無意識日記
宇多田光 word:i_
 



本日15時からSONYストアデイズ福岡・名古屋・東京の予約受付が開始される。予約と言っても例の「360 Reality Audio」体験用の別途ルーム(なかなかいいフレーズだw)入室に関してのみであって、展示衣装鑑賞やVR体験の方は予約無しで当日フラリと寄るだけでOKなのでそこまで身構えなくてもいい。

でその「360RA」がそこまで注目を浴びていないようだ。そらそうか。普段メディアで有機ELだ4K8Kだといった高画質などを宣伝する量とハイレゾなどの高音質を宣伝する量では前者の方が段違いに多い。もともと、視覚に聴覚が敵うはずもない。

それは主催者側も織り込み済みだろう。360RAより半年先に3DVRをアピールしていたのはそういった背景も加味されていたのかもしれない。

ヒカルの歌声を高音質で聴きたいというニーズより、お姿をリアルに拝見したいというニーズ。まぁ、しょうがない。そもそも音楽の盛んなお国柄ではないのだしね。それに、聴覚というのは幼少時にかなり完成されてしまうようだから、新しく音楽鑑賞環境を提案しても大人には余り響かないのかも。逆に言えば、今回のこういう企画は中高生の若いファンにこそ体験してみて欲しい、ともいえる。予約時に年齢記入欄あったっけ? できればコンビニみたいに来場者の姿格好から年齢層データを取得出来ていればね。でもSONYストアみたいな空間、若いと入りづらかったりするのだろうか。まぁそこは今後の課題かな。

はてさて、福名銀はどれくらいの速度で予約が埋まっていくかな。夏休みの学生の皆さん、社会人は平日昼間は無理だからそこらへんが狙い目ですよ。あ、全部無料だからねっ!

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漫画なんかでよく「主人公がまったく活躍しない、或いは全く出てこない回」というのがあるとどうにも居心地が悪いなと小さい頃よく思っていた。看板に偽り有りというか、だったらタイトル変えてくれよせめてサブタイに最初から外伝とか書いてといてくれよと思ってた。なんでタイトルが「おそ松くん」なのにイヤミばっかりでてくるんだよ赤塚師匠、ってね。

というわけで、無意識日記に「宇多田ヒカル」の名前が出てこないとどうにも据わりがよろしくない。一読者としてそう思うので、昨夜の回などは「そんだけかい」と思ってしまった。哀悼記事だし、京アニには本当に日常を楽しませて貰ってきたので書いてある事は本音でしか無いのに、読者としてはヒカルの話に絡ませてくれないと、らしくないなぁいやどうせだったら世間が一斉に取り上げてるような大事件なんてテレビ東京のように華麗にスルーして全く関係ない「今だから言えるはやとちりみっくすを初めて聴いた時の感想」なんかを綴った方がらしかったんじゃないかお前の場合、なんて風に感じてしまった。

書く方としてはその時の気持ちを素直に綴るのが日記だと思っているからヒカルの名前が出てこようが出て来まいが気にしていないのだが、読む方としての自分の“期待”みたいなものには応えれてないかなと。まぁそこは鍔迫り合いですけどね。


で。昨日の「京アニ焼失事件」の反応は私の目線では大きく2つに別れていて。悲しむ人と憤る人だ。私は前者だった。昨夜の日記は、死因が放火であれ飛行機事故であれ地震であれ殆ど内容は同じだったろう。そういう意味で悲しみが主体だった。

一方の、憤る人。恐らくこの人は激しく憤っているだろうと予想してアクセスしてみたらやはり開口一番、「絶対に、許せない。」と仰っている。如何にもこの人らしいなぁと溜息を吐いたよ。「新世紀エヴァンゲリオン」で主人公の碇シンジ役を長年務め続けている声優の緒方恵美さん。

この人の声と演技力があったからこそ碇シンジ像は今のように出来上がった、と断言して差し支えないだろう。彼女の声の作品への影響力は非常に大きい。もし今彼女が喉を壊して収録が滞ったら来年6月公開と決まった「シン・エヴァ」の封切りも躊躇いなく延期になるだろうね。

そうなのよ、決まったのよ公開月が。2020年の6月だってさ。頑張ってね。

んで。その、揺るぎない緒方恵美の喋り声を2時間堪能した後にヒカルの『Beautiful World』が流れてきたときに思ったのだ。「あれ? ヒカルの声質って、“エヴァ”っぽくね?」って。懐かしいな。続きはまた来週のお楽しみ。

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京アニの焼失が悲劇的過ぎて言葉を失ったままだ。多くの国宝と人間国宝が亡くなった。まだこれを書いている時点では詳細は審らかになっていない。

