goo

検察ウラ事情・ニ・

(検察の大汚点)

その検察権力の露骨な暴走によって引き起こされたのが、昭和9年の
「帝人事件」・・帝人株売買をめぐる贈収賄事件・・であった。

検察は『俺達が天下を改革し正さねば何時までたっても世の中は良くならぬ。腐っておらぬのは大学教授と俺達だけだ』と、青年将校さながらに独善的な正義を振りかざして突っ走った。

その姿は『今の地検特捜部』と重なって見える。実はこの大規模な政界汚職はデッチ上げでした。そしてそのウラには総理大臣の座を狙う平沼騏一郎〔検事総長〕の野望が有ったと言われている。

結局、帝人事件で起訴された政治家ら16人は3年後の東京地方裁判所
の判決は全員無罪、事件は『検察が作りあげた空中楼閣だ』と断定されたのである。検察の大汚点だった。

しかし、この間に、当時の斎藤 実内閣は総辞職に追い込まれた。
検察が、捜査権の恣意(しい)的な行使で時の内閣を倒したのだ。
この時、『検察ファツショ』という言葉が生まれた。

そうして昭和14年、平沼騏一郎は念願の総理大臣に就任したのである。

戦前の軍部が『統帥権の独立』を掲げて暴走した事は誰でも知っているが、暴走したのは軍部だけではなく、

検察も『司法権の独立』を掲げて
政党政治を壟断(ろうだん・・ひとりじめ:利益独占)し思想、言論弾圧に猛威を振るったのである。正義であるべきの検察はこの頃から既に汚れていたのである。

昭和20年8月の終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は日本の民主化を進めるため、司法制度改革を行うが、そのとき、検察と警察は犯罪捜査の権限をめぐってGHQを間に挟み、三つ巴となって争いを繰り広げた。

戦前は、『検察官司法』といわれるほど、検事の力が強く、犯罪捜査の権限を独占していた。戦前の旧刑事訴訟法では『捜査の主宰者』は検事で警察官は検事の手足にすぎなかった。

しかし、それでも検察は、警察を完全に掌握できなかった。肝心の警察の人事権や予算を内務省が握っていたからだ。そこで検察は自分たちが『自由に動かせる捜査機関』を作ろうとした。

警察の犯罪捜査部門〔司法警察〕をそれ以外の部門〔行政警察〕から切り離して、検察直属の組織にする案をGHQに出したのである。
GHQの返答は『ノー』であった。『検事は法廷の外へ出るべきではない』とGHQは考えていたのである。・・・三へ続く

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )