無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『何色でもない花』のMVが3日足らずでYouTube200万回再生を突破したそうな。梶さんも驚いていたが、早いな。実にめでたい。

初手でMVの編集を酷評した身としては、その評価を覆す気にはならないとはいえ、素 視聴回数が伸びているのは素直に嬉しい。ヒカルパイセンが頑張った成果だもんね。曲へのリアクションでいえば、ドラマトレイラーの累計再生数を瞬く間に抜き去った事実を鑑みれば、やはりMVがキャッチーだったという結論になるだろうな。

気になったのは、懸念していた通りというべきか、「映像を見ていると曲が頭に入らない」という感想を幾つか見掛けたことだ。最初に指摘した通り、このMVは曲展開にシンクロしていないので、映像を一つの作品として捉えた時に歌は邪魔ですらある。映像を鑑賞しようとした人が無意識のうちに音の方を認識から除外するのは正常な反応と言えるだろう。『One Last Kiss』のMVがどのカットの写真をみてもそのとき流れている歌詞やサウンドを想起させるのとは対極的だ。いやまぁもっとも、今回のヒカルは歌詞をジェスチャーで表現するタイプのコンテンポラリー・ダンスを踊っているので、それと歌詞は容易に結びつく事は、あるかもしれないけれども。

リラックスして考えると、映像のみを取り出せば良い作品なのだ。コミカルな動きも、歌を無視して「そういうものだから」と思って観れば楽しいし、「どうやって撮ってるんだろうなぁ?」と感心するのもいいだろう。そういう楽しみ方でMVの再生回数も伸びているのかもしれないが、結局は何より宇多田ヒカルパイセンの美しさ、フォトジェニシティが突出している事に尽きる。これはもう圧倒的で、歌がどうの映像がどうのというのを超越して美しい。これはもう仕方がない。映像編集の面はともかく、「MVでは全編で宇多田ヒカルをフィーチャーする」という大方針は積極的に支持しておきたい。あとはどう撮るかだけだ。

この美しさは、肌の具合だとか骨や靭帯がどうのというのに然程依拠しないので、ヒカルさんがパフォーマーとして身体を鍛えているうちはそのまま備わったものであろうから、これはまだあと何作品も、ひよっとしたら何十作品もこのコンセプトでMVが撮られるかもしれない。そうなる未来を後押しする『何色でもない花』MV再生回数の伸び。嬉しくない筈がない。

とかいってたら来週のCDTV LIVELIVEへの出演が決定したのね。『君に夢中』とか『Gold 〜また逢う日まで〜』を歌った番組だっけかな。伝統的にTBSでのパフォーマンスは素晴らしく、それは今も継続している模様なので、今回もその絶品のフォトジェニシティを活かして歌の魅力を存分に伝えてくれたらなと思います。現実の等速であのMVのコミカルな動きを再現してくれてたらネ申なんだけどね!(笑)

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音楽的な部分でのヒカルのコメントを再掲しよう。

『こんなの初めてなんですけど、8分の6拍子と、4分の4拍子と、また8分の6拍子っていう、なんか謎のタイム・シグネチャーの三部構成になってるんで』

そう、演奏時間が4:03しかないのにも拘らず『何色でもない花』は

「8分の6拍子→4分の4拍子→8分の6拍子」

という三部構成になっているのだったわね。これらはそれぞれ、

8分の6:0:00〜2:12
4分の4:2:12〜3:08
8分の6:3:08〜3:49
?分の?:3:49〜4:03

というタイムスタンプで区切られる。(境目で多少誤差はあるかも)

歌詞で書くと

8分の6:『君がくれたのは 〜 in it with you だけど』
4分の4:『自分を信じられなきゃ 〜 何も信じらんない』
8分の6:『in it with you 〜 (繰り返し)』
?分の?:歌詞無し

という風になる。↑に『自分を信じられなきゃ 〜 何も信じらんない』と書いてあるけど、ここの「 〜 」は声を伸ばして続いているのではなくて、間に

『何も信じらんない

存在しないに同義
確かめようのない事実しか
真実とは呼ばない

私たちの心の中身は誰にも奪えない
そんなに守らないでも平気

だけど
自分を信じられなきゃ』

が挟まってるという意味。紛らわしいけれどこれはつまり、4分の4拍子パートは最初と最後の歌詞が同じだって事だね。そして最初の8分の6拍子パートはAメロBメロサビの塊が2回繰り返されていて、最後の8分の6拍子パートではサビがリピートされる、という構成になっている。これを模式的に書けば『何色でもない花』は

ABC ABC/DED/C’C

という構成の楽曲となる。ただし

A=『君がくれたのは〜花』『朝日が〜したから』
B=『ああそんなに〜ずっと』『ああ名高い〜今日も』
C=『I’m in love with you. In it with you …』
D=『だけど〜らんない』
E=『存在しないに〜平気』

だね。
(※ C’ってのは『In it with you』のみのパートを指す)

これを用いると曲構成は

8分の6:ABC ABC
4分の4:DED
8分の6:C’C
?分の?:?

と簡潔に書ける。これらの構造/構成を踏まえた上で来週は更に突っ込んだ話をしていきたい所存です。


※ 以下今回のまとめ。


『何色でもない花』

ボーカル:宇多田ヒカル
作詞作曲:宇多田ヒカル
Producer:宇多田ヒカル
Producer:A.G.Cook


┏ 君がくれたのは
A 何色でもない花
┗ (0:12~0:31/8分の6拍子)

┏ ああ そんなに遠くない未来
B 僕らはもうここにいないけど
┠ ずっと
┗ (0:31~0:50/8分の6拍子)

┏ I'm in love with you
┠ In it with you
┠ In it with you
C In love with you
┠ In it with you
┠ In it with you
┗ (0:50~1:13/8分の6拍子)

┏ 朝日が昇るのは
A 誰かと約束したから
┗ (1:13~1:32/8分の6拍子)

┏ ああ名高い学者によると
B 僕らは幻らしいけど
┠ 今日も
┗ (1:32~1:52/8分の6拍子)

┏ I'm in love with you
┠ In it with you
┠ In it with you
C In love with you
┠ In it with you
┠ In it with you
┗ (1:52~2:12/8分の6拍子)

┏ だけど
D 自分を信じられなきゃ
┠ 何も信じらんない
┗ (2:12~2:24/4分の4拍子)

┏存在しないに同義
┠ 確かめようのない事実しか
┠ 真実とは呼ばない

┠ 私たちの心の中身は誰にも奪えない
┠ そんなに守らないでも平気
┗ (2:24~2:54/4分の4拍子)