早くも支援の輪が広がっているのを見て勇気づけられる一方、喪われたモノも人も二度と戻らないことに思いを馳せる。どれだけお金が集まっても、死んだ人も焼けた絵も還っては来ない。

最初にこのニュースを知った時自分の思っていた以上に悲しかったのは、恐らく今回亡くなられた方々の名前をただ見ただけなら自分は素通りしていただろうからだ。アニメスタジオのアニメーターの方のお名前なんて殆ど存じ上げない。辛うじて監督クラスの方々の名前を目にした事がある程度。もしこのニュースが「京都で火事があり会社員の誰々さんが死亡しました」という体裁のものだったなら、「あー火の元には気をつけないとね」くらいで済ませていただろう。

自分はコアなアニメファンではないが、京アニ作品は幾つも堪能させて貰っている。涼宮ハルヒに始まってらきすたけいおん日常氷菓中二たまこま甘ブリユーフォメイドラ…ワンクール完走した作品も幾つかある。絵の違いなんてわからない自分のような門外漢でも一目見た瞬間に京アニだとわかる作画の高品質には幾度となく感動させられてきた。そしてそれを描いたクリエイターの皆さんの名前は誰一人として知らない。

今回、名前も知らないうちに人生の中で僅かずつかもしれないがお世話になった方々が名前を知らないうちにいっぺんに何人も亡くなった。その事に自分はぞっとした。もし目の前に現れて「私はあの作品で動画を描いていたんですよ」などと言われれば間違いなく最敬礼で出迎えたいような突出した才能の数々がたった1日でごっそりこの世から消えたのだ。一言くらいお礼を言いたかった。名も顔も知らぬ人への感謝の気持ちは行き場を喪ったまま。遺族の方々の哀しみたるや幾許か想像もつかない。

名指しで「○○さんの絵はいいね」と言えていればどんなによかったか。遺された人たちも心身両面でまた筆を執れる状態に戻れる日が来るかどうかなんてわからない。でも、こちらは火事にも遭わず身内も無事でただ普通の日々を過ごしているだけなのだから、いつもと変わらず、今夜もアニメを観て作画崩壊にゲラゲラ笑ったりしていようと思います。そうなれるよう、哀しみを落ち着けていきたいな。

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21世紀初頭以降に計算機とインターネットが音楽家に与えた影響は凄まじい。まぁそれは言わずもがなだが、例えばヒカルのようなMac1台あればいつでもどこでも作曲が出来るDTM音楽家にとっては最早革命的─存在自体に関わる大きな変革の連続だったといえる。

そもそもDTMという言い方自体がやや古めかしいか。デスクトップ・ミュージック。部屋に居ながらにして机に向かっていれば音楽が出来ていく環境を指した言い方なのだが計算機の小型化と無線インターネットの普及でそれすらも過去のものになりつつある。せめてLTM(Lap Top Music)と言うべきだった…あ、ラップトップも死語ですかそうですか。


で。それ以前も計算機での作曲・音楽制作は盛んだった訳だがインターネット網の整備のお陰で再び複数の音楽家が互いのアイデアを寄せ合って創作に取り組むケースが増えている。

つまり、元々音楽はスタジオに各楽器の演奏者を集めてみんなで録音しなくちゃならなかった所に計算機が出現して家で1人で作れるようになり、そこにインターネット網の普及が重なることでまた「みんなで録音」が普及するようになった、という流れがあるのだ。家に居ながらにして、だけど。

ヒカルは1998年デビューで最初っからDTM系シンガーソングライターとして活動してきた。何か楽器を演奏できる人が計算機の使い方を覚えてというのではなく最初っから計算機を使った音楽制作が前提だったということだ。他のやり方を知らない。

でそこから20年。先程述べたように再び音楽家同士のコラボレーションが盛んになっている。ヒカルも昨今は生楽器の多用などで多くのミュージシャンたちと共演することが多くなった。2004年の『EXODUS』がたった4人で制作された事を考えれば彼我の差だ。

即ち。ヒカルが最近2作でオーガニックなサウンドを増量しているのはヒカル自身の成長・進化・変化と共に時代背景の推移も多分に影響しているという事。出掛けて人と会うのが億劫だったヒカルもインターネット網を介せばコミュニケーションも楽ちんだ。そこに生楽器のサウンドの膨大なデータ量を扱える計算機の進化も加わって今のサウンドが出来上がっている。なんでも自力でやってきたのはそちらの方が早かったからだし今でもそういう側面が強いとはいえ、今のヒカルは孤独に机に向かい続けるだけのDTM系シンガーソングライターに留まらなくなっている。我が道を行くようでいてその実時代の変化と共にあるヒカルの音楽性は今後もこんな距離感で移り変わってゆくことだろう。我々はそれを通して時代の遷移を何となく感じ取っていけばよい。

