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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「地図にないアリラン峠」の話と日本の人権問題

2020年01月27日 | 国際・政治

「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)の著者・林えいだい氏は長く強制連行された朝鮮人の証言を取り続けて、様々な事実を明らかにされていますが、同書の「第一章 筑豊と私」の「(4)地図にないアリラン峠」の中で、子どもの頃に自分自身が目撃した、下記のような衝撃的な事実も書いています。
「これから病院に連れて行ってもどうせ助かるまい、早うそこらに穴を掘って埋めておけ!」
義兄は持っているピッケルで坑口近くの辺りを指した。二人の朝鮮人坑夫は、まだ生きているのに病院で治療も受けさせず、坑口付近に掘られた穴に生き埋めされてしまった。

 また、朝鮮人だといって差別せず、戦時下、逃亡してきた朝鮮人抗夫に手を差し伸べた両親の強い影響を受け、朝鮮人強制連行の問題に取り組むようになったとして、両親に手を貸した事実の一端を書いていますが、それは、戦争だから仕方がなかったなどと言って済ますことのできない差別的で野蛮な犯罪的仕打ちに対する命がけの抵抗だったのではないかと思います。
 さらに、私が見逃すことができないのは、こうした戦時中の犯罪的事実を明らかにしようとするジャーナリストや研究者、歴史家などを脅す人たちが、戦後の日本に多数存在することです。林えいだい氏も脅迫されたことを書いていますが(下記に抜粋)、本人はもちろん、家族にまで危害を加えるというような脅しはほんとうに卑劣だと思います。実際に家を焼かれてしまったという人の話も聞いたことがありますが、それは、明らかにされた事実が嘘ではないことの証だと思います。
 またそうした脅しがくり返されるのは、戦前・戦中、指導的な立場にあった人たちが、責任を追及されることなく、戦後の日本でも大きな影響力を持ったからだと思います。
 だから、日本はいまだに戦前・戦中の差別性や野蛮性をきちんと克服できていないので、「人権後進国」などと言われたリするのではないかと思います。

 例えば、ゴーン容疑者の逃亡によって、「人質司法」といわれる被疑者の長期拘留の問題が注目を集めました。特に被疑事実を否認した場合、別件逮捕などを交えて長期間身柄を拘束される問題は、以前から指摘はされていましたが、改善されていないと思います。また、被疑者の取り調べに弁護士の立ち会いが認められていないことも、主要先進国の中では異例だといいます。「密室」の取調べでは、捜査側による強引な取り調べや誘導がなされ、冤罪を招くとの指摘も、以前からくり返されてきました。こうした弊害を防ぐため取り調べの録音・録画が導入されましたが、その対象はいまだ一部に限られています。
 さらに、被疑事実を否認したり、黙秘したりする被疑者には、弁護人以外の接見が認められないことが多いのも、日本の刑事司法の異常な側面の一つだといわれます。ゴーン容疑者もそのことを訴えたようですが、家族(妻)との接見が許されなかったようです。家族を通じて証拠を隠滅する可能性があるということが優先され、被疑者の人権は後回しにされる傾向が強いのだと思います。
 こうした被疑者の取扱いは、世界人権宣言の理念を現実化するため1966年、国連総会で採択された人権に関する規約、すなわち、「国際人権規約」に反するのではないかと思います。

 国際人権規約B規約14条2項に
刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。
 とあるのです。これは、「仮定無罪の原則」とか「無罪の推定」とか、「推定無罪」とかいわれるようですが、日本では無視される傾向が強いのではないかと思います。警察に逮捕された瞬間、被疑者が「推定有罪」の扱い受ける日本の刑事司法は、非人道的でこわいと思います。特定の個人を意図的に犯罪者にしてしまうことも可能ではないかと思われるからです。そういう意味で、日本の警察や検察は、戦後も「疑わしきは罰せず」とか「疑わしきは被告人の利益に」という考え方にはなっていないように思います。
 