┏ だけど
D 自分を信じられなきゃ
┠ 何も信じらんない
┗ (2:54~3:08/4分の4拍子)

┏ In it with you
C'In it with you
┗ (3:08~3:28/8分の6拍子)

┏ I'm In love with you
┠ In it with you
┠ In it with you
C In love with you
┠ In it with you
┠ In it with you
┗ (3:28~3:49/8分の6拍子)

? (3:49~4:03/?分の?拍子) ◾️◾️

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新曲発売週という事で触れていなかったが、今週もしっかりドラマ「君が心をくれたから」は放送されてまして。『何色でもない花』がフル解禁ということで事前には劇的に物語が動いて劇中でも曲後半が鳴らされると読んでいたけど全くそんなことはなかったぜ。第5話までと同様の丁寧なテンポで今週の第6話も描かれていました。

そんな中で、余貴美子演じる雪乃(雨の祖母)が雨に向かってボイスレコーダーで今日1日どうだったかを訊ねるシーンが印象に残った。何のことはない、その数日前にヒカルが

『みんなどんな1日だったかな👩🏻‍🏫』

と呟いていたのとちょうどシンクロしたからだ。タイミング的に言えばヒカルが第6話までの脚本に目を通し…てた可能性は低いか。「最愛」みたいなミステリ要素の強い作品でも序盤の脚本だけで最終回に最高に輝く歌を作れる人だからな、わざわざ中盤の脚本は確認しないだろう、たまたまよく似た事を言ったというだけか。寧ろそうである方が、ヒカルとこのドラマの相性の良さを裏付ける気がしてきて僅かに良い。


そして、『何色でもない花』自体にも、

『ああ名高い学者によると
僕らは幻らしいけど
今日も
I’m in love with you … 』

という歌詞が出てくる。どうにもここ、インターネットミームとしての「今日も一日」を連想してしまうのだけど、いずれにせよここは「それはそれとして」や“by the way” 、“anyway”みたいな切替の一言なんだとおもう。『今日も』。

学者さんは実在が幻想がといろいろ言っているけれど、毎日を生きる私たちに大切なことは、僕が君に恋してるっていうその事実だよ、という意味にとっていいかなと思われる。これは2番の歌詞だが、1番でも

『ああそんなに遠くない未来
僕らはもうここにいないけど
ずっと
I’m in love with you …』

という風に歌っている。こちらも、自分たちの存在は永遠ではないけれど、今日感じる愛は永遠であるような、そんな感覚があるよ』とそんなことを歌っているのだと思われる。

これは、『Eternally』の

『いつまでも側にはいられない
この瞬間だけはずっと永遠に』

の一節に通じる…というかほぼ同じ意味だよね。なので、ヒカルが

『こんなにストレートなラブソングを書いたのはいつ振りだろう』

というコメントで念頭においていた歌の中には、少なくとも『Eternally』がひとつあるのではないかなと、そう思うのでありましたとさ。確かに、23年振りともなれば『いつ振りだろう』って言いたくもなるわな。

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恐らく、ヒカルのコメントでシミュレーション仮説だ古代の宗教だ哲学だ量子力学だといった難しそうなワードが踊っているのを耳にした多くの人たちは「そんなのわからん」と白旗を上げているかもしれない。それはそう。わからん。だけどヒカルは、自身がそういった話題に触れた時に自分が感じた感覚について歌っているのよ。それらのよくわからない定義や詳細な含意について論じたりするつもりはないのです。

例えば初めてシミュレーション仮説を聞いた時の、自分の足場が空虚になったかのように感じられたその感覚や、量子力学の観測問題に触れた時の、観測者としての自分の存在とそこに宇宙があるのだという素朴な確信が両方いっぺんに揺らがされた時の心の動揺。そういった感覚、フィーリングに基づいて作詞作曲が為されていて、その成果が今回の新曲『何色でもない花』なのだと言える。

なので、我々はリスナーとして、この歌を聴いた時に何らかの感覚や感情が生まれたのだと知覚できさえすれば、ヒカルがそれらの難しい本やらポッドキャストやらを読んで聴いて生まれた感覚を、ある程度何割かは追体験できていると言っていいはずで、また、そういった内的感覚の共有が出来、それについての幾許かの対話が出来る事が音楽家宇多田ヒカルの目指す所ではあるのだし、我々の方も、あわよくばヒカルと楽しく会話のやり取りが出来たらなぁと祈り願うのであれば、別段シミュレーション仮説や量子力学の詳説を理解して話す必要はなく、歌を聴いて感じた事を素直な言葉で伝える事でヒカルとの対話は成立していくのだから、結局はそういった小難しいワードの数々に怯んだり慄いたりする必要はまるで全然ないのだった。寧ろ、中途半端に理解していると思い込んでる方が、対話の成立を阻害するかもしれないよ。何しろ、ヒカルパイセンは大変な読書家で、その読解能力の高さは個別に実感できなくとも大いに推察される所ではあるので、付け焼き刃で立ち向かってはつまらない奴と断じられるかもしれないのですよ。テレビでChatGPTの作詞に対して「浅いですねぇ」と切り捨てた時みたいにね。

まぁだから、何が言いたいかというと、ヒカルさんは結局科学者や漫画家には(今のところは)ならず、歌を作る事で他者に対してアプローチをとる方法を選んでいるのだから、こちらは歌を聴いて感じた事をどう返すかについて集中すればいいってことなのでした。

シンプルなことでいいんだよね。具体的な、文学的な、評論的な表現方法でなくていい。歌を聴く前と聴いた後で変化した事をそのまま伝えればいい。「歌を聴いたらなんだか部屋の掃除がしたくなったのでしました」とか「無性にヨーグルトが食べたくなりました」とか「実家の両親に電話したくなったのでしました」とか、自分の内面を言葉で伝えるのみならず実際に起きた出来事を伝えると、それで案外作詞者作曲者というのは感じるものがあったりするので、そういうのがいいと思います。もちろん、「歌を聴いた友達と“聴いた?”“聴いたよ〜!”とやりとりしました」みたいなのでもいい。というかこういうのは相当嬉しい。ヒカルパイセンはTwitterをエゴサしてるっぽいので、直接返信しなくても読んでくれてる可能性はあるですよ。ま、そういうのも好き好きで。自分が感じた感覚を、まずは自分自身が信じてあげて、それに基づいた言動を繰り広げるのが、やっぱり大事なんですよ。歌に歌われてる通りにね。だから、繰り返しになるけれど、ヒカルパイセンが小難しいことを言い出したとしても気後れしたりする必要は、まるでないのでした。まる。