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『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品を観ていていちばん感動的な場面は…というと誓いの歌い出しとか初恋の静寂とか色々あると思うけど、心を動かされるという意味でいちばん感動しているのは私の場合MCかもしれない。

それも例えば最後に両親に感謝の言葉を述べる場面だなんて言えれば“感動的”という形容に相応しいのだが自分の場合は「MC全般」なのだ。ヒカルが喋っているだけで既に身悶える身が捩れる相好が崩れているのである。きっと人に見せられないような相当気持ち悪い顔をしているんだと思う。なるべく映像商品は1人で観るかみんなで観る場合でも部屋は暗くした方がいいなこれはと思うくらいににへらにへらしている。

宇多田ヒカルはどうしてこうもかわいいのか。確かにこちらからすれば6つ年下のお嬢さんなのでかわいいと思ってもいいのかもしれないがなんだかんだ言って36歳なんですよ。そろそろアラフォーと呼ばれてくるようなそんな年齢。なのだがヒカルが口を開く度にもうどうしたらいいかわからなくなる。歌を聴いている時より反応が甚だしいかもしれない。あんだけ一所懸命に歌ってくれているのに小休止みたいなお喋りの方に心動かされるリスナーが居ると知ったらガッカリするだろうな…ごめんなさい。

どこがどう、という具体例を2、3挙げようと思ったがこれが選べない。口を開いて何か言ったらもうかわいい。これはどうしようもありません。参った降参白旗です。

確かに、自分がヒカルの事を気にしだしたのはテレビで喋りを見てからなのでそれに大きく反応するのはある意味順当なのかもしれない。のだが、まさかそれから20年経っても同じように、いや、もしかしたら今の方が過激に反応しているかもしれないくらい、MCを聴いていて悶絶してしまうとは。うーむ。

これがまだ映像を観て御尊顔を拝見しているせいだと言えればよいのだが、音声だけを聴いている時でも反応してしまうのだ。他愛も無い事を辿々しく喋っているだけでもう「一生貴女についていきます」モードにさせられる。声だけで。音だけで。相当、相当ヤバい。

昔からずっとそうなのでそろそろ慣れてもいいもんだと思うんだけど、全く慣れない。もしかしたら今が過去最高にかわいらしいのではないだろうかとMCを聴きながら本気で検討し始める始末。16歳の方が流石に…と常識を振り翳そうとしてやめる。無駄だ。虜だわ。

もしこの映像商品に更なるボーナスディスクとして「全会場全日程での全MC」を収録したDVDがついていたとしたらもしかしたら本編よりヘヴィ・ローテーションだったかもわからない。それくらい好きだ。はぁ~、つくづく気持ちが悪い。ええ歳したおっさんが何を書いているんだか…。

しかしそれが原動力となってこの日記の数百万文字は綴られているのだ。萌えるって恐ろしい。宇多田ヒカルが魔性の女なのは間違いないが(そうなの?(笑))、本人にそのつもりが無さそうなのがいちばん最も恐ろしい。狙わずにこんな人間で居られているとすればもうそれは人知を超越した何かなんだろうね。結論なんて出やしない。まぁ、もうひとつ恐ろしいことといえば今回のこの日記に賛同してくれてしまう読者が何人もいらっしゃるだろうことですかね。いつも読んでくれてありがとうございます。ぐっちょぶですよ。

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そうそう、ヴィジュアル・イメージの話ね。

歌詞を耳にした時、人の反応は千差万別で。すぐさまアタマに情景が思い浮かぶ人も居れば言ってる意味を考える人も居れば言葉遊びや音遊びに走る人も居る。それぞれだ。

音楽は音だけで独立しているとはいえ、人間は本能的に五感をフルで働かせて対応するように出来ている。聴覚で予兆を察知して視覚で対象を実際に確認するという手順が基本的であるならば、さて人は音楽を聴いた時に何を視覚で捉えようとするだろうか。

通常であれば音の出所、演奏者/歌唱者がその対象になる訳だが今はスピーカーやヘッドホン/イヤホンで音楽を聴く機会の方が多いだろう。テレビで音楽番組を観たりYouTubeでミュージック・ビデオをチェックしたりする時はその画面を見ているだろうが、さて音だけの時はどうか。

その際、視覚を補填するのに歌詞が使われる場合がある。目を瞑って歌詞に耳を傾けているとそこに描かれた情景がありありと浮かんで…想像力に頼るとはいえ、それによって視覚にあたる情報を脳が受け取る。その意味において、だが歌詞のある音楽で視覚を担うのは歌詞である。

