなどの武器を貸して貰う事もあろう。時には将校の軍服を借りて支那人と話さねばならぬ人もあろう。その辺の事は軍でもよく面倒を見てやって下さい。全幅の協力をさせます。日本民族未曾有の大事業です。なお、板垣君、ずいぶんいろいろの支那人を使ったり、降伏した奉天、吉林の旧敵軍を改編したり、兵器弾薬材料の処理に臨時人夫を傭ったり、大変な数の日支人を運用しますネ。
 しかしこの人件費や事業費が日本の臨時議会が開かれぬ間、第二予備金などを大蔵大臣が出し渋れば陸軍大臣も関東軍に予算を増加令達するのがむずかしく、陸軍省も関東軍も苦しんでおるでしょう。陸軍省の方は東京でも何とでもやり繰りがつくとして関東軍は大変だ。
 過渡期すなわち今が大変だ。これは満鉄が一時立替え援助します。経理担当理事に話して置きますからただちに連絡して下さい。こんな緊急事態は歴史上そうあるものではない、各方面が協力すべきです」
 さすが国務大臣をやった人だけに国政の事務的着眼もよい。百万の味方を得たような気がした。
内田「東京の青壮年の参謀将校や、部隊の元気な将校連中、大変な意気込みだそうだネ。安達謙蔵内務大臣など内閣がボヤボヤしておるため、これらの精鋭を越軌の行動に出させる事があってはならぬと善意から心配しておるらしいぞ
 安達も若い時新聞記者で朝鮮にいて閔妃のやり方が日本を排撃する禍根であると、宮殿に飛び込んで皇后を斬り殺した一味で、元来熱血漢だよ。時局を積極的に促進するように自分の民政党など割っても努めるだろう。月日の経過に伴って自然に内地もだんだんシコリがホグされて行くよ、天行は健なりだ」
板垣「国際連盟が理事会、総会と日本をおさえるため、ずいぶんやかましくいい、今後紆余曲折を経ねばなりませんネ、外交畑の大先輩として御意見いかがですか」
内田「もとより通信社や新聞、雑誌を賑やかにするね。しかし先刻君らが判断していたように極東の一角の事で列強が兵力を差し向けるような事は馬鹿馬鹿しくてやらぬネ。
 外交官は嫌がるだろうが、死にはせぬのだから孤軍奮闘、論駁、また論駁で意志鞏固に粘って貰わねばなるまい、いったんその決意に踏み切れば後は先方が寄ってたかって何と言おうと蛙の面に水サ。
 時に奉天の林総領事も外交交渉の相手はけし飛んでしまったし、目下は軍事行動中で、彼に作戦に関する知識がある訳ではないし、軍司令部に進言することも出来まい。
 情報を調べもせずに、外務省に通達する。それが陸軍省、参謀本部に伝えられ、逆に関東軍に東京から通報する。従って事実と違っておる事があるから、軍の方で憤慨したり笑殺したりするのだ。その結果、出先の協力一致が乱れ、外務省と陸軍省との一致が乱れる訳だ。
 軍は居留民の生命財産を武力的に保護してくれるから、各地の居留民は軍隊に親しみ、総領事館を罵倒する。これが日本人全体としての協力一致を破る。だから、私は外交畑の先輩として林君に、今こそ用事がないのだから賜暇休暇を取って日本に帰りノビノビとしておる時だ、と勧めたいと思う。それとも軍司令部の方で総領事に何か頼んで現地でやって貰わねばならぬ事があるかネ」
 もちろん我々としては何も依頼する事はなかった。何故ならば現地の陸軍は奉天政権の排日的横暴に在満同胞が衰え行くのを見て切歯扼腕、時の至るのを待っていたのである。特に若林大尉が鴨緑江上流の満州側で殺され、中村震太郎大尉が興安嶺で井杉と共に殺され、さらに万宝山事件があり、それらの交渉が奉天政権の不誠実で解決がつかぬ事を知って激昂していたのである。
 暴力で来る相手には力で当たらねばならぬ。これが事件勃発するや大河の決する勢いで敵に押しかかったのだ。
 しかも予後備兵を動員する事なく、常備兵で編制された戦闘部隊であるから、将校と下士官兵との間には、教官すなわち指導官という親しみがあり精鋭度が高かった。また国家としても動員費が要らず、糧食、弾薬の運搬も、親日支那人が引き受けた。機関銃や、馬や、弾薬や、小銃や迫撃砲も鹵獲兵器のみで補充し、日本内地からの輸送はまったくなかった。こんな手軽な戦争は外国人や素人にはちょっと分かり兼ねるであろう。いったん矢が弦を離れた以上、日本政府の幣原外相や井上蔵相や若槻総理は何を危ぶんで躊躇していたのか。
 内田康哉伯は奉天に住む日露戦争以来の老居留民や外務省出先官や有志の人々と会って三日の後出発、上京の途についた。
 伯爵からはしばしば電報による激励がなされ、「幣原その他に会った、遠き慮の策案がない、諸君の意志を枉(マ)げず邁進せられよ、途は自ら開ける」と逆に促されもした。伯は陸軍省、参謀本部の首脳者にも会い、対満強硬策を述べ、現関東軍を掣肘するな、と烈しく進言した。政治家に対しては日本民族発展の好機を逸するなかれ、と論じ、枢府の老人に対しては積極的に政府を鞭撻せよと唱えた。陸軍省、参謀本部の若い連中は百万の味方を得たりと喜んだ。
 天皇陛下および皇太后陛下には別々に拝謁御下問があった由。全国至るところの国民大会は若槻内閣打倒、満州事変完遂、外国怖るるに足らずを絶叫決議して内閣に迫ったため、若槻民政党内閣はつぶれ、後継内閣たる犬養政友会内閣に外務大臣として伯爵内田康哉の名が連ねられ、昭和七年春には日本国は新興満州国を承認した。
 満州事変初期において国策長く決定せず、対内的にも、対外的にも過渡的混乱期があったがこの際に於ける満鉄総裁内田康哉伯の功績を知る人々が少ない。
 後に筆者は松岡洋右氏にこの話をしたところ、「ゴム人形がそんなになられたか。余はあまり傑出した人とは思っていなかったが、国家の大事に臨んでのその認識、その信念は敬服すべく、賞讃すべきものであったと思う。
 犬養内閣の外相としての強硬な主張、国際連盟のリットン調査団に対する応答、満州国早期承認論など堅確な意志には驚いていたのだ」と滅多に人を褒めぬ松岡氏が感心していた。
 筆者は昭和十年政務班長として関東軍参謀に済南駐在武官から転任して行ったが、満州国が内田康哉伯を表彰するのを事務当事者が失念していたのでぜひ表彰すべきだと主張した。満州国政府は勲一位の勲章を伯の霊前に捧げた。                         (30.8)三十五大事件

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『マオ 誰も知らなかった毛沢東』 一部抜粋

2017年03月11日 | 国際・政治

 元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏が取りあげた『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の著者は、「日本語版によせて」のはじめに、「この毛沢東伝は、十余年にわたる調査と数百人におよぶ関係者へのインタビューにもとづいて書き上げたものです。インタビューに応じてくださった方々は、中国はもちろんのこと、日本を含む世界各国に及んでいます。

 わたくしたちが新しく入手した情報は、多くが原資料によるものです。これによって毛沢東に関する新しい理解が得られ、また、毛沢東の重要な決定や政策を新しい角度から読み解くことができました」と書いています。毛沢東の生涯を辿り、その全体像を明らかにしようと、大変な作業をされたことがわかります。