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前回「シミュレーション仮説や量子力学の話は煙幕か」みたいな事を書いたけど、これについてのヒカルのコメントを振り返ってみよう。


『そもそも、私たちは存在しているのか?とか、最近シミュレーション仮説とかいろいろあって話題になってますけども、その存在とか真実の不確かさや主観性って凄く面白いなってずっと思ってて。もう人類にとってそれって永遠のテーマなんじゃないかなと。古代の宗教に始まり、そこから哲学とか、学問とか、こんにちの量子力学に至るまで、例えば量子力学で私たちが現実と思ってるものは、観測されて初めて存在するんじゃないかとか言われてるし、そりゃあ何かを信じるのって怖いよなぁとか、勇気の凄く要ることだよなぁと思うし、対象が人でも概念でも、何かホントは信じたいんだけど、何かを信じられない時っていうのは、本当の問題は、自分が自分を信じられてない、自分を信じれることができてないってことなんじゃないかなと思って。相手とか、その対象っていうのはあクマで自分への不信感を映し出す鏡、みたいな。だから、結局は自分を信じられないと、何も信じられないんだなって最近気づきまして。』


こういう話題を出してきた時って何をどう書いたものか悩むのよ。ミュージシャンやアーティストって、「問題の捉え方」がそもそも違うのね。最もわかりやすかったのが2011年の震災についてで。『桜流し』をリリースした時にヒカルは

『監督からエヴァンゲリオン新劇場版Qのテーマソングのオファーをいただいたとき

「もしも表現者であるならばこの震災から目を背けて作品を作ることは決してできない」

という言葉に共感し、引き受けました。』

って言ってるのね。この「表現者であるならば」ってのがポイントで。震災という事態・事件に直面した時に、表現者〜アーティスト/クリエイターってのは、極端な言い方をすればそれを創作活動のモチーフ/モチベーションとして捉えてるのよね。ここらへん、実務に携わる人達とはもう最初っから論点が違っていて。地震が起こったさぁどうしよう、というときに実務者は津波対策をしようとか耐震構造はどうだとか避難所の運営はどうだとか、そんな事を考えてそれを実行に移すけど、表現者の皆さんは、そこからどんな感情を喚起されたかって視点から物事をみるのね。この事態に直面して人はどんなエモーショナルな体験をしたか、そんな所から。

実務との対比という書き方をしてるけど、それがエモーショナルな出来事であるというのは紛れもない事実なので、そういった表現者たちの活動は、事態に巻き込まれた人々にとってぐちゃぐちゃの感情を作品との出会いとして整合させる作用も持つので決して無駄や無意味なんかじゃない。大なり小なり人間は誰しも表現活動にあたる営みを携えていて、表現者〜アーティスト/クリエイターというのは社会の中でそれに特化しているというだけのこと。

なので彼らは、何か起こった時にその時起こる感情や感覚に注目する。普通に事故で肉親を失った時は家族全員で弔うけど、震災のときは家族全員をたったひとり生き残った自分が弔う事になるとか通常ではなかなかあり得ない事態に直面したりするのでそういうときに人はどんな感情に相対するのかとか、そういう事柄についての作品が、小説やドラマやアニメや歌や詩として存在していればどれだけ心強いかということ。

表現者はそういったものの見方をする。そういう観点に立った時に、ミュージシャンが歌詞を書くにあたってシミュレーション仮説とか宗教とか哲学とか量子力学とかに触れているのは、それぞれの分野に直接携わってる専門家たちとはそもそもの立脚点、問題意識が違うのね。もっと品無く断定的にいうと、歌詞の素材として使えるかどうかでみてるのよ。めっちゃ極論だけど。だからヒカルがそういったよくわからない単語を出してきた時に注目すべきはそれぞれ言葉の意味の理解というよりは、その話が出てきた時にうちらがどんな感情を喚起されるかという方なのね。決してそれらの仮説や問題意識に対して解決方法を探るアプローチとかを欲しているのではないのですよ実際に問題に取り組んでる人達とは違って。

で。今回の場合は、それらのイシューを目に耳にしたときに人が感じる「実存的不安」に目をつけてるんですのよね…という話からまた次回、かな。

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『何色でもない花』の歌詞はどこをとってもフックラインだらけなんだけど、やっぱりいちばんに取り上げたいのはここなんだ。

『確かめようのない事実しか
真実とは呼ばない』

普段ヒカルの新曲を聴く時私は、フックラインに出会う度にガツンと殴られるような感覚を覚えるものなのだけど(曲だけじゃないな、『空が目を閉じる』とかもそうだな)、今回は珍しく(?)、じわじわと、「…ん? あ、え? 今なんつった? え、あ、あぁ、ああああああ!!!」とタイムラグをもってインパクトが襲ってきた。言ってる事は明解だけど、それが何であるかを認識するまでに時間が掛かった。そんな感じ。

そうなるのもむべなるかな、

「AでないBしかCではない」

とかっていう構成の文章って、すぐには理解できないのよね。否定が二つで、更に真ん中に「しか」があるんだもの。とても複雑でややこしい。そもそも、事実=fact、真実=truthの違いが難しいしな。

でも、「しか〜でない」は「だけが〜である」と同じ意味だと気付けば(nothing but = only ね!)、

『確かめようのない事実しか
真実とは呼ばない』



『確かめようのない事実だけを真実と呼ぶ』

だとわかる。一歩前進。
んでこれが何を言ってるかっていうと、

「確かめられる事実は(わざわざ)真実とは呼ばない」

ってことなのよね。

(対偶「真実と呼ばない事実は確かめようがある」の書き換え…なんだけどそれは別にいいや(笑))

ある事が事実であるにも拘らず、そうだと確かめられない時に人はその事実を真実と呼ぶ。真実と言い換える、と言った方がいいかもしれない。事実が事実だと確かめられる、誰が見ても事実でしかない、そんな時にはわざわざそれを真実だなんて呼ばない。そのまま事実って呼ぶだけでいいんだもの。

事実を事実として確かめられない時、つまり自分はそれが事実だと確信してるけど周りにはそうなんだと伝えられない時に人はどうするか、どうしなきゃいけないかって、兎に角「そうであると信じる」事なのよね。確かめようがないんだもの。だから自分にとっての事実をまずは自分自身が信じるしかない。そういう場合にその人にとっての事実を真実って言うんだよねと、そんなことを歌ってる歌なんです『何色でもない花』という歌は。