そういう態度で音楽を聴いている時人は歌詞を音として認識してはいない。言葉遊びや音遊び、音韻や掛け合わせなどは二の次三の次になっている。もっと言えば歌詞が聴覚上の“音楽”から分離されすらている訳だ。その分離された音楽が感情に訴え掛けて描かれる情景の価値が決まっていく。そういう捉え方をするならば、歌詞のある音楽に映像をつけるのは邪魔であるとすら言えるかもしれない。


抽象的な話ばかりでも仕方がないからヒカルの書く歌詞を具体的な例にとってみていってみたい。次回はそこらへんからだな。とはいえ、その次回が直後とは限らない訳ですが。そろそろパイセン回答編第二弾が来るかもと期待されていますしね。どうなることやら。

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『雨に打たれて靴の中までびしょぬれ
 早く虹色バスで私を迎えに来て』

今日7月16日は“なないろ”ということで虹の日なんだそうな。なので虹色バスの歌詞から始めてみましたがこれはまさに先週土曜日深夜の私の話。虹色バスじゃなくて新宿渋谷を往復する無料送迎シャトルバスだったけれども。まぁそれにも結局乗らなかったが。

ビアガーデンで宇多田ナイト、というイベントに行ったら豪雨で途中中止になりましたとさ。

まぁ別に宇多田縛りのDJイベントを野外でやったら雨が降ってきたというだけの、文字にすると呆気ない内容なんだけど、なんだろう、とっても楽しい思い出になりましたとさ。歳をとってきたからか、普通に楽しいだけのイベントよりこういうアクシデントに遭遇出来る方が嬉しいような。まぁ覚悟して行ったからだろうけどね。降水確率90%でやろうとする方がおかしい(笑)。

いや勿論、例えば普通のコンサートでヒカルの歌を聴きに行ったら体調不良で当日急遽中止になりましたとかだったら悲しいよ。ホノルル行ったときにそれにならなくて本当によかった。いや、実を言うと前座のDJタイムが2時間と長過ぎたので途中「もしやヒカルの(Utadaの)体調が芳しくないから引き延ばし中のか?」という解釈をしてみた事も一度や二度じゃなかった(その2時間の中でね)。まぁ、心根を言えばその時「このライブは必ずや成功する」という確信(妄信でも思い込みでもいいけども)があったからそんな心配も表面上だけだったんだけれど。

話が逸れた。ハプニングやアクシデントは、心身の健康を損なわない限り楽しめばいい。そういう話。自分は暇を持て余すということがない。疲れたら眠ればいい。まくらさんには拘らない。整合も破綻も魅力だ。必須なのは、目の前の誰かが楽しいことを成功させようという熱意を持っていることだけ。それがこちらに伝わればもうそれで十分。芸術の根本。モチーフ・オブ・アートだね。逆に言えば、無いのなら怒る。3DVRに1ヶ月怒り続けたのはヒカルの歌を届けたいという熱意がそこになかったから。あっても邪魔されていたから。至ってシンプルだったんですよ。

宇多田ナイトも、開催した人は悔しいだろうし、遠方からこの為に来た人は金と時間を返せと怒るだろう。ごもっとも。でもあたしにはそこにヒカル好きな人間が何人か集まっていたというだけでもう既にエンターテインメントでしたのよ。その切っ掛けさえ作ってくれればもうそれで感謝なのでした。また行きたいな。また土砂降りでもいいよ。(笑)

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『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品を聴きながら「そういえば当初は『初恋』を耳にする度にドラマのイメージが浮かんでたなぁ。」と気がついた。いつのまにか浮かばなくなっていたなという意味だ。

音楽は音だけで独立しているのでそれにどんなヴィジュアル・イメージが伴うかは個々人千差万別だ。こちらも当初は音源がリリースされるまではひたすらドラマで流れる場面をリピートするのみで、『初恋』といえば杉咲花、みたいなところがあった。

ヒカルは1999年当初、各テレビ番組の歴代最高視聴率を連発していた事からもわかるようにテレビでの注目度も最高度だった訳だが如何せん出演機会が少なかった為局はヒカルの話題が出る度に『Automatic』などのミュージックビデオを流して尺を埋めていた。お陰で暫くは「宇多田ヒカルといえば天井の低い部屋でくねくね踊ってる人」というヴィジュアル・イメージがついてまわった。

音と映像の結びつきというのは本来は弱いものだ。裏を返せば、その実そんなに関係があるとは思えない音と映像でも常に一緒に再生されていればそれが結びつきとして人々にインプットされていく。