 しかしながら、同書で取りあげられている「張作霖爆殺事件」をはじめとした個々の事件の記述には、様々な問題が含まれていると思います。日本では、「張作霖爆殺事件」に関しては、関東軍の当時の状況や文書資料、関係者の証言などをもとに、多くの歴史家や研究者が、事件の首謀者を「河本大作」であると認定するに至っています。そして、それが定説として認められています。河本大作の義弟・平野零兒氏によって残された「私が張作霖を殺した」という河本大作自身の口述も公にされています。
 社会科学の一分野としての歴史学で、定説に対する異論を展開する場合には、そうした研究を踏まえて、その問題点や誤りを指摘し、深化・発展させるものでなければならないと思います。
 したがって、定説とは無関係に、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の本文を補足するかたちで、下記のように、★印を付けて小書きされた文章をもとに、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」と結論づけるようなことは、あってはならないと思います。

 「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について、「ソ連情報機関の資料」をもとに、定説に対する異論を展開するのなら、「史料批判」は欠かせない作業であり、その史料が信頼できるものなのか、その客観性や確実性を、様々な文書資料や証言、時代背景などをもとに検証する必要があるのではないでしょうか。そして、「ソ連情報機関の資料」に基づく歴史と、日本の歴史家によって定説とされた歴史のどちらが正しいのかを確定してゆく作業がなければならないと思います。そうした作業をなすことなく、元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏のように『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかで、★印を付け小書きされた文章を根拠に、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」というのが、あたかも「正しい歴史」であるかのように主張するのは、いかがなものかと思います。

 さらにつけ加えれば、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかには、下記に抜粋した文章のように、「この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた」というような表現が、そこここに出てきます。でも、著者はスターリンからそういう内容の話を直接聞いて書いたわけではありません。「張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである」などという文章も、私は同じではないかと思うのですが、著者は、スターリンや張学良の気持ちを推察して書いているのだと思います。でも、多くの人に読んでもらおうとする「伝記」では許されても、社会科学の一分野としての歴史学の書では、そうした推察を事実であるかのように記述することは、許されないことだと思います。「推察」は、「推察される」というような表現にするか、あるいは推察の根拠をその都度きちんと示さなければならないと思います。したがって、「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を拠り所にするのには、歴史学上は慎重であるべきだと思います。

 コロンビア大学のトマス・バーンスタイン教授は、同書について「彼らの発見の多くは確認不可能なソースからのものであり、他は公然とした推論あるいは状況証拠に基づき、いくつかは事実ではない」というような指摘しているといいます。私は、踏まえておくべきではないかと思います。

 下記は、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)から、張作霖爆殺事件「ソ連特務機関犯行説」に関わる「第十六章 西安事件」の一部を抜粋したものです。
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                        第三部
                     第十六章 西安事件
                   1935~36★毛沢東41~42歳
 1935年10月、長征の末に毛沢東が黄土高原にたどりついたとき、とりあえず生きのびること以外に毛沢東が目標としたのは、ソ連支配地域までのルートを開拓することだった。そうすれば、武器その他の支援物資を受け取って勢力を拡大できるからだ。一方、蒋介石のほうは紅軍を柵の中に封じておきたいと考え、その任に少し前まで中国東北の軍閥だった「少帥」こと張学良を指名した。張学良は陝西(シャンシー)省の省都西安に司令部を置いていた。毛沢東の根拠地も同じ 陝西省で、西安からは北に300キロほど離れていた。
 武器の引き渡しに使えるソ連支配地域は二つあった。ひとつは新疆(シンチャン)で、根拠地から西北西へ1000キロ以上離れている。もうひとつは外モンゴルで、真北に500キロ強の距離にある。張学良率いる約30万の大軍は、この両方面を制する位置に駐留していた。
 張学良のアメリカ人パイロット、ロイヤル・レナードは、この世慣れた人物の横顔を、「わたしが最初に受けた印象は……まさにロータリー・クラブの会長、という感じだった。恰幅が良く、羽振りが良く、くつろいだ愛想の良い物腰で……わたしたちは、ものの五分で友だちになった……」と書き残している。東北軍閥の父張作霖(「大帥」)が、1928年6月に暗殺された★あと、張学良は父親の地盤を引き継いで中央政府に帰順し、そのまま東北の支配者としてとどまった。1931年に日本が東北を侵略すると、張学良は20万の軍を率いて関内(長城以南)に退き、その後さまざまな重要ポストを蒋介石から与えられた。表向き、張学良は蒋介石夫妻と親密な関係を装っていた。蒋介石より13歳年下の張学良は、蒋介石を「自分の父親同然に思っている」と公言していた。

 ★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。

 しかし、蒋介石の背後で、張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである。そのために、張学良はヨーロッパに滞在中の1933年、ソ連の人間に近づいて訪ソを打診した。が、ソ連側はこれを警戒し、張学良の申し入れを断った。わずか4年前の1929年にスターリンが中国東北に侵攻し、その後中東鉄道の強行接収をめぐって、ソ連は短期間ながら張学良と戦火を交えたばかりだった。しかも、張学良はファシズムを賞讃する発言をし、ムッソリーニと家族ぐるみの親しい関係にあった。1935年8月に中国共産党の名でモスクワから出された声明は、張学良を「敗類(くず)」「売国奴」と呼んでいた。
 ところが、その年の後半に張学良が毛沢東の見張り役に任命されると、モスクワの態度が一変した。張学良のさじ加減ひとつで中国共産党の置かれた状況が好転し、さらにソ連からの支援物資受け取りも容易になるということで、張学良はモスクワにとって価値ある存在になったのである。毛沢東が陝西省の根拠地に到着して何週間もたたないうちに、ソ連の外交官は張学良(チャンシュエリアン)と踏み込んだ話し合いを進めていた。

 張学良は、上海や主都南京(ナンチン)に足を運んでソ連と秘密裏に協議を進めた。カムフラージュのため、張学良はプレーボーイの評判を利用してわざと軽薄な行動を見せた。アメリカ人パイロットは、ある日、張学良から「飛行機を垂直バンクで飛ばしてくれ、と頼まれた。片翼を街路につっこんだまま、友人らが逗留しているパーク・ホテルの前を飛んでくれ、というのだ。われわれの乗った飛行機は、ホテルの正面から三メートルもないほど近くを飛んだ。モーターの爆音が窓ガラスをカタカタと鳴らした」と回想している。この派手なショーをやってみせたとき、ホテルには張学良の女友達の一人が宿泊していた。「こんなことを言うと、あなたは笑うでしょうけれどね」と、1993年、九十一歳になっていた張学良は著者に話してくれた。「当時、戴笠(タイリー)[国民党特務の大物]は必死になってわたしの居所を探していました。で、わたしが女の子たちといいことをしていると思っていたようです。だが、実際には、わたしは密談していた…」
 張学良はソ連に対して、中国共産党と同盟する用意があること、しかも、「日本との決戦」に臨む--すなわち蒋介石が渋っている対日宣戦布告をする--用意があることを、はっきりと伝えた。そして、それと引き換えに、自分が蒋介石に代わって中国の支配者になるための後押しをしてほしい、と求めた。
 この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた。
 スターリンの狙いは、中国を利用して日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼にひきずりこむこと、そして、それによって日本をソ連から遠ざけることだった。モスクワは自らの狙いを包み隠したまま中国国内における対日全面戦争の気運を煽ることに力を入れ、大規模な学生デモに手を貸した。また、ソ連のスパイ、とくに孫文(スンウェン)夫人で蒋介石の義姉にあたる宋慶齢(ソンチンリン)は、圧力団体を結成して南京政府に行動を求めた。
 蒋介石は日本に降伏する気はないものの、宣戦布告する気もなかった。現実的に見て中国に勝ち目はなく、日本と対決すれば中国の破滅につながると考えていたからだ。そこで、蒋介石は降伏するでもなく全面戦争に出るでもない、きわめて異例などっちつかずの態度を選んだ。それが可能だったのは、中国が途方もなく大きく、また、日本が徐々にしか侵略してこなかったからである。蒋介石は、そのうちに日本がソ連のほうを向いて中国のことを忘れるのではないか、という希望さえ抱いていたかに思われる。
 張学良の提案はソ連にとって好都合だったが、スターリンは張学良を信用していなかった。かつての東北軍閥ごときに中国を統(ス)べて対日全面戦争を戦うほどの力量があろうとも思っていなかった。もし、中国が内戦状態に陥ったら、かえって日本に征服されやすくなる-そうなれば、ソ連にとって日本の脅威が倍加するだけだ。
 とはいえ、モスクワも張学良の提案を即座にはねつけるほど単純ではない。ソ連は提案を検討するふりを装って、気を持たせつづけた--ー張学良(チャンシュエリアン)から中国共産党に対する協力をひきだすためである。ソ連の外交官は張学良に対し、秘密裏に中国共産党との直接コンタクトを確立するよう指示した。中国共産党の交渉担当者と張学良との第一回目の話し合いは、1936年1月20日におこなわれた。
 ・・・(以下略)