…世の中には「証明不可能だからこそそれは真実でしかあり得ない」って話もあったりするんだけど、ヒカルはその話も知ってるのかもしれないね。ならばシミュレーション仮説や量子力学なんてワードは煙幕でしかないのか!? わかんないけど、ちょっと『SCIENCE FICTION』てキーワードにますます興味が湧いてきましたね私はっ。

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『Gold 〜また逢う日まで〜』もそうだったんだけど、今回の『何色でもない花』もまた私は先に公開されたバラードパートの時点で満足感を感じていたので、ある意味フルコーラスはリラックスして迎える事が出来た。にもかかわらずそれであっても「こうくるか!」と唸らざるを得なかった。歌詞もサウンドも。

まず、ヒカルの発言をそのまま引用しよう。

『あと、こんなの初めてなんですけど、8分の6拍子と、4分の4拍子と、また8分の6拍子っていう、なんか謎のタイム・シグネチャーの三部構成になってるんで、なんかそれをみんながどう体感ていうか、どう感じてるのかなとかどう思うのかなって、聴いてくれた人の感想が、楽しみです。』

そう、今度は三部構成で来たのだ。しかも、普通なら三部構成といえば「メインパート〜サブパート〜メインパート」という、最後に出だしに戻る展開(所謂ダ・カーポですね)を想像するのだけど、『In love with you』という歌詞は共通しているとはいえ全く異なるアレンジでそのままカットアウトするという荒技に出てきやがった。終わり方の唐突さという点でいえば2008年の『テイク5』以来のインパクトだったかな。ただ、私聴いてる時にこの最後の8分の6パートを迎えながら、「あれ?このあとなんか言うことあるかな?」と思うや否や曲が終了したので、恐らくこの曲はこうなるのが自然なのだと思う。聴き始めは新規さがまさっていて冷静な判断は出来かねる感が否めないが、ひとまず「これはこれでいいんだ」という気持ちだ。

冷静に考えると、4:03というあわや3分台に足を突っ込みそうな、ヒカルの曲の中でも短めのトラックで2回もリズム・チェンジして、それが無理矢理に聴こえないってとんでもないセンスと構築力なのだが、歌詞の流れだけを取り出すと確かにこれはこれでちゃんと言いたいことを過不足なく描写しているなと感じられる。

そこらへんの「過不足のなさ」は、ひとつ例を取ると、この曲は2度

『だけど
自分を信じられなきゃ
何も信じらんない』

のパートが出てくるんだけど、一度目と二度目で聴き手の受け取り方が変化していれば、この曲は「役割を果たした」と言っていいんだと思う。そこらへん、今後細かく解明していけたらなと思います。

でもねぇ。このあと更に次の新曲が控えていたり当然それに伴ってベスト・アルバム発売にツアー決行という流れなので、果たしてどこまでじっくりみていけるやら。この歌は時流を左右するというよりは、世の中の流れから一旦離れて俯瞰して物事をみつめる視点から描かれているように思うので、少し浮世離れしたモードであたりたいのよね。うん、なんとか試みていきますよっと。

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かなり早い段階でヒカルパイセンが呟いてくれたわね。


『「何色でもない花」MVのプレミア公開観てくれたみんなありがとう!

撮影手法は企業秘密とのことなんだけど、合成じゃなくて私も振り付けしてくれたアオイヤマダさんもスタッフも撮影チームもみんな氷の上で滑ったり震えながら作った映像です。今までで一番体張った撮影だったかも😅

本当にきれいな場所で、足元の雪が虹色に見えた瞬間があって寒さで幻覚でも見えたのかと思ったら、雪面の46°ハロっていう現象だったみたい😳』
https://x.com/utadahikaru/status/1757222875571101957?s=46


くぅ、そんなに苦労したんだな。身体を壊してなければよいのだが。

『合成じゃなくて』というのは私そうなんじゃないかと思ってた。(って後出しで書くの恥ずかしいんだけど、こんなに早い段階で呟くと思ってなかったから後手に回った)。というのも、どこかを合成にするなら全部合成にすればよくて、ならわざわざアーティスト本人が帯広まで出向く必要はなく(旅費もかかるしね)、全編スタジオで撮影して後から合わせたらいいんだから。折角出向いたんだもの、出来るだけそこでの撮影を活かしたくなるわさね。

クレジットには「スタント・コーディネーター」さんと「スタント・アシスタント」さんの名前があるが、これが代役の人のことなのか、ヒカルがチャレンジするのを助けた人の事なのかはわかんない。マルセイユん時みたいなことも一部にはあるかもしれない。思い当たる箇所はないけども。

いずれにせよ、ヒカル渾身の映像作品ということなので、その思い入れを加味して見直したら…見直しても…やっぱギャグだなぁ…なんなんだよ超高速90°お辞儀速射砲って…どうシリアスに捉えたらいいんだよ…等速なら単なる振り付けで終わってたろうに。

いやいや、そんなことを言ってるけど、いちばんのポイントはそこじゃないんだ。別に映像をどれだけ加工・編集しても構わないんだよ。全編CGでもいいし、総て精巧なアバターが演じていて宇多田ヒカルは1ミリも出てこないのでもいいんだわ。困惑のいちばんのポイントは、そうやって出来た映像が、楽曲と合ってないこと。もっと言えば、歌をリスペクトしてるように感じられなかった事なのだ。

確かに、たま〜にリップシンクが合う事もあるのだけど、申し訳程度というか…いや、頻度の問題じゃないな、「曲の感情の流れを全然掴んでいない」のが問題なのだ。あれを観ると歌の良さが減る。減ってもなお魅力的に響くのが確認できたのはよかったけれども。

どうにも、ミュージック・ビデオというのはそういう逸脱が多い。宇多田ヒカルも今回餌食になり、例外ではなくなった。

これがもし、宇多田ヒカル名義で曲のタイトルを冠した映像作品ではなかったのなら、こんな事は書いていなかった。監督名義で、曲はあクマでBGMとして採用、出演者のひとりとして宇多田ヒカルにご登場願っただけの、全く別のタイトルを名付けられた作品という体裁であれば、こちらも曲を活かすことを期待しなかったよ。映像が主役なんだな、曲と合ってないな、で特に感想も書かずにスルーしてたよ。でも、宇多田ヒカル名義で曲タイトルがついてるんだもん。書かずにはいられなかったさ。