『初恋』だって別にテレビドラマだけに合わせて作った歌ではなかったが、ずっと一緒に再生したから私の中で音とイメージが結び付いていた。しかし結局、恐らく最終的にはライブコンサートで「『初恋』を歌う宇多田ヒカル」という“絵”が強烈過ぎて上書きされてしまったのだろう。今や『初恋』のいちばん強いヴィジュアル・イメージはヒカルの歌う姿である。そしてそれは、恐らくいちばん望ましい。

しかしそれとは別に、歌に強いヴィジュアル・イメージを抱かせるものがある。歌詞だ。その話からまた次回、かな? 気が変わるかもしれんけど。

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ストリーミングを使えば最新のヒット曲が次から次へと聴けるのでいやぁこれさえあれば自分も流行に疎くならなくて済むぞ…となるかと前まで思っていたのだが、最新のヒット曲をチェックするときに便利なのは自分の場合結局相変わらず「小林克也のベストヒットUSA」だ。NACK5のラジオ番組である。洋楽番組としては最古参の部類に入るヤツ。

フォーマットはシンプルで、アメリカのチャートのトップ20をカウントダウンするだけだ。ミソなのは、1曲ずつワンコーラスだけ聴かせて60分番組で漏れなく20曲紹介してくれること。勿論当該アーティストについてのプチ情報も教えてくれる。ビリー・アイリッシュがチャートインすれば彼女が17歳だとかお兄さんが曲を作ってるとかそういった基本的な話をね。

たった1時間でストリーミングを使って20曲チェックして小ネタもネットでググれといわれてもかなり厳しい。ラジオ番組を録音しておけばそれが可能だ。正直小林克也も大変高齢で最早滑舌以前にまともに喋れていないのだが流石にこの道半世紀、人間性に問題があろうがなかろうがきっちり番組を構成してくれる。今日は何の日も何気なく楽しい。

最近はストリーミングが主流になっているのを意識して彼も番組で堂々と「ここで紹介して気になった曲があればストリーミングでフルコーラスを聴いてみればいいよ。この番組の役割はそれだもの。」と言い切っている。大昔からやっているラジオ番組が最新のストリーミングのフォーマットに対して存在感を示せるというのは、何といえばいいのやら、必要なのは技術でも技術だけでもないのだな、と。その都度何が欲しがられているのかというニーズをきっちり察知すること。すぐに移り変わることもあればぜんぜん変わらないものもある。「ベストヒットUSA」はたまたまストリーミング時代にフィットしたようなものだが、それとともにリスナーの欲するものもそんなに変わっていなのだなと思い直したり。古臭い事をやっているなと思う事があっても、続けていればまたフォローの風が吹くケースもあるんだな。


…え?何が言いたいのかって? いや当然「『Kuma Power Hour』復活しねーかな。」ですよね。優れたディスクジョッキーが居ればいい音楽を紹介するラジオ番組は必ず輝く。小林克也なんてDJとしては大したことないのだけどこれだけ続けてきたからレジェンドになれたのだ。こういうのは、やるかやらないかである。「番組のクォリティを維持する為に~」とか唸っている間に時は過ぎていく。まずはアウトプット。細かい事は後から考えようや。なるようになるってさ。

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ちょっとお洒落な有名人は、ツイッターはやってないけどインスタグラムならOKみたいな空気を出してお洒落な画像をアップしてくれている。ぶっちゃければブログやツイッターだと文才が必要だけどインスタなら自撮りのスキルがあればいい、というのが本当の事情か。写真の方がまだ炎上しづらいからね。

我がkuma_power女史は他の人たちより随分早い時点からインスタを使っていた。こちらは文才に何の問題もないどころか超一流の作詞家なので一言々々が金言だ。メッセやツイートがメインで自然。そんなアラサー女子(もうアラフォーの方が近いけど)がインスタを始めたのはそれまで画像保管庫として利用していたツイピクが終了するからだった。元々はただ写真を置く目的で使っていたのだ。

今でも、ツイッター連携のお陰でインスタは画像保管庫としての役割に留まっているが今やそのインスタの方がSNS化しているので、“インスタ勢”からしたら宇多田ヒカルも“インスタやってるお洒落なげいのうじん”の一員である。もっと頻繁に自撮りを上げればいいのに妙ちきりんな拾いモノの写真ばかりで勿体ないなと思われているのではなかろうか。

今朝四時頃ツイッターに障害が発生したらしい。すぐ復旧したようだが、そういうトラブル時の予備としてもツイッター以外のSNSに参加しているのは都合がよい。だけれどもヒカルは自撮りでかわいいと言われるより面白いツイートをしてウケる方を嬉しがる気がするので主軸をインスタに移す事は今の所ないとは思う。将来的に役者の仕事もしてみたいとなれば別だけれどそんな芽も感じないしね。