 また、日本の入国管理局の人権無視もくり返し指摘されています。国連の規約人権委員会の総括所見や、国連の拷問禁止委員会の総括所見で、日本の入国管理手続や入国管理局の収容施設の処遇について懸念や勧告が出され、国際人権機関から批判されているのです。難民申請者をあたかも犯罪者のように扱う日本の入国管理局の人権無視の一因は、その組織の歴史的経緯によるということを聞いたことがあります。
 戦前・戦中、日本の入国管理は、警視庁や各都道府県の特別高等警察(特高)と同様に内務省が所管しており、警察行政の一環として入国管理が行われていたということですが、大日本帝国での市民だった朝鮮人、また外国籍の人たちや共産主義者らを取り締まっていた役人たちの多くが公職追放を免れ、戦後の初期から出入国管理業務に携わったために、日本国憲法の精神に基づく人権意識が希薄で、入管業務対象者に対して、戦前・戦中同様、公安的な発想で接してきたというわけです。
 上記の拷問禁止委員会は、日本の入管施設内における「多数の暴行の疑い、送還時の拘束具の違法使用、虐待、性的いやがらせ、適切な医療へのアクセス欠如といった上陸防止施設及び入国管理局の収容センターでの処遇」について懸念を表明し、さらに、「入国管理収容センター及び上陸防止施設を独立して監視するメカニズムの欠如、特に被収容者が入国管理局職員による暴行容疑について申立てできる独立した機関の欠如」への懸念も表明し、「処遇に関する不服申立を審査する独立した機関の設置」を勧告したといいます。収容されている人たちの人権が守られる体制になっていないということです。
 そうした実態を裏づけるような記事が、先日の朝日新聞「ひと」欄に出ていました。茨城県牛久市の東日本入国管理センターを望む高台からメガホンで「ハロー。また来たよ。みんな愛してるよ」と呼びかけるナイジェリアの少数民族出身女性が紹介されていたのです。その女性は、今は「仮放免」の身ですが、彼女自身がかつて”劣悪な環境に閉じ込められ、適切な医療が受けられず、職員による暴力的な制圧を目撃したため、毎日のように入管施設に通い、仲間を励ましているのだということです。そういえば、昨年、長期間収容されていることに抗議して、ハンガーストライキを行っていた中年のナイジェリア人男性が死亡したという事件があったことを思い出します。 

 さらに私が気になっているのは、外国人技能実習生の問題です。外国人技能実習生の労働条件について、法令違反が後を絶たないのはなぜでしょうか。日本で働くことが「薄給で奴隷のようにこき使われること」という認識が世界中に広まってもいいのでしょうか。日本の高度な技術を学びたいと、アジア諸国から技能実習生として来日した若者が、差別や偏見や過酷な労働環境に苦しみ失踪したり、自殺したりするというようなことがあっていいのでしょうか。法務省の「聴取票に係る技能実習生の失踪事案に関する調査結果」には、技能実習実施機関の”最低賃金違反、契約賃金違反 賃金からの不適当な控除、時間外労働等に対する割増賃金の不払い、暴行・脅迫・監禁、違約金・強制預金、旅券・在留カード・預金通帳等の取上げ、帰国の強制、不当な外出制限”等が報告されています。また、平成24年から平成29年までの6年間で、171人もの技能実習生が死亡しているという調査結果には驚きます(平成24年24件、平成25年23件、平成26年29件、平成27年35件、平成28年25件、平成29年35件)。
 28万人に満たない技能実習生の若者たちのうち、171人が日本の各地で死亡するのは異常だと思います。自殺や実習中の事故死はもちろんですが、病死もその多くが劣悪な労働環境や差別が影響していると思われるからです。技能実習制度は、「現代の奴隷制度」だと指摘する声もあるようですが、まさに戦中の徴用工問題と変わらない側面があると思います。戦後レジームからの脱却を唱える現政権のもとで、こうした人権無視や人命軽視が、見逃されているのではないでしょうか。
 だから、徴用工問題は「解決済み」、韓国最高裁の判決は「国際法違反」という日本政府の主張は、日本の人権無視・人命軽視の傾向に拍車をかけるものだろうと思います。

