goo blog サービス終了のお知らせ 
無意識日記
宇多田光 word:i_
 



歌詞可視化サイトの立ち上げは様々な可能性を秘めている。「歌を見せる」方法論の試行の一つ。これがベストなのか、ベターであるかすら定かではないが、こういう方向への模索は大いに歓迎したい。

例えば歌詞可視化をミュージック・アプリと結びつけるのはどうだろう。今だとサイトにアクセスしないと人々のフィードバックが見れないが、ミュージック・アプリでヒカルの曲を再生すると自動的に歌詞可視化サイトが表示されるようにするのだ。ツイートは特定の歌詞のパートと結び付いているから、その歌詞が再生されているタイミングでツイートが(例えばフキダシのように)表示される、なんてのはどうだろう。ニコニコ動画(及びニコニコ生放送)に10年親しんでわかったが、人間、流れる字幕を読む能力は上がるものだ。慣れたら結構頭に入ってくる。なんとか実現出来ないものかねぇ。というか、歌詞可視化まで来ている以上当然この発想はあっただろうから、恐らく技術的な問題や権利上の問題で座礁したのではないだろうか。何とも勿体無い話である。

ミュージックアプリがTwitterとも連動すれば、歌詞に関しての感想をワンタップでいいねする事も出来るだろう。わざわざツイートを歌詞可視化サイトまで見に行く人は少なくても、ヒカルの歌をスマートフォンで聴く人は多い。今より格段にツイートにいいねが集まり、投稿者のモチベーションは上がるだろう。当然投稿自体も増える。

更に、ミュージックアプリだけでなくYouTubeとも連携出来るようにならないか。YouTube本体の字幕機能もどんどん上がっているが、歌詞と共に歌詞へのツイートまでスーパーインポーズできればかなりスリリングになりそうだ。配信音源を購入してスマートフォンで聴く人間の何十倍もYouTubeでヒカルの曲を聴く人は居るだろう。歌詞可視化アプリがYouTubeとTwitter両方と連携すればかなりバズるぞ。

技術的な困難や権利上の難儀は素人には想像し難いので更に好き勝手言おうか。ミュージックアプリが歌詞を表示させるのは当然として、様々な拡張機能が期待出来ないか。例えば、歌詞を総てひらがなで、或いは総てカタカナで表示させる。ローマ字もいいな。そして例えばア段の字だけハイライトしたりア行の字だけハイライトしたりする。ヒカルの歌詞の音韻構造が一瞬にして明らかになる。こことここは韻を踏んでいるのか、と初めて気づく。一字だけでなく2文字以上でも共通の構造が浮かび上がるようにしたい。子音の並びが同じ箇所や母音の並びが同じ箇所も指し示せるようになればしめたものだ。ニーズはニッチだが物珍しさもまた大事だろう。

ついでに、と言っては何だが辞書・翻訳機能とも連携をお願いしたい。単語をつつけばたちどころに語句の解説が表示される。『Addicted To You』ってどういう意味だろ?と思った新しいファンがすぐに日本語訳にアクセスできる。『EXODUS』や『This Is The One』なら対訳をそのまま埋め込んでも構わない。嗚呼そんなアプリ出来たら私スマートフォン買ってしまいそうだよ。


まぁ素人の妄想なので実現可能性については勘弁うただきたい。無料にするか有料にするかといった現実的な問題も考えてないし。しかし、スマホユーザーの暇潰し体験の中に歌が歌手が音楽が組み入れられる為には、何か一工夫が必要なのは意見が一致する所ではないか。なんとかしてイヤホンを取り出して耳につけて貰わないと話にならない。その為にまずは「歌を見せる」ところから始めよう―基幹となる発想はなんら間違っちゃいない。ここからアルバム発売更にコンサートツアーへと歩を進める中で更なる革新を期待したい所だ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルは新作を作る度毎度判を捺したように「今回は自分をさらけ出した」「今までは遠慮して言わなかったような事も言ってる」とインタビューで答えている。嘘をついている訳ではないんだが、毎度字面通りに捉えていたのなら今頃宇多田ヒカルという人は丸裸にされている筈だが全くそんな事はなく。最近は発言自体が少ない事もあって寧ろ「何を考えているのかわからない」割合が増えているんじゃないかとすら思えてくる。