もしあるとすれば、描いた落書きやイラスト、4コマ漫画などをインスタに投稿する方だろうな。暫くクマンズの漫画も読んでないし、そろそろ何か描いてくれるかもしれないですよ。ほんのり期待して待っていますかね。

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顔認証技術の見事さは裸婦抱くに当選して現地に行った人は御存知かと思う。今後も同じ手続きを使う可能性は高い。

逆に顔認証を前提とした様々なアプローチも考えられる。今迄現場の混乱を考慮して没になってきた企画が“復活”する事もあるかもしれない。

例えば『スナックひかる』を定期的に開く事も出来るだろう。“Unplugged”だね。抽選で顔認証であれば転売は不可能。どんどんやっていい気がする。“armed stalkers”の排除も出来ていれば有り難い。ブラックリストってヤツだね。あたし既に載ってやしないだろうな…insane peopleの方で…。それはさておき。

問題なのはそういった安全面や運営手腕よりファンの感情の方だろう。ヒカルは敏感だ。難しいところだが、どうせ歌うならひとりでも多くの人達に聴いて貰いたい、となりそうではある。スナックひかるだと一度に数百人程度にしか聴いて貰えない。それは確かに、スペシャルではあるが、偉大なる一世一代のアーティストの限りある人生の使い方としてはどうなのか一考の余地がある。

自分としては、裸婦抱くですら外れた人が居るんだからどっちでもいいじゃん、という気はしている。全体の中の割合なんて関係ない。当人にとっては当たったか外れたかの二択でしかないのだ。行けたか行けなかったか、観れたか観れなかったか、聴けたか聴けなかったか。それだけなんだから当選確率の高低は云々しても仕方がない。それより、スナックひかるならそれを「特別な体験」と思ってくれる人は多い。それを重視するのも流儀としてはアリだろう。

私個人の考え方は根本的に変わっていない。コンサートは当日券でふらりと観れるのが理想だ。観たい人は全員観れる、ってのがね。今回の裸婦抱くはそうではなかった。外れて悔しい思いをした人が1人以上居るのだからそれは個々の問題としてはスナックひかると変わらない。いや寧ろ、「友達はみんな当たったのに自分だけ外れた」みたいなシチュエーションが頻出しているかもしれず、それだったらスナックひかるのように当選確率が天文学的に低い方がまだ諦めがつくんじゃないかと。自分だけお家でお留守番なんていうさみしい思いをせずに済むのだから。

人気が出過ぎた人の宿命か。正答は無い。ひとりひとりの声に耳を傾けつつ、その都度調整し続けるしかない。悔しさをバネにして前向きになれる人だって居るかもわかんないしね。また次のライブ・コンサート開催になった時に考えるとしましょうか。

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近年周りの評価に較べて無意識日記さんのテンションが上がらなかった曲といえば『あなた』だけれど、そもそもそういうパターンは最初っから存在していてな。あたしゃあんまり『Automatic』でテンションが上がらない。これはかなり圧倒的少数派。

年齢からして当然1999年初頭にはこの曲が大ヒットしているのは認知していたのだが、それを聴いた時はそこまでインパクトを受けなかった。寧ろそれで話題になったから取り上げられた『Close To You』での歌唱力と続いての『Movin' on without you』の作曲能力に吃驚させられた方がどちらかといえば(ミュージシャンとしての)ファースト・インパクトだった。それでも熱心に追い掛けるに到らずテレビで喋ってるのを見て漸く食いついた、そんな流れでファン(…なのだろうかコイツは?)になったちょっと“違う”人なのだコレを書いている人は。

とはいえ、流石に20年間もずっと聴いていると愛着も湧いてくるもので。今や『Automatic』を聴いていると“安心”するようになった。特に楽曲自体の評価が変わることはないのだけれど、この曲の役割はいつでも重要かつ明快だ。CD時代においては8cmと12cmを合算するとダブルミリオンになる隠れ売上1位曲だったりする。そして、もちろんデビュー曲であり、最大多数の人にとっては出会いの曲だ。ここでインプリンティング云々と言っても余り意味はないのだが、ファースト・インパクトの印象というのは歳を取れば取るほど重要度が増す。少なくとも『Automatic』を歌わずにライブを終えるようなことは今後も無いだろう。