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張作霖爆殺事件 河本大作義弟・平野零兒の証言

2017年03月03日 | 国際・政治

 繰り返しになりますが、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったのは、安倍政権が、これまで「従軍慰安婦」問題をはじめとする歴史の問題にきちんと向き合おうとせず、国連人権委員会の勧告や諸外国の議会決議を無視し、逆に日本に不都合な史実を覆そうとする歴史修正主義的な姿勢を見せているからだと思います。

 そうした安倍政権の姿勢が影響しているのでしょうが、ビジネスホテル大手のアパグループが客室に日中戦争中の南京大虐殺を否定したり、「従軍慰安婦」の存在を否定したりする本を置いているとして、同社を非難する声が上がり、国際問題にまで発展してしまいました。
 中国国内の予約サイトがアパホテルのボイコットを決定し、中国外務省も、「日本の一部勢力がいまだに歴史を直視しようとせず、さらには否定し、歴史を歪めようとさえしていることが、またもや示された」と発表したのです。
 韓国のオリンピック委員会を兼ねる大韓体育会も、札幌市における冬季アジア大会での韓国選手団の宿泊先の変更を要請し、同市のアパホテルから札幌プリンスホテルに変更されたといいます。また、ソウル聯合ニュースは、誠信女子大教授が、日本のビジネスホテルチェーン、アパホテルの今後の利用自粛を韓国国民に呼び掛ける運動を行うと明らかにした事実を伝えています。
 問題となっている本はアパグループの元谷外志雄代表の著書ですが、同書の中の近現代史にかかわる部分について、アパグループのホームページには

本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです

とあります。
 私は、定説を覆し、「本当の歴史」を主張するのであれば、元谷外志雄氏が自らの見解を展開するだけではなく、多くの歴史家や研究者によって確立された「定説」の誤りや矛盾を、きちんと指摘する必要があると思います。定説を無視して、自らの見解を「本当の歴史」と主張することはできないと思うのです。

 例えば、張作霖爆殺事件の首謀者は、関東軍高級参謀河本大作であることが日本では定説となっていますが、元谷外志雄氏は『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)の中の下記の文を引いて、この文章の記述が「本当の歴史」であると主張しているようです。

張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍のしかけにみせかけたものだという。”

 でも、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』は、毛沢東を取り巻く様々な人の証言をもとに、毛沢東の生涯を描くことがねらいで、個々の歴史的事実を研究対象とするものではないため、上記の文章は、本文を補足するかたちで、★印を付けて小書きされたもので、「ソ連情報機関の資料」というものが、どこに保存されていた、どういう資料であるのか、また、どのような経緯で張作霖爆殺が実行されたのか、命令に関係した人物や実行した人物の証言は存在するのかなどについては、何も触れられていません。さらに、情報源を明らかにすることなく、「日本軍のしかけにみせかけたものだという」と、伝聞であることを示す表現をしています。たったこれだけの、それも小書きの文章で、多くの資料や関係者の証言を基に、歴史家が歴史的事実とした日本の定説を覆してしまうことは、とても無理であると思います。

 また、張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説を最初に主張したというドミトリー・プロホロフ、ロシア人歴史作家も、「ソ連特務機関犯行説」の根拠が「ソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と、彼が自分自身で推察したものであることを明らかにしているといいます。したがって、「スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍のしかけにみせかけた」という決定的な「ソ連情報機関の資料」というものは、発見されていないということではないかと思います。
 ドミトリー・プロホロフという人物が、当時の関東軍内部の動きはもちろん、当時の日本軍の様々な命令文書や関係者の証言を十分踏まえた上で、「ソ連特務機関犯行説」を主張しているのか、気になるところです。

 下記は、河本大作の「私が張作霖を殺した」に関わる義弟・平野零兒の記述です。歴史家や研究者が明らかにした当時の満州の歴史的事実と矛盾のない記述だと思います。 「目撃者が語る昭和史第3巻 満州事変」新人物往来社から抜粋しました。
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                      戦争放火者の側近
                                             河本大作大佐義弟 平野零兒
戦争敢行者 ・・・略
河本大作の口述
 私は河本と共に中共で戦犯として罪に坐した。彼は日本で開かれた国際軍事裁判でもA級戦犯になるだろうと、私は敗戦直後には思っていたが、一時証人に出廷させるか否かが、田中隆吉の証人出廷の時に問題になった程度で、敗戦後も日本の復興を企図して山西に残って、梟雄軍閥閻錫山の顧問となって、多くの日本人を残留させたが、当時の蒋介石等国民党軍は、 閻錫山の庇護によって、中国の戦犯にも扱わなかった。ある時国民党政府から、一応の訊問に形式的にやってきたが、ことなく帰ってしまった。
 解放になって二日目、河本は西北公司の総顧問の机を整理し、解放当局の接収組に引き継ぎをやっているところを、太原公安局第三科に連行された。第三科は戦犯や、反革命者の取り調べを受けるところで、後には審訊科と名まえが変わった。その後一ヶ月余り経って、私は三科の科長から、私が書いた「河本大作伝稿」の提出を求められた。これはかつて私が河本の口述を基として筆録したもので、その一部分は私の不在中、その稿本のプリントの一部が、当文藝春秋誌上に河本大作手記として『私が張作霖を殺した』という一文となって、発表されたことを帰国してから知った。当時私はこの記録を、主として張作霖爆死事件を秘録として書いたので、そのコピーは、伝記の依頼者であった昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。
 太原公安局で河本は、自己の経験全部の坦白を命じられ一切を供述して書いたが、その真実を裏付けるため、私が比較的正確な彼の伝記を所持していることを申し出たので、公安局は私にその提出方を要求したのであったが、その始末なので、私は執筆者として、記憶をたどり改めて書いて出すことにした。そのため私は前後八ヶ月、公安局に拘留を受け、そこでこれを認めた。この時には、私は河本の大きな罪悪の秘密はやはり張作霖事件が最も重大と思っていた。しかし実際は中国にとっては、河本に対して張作霖事件は、あまり問題ではなかった。それは張作霖事件は、当時にあっては某重大事件として、国の内外には大きな問題であったが、国際裁判では、戦争犯罪は大体1931年以後の問題を取り上げることになっていて、それ以前には遡らないことになっていたからであった。張作霖事件は、1928年6月のことに属するからである。解放後の中共当局でも張作霖事件については、私が考えていたほどこれのみを重要視はしていなかった模様であった。


