真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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特攻隊員の日記や遺書と”大東亜聖戦大碑 ”NO3

2020年03月29日 | 国際・政治

 2000年8月4日、石川県金沢市の中心地にある石川護国神社の参道に、高さ12メートルに及ぶ巨大な「大東亜聖戦大碑」が建てられたといいます。碑の裏面には「八紘為宇(=八紘一宇)」という文字も見られ、毎年8月には「大東亜聖戦祭」が開催されているということです。
 それは、日中戦争の最中に、第2次近衛内閣によって閣議決定された、下記の「基本国策要綱」を、しっかり受け継ぐものであり、前頁で触れた昭和天皇の「人間宣言」と呼ばれる「新日本建設に関する詔書」の”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”に基づくものだと思います。

世界は今や歴史的一大転機に際会し数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとし、皇国亦有史以来の大試錬に直面す、この秋に当り真に肇国の大精神に基く皇国の国是を完遂せんとせば右世界史的発展の必然的動向を把握して庶政百般に亘り速に根本的刷新を加へ万難を排して国防国家体制の完成に邁進することを以て刻下喫緊の要務とす、依って基本国策の大綱を策定すること左(下)の如し

基本国策要綱

一、根本方針
皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り之が為皇国自ら速に新事態に即応する不抜の国家態勢を確立し国家の総力を挙げて右国是の具現に邁進す
二、国防及外交
皇国内外の新情勢に鑑み国家総力発揮の国防国家体制を基底とし国是遂行に遺憾なき軍備を充実す皇国現下の外交は大東亜の新秩序建設を根幹とし先づ其の重心を支那事変の完遂に置き国際的大変局を達観し建設的にして且つ弾力性に富む施策を講じ以て皇国国運の進展を期す
・・・以下略(『ウィキペディア(Wikipedia)』:アジア歴史資料センター・デジタルアーカイブ)
 
 「大東亜聖戦大碑」建立委員会の委員長は、元関東軍参謀・草地貞吾陸軍大佐だったようですが、まだ日本には、明治維新以来の皇国神話の呪縛から逃れることが出来ず、”架空なる観念”にとらわれて、日本の戦争の実態を知ろうとしない人々が大勢いるということではないかと思いまいます。
 沖縄師範学校在学中、鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に巻込まれた大田昌秀元沖縄県知事も、「大東亜聖戦大碑」建立の事実を知ってすぐに、”聖戦”という言葉が受け入れ難い言葉であることを公にされたといいます。当然だと思います。
 当時の日本が”聖戦”よって建設しようとした”皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序”がいかなるものであったかは、当時すでに植民地化されていた韓国や台湾、それに傀儡国家・満州国で、どんな差別や強制があったかを調べればわかることではないかと思います。
 また、戦時中の南京大虐殺や捕虜斬殺の問題、重慶無差別爆撃の問題、日本軍”慰安婦”の問題、731部隊の人体実験や細菌兵器開発・使用の問題、毒ガス兵器使用の問題、沖縄戦の問題等々を考慮すれば、日本の戦争が、その考え方や方針の面でも、戦い方の面でも”聖戦”とかけ離れたものであったことは否定できないと思います。

 だから、私は、”特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ”およそ310万の日本人と、2000万ともいわれるアジアの人々の命を犠牲にした日本の戦争を”聖戦”と呼ぶことは、とても野蛮であるばかりでなく、サンフランシスコ平和条約や日本国憲法に反することでもあると思います。

 下記は、前頁「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)の「第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし」NO2の続きですが、なぜこうした日記や遺書を書く心優しい穴沢少尉が、特攻兵として死ななければならなかったのかは、忘れられてはならないことだと思います。
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<昭和20年3月25日
 13時半、防府飛行場発、都城へ向かふ。
 高度2500附近まで烟霧(エンム)のため視程二キロ程度なり。別府湾に至るの間しかり。14時半、都城東飛行場着。
 101Fすでに在り。迎へを受く。兵舎は半地下(三角兵舎)、山に囲まる環境よし。
”かかる所に住まば長生きすべし”と友言へり。