こんな風に言ってはいるけれど、別に『Automatic』が嫌いとか退屈とかいう事では無いから誤解の無きよう。『あなた』もそうだけれど、単に「この1曲でのめり込む事になるかと言われればそうでもないかな」という程度の話でしかない。何れもレパートリーのひとつとして普段から楽しませて貰っている。通算再生回数を見せる事が出来れば「これでよくあんなテンションの低い文章が書けるなっ!」と驚かれるんじゃないかというくらい。他にも『Wait & See ~リスク~』なんかもそうなんだけど、大ヒットしたからって世間の評価に倣う必要なんて無いのだ。正直な感想こそいちばんヒカルの参考になる。無理して振る舞わなくていいんですよっと。

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裸婦抱く映像商品を聴いていると歌もそうだが演奏の印象が自分の観た横浜2日目と随分違う。つくづく音楽はナマモノなんだなと思う。

自分が複数回観たツアーと言えば『UTADA UNITED 2006』だが歌と演奏の印象・評価が各会場で悉く異なった。歌も演奏も総てがダメだった静岡1日目、突如として輝きを増した歌と相変わらずダメダメな演奏を披露した静岡2日目、皆さんがDVD他で慣れ親しんでいるさいたま2日間、そして総ての歯車が噛み合った最終代々木2Daysとまぁよくぞそこまでバラバラの出来を見せられるもんだと感心した次第。そりゃ中には「ウタダの生歌はダメ」と断ずる人も出てくるよなと納得。

特に演奏面に関しては、皆さんプロフェッショナルとはいえそりゃあれだけ個性の強い音楽家たちが寄り集まって全員気が合う筈もない訳で、ウタユナは多分まぁあの人とあの人の相性が…って行き過ぎた憶測でそういうことを言うのは辞めておこうね。

それを考えると『WILD LIFE』の演奏の出来の良さは奇跡的でな。固定メンバーでもないのにあれだけライブならではの魅力に溢れた演奏を繰り広げられたのは驚嘆に値する。それも本番はたった2日間だ。普通であればツアーを重ねていくうちに初顔合わせのバンドメンバーたちは相互理解を深めつつ徐々に纏まっていくものだろうに『WILD LIFE』はまるでそれが2ヶ月続いたツアーの最終2日間であったかのように演奏が極々自然であった。その上、現実には初日2日間であったが為にヒカルの声が疲弊しておらず大変瑞々しい。こういう組み合わせになる機会は、もしかしたら今後二度とないかもしれない。ツアー序盤は演奏はぎこちないがヒカルの声は真っ新で、ツアー終盤は演奏は熟れているがヒカルの声は疲れていて、というのが本来の現実だ。こういう言い方は携わった方々に大変失礼なのだが、とても運がよかったのだと思う。

それがこうやってしっかり記録されていて。当時は映画館でライブ・ビューイングもあったもんねぇ。多くの人びとに鑑賞して貰えたのは僥倖だ。

何故か今回の裸婦抱くは落選者も多数居てはるのにライブ・ビューイングがなかったが、最終日に音漏れを経験した身として言わせてうただきますと、ライブ・ビューイング会場としては映画館とかよりバースタンドのあるライブハウスとかの方が楽しめるんじゃないかなと思ったり。めいめい、じっくり聴きたい人もあればはしゃいで盛り上がりたい人もあるだろう。そういうセッティングも今後の課題になったらいいなと。

裸婦抱く映像商品も、ニコ生世代としては時間が経ったら皆で時間を合わせて実況鑑賞とかしてみたいのだけれど、SONYさん何か新しい技術とか無いのかなぁ。肝心のニコニコ動画/生放送に元気がないからねぇ今は。ヒカルなら『20代はイケイケ!』のように、いざとなったら全部自前で用意出来てしまうほどのスポンサーを集められるから既存のサービスに頼り切らなくったってよいのだけどね。そんときゃよろしくですよっと。取り留め無いけど今宵はこんなところで。

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@utadahikaru : This has made my day


と言ってダンシングな…コッカトゥー…? ほう、ボタンインコというのか、そういう鳥の動画を張っただけのツイートが昨日あったのだが…ヒカル、疲れてるのかな?(笑) ぼちぼちゆっくり休んだってや。


前回の続き。歌の歌詞をどの視点から描くかはポイントのひとつになる。ヒカルにも『キーが高すぎるなら下げてもいいよ 歌は変わらない強さ持ってる』のようなメタ歌詞と呼ばれるセンテンスがある。基本、歌はフィクションであって歌手はその登場人物やナレーター(神の声・世界の声)になりきって歌うものだけどたまに歌ってる本人に立ち戻った立場になることもあったりする訳だ。

エヴァは昔旧劇場版で「映画を鑑賞する観客」をスクリーン側からの視点で映し出した事があったが、そういった本来アニメーションとすれば“アウト”な手法も含めて庵野さんが何をやってくるか、だ。