河本の大陸雄図
 彼は確かに張作霖事件によって、その存在が世間的に一部には知られたが、陸軍部内の大陸派として、中国に対しては古くから侵略的野望を抱いていた。それは日本の国家のため、東洋の平和のためという盲信のもとに彼は、日露戦争の陸軍少尉として遼陽の戦いで負傷した後、講和後、明治39年、鉄道警備に当たった安奉線陽山の守備隊長から更に安東守備隊副官となった時代に既にその思想を強く抱いた。
 話は古くなるが、明治36年、日露の風雲急なとき、帝政ロシアの陸相クロパトキン将軍が日本へ来た。時の日本陸相寺内正毅は、小石川砲兵工廠内の後楽園で招宴を開いたことがある。この時寺内陸相は、クロパトキンに、砲兵工廠で打った村田刀を贈ったので、クロパトキンはよろこんで、これを抜いてコウコウたる刀身に見惚れていると、たちまち一天かき曇り、豪雨が降ると共に、激雷が園内の老杉に落ちた。クロパトキンは思わず抜身の刀を取り落とした。河本は士官学校の学生として参列してこの光景を見て、「これは日本は勝つ」と思ったという。そして、『今にこいつと戦ったやるんだ』と力み、戦争になったら軍事探偵をなろうと決心し、シベリアを放浪せねばならぬと、気候の似ている寒い北海道を歩いて偵察の下稽古をやったりした。安東守備時代には、日露の戦いの中で、東亜義軍というのを組織して馬賊を率いて暗躍した橋口中佐に憧れていたが、当時橋口と共に有名だった「花大人」の花田中佐の部下で大久保彦左衛門の末孫だという大久保豊彦が、当時間島が朝鮮のものか、中国のものかという問題の帰属が明らかでないのを、武力で占領してしまうほかないが、それには日本の正規軍がやっては面倒だと、三千の馬賊の頭目である楊二虎に占領させる陰謀をはかっている。それの参謀が必要なので、河本を誘いに来た。河本は渡りに舟と、心を躍らせ、宿願なれりと承諾し、詳しい計画を聞くと、軍資金は三道浪頭の銅山と寛旬県孔雀石礦山を掠め、武器はドイツのシーメンス・シュッケルト会社から買う密約ができているというのであった。そこで河本は、本渓湖に近い橋頭駅の上流約一里半の白雲塞の山塞に行った。彼は日本軍の軍紀に触れねば、そのまま馬賊の参謀になってしまったのだが、守備隊から連れ戻されて失敗に終わった。
 
 彼の大陸の夢はこの時からの連続で、彼の一生を支配したといってもいい。後に陸軍大学在学中に組織した大陸会というのも、第二の日露戦争を企図し、蒙古に根拠を置き、いざとなったらシベリア鉄道を破壊しようと、盟約を結ぶ秘密結社を作り、陸軍青年将校を糾合した。そのうちの一人であった、三村豊少尉が、その頃威を張り出した張作霖を殺そうと、奉天小西辺門で、張作霖に爆弾を投じたが失敗した事件もあった。陸大を出ると漢口派遣軍司令部付参謀大尉となって赴任した頃第一次世界大戦が勃発した時であったが、雲南に起義した葵鍔と唐継堯が三回目の革命を企図したので、当時の大隈内閣は、密かに袁世凱を倒し、葵鍔を助ける政策をとった。河本はその密約を受けて、袁の股肱、曹錕を総帥として幕下に呉佩孚・馮玉祥と共に揚子江を逆航して四川に向かおうとする蔡の進軍を阻もうとするのを助けるために四川に潜行し密かに蔡に有利な条件を作った。そして各所に蜂起した雲南軍に呼応する重慶の周道剛、北方軍の中で蔡の方へ寝返った劉存厚、四川の陳宦の孤立などが縁となって、一時雲南軍の天下となったことがあった。ところが、元来中国軍閻間の争覇をねらって、日本の地歩を占めようとした、一貫した方針のほかには、これを手玉にとって自由に陰謀をめぐらせることのみであった日本の軍部は、袁が死し、段祺瑞の天下に移ると、南北がまた対立し、そこへ張勲等の復辟に名をかる出現があり、中国の内戦は、日本の思う壺にはまった。段が張勲討伐を始めた時、日本の中央は援段方針をとったので、この内戦の死命を制する雲南軍を制討するために河本をして劉存厚を操らせて、遂に雲南軍を鎮圧せしめた。


河本大佐へのアクセサリー
 昨日助けた雲南軍を今日は制する道義を破った行動は、河本も気が進まなかったが、上原元帥に、国策と私情は別だと諭されたのだと述懐している。その後のシベリア出兵には、大谷軍司令官の下に参謀として従い、帰還すると参謀本部の演習課員を経て、大正十年北京公使館付武官となり、中国各地を探り、青海と西蔵を残したほかは悉く踏破し、参謀本部に転帰して支那班長となった。
 その間に部内にはびこった、薩長の陸軍といわれた部内の派閥が、さらに石川、佐賀閥を加えたのに対抗するための秘密の会を組織し、渋谷の道玄坂の仏蘭西料理屋「二葉」に同志が会合した。小畑敏四郎、磯谷廉介、永田鉄山、板垣征四郎、岡村寧次、山岡重厚、後輩の東条英機、山下奉文等に上級では、荒木貞夫、真崎甚三郎、などとも連繋があったが、ほかに鈴木貞一、黒木親慶、小笠原数夫などを始め全国的に青年将校とも結び、閥族的色彩があるものの陸大入学を阻止したりして暗躍し、そのうちに一旦小倉の連隊付中佐に左遷されたが、間もなく関東軍高級参謀に就任して、大陸を舞台とすることになった。その後に起こったのが、張作霖事件である。
 私が河本大佐のアクセサリーになったのは、この頃からである。…
 ・・・以下略

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河本大作 「私が張作霖を殺した」

2017年02月19日 | 国際・政治

 再び、日本の歴史修正主義の動きが国際的な問題に発展してしまいました。アパグループ元谷外志雄代表の著書「本当の日本の歴史『理論近現代史学II』」アパホテルの客室に置かれており、近隣国で問題視する声が急速に広がったようです。

 札幌冬季アジア大会で韓国選手団が泊まる公式宿泊所になっている関係もあり、大韓体育会は大会組織委員会と日本オリンピック委員会(JOC)に撤去を求める文書を送付したといいます。そして、大会組織委員会は大韓体育会に対して書籍を撤去する方針である旨の回答したとの報道がありました。
 同書は「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の存在を否定するような内容の記述があるのみならず、「張作霖爆殺事件」は「ソ連の特務機関による謀略であった」などと書かれているといいます。
 2008年に自衛隊の航空幕僚長・田母神俊雄氏が解任されることにつながった政府見解に反するアパグループ懸賞論文受賞作と似通った内容のようです。
 見逃すことができないのは、客室に本を置く目的が、知られていない学説を取り上げ、紹介するというようなことではなく、「事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです」として、日本で一般的に共有されている歴史を、修正しようとしていることです。