初期のファンには音楽がどうのという前にヒカルの人柄に惚れ込んで追い掛けているという人が少なくなかった。普通、優れたミュージシャンというのは庶民には取り付き難い気難しい性格だったりというケースが多く、スーパーウルトラエキセントリックグレイテストミュージシャンである宇多田ヒカルはどんなに難しい人なんだろうと思いきや気さくで優しい人だったという事実は多くの人々の心を捉えた。いやもうミュージシャンかどうかすら関係なかった。「この人は魅力的だ」と思わせた。その大元の原因が毎日のように更新されていた『Message from Hikki』であった事は言うまでもない。

復帰後もヒカルは着実にファンを増やしているが、果たしてその人間性は伝わっているのだろうか? キンタマがキレイだとか屁が臭いとか言われて「この人は魅力的だ、追っ掛けよう!」となっているのだろうか? わからん。でも、何となくだが、若いファンの皆さんも「Hikkiファン特有のノリ」みたいなものを持っているようにもみえて不思議だ。何というか、ちゃんと伝わっているものなのだな。

これが、曲を聴いて通じているというのなら、今やヒカルは『Message from Hikki』に頼らずとも自分自身のノリを伝える事に成功している訳で、なら確かに、冒頭で触れた通り「より自分をさらけ出していく」方法論が着実に実を結んでいるのだとも言える。『Message from Hikki』に慣れ親しんできた世代からすれば「今更かよ」となってしまうのは仕方がないが、何を書いても炎上案件にばかりなる今の風潮を考えると、これでよかったというか、こうするしかなかったのかな、とも思えてくる。

『あなた』を聴けば歌詞の面での新境地、"母親目線"を体感できるが、これは別に今まで隠していた自分の内面をさらけ出したとかではなく、シンプルに「新しい自分」の表現である。母親になった私はこんな風に思うようになった、それを素直に歌にした。であるならばヒカルはもうそんなに力んで自分の殻を破ろうとしなくていいのかも、しれない。ここから作風が安定していく時期に入るのだろうか。それはわからないけど新しいフェイズに入りつつあるのは間違いなさそうだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最初の最初はシンプルで構わないのだ。「なんだかよくわからないけどライブがやりたい!」と叫べばいい。やりたくなった理由がどうのとか具体的にどんなライブをやりたいとか細かい事はどうでもいい。ヒカルがライブをやりたいと言えば総てが始まる。

そもそも、宇多田ヒカルがライブをやりたいと言い出して反対する人はこの世に1人も居ないのではないか。誰もが「そうかそれは楽しみだ」となるだろう。全く興味の無い人も「ふーん、やりたきゃやりゃいいんでないの」と言ってくれる。文句があるとすればプロモーション戦略上のタイミングがどうのとか、ヒカルのキャリアを真剣に考えている人たち、つまりSONYに移籍したチーム宇多田の面々だ。勿論、彼らこそが「いちばんヒカルのライブを観たい」人たちなのは言うまでもない。ヒカルがライブをやりたいと言って真っ先に相談されそれを少なくとも内心では大喜びできる人たち。ライブに反対するとしても、誰よりもヒカルの事を考えている彼ら位のものなのだ。照實さん? ファン歴世界最長の人ですよ言うまでもないがな。

でまぁ。最初は衝動的に始めたとしても具体的に話を詰めていくうちにライブの概要が固まってくる。今やヒカルは座長だから大きな決断は自ら下す立場だ。その選択と決定によってライブ、コンサートツアーが「ヒカルの情熱を表現した作品」として我々の前に顕現していく。そのプロセスを経てヒカルも自らの情熱の詳細を知るのだ。

したがって、「なぜヒカルはライブをやりたがったか?」の答を知るのはツアーが終わった後かもしれない。そこで振り返って初めて、何があったのか理解ができる。そして「やってよかったかどうか」の価値判断はしばしば最初の情熱と関係ない視点で為されるのだ。

