無意識日記
宇多田光 word:i_
 



いつも音楽ネタを呟いてくれてるフォロイーさんが音楽ネタを減らしてまで政治の話を繰り返しているのを見るとガッカリする。いや、政治の話はどんどんして貰って構わないのだ。それで普段呟いてるネタが読めなくなるのがつまらない。興味がそっちに移ってしまったんかなと気になってしまう。

歳取れば取るほど音楽ファンて減るんだよねぇ。そりゃ子育てや仕事が忙しくなるから必然なのだが、政治に関心が移るとかになると「時間があっても音楽には戻ってこないんだなぁ」となる。

なんか日本て「音楽は若い人の趣味」みたいなところないかしらん。流行歌がラブソングばかりなのは万国共通だけれども、「社会への関心」を歌詞にすると政治的だと騒がれたりするからラブソングか応援歌しか歌えなくなったのかなぁ。…あら、たった今あたしもそれを押し進めてしまったのかな。難しいや。


ヒカルさんの歌詞は、その点、うまくシフトし始めているように思う。『あなた』は画期的だった。息子への愛を衒い無く歌う。お母さん。前作『Fantome』で母を喪った事を歌い、最近作『初恋』では母になった事を歌った。タイトルの初恋には思春期で初めての恋愛体験と共に「生まれてきて初めて与えられた愛情」を以て「初恋」とも名付ける大胆なパラダイム・シフトにチャレンジしてみせた。「親子の恋」と書くと今はまだ「禁断の愛」みたいになってしまうが、ヒカルは少し違ったアプローチで恋と愛に取り組み始めている。

それはつまり、年齢を重ねると共に「娘であること」「女であること」「母であること」といったレイヤーを重ねながらそれでも王道のラブソングを流行歌の枠組の中で創造しつつあるようにみえるのだ。こっちの勝手な願望を織り込んだ解釈に過ぎないが。このまま行けばヒカルは、40代になっても50代になっても60代になっても70代になっても80代になってもその世代として無理のないラブソングを歌い続けられるのではないだろうか。その結果として到達した地点は、今迄人類が誰も辿り着けなかったような境地に違いない。それは一体どんな場所なのだろうか。誰も見たことのない景色。私の知らない私。その場所には名前なんかないに違いなく、なるほどならば90代になったら未踏の地に足を踏み入れて「ここどこ?」って言ってるに違いないわな。今生きてる我々ファンの何割がそこまで一緒に行けるかはわからないけど、誰か今の読者の1人だけでもヒカルが「90代はここどこ?」と呟いてるのを目撃して歴史の証人になってくれやしないかと夢想するのでした。まる。

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例えば今日の【今日は何の日宇多田ヒカル】なんかは11年前、ヒカルが鰻重を食べたらぽんぽん痛い痛いになったエピソードだが、今これを呟いたら叩く人が出て来る、かもしれない。11年前はウナギが絶滅危惧種云々はまだ余り話題に上ってなかったし従ってそんな意識も機運もなかった。今現在はどうやら過渡期で、美味しくウナギをうただく人も居ればもう絶滅危惧種に指定されたのだから消費は控えようという声も大きくなってきている。ウナギを食べたいと思うのも種の保存を願うのもヒトの都合なので好きに議論すればいいと思うがそれに勝手に巻き込まれるのは煩わしい。人付き合いなんて煩わしくてなんぼだけども。

斯様に時代はかなりドラスティックに移り変わっている。ヒカルが注意深く歌詞に暖かいコンピュータスクリーンやPHSやBlackberryやMP3なんかを盛り込んで時代性を反映させているのも今からして思えば大衆音楽の時代依存性を先回りして担保していたようにすら感じる。自覚の有無ははさておいてだが。

昔の言葉を今の文脈に持ってくるのはコラージュだ。画像の加工と同じであって虚偽生成真実改竄である。しかしその意識や意図が浸透しているとは言い難い。昔の歌詞やメッセージを悪意をもって掘り返してくる機会に遭遇する確率はかなり低いけれども頭の片隅には置いておいてもいいかもしれない。時代の流れを換算すれば、ヒカルの鰻重メッセを【今日は何の日宇多田ヒカル】で取り上げるのも今回が最後になるかな。それは少し悲しいけれど、ヒカルが今と未来に活動を継続するからこその考え方であるともいえ、それならそっちの方が贅沢じゃないかと考え直せもする。いずれにせよ、動く新時代は歌もきっと変わってゆくのよ。今聴ける歌は今のうちに味わっておきまっしょい。

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