 本の内容はもちろんですが、そういう主張が国際社会で通用しないことは、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会における公開フォーラムがきっかけとなり、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったことで明らかです。親日を代表するような関係者の名前がズラリとならんでいるのです。声明は、安倍首相が日本の総理として史上初となる米国議会の両議院総会での演説を行った一週間後に発表されました。
 その中には、
「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。
というような記述があります。
 安倍政権が、これまで日本軍の「従軍慰安婦」問題にきちんと向き合わず、逆にその史実を覆そうとする歴史修正主義的な動きを後押しする行動さえ見せていることに対する懸念が、深刻なものであることを物語っていると思います。 
 地道な調査や事実の検証、科学的分析などに基づいて築き上げられてきた史論を無視し、特定の団体や個人の考え方で、歴史を修正するような本をホテルの客室に置くことは、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化につながることに思いを致してほしいと思います。
 
 『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻(文藝春秋)から一部省略して抜粋した下記の「私が張作霖を殺した」という河本大作の文章は、張作霖爆殺前に彼が周囲の人たちに語っていた内容と矛盾なく、また当時の満州の状況や関東軍の好戦的姿勢を正しく記述していると思います。当時を知る人たちの証言とも符合します。張作霖爆殺に関して言えば、ソ連の特務機関がわざわざ手の込んだ謀略など画策しなくても、関東軍は間違いなく戦いを仕掛ける状況にあったのです。それは当時の軍の文書や石原莞爾の文章などからも明らかだと思います。

 抗日勢力を潰し、日本の満州利権を拡大して、満州全体の土地・資源を事実上日本のものにすることは、特に将来の対ソ・対米戦を考える政治家や軍人にとって、謀略をもってしてもやらなければならない死活問題でした。それに、「満州を取れば苦しい生活が解消される」という、不況下で苦しむ国民の感情も重なって、大きなうねりとなっていったのだと思います。
 そして、現実に関東軍の謀略による柳溝湖事件をきっかけとして、傀儡国家・満州国を建国させるに至った事実をしっかり見る必要があると思います。
 多くの歴史家や近隣諸国が受け入れない歴史を「本当の歴史」として広めようとすることが、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化をもたらす悲劇、またそのために発生する損害には計り知れないものがあるのではないかと思います。
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                     私が張作霖を殺した 
                                               河本大作
 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。 そこで、久しぶりに満州に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ヶ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満に蔓(ハビコ)っている。日本人の居住、商祖権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満州が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。

 しかるに、その張作霖の周囲に、軍事顧問の名で、取り巻いて恬然としている者に、松井七夫中将を始め、町野武馬中佐などがあって、在満同胞二十万が、日に日に蝕まれていくのを冷然と眺めているばかりか、「みんな、日本人が悪いのだ」とさえ放言して顧みない。そして唯、張作霖の意を迎えるのにもっぱらである。
 自分はまったく呆然とした。支那の各地を遍歴してかなり排日の空気の濃厚な地方も歩いたが、それにしても、満州ほどのことはない。満人は、日本人と見ると、見縊(ミクビ)り蔑んで、北支辺りの支那人の日本人に対する態度の方が遙かに厚い。まさに顚倒である。日露戦役直後の満人の態度とまるで変っている。
 そこで、自分は、旅順にジッとしていることも許されず、変装して全満各地に情況を偵察する必要を痛感し、遠くチチハル、満州里、東寧、ポクラニチア等、北満の南北にわたって辺境の地をつぶさに観察したが、東寧辺りでは、街路上で、邦人が、満人から鞭うたれるのを目撃し、チチハルでは、日本人の娘子群が、満人から極端に侮辱されているのを視るなど、まことに切歯扼腕せざるを得なかった。旅順に帰っていても、そうした情報が頻々として来る。奉天に近い新民府では、白昼日本人が強盗に襲われたが、しかもその強盗たるや、正規の軍人であった。邦人商戸は空屋同然となって、日夜怯々として暮らしているというのであった。
 自分自身、つぶさにその暴状を目撃して来たのである。日本人軍事顧問や、奉天にある外交官が、「日本人が悪い」と断言するに足るものが、どこに発見されたか。
 いずれも意識的、計画的に、奉天軍閥が邦人に対し明らかに圧迫せんとしている意図は瞭然たるものがあった。
 しかもその圧迫は、独りそういった暴虐に留らない、経済的にも、満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、ことごとくが日本の経済施設、大陸資源開発に対しての邪魔立てである。撫順で出炭する石炭にたいしては不買を強いている。これでは、日本の大陸経営はいっさい骨抜きとされている。
 郭松齢事件で、もしも日本からの、弾薬補給から、作戦的指導に到るまで、少なからぬ援助がなかったら、奉天軍の今日の武威はなかったのである。いわば大恩返しとして、商祖権のごときは、奉天軍が進んで提供した権益である。
 勢いに乗った張作霖は、ソロソロといつもの癖が出て、関外に出て、北京に入り、大元帥の称号を自ら宣して、多年の野望を遂げんとして得々としていた。その股肱、楊宇霆はまた、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せて大借款を起さんといている。
 その忘恩的行動は枚挙にいとまがない。
・・・
 かかる奉天軍の排日は、もっぱら張作霖の意図に出たところで、真に民衆が日本を敵とするという底のものではない。ただ、欧米に依存して日本の力を駆逐して、自己一個の軍閥的勢力の伸張を計り、私腹を肥やさんとするのみで、真に東洋永遠の平和を計るというふうな信念に基いていないことは明らかであった。一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。ひっきょう彼は一個の軍閥者流に過ぎず、眼中国家もなければ、民衆の福利もない。他の諸将に至っては、ただ親分乾分の関係に結ばれた私党の集合である。
 ことこうした集合の常として、その巨頭さえ斃れれば、彼らはただちに四散し、再び第二の張作霖たるまでは、手も足もでないような存在である。匪賊の巨頭と何ら変わることがない。
 巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足るのである。
 村岡将軍も、ついにここに到着した。張作霖を抹殺するには、何も在満の我が兵力をもってする必要はない。これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない。
 当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足る--と考えられた。
 竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴くことになった。
 それを察したので、自分は竹下参謀に、
『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視眈々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからない。俺がやろう。それより外にない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。北京には建川義次少将が大使館付武官としておった。
 
 竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作霖がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを速報せしめる手筈をとった。
 さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。
 そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。厳重なる奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃がす憂いがある。充分な手配が要る。
 それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、媓古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロついても目立たない。ここに限ると結論を得た。
 では、今度は如何なる手段に出るかが、次の問題となる。
 一、列車を襲撃するか、
 二、爆薬を用いて列車を爆破するか、
 手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。
 第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来ないでもない。
 そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終わた場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。
 万端周到な用意はできた。
 第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ。三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作霖が乗ったとの情報が入った。

 クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる懼れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。
 それから一方、満鉄線の方である。万一この時間に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみが当たっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。万一の場合のために、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。
 来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス地点にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空へ舞い上がった。張作霖の骨も、この空に舞い上がったかと思えたが、この凄まじい爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。・・・
 ・・・
 張作霖爆死の翌年四月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。
 これを知って、かねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いたので、学良の恐日は、漸々排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。