<昭和20年3月26日
 朝は少しく霜おけるを見、相当の冷えを感ずるも、陽の昇ると共に頓(トミ)に暖かし。
九州南部なり。
 午後、飛行場踏査せり。一式戦(隼)には可なり。将校室内に木蓮、椿、桃薫る。薫風微々として来り山林の梢を揺す。
 出撃近きを感ず。書簡を焼く。
 残し置きたる悉く智恵子よりのものにして、燃えたつ炎と共に感また心を揺(ユルガ)す。無量なり。
 書簡中にみる歌 左に抜萃し、余香を残さんとす。
   わかれてもまたもあふべくおもほえば心充たれてわが恋かなし
   こともなげに別るる君とおもひしに町角にしてかへりみにけり
   あたたかき心こもれる文もちて人おもひをれば鶯の鳴く

 明日、知覧飛行場に進発の命下る。或ひは直ちに出撃にあらざるや。夕刻、トラックにて都城市に赴く。偕行社旅館に一泊す。私物の整理をなす>

<昭和20年3月27日
 いよいよ出発。行李(父宛て)、書簡(三冊)智恵子宛発想を事務室に依頼す。四ヶ月の間、苦楽を共にせし整備隊と別れを告げ、十五時、機上の人となる。整備隊中、涙を流し下をうつむく者多く、出発の我等また断腸の思ひなり。
 離陸。煙吐く桜島を右に鹿児島湾を横断するや、微雨ありて雲低し。
 単縦陣となりて知覧飛行場に侵入す。
 本夕刻、ただちに徳之島に前進の予定なりしも悪天候のため延期す。飛行団長、一〇三FR長、六五FR長、列席会食せり。
 後に知覧町に出、旅館に一泊す。微雨依然として続く>

<昭和20年3月28日
 十六時、出撃の予定なりしも中止。
 夕刻にいたり、明未明三時、出撃と決定せり。隊員盃をまはし、ささやかなる食事を済まし、準備のため飛行場に行く。
 分廠整備員、準備殆んど整はず、遂に又も中止となる>

岩尾光代の語る──
「隊長夫人からの速達をうけた智恵子は、飛ぶようにして亀山に行ったものの、ぐずぐずしてはいられない思いにかられて「一夜でもいいから、妻として見送りたい」と都城へ向かいました。
 3月29日、都城、というだけで所在はわからなかったが、それでも、行きあたりばったり、東飛行場を訪ねると、「第二十振武隊は、徳之島へ進発いたしました」と告げられ、これで万事終わりかと、智恵子は急に力がぬけてしまいました。しかし、穴沢利夫少尉は、この時、徳之島ではなく知覧基地にいたのです。」

穴沢利夫の日記──
<昭和20年3月29日
 嗚呼、われ残されたり。隊長以下七名遂に出発せり。見送る我の姿あはれ>

<昭和20年3月30日
 十六時、吉田少尉、伊藤少尉、滝村少尉、小官(穴沢)四名。勇躍、徳之島に向け出発す。中ノ島附近より天候刻刻悪化し、四機単縦陣となり、雲を縫うて進む。高度五十米(メートル)となる。行手は墨を流したる如く暗し。飛行一時間十分。四機諸共雲中に突入せり。瞬間、右に強引なる旋回をなし雲中より脱出せるも、頼みとなる地図をとばし、已むを得ず単機基地に帰還せり。他の三機の運命や如何に>

<昭和20年3月31日
 嗚呼、天は我が隊を見捨てたるか。
 他の三機の行方知れず。
 暗然たり>

<昭和20年4月2日
 九時、徳之島より寺沢軍曹帰還せり。29日着陸時、弾痕に脚を入れ愛機を大破せるなり。徳之島の状況を聞く。
 昨一日、山本明彦少尉出撃、大型輸送船に命中、轟沈せりと。
 今二日払暁、隊長、小島伍長出撃、戦果は未だ知れず。
 尚30日、我と同行せる滝村少尉の消息に関しては依然として不明なり。燃料尽きて海中に没したるやもれず。嗚呼……
 十六時、三十振武隊と共に単機を以て同行するも、誘導機故障のため再び帰還せり。あくまで武運に恵まれざる我よ。
 三十振武隊と共に明日の出撃をはかる。
   散る花とさだめを共にせむ身ぞとねがひしことのかなふ嬉しさ  >
 