そういう、「名前の付け方と触れ回り方」が凄く大事だという価値観を、映像系の人は持ってない事が多いように思われる。いやその映画に「Casshern」て名前つけちゃダメでしょ…って思ったもんね20年前も。まぁ、それは原作者さんや権利者さんやファンの皆さんが決めてくれたらいいことなんだけどさ。

でもこれは、「宇多田ヒカルの『何色でもない花』のMV」っていう触れ込みだからね。主役はヒカルと歌だという前提で観るのよ。観たのよ。で観てみたら曲が活きてなかった。なんだったら馬鹿にされてる気すらした。何よりもどかしいのは、脳内でヒカルの動きを等速になおすと、とても曲の流れと歌詞に合った動きをしているであろうことがみてとれたこと。つまり、「余計なことをしなければ」このMVは素晴らしかったと絶賛してたのよ私きっと。そこの惜しさが私の筆を走らせてる。惜しくもなかったらこれまたスルーしてたかもね。今回のMVは触れなくていいや、って。無理だったねぇ。

…嗚呼、『30代はほどほど。』の3DVRがデジャヴるな…(遠い目)。

例えばここで、再生回数とかそういうのを気にするのならば、『何色でもない花』をバックに宇多田ヒカルがその歌に合ったコンテンポラリー・ダンスを踊るだけのMVは、確かにヒカルのファンとこの曲を好きな人の間でしか話題にならないだろう。その懸念はよくわかる。もっと広範な人に届く作品にしたいという欲が、このような人目を引く演出の導入に到らせたのかもしれない。そこの判断よねぇ。

あたしから言わせれば、『何色でもない花』は、好きな人が世間の声に煩わされる事なくひっそりと愛するのが曲に似合っているなと思うので、この曲を愛してくれそうな人々に丁寧に伝えていく事が大事だと思ってる。ドラマ「君が心をくれたから」をずっと観てくれてるような人たちよね。視聴率は相変わらず振るわないらしいけど、それでもいいじゃないのさ、それでもドラマを観て主題歌が流れてくるシーンで毎回泣いてくれるような人たちに確実に曲を聴いて貰えるようにプロモーションしていこうよ。

宇多田ヒカルは、もう今更「出す曲出す曲総てが大ヒット」みたいなプレッシャーに晒さられる必要はないと思うの。宇多田ヒカル史上どころかJ-pop史上最高傑作とまで言われたアルバム『BADモード』にだって、『誰にも言わない』みたいにシングルリリースされてもそんなにヒットしなかった楽曲は収録されていて、そしてその曲は長らく愛され今後もずっと細く長く愛されていく雰囲気を保ってる。『何色でもない花』も、そういうポジションでいくんだろうなぁとそう感じてます。いろんな愛され方をする曲をリリースしていける立ち位置に、ヒカルはもう居ると思うのよね。だから…

…うん、まぁもぉしゃあないから、ここからは、このMVがどこかで嗤われないように祈るしかないわ。そういうあたしが嗤ってんだけどね。あーやだやだ自己嫌悪。

はい、雰囲気をこれ以上グダグダにしたくないので、MVの話はここまでにします。うん、でも、こうやってグダグダ書いたお陰で結構心がスッキリしてきたぞ。やっぱりポジティヴであれネガティヴであれ、自分の感じた事を素直にアウトプットすることで、前に進むことが出来るんだなと実感中。次回からはいよいよ曲の話を致しましょ。『何色でもない花』のフルコーラス、本当に素晴らしいんだから!!

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うぅむ、昨日は新曲『何色でもない花』の発売日という事で非常に上機嫌で、夜9時からのドラマ『君が心をくれたから』もしっとり視聴して、そのご機嫌な1日をミュージック・ビデオ鑑賞で締めくくるぞ!と思っていたのに、どうしてこうなった。

曲の話を始める前にその問題作MVの文句を言わないと気持ちの整理がつかないわ。やれやれ。

https://www.youtube.com/watch?v=symoxV67btI

困惑の理由は明確で、余計な編集が施されているからだ。元々の素材としてのコンセプトは明白、『Forevermore』MVと同様にヒカルさんのコンテンポラリー・ダンスを披露するMVである。『何色でもない花』の歌詞を意図した振付を、北海道は帯広(…近郊、なの?)の氷結した湖面を舞台にして、ドラマ『君が心をくれたから』の登場人物である日下(斎藤工)や千秋(松本若菜)らを思わせる衣装を身に纏って披露する、というこれ以上なくわかりやすいコンセプト。確かに帯広(近郊)である必然性には乏しいが、曲がピアノ主体なのでその音色が降雪やダイヤモンドダストを思わせるということで北国が舞台に選ばれただろうことは想像に難くない。放送時期も現在、真冬だしね。今後この曲を振り返る時に冬の思い出として甦るのだからいい選択だろう。

で、そのダンスを過去最高に美しいヒカルパイセンにそのまま披露して貰えればそれでなんの問題もなく収まりがついたのに、なぜだか編集でコマ送りと早送りとタイムスライスみたいな効果をこれでもかと付加されていて、どう転んでも笑いを取りに来てるとしか思えない仕上がり。ギャグ動画の手法だよそれは。

いやそういうのは、普通の等速で無効果の映像を公式が発表した後に在野が二次創作でやるやつやからさ…発売日を迎えたばかりの最新曲のMVでやるやつやないんよ…。

当のヒカル自身は、精魂込めて作り上げたアルバムのアートワークに鼻血を垂らさせるくらい自分の見た目を茶化すのに抵抗のない人なので、こんなギャグ映像に仕上げられても構わないのかもしれないが、こちらは頬を流れる一筋の涙の美しさにうっとりしてたりして結構シリアスに捉えてるんですよ。ドラマも泣きの世界観ですし、それが終わって5分余りでそのテンションを笑われるのは、いや流石に視聴者/リスナーの心理を馬鹿にし過ぎじゃないですか??


憤りと呆れと苦笑いがまだ収まらないのだけど今朝はこれくらいで。あーやれやれ。

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https://uh19830119.hatenadiary.jp/entry/2024/02/12/095605



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あたしがサマソニの話をしてる間に今年のフジロック(新潟県湯沢市苗場スキー場でほぼ毎年開催中)の第一弾が発表になっていた。
https://x.com/fujirock_jp/status/1755788622010450246?s=46


『フジロック行きたかったな〜』
『これでもまだフラグなんじゃないかとか言ってるからはっきり言います、今年はフジロックに出演ありません😅いつか出られたら…と妄想しております』
https://twilog.togetter.com/utadahikaru/date-220727/asc

こちらは一昨年7月下旬のヒカルの呟き。なるほど、『いつか出られたら』の『いつか』が今年でも何の問題もない…のか?