 その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山となり、あるいは憑庸大学の排日教育となり、排日、抗日
はむしろ張作霖時代よりもいっそう濃厚となり、日に日にその気勢を高めるに至り、秦少将らの企図した学良懐柔策はまったく画餅に帰したのであった
 こんな次第で、梟雄(キョウユウ)張作霖が亡んで学良と変わっても、何ら満州の対日関係は好転せず、かえって反対の傾向をたどり、学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満州問題を永遠に解決する道のないことが瞭然となった。
 他方、日本の政界では満蒙問題解決に邁進する誠意を欠き、張作霖爆死事件をめぐって、これを善処するどころか、かえってこれを倒閣の具に供さんとさえする一派が出て、中野正剛、伊沢多喜男らはそれに狂奔するありさまであった。
 時の陸相白川義則大将は、いたずらに愚直で、事件に対する答弁は拙劣を極め、ますます中野、伊沢らに乗ずる隙を与え、ついに田中義一内閣はこのため倒壊するに至った。
 さらに、この事件に参画した私は停職処分を受け、村岡軍司令官、斎藤参謀長、永町袈裟六独立守備隊司令官らも相次いで、それぞれ行政処分を受けるに至った。
 政争は国策を誤って憚らない。政党政治の弊はここに極まり、もっとも顕著な悪例を我が憲政史上に残したのはこの時であった。
 かくて私は、昭和四年七月、いったん第九師団司令部附となり金沢に謫(タク)せられ、同年八月停職処分を受けて軍職を退くことになった。そこで旧伏見聯隊時代の縁故をたどって、京都伏見深草願成に仮りの寓居を定め、もっぱら謹慎の意を表した。
 ・・・
 この謹慎生活の裏にあって、私は、つらつらと沈思するの時を掴んだ。世は滔々として自由主義に傾き、彼らは、満蒙問題の武力的解決に対しては、非難攻撃を集中し、甚だしい論者中には、満蒙放棄論をさえ唱えだす外交官を見るのであった。
 ・・・
 その結果は、日本の将来に直面しているものは、満蒙問題可解決に外ならないことは、不動の事実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満州問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。
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石原完爾 「東亜連盟」建設綱領と「宣言」及び「運動要領」

2017年02月07日 | 国際・政治

 石原完爾は、関東軍参謀として満州国建国を主導しましたが、その後、参謀本部に入ってからは日中戦争不拡大を主張するようになり、戦後A級戦犯として処刑された強硬派の東條英機と対立します。そのためか、彼の思想や行動を肯定的に捉え、名将として評価する人たちもいるようです。でも、軍人としての石原完爾の評価は、私には分かりませんが、国家の指導者としては、独善的であまりに問題の多い人物ではないかと私は思います。

 満州事変当時、「満州領有」を計画・実行するため関東軍を動かした石原完爾は、その後日中戦争不拡大を主張し、民族協和を唱え、「東亜連盟」建設を呼びかけるようになります。でも、一貫して自らの考えに基づいて、日中の将来を独善的に語っているように思います。

 彼は、「東亜連盟建設綱領」で「満州事変の進歩的意義は、東亜大同の理想を、民族協和の理念をもって、現実に闡明したことである」と書いてますが、自ら主導した関東軍の軍事行動の過ちを認め、謝罪することなく、いつのまにか「満州領有」の方針を変更して「民族協和」を唱え「東亜連盟」建設呼びかけるのは、いかがなものかと思うのです。あまりに手前勝手な話ではないでしょうか。

 柳溝湖事件を画策・実行し、満州事変に発展させたことをはじめとする「満州領有」のための関東軍の様々な軍事行動、およびそれを追認するかたちで進められた日本政府の諸政策が、中国民衆の反日感情を高めたということに対するきちんとした自己批判や謝罪がなされないで、「民族協和」や「東亜連盟」の話に進むことが、日本人である私にさえ理解できません。独善的で強引な姿勢は相変わらずではないかと思います。

 彼が「満州領有」ではなく、「満州国の独立」をもとめ、「東亜連盟」を発展させるという主張に変えるというのであれば、そうした自己批判や謝罪をベースに、軍事力によって確立された関係を根本的に改めることが不可欠なはずです。
 そして、欧米列強の帝国主義に対する、東亜の「王道主義」というものが何であるかを、具体的に示し実践しなければ、日本軍によって、欧米帝国主義による圧迫以上に苦しめられた中国の人たちと連帯し、欧米帝国主義に対することなどできるものではないと思うのです。謀略による柳溝湖事件をきっかけとした関東軍の連続的な軍事行動が「欧米覇道主義ノ圧迫」と、どこがどう違うのかと、疑問に思います。

 さらに言えば、「宣言」に「人類歴史ノ、最大関節タル、世界最終戦争ハ、数十年後ニ近迫シ来レリ、昭和維新トハ、東亜諸民族ノ、全能力ヲ総合運用シテ、コノ決勝戦ニ、必勝ヲ期スルコトニ外ナラス」とありますが、「世界最終戦争」を前提にするような独善的な「東亜連盟」の構想で、連帯して欧米帝国主義に対することなどできるものではないと思います。