 下記は、「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)から抜粋しました。
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                    第一章 筑豊と私

                (4) 地図にないアリラン峠           
 地獄谷
 筑豊の炭鉱地帯には、いくつもの地獄谷と呼ばれるところがある。そうした地獄谷には、きまってアリランがある。大正時代に集中的に渡航して、炭鉱の周辺に住みついたものか、あるいは解放後に炭鉱から追い出されて、帰国もできずにいた朝鮮人が集まりスラム化したものである。
 私が住む福岡県田川郡香春町のすぐ隣の田川市にも地獄谷と呼ばれるところがあり、アリランとその近くにアリラン峠がある。もちろん約二十八か所のアリラン峠は、筑豊の地図には載ってはいない。
 近くに三井田川鉱業所第六坑のボタ山が三つ聳え立って、セイタカアワダチソウがおい茂っている。よく見ないとボタ山だと分からないほどの荒れ果てようである。その第六抗の前身は、私の姉の嫁ぎ先で当時系飛炭鉱といった。
 四、五歳の頃、母と一緒に角銅家によく遊びに行った。満州事変以後、石炭景気が上向き始めて、兄一家は豪勢な生活を送っていた。
 昼食をとっていると突然慌ただしい足音がして、労務係が二人顔色を変えて入って来た。
「大将! 非常や! 早うきてくだっせ!」
「何や、非常か! 誰じゃそいつらは!」非常やとは、方城大非常のような坑内爆発事故(667人死亡)のことで、炭鉱にとって非常事態である。
「落盤事故で半島が…」
 事故の連絡にきた労務係は「半島」といった。半島とは朝鮮半島出身の朝鮮人の通称で、当時の筑豊では工夫として大勢働いていた。近くの地獄谷にも、系飛炭鉱の半島納屋があった。
 私は義兄の後を追って坑口へと走って行った。坑口には事故を知った坑夫の家族が黒山のように集まって、担架の上でのた打ち回っている二人を見つめていた。側で見ると一人は眼球がたれ下がり、もう一人は腸が飛び出していた。
 口髭を生やした男が、義兄のところに近づいた。
「大将、半島はまだ生きちょりますばい。どうしまっしょうか?」
「これから病院に連れて行ってもどうせ助かるまい、早うそこらに穴を掘って埋めておけ!」
義兄は持っているピッケルで坑口近くの辺りを指した。二人の朝鮮人坑夫は、まだ生きているのに病院で治療も受けさせず、坑口付近に掘られた穴に生き埋めされてしまった。
 私はそれを見て子供心になんとひどいことをするのかと、義兄の顔をにらみつけたことを覚えてい、る。半島という言葉が、いまも私の脳裡に焼きついているのも、こうした体験があったからである。
 炭鉱事業のためなら人を殺しても平気な義兄のやり方に抗議して、姉はそののち離婚し、子供を連れて家に帰ってきた。
 