今年2024年のヘッドライナーはクラフトワークともうひとアーティスト(いろいろあってもうバレてるみたいだけどフジロック公式はまだ発表してないので形式的に黙っとくか)。ひとまず、ヘッドライナーが二枠埋まってるってことで、あとひと枠に宇多田ヒカルが入るかどうか。Twitter検索すると少なくない人々が予想と期待を寄せているな。

そんな中、今回発表のフジロックラインナップにFLOATING POINTSの名があったことでますます宇多田待望論が湧き上がってるようで。そりゃそうか、アルバム『BADモード』で『BADモード』『気分じゃないの(Not In The Mood)』『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』という、アルバムのハイライトとなった3曲の共作した相手なのだから(全曲ハイライトですけどね)。そりゃ苗場での共演を期待するよね。

でも、もしそれで本当にヒカルパイセンがサム(・シェパード/FLOATING POINTSの中の人の名前)と苗場で共演するとして、どういう形態になるのか。

同じく一昨年、先のフジロック発言の直前にヒカルさん、シークレット・ギグやりましたよね。

tps://twilog.togetter.com/utadahikaru/date-220723/asc

こんとき、バック・ミュージシャンがサム1人なのよ。彼一人居れば、マルセイユのバックトラックには事足りる。デュオ・ユニットでギグをこなしたんだわ。

つまり、彼が居るならフルバンド要らないのよのね。勿論、『BADモード』は『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios 2022』で観た通りフルバンドで演奏する曲だし、それはまだ生演奏されてない『気分じゃないの(Not In The Mood)』もそうなんだけど、マルセイユに関しては彼一人居れば十分なのだ。

それを踏まえて可能性を予想すると、

・宇多田ヒカルがフジロックにフルサイズのライブで出演。その中でマルセイユを歌う時にサムがゲストでやってくる。

・サムのステージに宇多田ヒカルが飛び入り出演、マルセイユを歌う。

このどちらも考えられるのよね。後者の場合は、必ずしもヒカルがフジロックに出演している必要はない。自らのステージがないアーティストがゲスト出演するケースは、特に日本人アーティストの場合は珍しくないみたいだからね。ヒカルもツアー真っ最中なのだからこれは当然有り得る。


そこで気になるのは、ベスト・アルバム『SCIENCE FICTION』に『Somewhere Near Marseilles -マルセイユ辺り- (Sci-Fi Edit)』が収録されている事。アルバム『BADモード』の曲が既に4曲選ばれて最多選出になっているにも関わらず、そこから更に選曲バランスを偏らせてでもボーナス・トラックとしてこの曲を収録してきたのは、シンプル&クリーンに考えて(ダーティーに考えても同じだけども)、ライブで演るからに他ならないでしょう?

多分エディットにしてきたのは、CDの収録時間の都合もあるだろうし、ライブで総演奏時間を圧迫しないようにという配慮もあるのだろう。それに、ここで先に短いバージョンを発表しておかないと、ライブでいきなり短くしたら「12分あると思ってたのに端折られちゃって物足りない!」という声が多く上がってしまうと予想したんでないかな。いや勿論、発表しておいても「12分いやそれ以上にずっと聴いていたかった」という声は上がるでしょうけど、それを少しでも減らそうってことでね。

これらの事を踏まえると、苗場でヒカルがマルセイユを歌う可能性は決して低くないという事になりそう。だけど、しつこいようだけど、フジロック出るとかなりのハード・スケジュールになるので、出来れば回避して欲しいかなぁ…。

同じ年のフジロックとサマソニの両方に出るアーティストというのは非常にレアみたいだけど、流石にヘッドライナー候補が両方にフルサイズという例は無いと思うので、フジロックにはサムのステージに一曲だけサプライズ出演、そのあと8月下旬にサマソニバンコクへ、みたいな流れなら、両方への出演はあるかもしれないわね。勿論、フジロックにフルで出てサマソニ総スルーやあるいはその逆もある訳だけど、フェスのラインナップは生き物だから、もしかしたらまだ決まってないことや、これから決まっていくこともいろいろとあるかもね。いずれにせよ、レギュラーチケット抽選申込受付中はフェス出演のアナウンスはないだろうから、私含む心配性の皆さんは、今月の間はフェス出演についてあんまし気にせずに過ごしてていいかと思うよ。

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漫画「セクシー田中さん」原作者の芦原妃名子氏逝去の報の余波が止まらない。あんまりにも悲しい話なのでほとぼりがさめるまでスルーしようと思ってたのだけど、我慢できなくなってきたのでここで触れるわ。


事件の詳報に関してはあと数年は検索すれば出てくるだろうから省くとして。Twitterで沢山漫画家さんをフォローしてる身からするとその様子は殆ど戦時中であるかのようだ。それくらい、皆の生活いやさ人生が脅かされる出来事なのだろう。


宇多田ヒカルはといえば、アニメとのタイアップに関しては、例えばテレビアニメシリーズへの楽曲提供が2021年の「不滅のあなたへ」まで無かった事を考えると、そこまで深くはない。そのあんまり多くない中に大友克洋と庵野秀明という巨匠クラスが居る所が凄まじいんだけどね。

だがこれが、「漫画原作」となると途端に増える。

『Flavor Of Life - Ballad Version -』を大ヒットさせた「花より男子2」は実写ドラマであったが、皆さんご存知のようにこちらの原作はギネス認定された事もある神尾葉子作の少女漫画だ。当然、その続編である「花のち晴れ」もまた同氏の漫画作品である。他にも、『Time』を提供した日テレ系実写ドラマ「美食探偵 明智五郎」も原作は東村アキコ作の漫画だったね。

テレビドラマのみならず実写映画もある。『Show Me Love Not A Dream』を提供した山下智久&伊勢谷友介主演の実写映画「あしたのジョー」は高森朝雄(梶原一騎)原作・ちばてつや作画の少年漫画だったし、『あなた』を提供した堺雅人主演の「DESTINY 鎌倉ものがたり」も西岸良平作の漫画作品が原作となっている。