「あたしはただステージに出て思いっ切り歌いたかっただけなんだけど、思ってた以上にみんなが喜んでくれてよかった」とか「気がついたら身体が鍛えられててツアー前より健康になっててよかった」とか「地方の経済の活性化に一役買えたみたいでよかった」とか、事前には想定していなかった「よかった」が次から次へと出てくる。それは、最初の情熱や欲望が報われるという本筋から離れた「望外の成果」である。いつのまにか倒産寸前の中小企業を救っているかもしれないし、離婚寸前だった夫婦が仲直りしているかもしれない。寧ろ、「自分が事前にやりたいと思ってた事は全然できなかったけど、やりくりしてるうちに喜んでくれる人たちが増えてった。これはこれでよかったのかな」と思えるようになっているかもしれない。事前にはわからんのだそんな事。自分の最初の情熱を信じてあげる所から総ては始まるのだし、求めていたものが得られなくて求めてなかったものが得られても「これでよかったのかも」と思えたら正解である。特にヒカルが人前に出ればそれだけで世界の
笑顔の総量がちょっぴり増えるのだから、何も躊躇う必要はない。人前に出る仕事をしたいとなったら遠慮は要らない。きっと何かの実を結ぶ筈だから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




こういう風に突き詰めていくと、会場選びも音造りも人選も選曲も何もかも、「ヒカルがどういうライブをやりたいか」という話に行き着くし、それはつまり「ヒカルはなにゆえライブをやりたいのか」を問い続ける作業ともいえる。そこから総てが始まるのだ。

スタジオで宿題をしスタジオで昼寝をする生活からしてヒカルは根っからの「工房で職人」タイプで、間違っても(?)人前に出たいタイプではない。そこらへんからして母親譲りで、目立ちたい訳ではないのに美貌と美声で否が応でも人々を惹き付けてしまう。そして、毎度お馴染み『家業を継いだ』発言からわかる通り、運命を受け入れながら生きてきている。2人とも「小さい頃の夢を叶えた」というよりは「目の前の現実に対処し続けていたらこんな事になってしまった」感。

そしてヒカルは「どんなに裏で喧嘩してても泣いていてもひとたびステージに上がれば完璧に歌う」母の背中をみてプロの何たるかを幼少の頃から叩き込んで育んだ。自分の状態がどうであれ、引き受けた仕事は遂行する能力もまた、母を受け継いだものだろう。

しかし、仕事を引き受ける事と自ら仕事を作り出す事とは違う。ライブの細かいコンセプトを決めるには「ヒカルがどうしたいか、何がしたいか」にいちいち戻らなければならない。そしてそれを逐一周囲に伝えなくてはならない。高いモチベーションが必要になる。

そのモチベーションが如何に高かったかの証明こそがコンサートそのものなのだと言い切ってしまいたい所だが現実はもうちょい複雑だ。次回へ続く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




デビューから18年も経てば大抵はファンの間で「ライブでの定番曲」という共通認識が出来上がっていて、ライブに詣でるというのはベテランにとっては確認作業、御新規さんにとっては「ファンの間の共通認識の初体験」になる…筈なのだが、ヒカルのファンは長くやっていてもそういうのが物凄く少ない。「『Automatic』ではサビで拳を4回突き上げるんやで〜」とかそういうの? ないよねぇ。DVDを観てても、ヒカルの想定する最大多数は「はじめまして」のお客さんだ。

そりゃまぁそうなのだ。ツアーになれば緩和されはしたけれど、デビュー直後の宇多田ヒカルのライブといえばプラチナチケット。抽選で当たって行くものだったから、そもそも常連になろうと言っても無理だった。その中でも何十回と行ってる人も居るのだが、ぶっちゃけ同じツアーを何回行っても選曲はほぼ同じなので今話している話題には余り関係なかったりもする。兎に角、ヒカルのライブのお客さんは「はじめまして」の人がメインだから、今後初めてヒカルのライブに行く読者さんは緊張する必要がありません。あなたの方が多数派です。

その分、「内輪ノリ」というのは極端に少ない。『ぼくはくま』くらいじゃないかちゃんと歌詞を覚えていった方がいいとかは。それでもプロンプト出ちゃうし。

で前回触れた通り選曲も、今までのツアーやライブ云々よりまず「たくさんメディアに出てた曲」を気にかけられる。はじめましてさんを相手にするから当然だ。テレビやラジオやYouTubeから流れてきた"あの名曲たち"を聴く場なのだそこは。遠慮なく盛り上がってください。