 下記は、石原完爾選集6 東亜連盟運動」玉井礼一郎編(たまいらぼ)から抜粋しました。
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                     東亜連盟建設綱領
第一章 東亜連盟の必然性
 満州事変の進歩的意義は、東亜大同の理想を、民族協和の理念をもって、現実に闡明したことである。これ東洋復興の唱えられること久しいものあったに拘らず、或いは亜細亜人の亜細亜といい、或いは大亜細亜主義というその内容が必ずしも判然たらず、むしろある場合は民国一部識者をして日本の野心の代名詞ならずやと警戒すらせしめた従来の日支提携論を、その根底に於て一新するものといわねばならぬ。事実、当時の関東軍は外に東亜を西欧帝国主義より解放することを大目標とし、この実力の下に、内に満州国内に於ては民族抗争より民族協和への飛躍、中華民国に対しては対民国侵略主義より東亜連盟主義への転換ある方針を決定したのであるが、この識見は東亜連盟思想発展の上に永く記憶せられるべきことである。
 東洋近世史は過去一世紀に於て亜細亜が如何に巧妙に西欧帝国主義によって残害せられたるかを教える。この意味に於て明治33年、日本の条約改正成功の意義は極めて大である。これによって亜細亜はその半植民地状態脱却の第一歩を踏むことができたのである。孫文はその大亜細亜主義なる講演に於て、「日本の不平等条約の撤廃の日こそ、亜細亜全民族復興の日であり、この不平等条約廃棄によって、全亜細亜の国家及び民族は独立に対して大なる希望を抱いて来た」と述べている。
 しかし、東亜復興史上に表現される日本の歩みは必ずしも単純たる能わなかった。清国は阿片戦争、太平天国の乱、仏清戦争、日清戦争、義和団事件等、相続く事件に全く衰亡し、武漢革命によって、新しき歴史が創られるに至ったのであるが、これに対して吾人は、西欧帝国主義が先ず印度を征服し、次いで清国を侵し、更に日本に迫りつつあった時、必死の努力をもって幕末より明治への偉大なる転換をなし得た業績を追想するものである。英、米、仏、露の勢力の中心に圧迫されながらよく自力をもって国内の紛乱を処理したことは、等しく不平等条約を課されつつも、内争にまで西欧帝国主義の力を利用せる清朝末期、および成立当初の民国がその後全く欧米の力によって左右されざるを得なかった事情と対比して、如何ばかり幸であったか判らぬ。しかし小国日本がその烈しき努力によって一躍近代化し、膨張的本能によって大陸と交渉を持つに至るや、清国は少なからぬ圧迫感を感ぜざるを得なくなった。殊に日本が強国露国に一勝したことは、一面列強の支那分割の大勢を牽制し、爾来、列国の対支進出は領土保全、機会均等、門戸開放の原則をもって代表される経済的競争に変化するに至ったのであるが、他面に於ては日本の地位はこの戦争によって急速に高められ、その資本主義経済の発展と相俟ち、大陸に対し積極的侵攻の態勢をとるに至ったのである。日本の対露戦勝は、最近数百年間に於ける亜細亜民族の欧州人に対する最初の勝利であった。このことが被圧迫民族にあたえた影響の測るべからざるものであったことは、その後、埃及(エジプト)、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア、印度等が相次いで独立運動を起こすに至ったことより見ても明らかである。亜細亜諸民族がかかる希望を抱いた反面、日本が一方に於て西欧帝国主義的発展の形相をも具えて来たことに対する彼等の失望大なりしこともまた想像出来るのである。しかし、東洋をおおう西洋の圧力は強大であって、殊に支那は列強の差別的特権の下にある。日本は先ず自らの実力を充実する必要があった。殊に日露戦争以後、列強の対日感情は次第に悪化の傾向にある時、日本は東洋防衛のためといいながら、西欧帝国主義の特権に均霑(キンテン)し、自己の脚下を強化せねばならなかったのである。かの二十一ヶ条約問題は、実に日本自ら極東に於ける地位を確保するために、欧州大戦の混乱に乗じて試みた努力というべきであろう。民国の対外憎悪の焦点が日本に結ばれるに至ったことは、弱小日本の急速なる発展が多く民国を土台とせることに対する失望、怨恨によるのであろうが、民国人としても当時の歴史を虚心に研究し、日本が必死となって西欧帝国主義の圧力に抗した事実およびこのためにはあくまで大陸に進出せざるを得なかった事情を理解すべきである。
 かかる成長過程の当然の結果として、日本は知らず識らず二つの思想を持つこととなった。一は西欧模倣の帝国主義思想であり、他は王道文化の思想である。近年に於ける対支政策の不統一は意識せざるこの二重性格に原因を求むべきであると考える。これを現実歴史の上に見るも、民国の対日感情はウイルソンの民族自決の宣言、蘇連革命影響によってますます悪化の一路を辿った。欧州戦後、欧米の力に余裕を生ずるとともに、国際会議のあらゆる機会に於て、日本は民国代表の抗議の的となり、恰も列強に裁判される被告の如き観を呈したのは吾人の今に記憶するところである。同時に、日本に於ても民国に対して確たる国策を有せざるのみか、民国の抗議に対する態度頗る徹底を欠き、屢次の大陸出兵も一貫せる国策によるものとは言い難い。かくて両国の関係は全く軌道を逸脱し、遂に満州事変となったのである。

 満州事変の特異性は、前述の如くその指導原理の明徴なるにある。西欧帝国主義と一戦を辞せざる日本の国防的地位に対する合理的信念の下に、東亜大同の史的必然を確信し、この確信によって、従来の対支観察を根本的に転換するものである。いわゆる「東亜連盟論」が現実的色彩をを帯びるに至ったのはこの時以後である。東亜連盟の基礎観念は次章に於て論ずるのであるが、満州事変によって生まれたる最も貴重なるものは、西欧模倣の帝国主義より王道主義へ転進の指導精神に外ならぬ。故に満州建国後に於て、日本はこの原理に基づき一意満州国の理想的建設に邁進し、満州国の日華提携の橋梁たるべき意義を明白にし、現実をもって中華民国の諒解を求むるとともに、他面、中華民国に対してはその速やかなる国内統一を援助し、一日も早く完全独立国たる実質を有せしめ もって東亜連盟結成の責任を分担せしむべきであった。しかし遺憾ながら満州国建国の意義識者に徹底せず、ために民国に対する日本の伝統的認識は依然残存し、民国に対する政策また、しかく明瞭たる能わなかった。これと同時に民国に於ても東亜解放について正常なる認識をなさず、例によって欧米依存の愚策を踏襲し、かえって抗日を強化し、日本に於ける強硬論を刺激したのである。かかる情勢の下に支那事変は勃発したのである。
 
 今次事変当初、日本政府は不拡大主義を堅持した。それは本年七月、事変二周年記念講演に於て、近衛前首相が自ら表明せる如く、日満支の一体的連関を認識し、いわば東亜の内乱とも言うべき日支衝突は、あらゆる見地より極力これを避けんとしたがために外ならぬ。しかしながらその後、日華の全面的抗争となり、それに伴って大いに暴支膺懲が叫ばれたのであるが、東亜再建の世界史的意義の闡明につれて、国論は漸次適正建設的となり、政府の説くところもまた、長期建設、東亜新秩序建設と変化し、今や日本の優越的希望のなかに事変処理の条件を求むることなく、日満支提携を可能ならしむべき基礎の成立を真剣に考慮しつつあるものと云えよう。即ち、日本は、差当って東亜の一体化に主たる貢献をなすべき自己の使命を自覚し、自ら現在の抗争的地位を克服し、もって今日以後に於ける東亜の新しき進歩を招来せんと意識し来ったのである。この意味に於て西洋模倣の帝国主義をを残存せしめつつも、日本は今や着々と王道主義に目覚めつつあるものと言える。今こそ日本は民国四億の民心を獲得し得るか否かの分岐点に在る。民国に於ける過去政治家の、偽装的非良心的親日主義に幻惑されることなく、民国の新しき青年を心より納得せしめ得る国策をもって、この時局を収拾しなければならぬ。このためには、もはや新しき民国青年より完全に接触を拒絶されて居る、従来の我が対民国指導者陣営の一掃を断行すべきである。日清戦争以来、日本国民の脳裡に浸潤せる強者対弱者の指導者意識に基づくいわゆる大陸経営論は、今こそ正に歴史的終焉を告げるべき時期である。
 かくて先に道義的見地に基づいて主張されたる東亜連盟主義は、今や血肉同胞の尊い犠牲の下に、日華提携の現実的基礎として主唱されるに至ったのである。
 東亜新秩序の建設は、近衛内閣が聖断を仰いで確定したところの、支那事変処理の原則である。今や西欧帝国主義が堅く維持せる旧支配秩序は潮のひくが如く漸やく崩壊の過程にあり、これに対する東亜の大同は世界史発展の自然に雁行する必然の現象と言わざるを得ない。要はこれを王道の大義に則って建設するにある。欧州は列強対立して平和なき姿であり、亜米利加大陸はモンロー主義の名の下に、強者横暴の支配である。近世文明におくれて起てる弱き東亜が、他の大陸を超えて繁栄するためには王道によって心から結合する以外に途はないのである。日華の責任は重大と言わねばならぬ。
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      宣   言

人類歴史ノ、最大関節タル、世界最終戦争ハ、数十年後ニ近迫シ来レリ、
昭和維新トハ、東亜諸民族ノ、全能力ヲ総合運用シテ、コノ決勝戦ニ、
必勝ヲ期スルコトニ外ナラス
 即チ 昭和維新ノ方針次ノ如シ
一、欧米覇道主義ノ圧迫ヲ、排除シ得ル範囲内ニ於ケル諸国家ヲ以テ、
  東亜連盟ヲ結成ス
二、連盟内ニ於ケル、積極且ツ革新的建設ニヨリ、実力ヲ飛躍的ニ増進シ
  以テ決勝戦ニ於ケル必勝ノ態勢ヲ整フ
三、右建設途上ニ於テ、王道ニ基キ、新時代ノ指導原理ヲ確立ス
 