 逃走した朝鮮人
 私の父は林寅治といった。明治の社会主義者堺利彦やプロレタリア文学者の葉山嘉樹を生んだ豊津中学(現7・豊津高校)出身で、校内で教師排斥のストライキをやり退学になった男である。1918年(大7)8月のシベリア出兵で、第十二師団北方連隊の一兵士として行き、コミンテルンの反戦ビラを読んで感激したそうである。
 そのビラには「日本の兵士よ、お前たちは何のために誰と戦うのか」と書かれていたと、私に何度も教えてくれた。兵士たちに反戦を扇動したことで重営倉にぶち込まれ、除隊後は主義者なみに就職はできなかったという。
 たまたま家が奈良時代から続いた神主で、それを隠れミノにロシア語を独学した。二階の書斎にはマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』もあった。まさに父は非合法時代を生きてきた。
 日中戦争から太平洋戦争にかけて、私の住んでいる村からは、多くの若者たちが出征して行った。神前では武運長久を祈るために、村長はじめ国防婦人会のたすきをかけた婦人、国民学校の児童たちが集まって祈願祭をした。
 父は神前で祝詞を奏上すると出征兵士に対して「絶対に死んではならない。絶対に家族のもとに帰ってこい」と挨拶した。天皇のために死んでこい、とは一言もいわなかった。それが原因で後藤寺警察署の特高に逮捕され、一週間後に釈放されて家に帰ってきた。左手の指先は紫色に腫れ上がり、拷問の跡が生々しかった。そのうち指二本の爪が落ちた。傷のことは私には話さなかったが、母はその理由を知っていたようで。

 1942(昭和17)年頃、釈放後少し身体の弱った父を助けて、私は毎朝、神前に供える御供米を持って参道を登った。
 その頃、福智山脈を越えて、炭鉱から朝鮮人が逃げてきていた。村役場から回ってくる隣組の回覧板には、「不審な半島を見つけたら、すぐに村の駐在所へ知らせるように」と書いてあった。
 ある日、拝殿の床の下で変な物音がするので、父が私に対して誰かおるのか見てこいと命じた。私は恐る恐る床の下に潜ると、そこにはあきらかに朝鮮人と思われる五、六人の若者が震えていた。
 「みんな出てきなさい。父ちゃんが呼んどるばい」
 と呼びかけた。 
 床の下から出てきた彼らの服は破れ、足は素足で血まみれだった。顔は恐怖でおののいていた。山を越えた向う側は筑豊の炭鉱地帯で、大手炭鉱の三井田川鉱業所、三菱方城炭鉱、明治赤池炭鉱、古河大峰炭鉱をはじめ、中小炭鉱など約350坑が群集していた。
 食糧不足、強制労働、自由を拘束された寮生活に耐えかねて、彼らは危険を冒して脱走してきたのだった。土地勘がないのに、最初に日本に着いた下関を目指した。北へ行けば下関へ行けると思い込み、山岳地帯を駆け登って、私の村へと降りてきたのだった。
 それまでに脱走した者が村人たちの密告で駐在所の巡査に捕まり、炭鉱へ送り返されて、みせしめのためにみんなの前で拷問される姿を見てきている。拷問で殺された同胞は数知れないのだった。
 「心配するな、俺のところでよかった。お前たちは何処の炭鉱からきたのか?」
 父は、彼らの恐怖心を解きほぐそうと、笑いながら話しかけた。何処の炭鉱から逃走してきたのかを恐る恐る説明した。シベリア出兵の時、現地の朝鮮人から朝鮮語を習っていたので、彼らのいうことは理解できた。
 「お前、早う帰って井戸の水をバケツに一杯と、今朝炊いた麦飯をお母さんにいうてから、握り飯にしてお宮まですぐ持ってこい」
 私はいわれるままに、水と握飯を持って参道を登った。彼らはごくごくと水を飲み、あっというまに握り飯を平らげた。母は備えつけの薬品箱と富山の薬売りの薬袋を抱えて登ってくると、タオルにオキシフルをひたして消毒し、赤チンを傷口に塗ってやった。言葉の分からない彼らは、両手を合わせて両親を拝んだ。
 早くなんとかしなければ、神主といえども村人に知られるとまずいことになる。父には前科があるだけに、こんど逮捕されると刑務所送りになることは確実だった。脱走した朝鮮人をかくまったとなると国賊とか非国民だといわれかねない時代である。