作品世界と現実世界の間の行き来の他に、作品世界同士の行き来というものもある。同じ漫画家の違う作品同士が実は同じ世界線だった、みたいなヤツね。例えば…って例を挙げてしまうとネタバレになっちゃうのか。難しいや。

他にも、スターシステムといって手塚治虫のヒゲオヤジのように同じキャラクターが1人の“俳優”として異なる作品に出演する、なんて手法もある。これは漫画作品より先にキャラクターが存在して、そのキャラクターの視点から見た時点で既に各漫画世界は並行する虚構なのだという考え方が暗示されている。

歌でも同様の事があるのではないか。平たく言えば、ヒカルが「シン・エヴァ」に楽曲を提供していたとして、その新曲の歌詞世界が『Beautiful World』や『桜流し』と繋がっているのではないか、と。問題はその繋がり具合と程度なのだが、突っ込んだ議論が出来るかどうかが不透明なのでそれについては今後の課題として棚上げしとこうかな。そうこうしてるうちにその曲が発表されちゃいそうだけど、そんときゃそんときで。

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「ポケットにラフダク」やっばええわぁ。ライブアルバム欲しいけど兎に角今はこれで。本当はBlu-rayの音質を持ち歩きたいのだけれど流石に嵩張る。ハイレゾのライブアルバム…需要無ぇだろうけど、ここまで音がいいと突破口にならんかねぇ。もうちっとベストアルバム的な選曲だったら推し易かったのだけれど、今回の主役は完全に『Fantome』と『初恋』の曲だからなぁ。『あなた』で始まって『Play A Love Song』で終わり、アンコールが『あたいの彼氏』なんですもの…じゃねーよ『俺の彼女』だよ(笑)。この2枚が好きな人には堪らない選曲だけど、20年の歴史はそれだけじゃないからね。

でも、この2枚がメインと言い切るには画竜点睛を欠くのが、あの『桜流し』を歌わなかった点だ。我々が復帰を6年半も待てたのは丁度中間地点でこの曲が発表された事が物凄く大きかった訳で、この曲を外して『Fantome』からの楽曲をフィーチャーしましたと言われても筋が通るとは思えない。『道』と共に同作の看板曲だろ。

なぜ歌わなかったのか…理由は単純で、セットリストを決めたなりくんがエヴァにご執心ではなかったからだ。いや彼のアニメ鑑賞履歴なんて知らないけれど、エヴァファンで選曲任された人間が『桜流し』と『Beautiful World』を外しますかね? 無いと思います。


そこが物語の続きなのだ、多分。以前も指摘した通り、自分は次のツアーで『Beautiful World』と桜流し』とあと「シン・エヴァ」の新曲を一挙に歌うのではないかと思っている。コーナーを作って3曲いっぺんに、かどうかは定かではないが、流れとしてはそれが極々自然なのではなかろうか。

しかし更にコンサートでアニメの映像をバックに…というところまで行くかどうかはちと検討が要る。確かに、オフィシャルでエヴァの映像をフィーチャーした『Beautiful World』のミュージック・ビデオが存在している以上可能性としては無くは無いのだけれど、ちとヒカルのコンサートには合わないかな…。いやでも『UTADA UNITED 2006』の『Letters』を思い出すと「なんでもありなんじゃなかろうか」とついついハードルを低く設定してしまうのですよ…まぁそれはさておいて。


「歌はいいね」と渚カヲルが言う通り、エヴァという映画はとても歌を重視する。登場人物が歌ったり背景に歌が流れていたりといった「アニメの中の世界」でもそうだし、劇伴音楽という「アニメの外の世界に在るものだけれどアニメーション映画という作品には必要不可欠な」音楽/歌も非常に充実している。その中で“主題歌”という存在は、アニメーション映画という作品の中で最も我々に近いレイヤーに在る音楽/歌である。エンディングで流れる事で「アニメの中の世界」から我々が本来住んでいる「現実の世界」に戻る為の橋渡しのような役割を担う。

なので、エンディング・テーマ曲を現実の最たるものであるライブ・コンサートという空間で歌う時に「アニメの中の世界」をアピールしたとしても、思い入れや思い出に訴え掛ける事はあってもショウ自体のクォリティに繋がるかは怪しい。

…それが基本的な考え方なのだが、アニメーションに対する、いや、“映画”という手法に対する庵野監督の批評性というものは、例えば特撮短編映画「巨神兵東京に現る」などに顕著である(監督は樋口さんですが)のだけれど、その批評性を携えて“主題歌”という存在に対して何らかのアプローチがあるとすればそれはどういうものが考えられるのか…という話からまた次回、かな。ちとこんぐらがってるね。(笑)

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