ついでに、フラッシュアニメ「ブラックジャック」も原作は手塚治虫作品だわね。


斯様に、宇多田ヒカルと漫画作品というのはかなりの頻度で関わりがある。変わり種としては、『SAKURAドロップス』の一節、『どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ』は、作詞時に読んでいたボクシング漫画「はじめの一歩」の影響で生まれたそうだし、他にも、ある時答えた「自身の邦楽TOP3」のうち2曲が漫画原作アニメの主題歌だったりもした(”Get Wild”と“薔薇は美しく散る”)。プライベートの本人も、「北斗の拳」やら「こいつら100%伝説」やら何やら好きな漫画は枚挙にいとまがない。そんな中で、こうやって世間的に漫画原作の実写ドラマ化が注目されているタイミングで、この後、『何色でもない花』に続くベストアルバム収録予定のタイトル未定新曲がどんなタイアップになっているのか、気にするなという方が無理だわよね。出来れば、隅から隅まで原作者にリスペクトのある作品(CMだろうが映画だろうがドラマだろうがアニメシリーズだろうが)に恵まれていますようにと祈らずにはいられないのでした。

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サマーソニック2024の出演者がまだ発表になっていない。昨年はいつ頃だったかなと検索してみると、第一弾発表が1/25だった。あーこれもういつ発表になってもおかしくないやつだわ。

前回の日記で、ヒカルも(昔でいう)初老の年齢になったし今後は(今すぐでなくても)様々な衰えとかと向き合っていかないといけないのかどうなのかなという風な事を思いながらあれやこれやと書いたのだが、なるほど夏フェスというのはできるだけ若いうちに出ておいた方がいいかもしれない。単純に暑いのだ。体力が要るのよ。

サマーソニックは毎年お盆前後に千葉と大阪で二日間行われる音楽フェスティバル。立秋直後という日本でいちばん暑い時期に、直射日光まっしぐらなマリンスタジアムなどの野外会場を中心にしてたくさんのアーティストたちが競演する。何が暑いって、昼間っから(というか朝からか)やっとるからね。暑いよね炎天下は。

ヒカルもマリンスタジアムでのコンサート、しかも8月下旬とまさにサマソニのシーズンにライブの経験はあるのだけれど、DVDで観れる通りナイター、夜公演だったのだ。真夏の真昼のマリンの経験はない。

このタイミングで宇多田ヒカルが初出演となった場合、果たしてヘッドライナーなのかというのはそうそう確約されていることではない。CDの売上とライブでの力量は必ずしも一致しない。経験と歴史と格というものがある。これが逆に若くて凄いというのなら、かつてのアークティック・モンキーズのような大抜擢もあるかもしれないが、宇多田ヒカルはデビュー25周年ぞ? 大抜擢とか、全然似合わないのよね…なんとも、扱いが難しい。

まぁ、大トリで出てくれた方が夜だから助かるというのはあるし、知名度からくる集客力もなかなかのものがあるだろう。ここらへん、単独コンサートとの違いは出よう。昔「サマソニで観たいアーティスト第1位は皆てんでバラバラだったが、第2位は圧倒的にPerfumeだった」みたいな話をここで書いた事があると思うが、フェスというのはそういう「そこまで入れ込んで聴いてる訳ではないけどちょっと観てみたい」みたいな人たちがごっそり押し寄せるので、宇多田ヒカルの知名度と「そういえば観た事ない」度を考えると当日観に来る人はとても多いだろう。一方で、事前の集客力となるとかなり未知数なのだ。やはり安直にヘッドライナーにしていいアーティストではない。


我々からすると、目下チケット抽選応募受付真っ最中なので、もしフェス出演するならとっとと発表して欲しいとこだけど、例年の発表の仕方をみるに、準ヘッドライナー級やサブステージヘッドライナーくらいだと春先、4月まで発表がずれ込むケースも結構ある。もしかしたら、私らの今月のレギュラーチケット申込のみならず、4月のCDシリアル申込が終わってから5月にフェス出演が告知されるかもしれない。ヘッドライナーでないのなら、あり得ない話ではない。

サマソニはフェスのくせにチケットが売り切れる大人気な催し事だ。席なんて決まってないのにそんな事になるのだから物凄い人の数になる訳だが、それでも流石に宇多田ヒカル単独公演よりはチケットが取りやすい。この際だからフェスでもいいよ一目でいいから生のヒカルをこの目で観てみたい!という人にとっては、もし仮に出演するような事があれば、一筋の希望の光になるだろう。

参考までに、昨年のサマソニチケット料金は、東京の一日券が18500円、大阪の一日券が16000円…そう、SFツアーのレギュラーチケットと大して変わらなかったのだ(というか大阪はSF最安より安いだと…⁉︎)。今年はここから幾らか値上げされるとは思うが、それでも他のアーティストも観れる事を思えば格安か。相対的には、だが。


今回のSFツアーのチケットの販売方法からして、後からフェス出演とか追加公演とかやりにくい雰囲気なのだけど、未だに可能性を拭い切れない。なぜだかフジロックとサマソニバンコクを避けるかのように埼玉宮城大阪公演が平日二日間なのも気にかかったままだ。他は週末なのにね。確かに、夏フェス出るなら今のうち。観るうちらだって歳取るしね。ここを逃したら「フェスに出ないアーティスト」として定着してしまうかもしれない。別にそれでもいいのだけれど、ヒカルの生歌にファン以外の人たちがどう反応するか、ちょっと見てみたい気もします。さぁどうなるでしょうね暫し動向を見守りましょうか。

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ドラマ「君が心をくれたから」は「雨ちゃん(永野芽郁)が日々五感を失っていく」ところがストーリーの柱となっている。甘々のラブストーリーかと思いきや、この要素を以てしてラブ・ファンタジーと形容されてきた。

確かに、数週間ずつ、それもある時刻を過ぎたらいきなり五感のひとつがシャットダウンされるというのは余りにも非現実的な話でファンタジーと呼ばれても仕方がないのだが、これが数年や数十年、そしてある時刻にいきなりではなく何年もかけて徐々に、ということであれば現実ではとてもありふれた現象となる。老化っていうんですけどね。

歳をとると五感がどんどん衰えてくる。最もポピュラーなのは老眼で、近くに焦点が合わなくなる。かといって遠くがよく視えてくる訳でもないのでこれは単純に悪化や劣化と呼ばれる現象だ。鼻も利かなくなるし、味覚の衰えは、特に夏場に傷んだ食材を見抜けなくなるという意味では健康に、いやさ生死に関わってくる。雨ちゃんみたいに唐突でなくても、人は長生きすればするほど少しずつ五感を失っていくのだ。