さてそんな中で、復帰後の楽曲の扱いがどうなるか、である。『桜流し』以降の楽曲と言った方がいいかな、この曲抜きに『Fantome』は語れないので。更にそこに加えて『大空で抱きしめて』『Forevermore』『あなた』を含む次のアルバムの楽曲たちが加わる訳だ。アルバム2枚分。結構分厚い。

『花束を君に』を外す訳にはいかないだろう。大型タイアップがついたとはいえ、宇多田ヒカルが今でも国民的に親しまれるヒット曲を出す事が出来るのだと証明したのだから。寧ろこれを歌わないなら『WILD LIFE』の再現に過ぎなくなる。…あそれでも十二分に嬉しいな。別にそれでもいいや(笑)。

そう言い切れる楽曲があるのは幸せな事だ。同時期にデビューした人たちは、今まで何枚ベストアルバムを出しているのだろう。ヒカルが次に出すとしても『Single Collection Vol.3』なのだから…と言い切るのはちょっと難しいんだよねという話は脱線になるのでまたいつか。

話を戻すと、ヒカルが次に出すとしても桜流し以降の曲に絞ったコンピレーションにしても全然大丈夫な位に、知名度のある楽曲を連発しているという事だ。事実、今、こうやって書きながら「また次に出す曲がヒットしたら情勢が変化して今書いてる話最初から書き直しになるなぁ」と思いながら書いているのだ。何というか、デビュー19年目(18周年イヤー中)で何とも贅沢…ってこのフレーズ今年何回使ったんだろ。

兎に角、少なくとも『花束を君に』と『真夏の通り雨』は一部の日本人にとってコンサートで「毎日テレビから流れていたあの曲が遂に生で!」と期待される楽曲になっているんじゃないかという話。この曲への反応如何で、「初めまして」さんの中でも更に「復帰後ファンなった人たち」がどれ位の割合居るかがわかる。長年のファンは、幾ら最近の曲も気に入っているとは言っても、積年の思い入れの深さが違う。特に、抽選に外れ続けた人(涙)にとっては感慨深い事この上ないので歓声が違いすぎても勘弁して下さいw

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




そして「音の良さ」以上にライブの成否を決める重要な要素がある。「曲の知名度」だ。

有名な曲を披露する。ライブの盛り上がりはほぼこれにかかっている。これに較べれば音が悪かろうが歌が下手だろうが演奏や照明がグダグダだろうがものの数ではない。口パクだって構わない。「皆さんお馴染みの名曲を披露」こそがライブの要諦であってこれより大事な事といえば本人が舞台の上に出てくる事くらいなものだ。

その点宇多田ヒカルは鬼のように強い。どれだけ調子が悪くても『First Love』さえ歌い切れれば聴衆は大体納得して帰る。もし歌わないのなら、幾ら音がよくてパフォーマンスが最高でも観客は不服を申し立てるだろう。

…と言ってたのは、今は昔、なのだろうか? 今までそこまで影響のなかった「聴衆の世代交代」について考えなければならない時が来ているのかもしれない。

我々の若い頃と違って「過去の名曲」はすぐにYouTubeで聴ける。思っているほどギャップは無いのかもしれない。それ以上に影響力が強いのは地上波テレビで、事ある毎に流れてくるのが『First Love』である事を考えると、リアルタイムであの頃を知らない世代も反応は似たようなものになっているかもしれない。

問題は他の曲か。『Can You Keep A Secret?』は年間1位曲だが、普段触れる機会は余り無い。ドラマ「HERO」との紐付きが弱いからか。もしかしたら「新劇場版ヱヴァンゲリヲン」が取り上げられる度に流れる『Beautiful World』の方がお馴染みかもしれない。

実際、本来は逆の話なのだ。ツアーの度に演奏される事によって楽曲はファンにとってお馴染みとなっていく。しかしヒカルの場合平均ツアー周期が長い為その理屈が使えない。『In The Flesh 2010』に行ってるかどうかで大分印象が違うのだがそれは言っても仕方ない。

自力というより、メディアの力を借りて醸成された「お馴染みラインナップ」が現実のライブでどう出るか。それとともに『桜流し』以降の曲についても考慮に入れねばなるまい。次はそこら辺の話から。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




フェスティバルで沢山のバンドを一度に同じ会場で観て痛感するのは、サウンド・クォリティーはやはりどれだけチームとして拘るかでかなり違ってくるという事だ。同じ舞台に立ってても「音の良さ」はバンドによって驚くほど異なる。

ライブコンサート会場で「音の良さ」は文字通り生命線だ。幾ら素晴らしい歌唱、素晴らしい演奏を披露しても音が良くなかったら全く伝わらない。兎に角オーディエンスの耳に出来るだけクリアーな音で届ける事。コンサートはそれが総てだと言ってもいい。

歌の上手さ、演奏の上手さといった「技術の評価」は難しい。コンサート会場にライブを観に来るような熱心なお客さんでも「私、ギターが上手いとか下手とかよくわからないから」と言う人は多い。寧ろ最大多数派だろう。だから、バカテクの演奏者を揃えたからといってウケるとは限らない。しかし、サウンドがキレイかどうかは皆ちゃんと自分の感想を持つのだ。「うわぁ、キレイな音だね。」「なんだこれ、音が悪いなぁ」というのはコンサート会場に来たほぼ全員が言う事だ。

何が言いたいのかといえば、もしヒカルがライブコンサートを開くなら、ツアーに繰り出すなら真っ先に決めるべきは実はバンドメンバーじゃない、サウンドメイクのエンジニアさんなんじゃないかという話。もっと踏み込んで言えば、ヒカル以外で最高のギャランティを支払うべきなのはサウンド・エンジニアさん、或いは自分で機器を操れる音響監督さんだろうと。

現実には各ミュージシャンの皆さんは自分のサウンドの作り方に一家言を持っているものだから、彼らとよく摺り合わせながら会場の音を作れる人材、という事でまずはバンドメンバーを先に決めてからの人選にはなるだろうが、妄欲を言うならまずエンジニアさんを決めて「この人とだったらいい音が作れる」という人を選んでいく、なんてアクロバティックな人選をするのもいいんじゃないの、と思ってしまう。

ヒカルの体調管理、喉の調子は最優先事項だ。バンドのアンサンブルも鍛え上げなくてはいけない。しかし、それを成し遂げても聴衆一人々々に届かなければ意味がない。ヒカルの抜群の歌唱は、それを余す所なく伝える洗練されたサウンドプロダクションが伴って初めて意味があるのだ。


山下達郎などは、サウンドのクォリティーを保つ為に頑なにアリーナよりも大きな会場でライブをしない(野外は別だそうだが)。その為、毎回ホール公演を何十も打つハメになっている。それでも彼の人気からすればチケットの枚数が全く足りず毎回プラチナチケットなんだそうな。しかし、本来、「音の良さ」の為にはそれ位して当然なのである。


ここからが、ヒカルの「ツアーに対するアティテュード」が問われる場面になってくる。「音の良さ」の為には会場は小さければ小さいほどよい。最後はアンプもマイクも取り去って生演奏と生歌だけになれば音の劣化はゼロになる。電気を使って音量を増幅させるから歪むのだ。そして、音量を上げれば上げるほど歪みは大きくなっていく。大きな会場であればある程、「良い音」を出すのは難しくなっていく。

現実として、どこに落としどころがあるか、だ。ヒカルが「来たい人は全部来れるように」とドーム公演とかアリーナ3daysとか大きな会場でやればプラチナチケット化は避けられるだろうが、サウンドクォリティーを保つのは難しくなってくる。かといって山下達郎のようにホール公演に絞ったりすれば、いつまで経ってもツアーが終わらないだろう、皆にチケットが行き渡る為には仕方がない。その間のどこらへんかでバランスをとる。ここでそのバランスを決めるのは結局ヒカルのツアーに対するスタンスなのだ。そのスタンスを明確にする事でツアー規模もエンジニアリングもバンドの人選も何もかも決まっていく。だからまずはそれをハッキリさせなければならないだろう。

そして、それを伝えるのがツアータイトル、という事になる。『In The Flesh 2010』とか『Wild Life』とか妙に肉々しいタイトルが続いているが、ヒカルにとってはそれだけライブは「ナマモノ』なんだろうな。さてどんなタイトルでいつ発表になるのやら。ヒカルのスタンスとアティテュードを一発で伝える秀逸なのお願いしますよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルがライブをやりたがっているのはいいとして、さてそれをどんなものにしたいのか、というプランはあるのだろうか。それを探るには「そもそも何故ライブをやりたいのか」を掘り下げる必要があるだろう。

野暮は承知なのだが、それによって我々の体験は変化する。否、それを知る事によって我々のライブ体験は変化する。恐らく、大体いい方に。知っておいて損はない。

と言っても、実は答は「WILD LIFE」の再現、でファイナル・アンサーだ。あれの完成度は凄かった。本当に初顔合わせだったのだろうか? ウタユナん時はバンドがまとまるまで2ヶ月もかかったように。

で次はツアーになるから、「WILD LIFE」のクォリティーで全国を廻れるか?が次の課題になる。移動による体調管理の難しさ、会場の差による演出や音響の調整など、大所帯であればあるほど難しくなっていく。ただ「あのクォリティーを再現すればいい」と言っても課題は山積みなのだ。

何よりスタミナである。ヒカルの喉は保つのか? ボヘサマは一回休んだし、ウタユナはギリギリで乗り切った。インフレはかなり安定していたようだが、NY公演などはやや不調だったようだ。一応ツアーの経験は3回あるのでやり方を心得ているのは間違いないのだけれどブランクがどちらに作用するか。現場勧が衰えているか、さもなくば休止期間が喉の長期休養となってスタミナ全開で帰ってくるか。いずれにせよ楽しみにしてます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ロック・ファンとして「ロックの理想的なサウンドってどんなだろう?」と考える度に「ダイナミックなドラミングにドラマティックなベースライン、グルーヴィなギターリフに泣きのギターソロ、そこにハイトーンでエモーショナルなヴォーカルが…」という組み立てになって、「…それってレッド・ツェッペリンだよね…。」と気がついて妄想が終わる。毎度そうなる。彼らは原初にして至高なのだった。

世の中の総てのハード・ロック・バンドはレッド・ツェッペリンの出来損ないである。形だけは真似できたが仲が悪くバンドサウンドにならなかったディープ・パープル、ヴォーカルが変なのでギターリフに特化したブラック・サバス、パワーのなさを技術と知性で補ったラッシュ、綺麗なギターソロも美しいヴォーカルラインもないけれどエネルギーの表出手法だけは受け継いだAC/DC、ギターもヴォーカルも後一歩でベースだけは突出していたアイアン・メイデンなどなど…あらゆる伝説的なバンドたちは「レッドツェッペリンになろうとしてもなれなかったバンド」に過ぎない。AC/DCの代表作「バック・イン・ブラック」の米国での売上はレッドツェッペリンの総てのカタログより上である。それでもAC/DCはレッドツェッペリンの出来損ないに過ぎないと言っても、まずメンバーが同意するだろう。

「ハードロック」の定義は最早「レッドツェッペリンの出来損ない」で済む。即ちこの定義に従えば、レッドツェッペリンはハードロックバンドではない。渋谷陽一もこれで納得してくれるかもしれない。原初にして至高。この半世紀のロックの歴史はレッドツェッペリンの10年の残響と余韻に過ぎないのである。


このバンドの話を始めたらキリがないのでこの辺で打ち切るけれども、至高の存在が居たせいでハードロックバンドというのは常にどこか卑屈だという事は付け加えておこう。特に同郷の英国のバンドたちはひねくれたヤツらばっかりだ。トップが素直なスコーピオンズだったお陰で衒いのない正統派が育ちやすかったドイツとは対照的である。

しかし面白い事に、例えば私などは熱心なレッドツェッペリンファンだった事は一度もない。先程触れたAC/DCのように、レッドツェッペリンより売れるロックバンドは幾つもあった。大衆に愛されるかどうかと、それが至高の存在であるかどうかは必ずしも一致しない。同業者たちからの評価が芳しくなくても売れる事・愛される事はある。ズレが生じるだけである。


宇多田ヒカルの場合は、そのズレがない。至高にして売上最高という結果を出して早18年。人々の認識も同業者たちの認識も「あの人は別格」で一致している。それは皆さんもよくよくご存知だろう。

