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家隆塚〔藤原家隆の墓〕 (大阪市天王寺区)

2013-02-03 | 街角の話し
上町台地マイルドHOPEゾーン協議会というのがある。
 ホ-ムペ-ジはここ

活動の中の一つに「まちなみ修景」というのがあり、家隆塚を綺麗にしたと広報している。

2010.1に天王寺7坂を散策しました。ホ-ムペ-ジはここ

その時に家隆塚も訪れましたが、今回再訪しました。



家隆塚とは鎌倉時代の歌人で夕陽丘を愛した藤原家隆の墓です。

「かりゅうづか」と読みます。藤原家隆(ふじわらのいえたか)は藤原定家らとともに「新古今和歌集」を編纂した鎌倉時代の歌人です。
 「夕陽庵(せきようあん)」という庵を建ててこの地に住んだと伝えられています。夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽へいくことを望んだそうです。


現在のここら辺は大阪湾に沈む夕日を望むことは難しくなっています。たまたまに少し夕日がかかっていますが。



藤原 家隆(ふじわら の いえたか、保元3年(1158年) - 嘉禎3年4月9日(1237年5月5日))は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。

安元元年(1175年)叙爵、安元3年(1177年)侍従。阿波介・越中守の地方官を併任し、建久4年(1193年)正月に侍従を辞任、正五位下に昇叙。正治3年(1201年)正月に従四位下。元久3年(1206年)宮内卿。承久3年(1220年)まで宮内卿を務め、辞任ののちに正三位に叙せられた。嘉禎元年(1235年)従二位。嘉禎2年12月(1237年1月)病を得て79歳で出家した。出家後は摂津国四天王寺に入り、夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽へいくことを望んだ。現在の大阪市天王寺区夕陽丘町5に家隆塚(伝藤原家隆墓)がある。


契りあれば 
 なにわの里に 
  やどりきて 
   波の入日を 
    拝みつるかな  
           藤原家隆


なお中央奥の五輪の塔は原敬元首相が、大阪毎日新聞の記者だった時に陸奥宗光に頼まれて設置したと伝わる。


近くにある 夕陽の碑


近くには すいせんの花も咲いていました。

少し離れた所に



清地蔵(大阪市天王寺区)

明治時代に陸奥宗光が20才で亡くなった娘の清の
死を悼み等身の地蔵尊をこの地にお祀りしたものだそうです。

「宗光に追慕の意を表す碑」や陸奥宗光の父「伊達宗広の句碑」も隣接して建てられています。

すぐ近くの道路から



ハルカスと愛染堂勝鬘院の多宝塔(重要文化財)

2014年春には日本一の高さ300mの高層ビルになるあべのにハルカス ここ
愛染堂勝鬘院の参拝記はここ


谷町筋からのハルカス もう夕日になってる 
大阪星光学院の前から

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