<昭和20年4月4日
 寺沢軍曹、代機を得る。
 整備完了を待ちたる上、三機にて出発せむとはかり参謀に具申す。参謀諾せり。我隊の整備員六名来る。何れも優秀なる者のみなり。整備の完璧を期せむ。
 昨日到着せる柴田軍曹を入れ、合せて七名なり>

 前田笙子(知覧高女三年、十五歳、特別攻撃隊担当)の手記──
<昭和20年4月6日
……整備の方の吹く尺八をきいてゐると二十振武隊の方々が洗濯物をおたのみになる。初めからの受け持ちだつたのだが、兵舎が離れてゐて飛行機故障で残られた方が三人なので行きにくい。ついでに靴下のつくろひをと穴沢少尉さん三足おたのみになる。他の方が「自分のも」と言つて、つくろひ物で午後からは精一杯だつた>

穴沢利夫の日記──
<昭和20年4月8日、曇
 夕べ、大平、寺沢と月見亭に会す。憶良の「酒を讃へる歌」を思ひ出す。たまにはよきものなり。
 しつとりと雨に濡れる若葉の道を一人歩いてみれば、本然の性格が心の中で頭をもたげてくる。忘れてしまふには余りにも惜しい思ひ出の多くが俺の性格のかげから一つ一つ覗き出る。過去のない男、世の中にそんな男があれば春雨も降りはしまい。若葉も南国の春を伝へまい。
 過去、現在、未来と時は流れ、人間に歴史を与へてゆく。悠久なるものへの憧れを持ちながら渺(ベウ)たる時を楽しみ、現在を設定し過去と未来をもつ。矛盾したことと笑つてはいけぬ。果てしない時も、世間の人は己が人生五十年と同じ長さにきり測れないのだから。
 俺も世間の人、こんな短かかつた生涯の上に過去があり現在がある。人間の都合とか便利とかで永遠なるものを切り断つてはなるまいに。
 三十振武隊の整備の下士官が竹を切つて横笛を作つてゐる。
 火箸を焼いては一つ一つ穴をつけてゆく。間もなく出来上る時を頭に描いてか、時々嬉しさうに口元を綻ばせる。
 一つ穴を開けては火箸を火の中に突つ込み、赤く焼けるのを待つ間、吹鳴する時のやうに指をあて唇を当ててみたりする微笑ましい様子に、傍から覗きこみながら、かつて智恵子が「歌を詠みながら戦ひをする日本人はなんと幸福なことでせう」と書き送つてあつたことをふつと思い出した。
 陣中にある将兵が歌を詠み、あるひは楽の音を楽しむ、静かな半面をもつ人間は確かに人間として豊かな人であるに違いひない>

<昭和20年4月9日
 終日、雨降りしぶく。
 長与善郎著「自然とともに」読み始む。
 万葉集読みたし。
 詩を読みたし>

<昭和20年4月11日
 明12日、出撃と決定す。
 幸、天候も回復せり。
   ふるさとに今宵ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらむ(菊池武時)>

前田笙子の手記──
<昭和20年4月11日
 晩、二十振武隊、六十九振武隊、三十振武隊のお別れ会が食堂であつた。特別九時まで時間をもらつて給仕をする。
 みんな一緒に「空から轟沈」の歌をうたふ。ありつたけの声でうたつたつもりだつたが何故か声がつまつて涙があふれ出てきた。森要子さんと「出ませう」と兵舎の外に出て、思ふ存分、泣いた。私たちの涙は決して未練の涙ではなかつたのです。明日は敵艦もろともになくなられる身ながら、今夜はにつこりと笑つて、酔つて戯れていらちうしゃる姿を拝見して、ああ、これでこそ日本は強いのだと、あまりにも嬉しく有難い涙だつたのです。それなのに、私たちが帰るとき「お世話になつた、ありがたう」とお礼をいはれた。なんと立派な方々ばかりでせう。森さんと抱きあつて、また、泣いてしまつた>

<昭和20年4月12日
 今日は晴れの出撃、征(イ)きて再び帰らぬ神鷲(シンシウ)と私達を乗せた自動車は誘導路を一目散に走り、飛行機を待避させてある取違(トイタゲ)地区までゆく。途中「空から轟沈」の歌の絶え間はない。隊長(池田了)機の擬装をとつてあげる。腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかつた。隊長さんは私たちを始動車にのせて、戦闘指揮所まで送つてくださつた。出撃なさる直前の慌ただしい最中なのに、どこまでやさしい隊長さんでせう。
 始動車の上から振り返ると、特攻機の、桜の花にうづまった操縦席から手をふつていらつしやる。
 始動車から降りて、桜花の枝を握つて準備線に駆けつけたとき、六十九振武隊の隊長機はすでに滑走しようとしてゐる所だつた。遠いため走つてゆけぬのが残念だつた。隊長機のあと、ブンブンうなりをたてた岡安機、柳生、持木機の九七戦が翼を左右に振りながら飛び立つてゆく。
 つづいて離陸する二十振武隊の穴沢少尉さんの隼機が、目の前を地上滑走して出発線に向つてゆく。私たちが一生懸命にお別れの桜花の枝を振ると、につこり笑つた鉢巻姿の穴沢さんが、何回も敬礼された。
 特攻機が全部飛びたつたあと、私たちはぼんやりと、いつまでも南の空を見あげてゐた。涙が、いつかあふれ出てゐた。抱きあつて、しゃがみこみ、みんなで泣いた>

穴沢利夫の遺書──
<数刻後に出撃を控へ、今日までの御家内皆々様よりいただいた御芳情に、遥か九州南端の基地より御礼申上げます。
 万感胸をつき「皆様どうぞお健やかに」と願ふ以外に術(スベ)がありません。
 同封の書簡、智恵子様に御渡し下さい。
 御尊父様、御母堂様にもお礼のほど宜敷く御伝へ下さい。
    昭和20年4月12日
   孫田健一(智恵子の兄)様>

<智恵子へ
 二人で力を合わせて努めて来たが終(ツイ)に実を結ばずに終つた。
 去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。転々と処(トコロ)を変へつつ多忙の毎日を送つた。
 そして今、晴れの出撃の日を迎へたのである。便りを書きたい、書くことはうんとある。しかし、そのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る。
 あなたの御両親様、兄様、姉様、弟様、みんないい人でした。いたらぬ自分にかけて下さつた御親切、まつたく月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言つておきます。
 今は徒(イタズラ)に過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。
 常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませてくれることを信ずる。
 しかし、それとは別個に、婚約をしてゐた男性として、散つてゆく男子として、女性であるあなたに少し言つて征きたい。
「あなたの幸を希(ネガ)ふ以外に何物もない」
「徒に過去の小義に拘(カカハ)る勿(ナカ)れ。あなたは過去に生きるのではない」
「勇気をもつて過去を忘れ、将来に新活面を見出(ミイダ)すこと」
「あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の世界にはもう存在しない」
 極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活(イ)かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。
 ──当地はすでに桜も散り果てた。大好きな嫩葉(ワカバ)の候が此処へは直(ジキ)に訪れることだらう。
 いまさら何を言ふかと自分でも考へるが、ちよつぴり欲を言つてみたい。
 一、読みたい本
  「万葉集」「芭蕉句集」高村幸太郎の「道程」、三好達治の「一点鐘」、大木実の「故郷」
 ニ、観たいもの
   ラファエルの「聖母子像」、加納芳崖の「悲母観音」
 三、聴きたいもの
   懐かしき人びとの声  シュトラウスのワルツ集
 四、智恵子
   会ひたい……話したい……無性に……>
   


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