 「お前、石灰山の杉坂のおいちゃんを呼んできてくれ。何も説明せんでもよか、父さんがよんでいると」
 石灰山の杉坂のおいちゃんとは、香春岳の三ノ岳で、石灰石の原石を採って、石灰をつくる石灰工場の経営者だった。原石山では、働き盛りの人夫が出征して人手がなく、村の女が大勢働いていた。体力のある朝鮮人が一人でも欲しかったのである。まもなく四人の朝鮮人は、杉坂のおいちゃんに引取られて行った。彼らが引き取られて住んでいた飯場は、今でも線路の側に残っている。
 残った二人は、家族が病気なので、どうしても朝鮮へ帰りたいと必死になって父に哀願した。父は二人を家に連れて帰ると二階に案内して、仕事着を与えて着替えさせ、数日間かくまっていた。
 当時の小倉鉄道は(現・日田彦山線)は、戦時中のことで切符制限があって、いつでも自由に乗車することはできない。駅長と交渉して、やっと東小倉までの切符を手に入れた。貧乏神主なのに、その切符代をどう工面したか私は知らない。
 下関に着くと、父の友人の駅員に頼んで関釜連絡船の切符を手に入れた。下関駅からは高くて長い桟橋を歩いた。途中でサーベルを腰にした下関水上警察署の巡査と、鳥打帽を被った巡査らしき男に呼び止められた。
 「この朝鮮人は、自分のところの作男に使っていた者で、国に帰りたいというから見送りにきました。
 「巡査の前で父は二人の朝鮮人のことを説明した。友人の駅員と側に小学生の私がいたので安心したのか、それ以上の追及はされず無事にその場を通過した。
 1943(昭和18)年以後、山越えをして炭鉱から脱走してくる朝鮮人が急に多くなった。だが、食糧不足もあって彼らに握り飯もつくってやれなくなった。村の信用できる友人に手配して彼らを作男につかってもらったり、山の中の炭焼小屋で働かせた。他の者は下関までの道順を教えたり、大阪など遠方に行く者は日本語を話せる者に限って行かせ、父はそれなりの苦労をしていたようだ。
 下関駅の父の友人が軍隊に出征してからは、関釜連絡船で帰せなくなったが、それまでに私は四、五回見送りに行った記憶がある。
 帰国後、彼らがどういう人生を送ったのか、いっさい知ることはできないが、再び日本へ強制連行されたものと思われる。帰国させたことが彼らにとって幸せであったかどうか、それを考えるといまでも胸が痛む。
 1944年5月、父が心臓麻痺で急死すると、私たち母子だけではどうすることもできず、助けを求められても水を与え、傷口を手当てしてやることしか方法はなかった。
 捕まえられるのではないかと床の下で脅え、空腹を訴える彼らの姿は永久に忘れられない。私の心の中に刻み込まれた、そうした幼いときの原体験が、こんにちの朝鮮人強制連行記録の取り組みになっていると思う。それは一つには、朝鮮人だといって差別せず、あの戦時下に手を差し伸べた両親の強い影響を受けたからであろうか。

  忘れた日本語
 ・・・
 あれは過去のことだ、戦時中だったから仕方がないとか、朝鮮半島は日本国であったとか、日本人も同じように徴用されたと、いいわけをして責任を逃れようとする 
 昨夜も一昨夜も真夜中の二時、三時に脅迫電話がかかってきた。
 「お前は日本人か、日本人なら朝鮮人強制連行のことをやるな」
 「そんなに韓国人のことが好きなら、韓国へ行ってしまえ」
 「お前は国賊だ。殺してしまうぞ」
 「強制連行を天皇の責任にするな、これ以上朝鮮人にかかわるなら、家を焼いてしまうぞ」
 といってたぐいのものである。手紙の脅迫もあり、カミソリを一枚入れて、これで自決しろというものもあった。
 ・・・
 これらの日本人の根底にあるものは、やはり朝鮮人に対する差別意識と偏見があるからである。と同時に彼らは、戦前・戦中から戦後と、一貫して考えがひとつも変わっていないことの証明でもある。日本人の中のたとえ一部ではあっても、そうした意識が根強く残っていることは否定できない。
 ・・・
 
 
 


 

 

 


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