 皇紀二千六百年二月十一日               東亜連盟協会

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                   東亜連盟協会運動要領
  一、協会創立の趣旨
 昭和維新の必然性が信ぜられて既に数年を経過し、幾多の革新案が発表せられた。しかし、多くは観念的なる革新のための革新の範囲を脱せず、現実的迫力を欠く憾みを禁じ得ない。これは国難の圧迫が切実に国民大衆に感ぜられず、維新の目標が明確を欠くためである。
 東亜連盟協会宣言に示す吾人の世界観は甚だ素朴であるけれども明確に昭和維新の目標を捉え、簡明直截に革新の方向を示すものと信ずる。多数の革新運動が展開せられつつある今日、敢えて同志を糾合して協会を創立せるはこの確信に基づくのである。
 特に「東亜連盟協会」と称するゆえんは、昭和維新の核心問題は東亜の大同すなわち東亜連盟の結成にあるがためである。

  二、協会の運動方針
 東亜連盟協会は政治団体ではない。
 吾人の信ずる所によれば、特に革新の時代に於て政治運動をなさんとするものは、自ら責任を持って政治の大任に当り得る自信が必要である。すなわち昭和維新に対する確固たる方針と具体案を有し、かつその実行に当たり得る同志の結成なくして猥りに政治運動をなすは、皇国民の正しき態度と認め難い。殊に挙国一体の新体制を創造すべく全国民が熱望しある今日、徒らに党を樹つるは慎むべきである。
 協会は宣言の示すところに依り東亜連盟の結成を核心問題とする昭和維新の指導原理を研究立案し、これが普及宣伝を目的とする文化団体である。
 吾人は、吾人の主張が国民の理解に依り全面的に国策として採用せらるることを念願し、この目的を達成せば協会は当然これを解消する。
 協会の目的とする昭和維新指導原理の確立は事極めて重大であり、世間普通の文化団体の如き単なる言論文書活動のみに依りてその目的を達成することは出来ない。協会の信念を、許さるる範囲において熱心に実践する会員の同志的結合を必要とする。これがため協会は常に運動の規範を明確にし、的確合理的なる行動をなすべく、細心の注意を払わねばならぬ。
 協会は自ら進んで政治運動に入ることは堅く欲せざるところであるが、国家の最重要事項と信ずることにつき真剣なる研究実践を行なって国民に訴うる以上、協会所期の指導原理確立し、かつ同志の結成拡大し、しかも我等の待望する新体制運動が万一所望の成果をを挙げ得ざる如き事態に立ち至ったならば、国家に対する義務として已(ヤ)むなく、政治の分野に向かって活動を余儀なくせらるること絶無ならざるべきことを心竊(ヒソカ)に覚悟せねばならぬ。

  三、指導原理の立案
イ、「昭和維新論」は指導原理の「方針」草案である。
不断の努力に依って改訂を重ね、大体協会の「方針書」たり得るに至らば、これを「昭和維新指導綱領」と改称する。
ロ、「昭和維新論」に基づき各要綱を起案する。
 「東亜連盟建設要綱」は外政の要綱たる地位を占むるものである。東亜連盟の結成を昭和維新の核 心問題と主張する協会に於てはこの書の価値を極めて重大視する。
 内政の各革新目標につき、なるべく速かにその要綱を起案せねばならない。
ハ、各「要綱」は更に発展して「各論」を生むのであるが、実際に於ては逆に「各論」の具体問題が起案せられ、文化運動としての同志の研究実践に依り検討進展し、これらを総合する努力に依り「各論」「要綱」「綱領」決定の基礎を得るであろう。すなわち直観的なる根本方針の決定に依り具体案制定に方向を与え、その具体案の実践的展開に依り大綱は更に検討確定されるのである。

  四、協会の組織
 東亜連盟協会は現在東京に本部、要地に地方事務所を置き、各地に支部を置く。支部には分会及び班を設く。
イ、本部の任務
 1、指導原理の立案に依り会運動の方向を統制す
 2、満州国および中華民国その他東亜各地における姉妹団体と密接なる連絡協同
 3、中堅会員の訓練
ロ、地方事務所の任務
 1、管内支部の結成
 2、優良会員の訓練
ハ、支部の任務
 指導原理に基づき同志の発見、獲得、訓練に当る。
 協会会員たるものは単なる知識欲に依る参加者であることは許されない。新時代の重要性を体得し、 その普及および宣伝に当るとともに新しい社会生活への協同的実践の熱意に燃えるものでなけれ  ばならぬ。この原則に立つ限り既成陣営の人士の参加を拒否することはない。しかし旧時代の慣習 に依り自己または郷党の利益を中心として動くものは吾人の同志たる資格はない。すなわち主義如 何が問題で、人を排撃するものであってはならぬ。
ニ、中央支部ともにその統制は会員の合議制に依る。合議制と称するも徒らに自己の主張を固持し、 または策謀に依りて多数を獲得せんとする旧時代の方式は絶対にこれを排撃する。
  更に吾人の銘記すべきは、革新の時代に於ては特に多数凡者の意見よりも達識ある天才的人物の  意見を尊重すべきことである。同志は滅私奉公の心境を以って有能なる同志の発見に努力し、有  能者に対してはその年齢、学歴等に捉わるることなくその分に応ずる指導的役割を演ぜしむべき  である。
かくて同志一同の念力は必ず優れた指導者を発見し得ると確信するも、不幸卓抜なる指導者現出せざる場合においても、右の如き同志の心境はよく協同の実を挙げ、正しき方向を堅持して前進
し得る事を信ずるものである。
  決議権は参与会員にある。しかしなるべく広範囲の事項にわたり一般会員に意見を開陳する機会  を与うる如く努むべきである。

  五、会員の訓練
イ、支部以下の訓練
 1、指導原理の徹底
漫然と時代の重要性を考えるのでなく明確に昭和維新の本質を把握せしめるために、会員に「宣言」「昭和維新論」および「東亜連盟建設要綱」「国民組織要綱」「農村改新要綱」等を正確確実に理解体得せしめねばならぬ。これがため簡易なる方法を以って連続その講習会を開催して、その訓練の結果に応じ、更に中央の訓練に参加せしめる。
 2、外地に於ける支部はもちろん、内地における支部もその境遇に応じ、民族協和の実践運動を組   織化し、東亜連盟結成の基礎工作に努力する。
内政の革新目標につきては、可能の範囲内において同志会の方針に基づき会員一致団結の下に実践体験する。指導原理の総合的立案は中央の任務であるけれども、各支部の訓練により生ずる意見は、中央の立案のために最も重要なる資料たるべきものである。
 統制主義時代は協同生活の最も能率的な運営が要求される時代である。東亜連盟、民族協和の主張者たる会員は、協同生活の基礎たるべき協和道義の熱心なる実践者たる責務をもつ。会員は主義の前に己を虚しゅうして同行讃美の精神に生き、先ず以って同志会内部において見事なる共同動作の成果を挙げるとともに、他の同志団体に対してもまた常に敬愛の念をもち、速やかに無理なく結集し得るよう努力しなければならぬ。更に会員が社会人として立つ場合、あるいは隣組において、あるいは職域において、東亜連盟運動者として率先一般より信頼せられる活模範となり、新しき時代の協同生活の道義確立のため挺身すべきである。
ロ、中央の訓練
 1、地方事務所は支部訓練を活用して優良会員の訓練を行う。
 2、本部は中堅会員を集合し、総合的高度の講習会を行う。

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