特に聴覚は、かなりの人があからさまにその能力を失う。老人に話を聞き返された経験が無い、という人は少ないのではないだろうか。「耳が遠くなる」というのは「老眼になる」よりずっと度合いが甚だしいというか、単なる老化で失明にまで至るよりも失聴の方が身近に感じられる気がするのよね。

それに、衰え始めるのも早い。こどもの頃、ブラウン管のトランス音がうるさいと大人に幾ら訴えてもわかってもらえなかった事を思い出す。成人すると確かに、15000Hz以上は聞き取れなくなった。もうその頃から衰え始めているのだ。補聴器もだいぶポピュラーになったけどまだまだ高価で、メガネほどの手軽さには程遠い。

リスナーとしても日々自分の聴覚の衰えと向き合わされているが、送り手としてはどうなんだろうね? 猫よけの超音波まで聞こえてしまっていた宇多田ヒカルさん、今でもその人間離れした聴覚は健在なのだろうか。まだ40代に入ったばかり…多分まだまだ大丈夫だとは思うが、今年はホール/アリーナでのコンサートツアー。リハーサルから本番まで、イヤーモニターでガッチガチに固めてその至宝たる聴覚を守り続けて欲しいものだ。ステージの大音量に晒され続けて聴覚を衰えさせていくのはかつてはライブ・ミュージシャンの宿命だったけれど、今の時代なら何とかなっていると信じたい。

ただ、今後の創作には影響が出てくるかもなぁ。高音域を認識できなくなっていくと、生まれるサウンドもギラつかないというかくぐもった音質になるような気がしないでもない。それは聴覚の衰えの他にも音楽的趣味や興味の変遷など他の要素に拠る所も大きいのでそこだけ取り出して論じる事は難しいが、今回の新しいリレコーディングやリミックスの全体の傾向から読み取れる事も何かあるかもしれないね。余りにも見た目が若いので勘違いしがちだが、昔は「初老」といえば40歳のことを指していた。今後は、あの宇多田ヒカルですら老化や衰えとは無縁ではいられないかもしれないのた。そんなことを、「君が心をくれたから」に触れながら考えてしまったのでした。だから、今後はコンサートひとつひとつの重要性、貴重さが更に格段に上がるだろうね。いろいろ元気なうちにしか出来ないパフォーマンスが、幾つもあるだろうからさ。

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何度も読み返してしまうなぁもぉ。

『新曲たちも今回トラックと歌をレコーディングし直した過去の曲たち、スティーブンにミックスし直してもらった過去の曲たちもミックス全部おわた😭 やっとベスト盤のSCIENCE FICTIONとかツアーの話できる心境😅 みんなどんな1日だったかな👩🏻‍🏫』
https://x.com/utadahikaru/status/1754899823587700871?s=46

私が感動したのは、ヒカルが『曲たち』って言ってること。結構珍しいかも??

goo辞書をちょっと引いてみよう。


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接尾辞「たち」:[接尾]人を表す名詞や代名詞に付く。
* 1 複数であることを表す。「子供—」「僕—」
* 2 複数の意とともに尊敬の意をも表す。
* 「大舟にま梶しじ貫 (ぬ) き此の我子を唐国へ遣るいはへ神—」〈万・四二四〇〉
[補説]上代では、神・天皇・高貴な人に限って用いられた。
[用法]たち・[用法]がた・[用法]ども・[用法]ら——いずれも人が複数であることを示す接尾辞。◇「たち」は「公達 (きんだち) 」のように元来、若干の敬意を伴う表現であったが、現在では普通に「ぼくたち」「私たち」のように自称に付けたり、「犬たち」「鳥たち」のように動物にも用いるようになった。◇近ごろ「道具たち」のように物に「たち」を付けることがみられるが、これは正しい使い方とはいえない。◇(以下略)


https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%9F%E3%81%A1/


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そう、基本的に、接尾辞「たち」を無生物につけるのは誤用なのである。だが私はそれを知りつつこの日記で無生物たちに「たち」をつけまくっている(今もつけた)。理由は単純で、その対象に対する感覚が人や動物と変わらないからだ。

特に「曲」というのはねぇ。擬人化して言いたくなるのよ。恐らく、作曲者にとってみれば我が子のようなもの。普段自分が過去に書いた曲を聴かないというヒカルが、今回25年分の自らの歴史を振り返ったのだ。いつもと違う感情が湧いてきても致し方なかろう。

きっと、普段全然相手にしていない曲たちに対しても「よぉ!ひさしぶりじゃん!」という気持ちになったのではないだろうか。曲は単なる楽譜でもなければ単なる音の波形の集合体でもない、もっと生き生きとした、まるで生き物のような何かであって、録音した時のままの姿であっても、誰がいつどこでどんな風に鳴らして聴いているのかで全く違う表情を見せてくれる。いやホント生き物なんですってば。

そもそも、くまちゃん(Kuma Chang)て綿じゃん? なのにヒカルはこの18年間、くまちゃんがまるでそこにいるかのように…いや、”まるで”も”かのように”も要らないな、「そこに居る」という確信を以ってずっと接してきた。そのことを疑う人はここを読んではいまい。

曲は綿でなく音ではあるが同じ事だ。接して、会話して、そのプロセスを経てこちらもあちらも変化を被る。そうなのだ、曲は変わり続けるのよ。たとえ音源に刻まれた波形が全く変わらなくても、存在とは関わった相手との時間の総計なのだ。今日もまた誰かがヒカルの昔の歌を聴いて、新しい気持ちに出会う。その出会いの積み重ねが曲たちの成長として刻み込まれていくのだから、いや、うん、人と変わらんのよ曲って。

ヒカルは何気なく、少し洒落た気持ちで曲を擬人化したのかもわからないが、こう書いてしまった事実はもう変わらない。変えられない。今回のベスト・アルバムの作業を通じてヒカルの中で過去曲たちとの付き合い方が間違いなく進化した筈である。なので、ライブで聴ける過去曲のパフォーマンスもまた進化を遂げることになるだろう。そのことをこの「たち」は如実に教えてくれているのだ。ね、そりゃ感動するでしょ? コンサートへの期待が更に3割程は増したかもしれない。これ、ベスト・アルバム『SCIENCE FICTION 』を実際に聴いたらどんなことになるのやら。当初思ってたよりずっと宇多田ヒカル史に於いて重要な作品になるかも、しれませんよこのベスト盤は。昔の曲たちよ、すげーなおまえらは!

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