果たしてそれは幸せな事なのか。幸せな事だったのか。特に、ヒカルにとっては。もう今やこんな話は昔話で、ヒカルはキャリアに焦る事もなく、じっくり制作に取り組んでいる。でも、なんだろう、ふと書きたくなったので書いてみた。乖離と一致。ミュージシャンたちの、世間の無理解と不理解に対する憤懣や不満、そして理解を得られた時の至上の喜びなど…。今のヒカルは、わかってもらえなくて苦悩したり、もっと売れたいと切望するような事はないのだろうか。あるのだろうか。知らないけれど、言わないようになっただけというのは大いにあり得る。今のインターネットは"黙る為のツール"になってしまったのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「音楽は国境を越える」とよく言うが、これはある意味では真実でありある意味では絵空事だ。確かにある曲がこちらの国でもあちらの国でもウケる、なんて事はあるかもしれないが、例えば今あなたに好きな曲があったとして、今住んでいる家の向こう3軒両隣に住む人たちに同じ意見の人を見つけるのはかなり難しい。同じ国どころか同じ街に住んでいてもこうなのだ。単純に、国境という仕掛けは音楽的趣味嗜好と関係がない、とだけ言えばいい。そもそも越える越えないの前にそんな概念が無いのである。

しかし、歌詞のある「歌」となれば違う。国境という概念はしばしばそこで使われる言語の種類と相関する。歌は、擬似的に、かもわからないが、時に国境を越える"必要"が、出てくるかもしれない。

しかし歌に国境を越えさせるのは大変だ。他に言語を使うコンテンツ、小説やマンガ、テレビドラマや映画、ゲームといった類では"翻訳字幕・吹き替え"という技術がある。簡単ではないが、最終的には手間の問題だ。しかし、歌は言葉がメロディーと結びついているから、"字幕"をどこにどう置けばいいかわからない。これが大体致命的なのだ。

リリック・ビデオに、本来の歌詞に加えて訳詞も表示させるとか、なくはない。しかし翻訳を読みながら歌を聴くって結構難しい。遠巻きに訳詞をちら見してから歌を聴いて「へぇ、こんな内容を歌ってるんだ」と呟くのが関の山だ。


UtaDAには『光』と『Simple And Clean』、『Passion』と『Sanctuary』という同じ楽曲に異なる2つの言語(日本語と英語)を載せたバージョンの存在する例がある訳だが当然のように(?)単なる翻訳が歌詞になっているのではないし、『Sanctuary』の方などは『Passion』とは通低するテーマは同じかもしれないが表面的には"まるで別物"と言って差し支えない内容となっている。単純な翻訳作業で済む話ではないのだ。

一昔前までは、曲といえば音だけで売る、ついても歌詞カードくらい、という感じだったが、今なら新曲をアプリで出して、13ヶ国語でも23ヶ国語でも好きなだけ翻訳字幕を表示させ得る方法がある。そういうのを使うのも国際展開上はひとつの方法だ。今や配信で数十ヶ国のチャートに入るUtada Hikaruなだけに、新しい試みにチャレンジするチャンスはある。色々と考えてみて貰いたいものだな。と言っても、まともな翻訳を提供するのは並大抵の事ではないのですけれどね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日本でのヒカルは、リスナーに興味を持って貰う必要が無い。いや、興味を持って貰う為に何かをする必要がない、か。例えばフェスティバルに出演するとして、「今から宇多田ヒカルが歌います」とだけ言えば皆集まる。聴きに来てくれる。

フェスで無名なバンドは「まずは聴いて貰わないと話にならない」と頑張る。普通、「何?知らないバンドだな?」となったら聴衆はトイレタイムやビールタイムに向かう。最初っからその場を離れてしまう。それを繋ぎとめるのは並大抵ではない。

ヒカルは「こんばんは〜宇多田ヒカルです」と言うだけで済む。知名度って怖い。ホント怖い。

そんなヒカルが、いやUtaDAが「興味ないんだけど」というオーディエンスを前にギグをやったのがNYショウケースだ。もうそんな事態は一生無いかもしれない。貴重な経験だったろう。不思議な事に、そこでHikaruは「ライブのコツ」を掴む。人々の目線から外れた時間と空間にパフォーマンスの極意を見いだしたのだ。(ちょっと大袈裟)

更にそれが曲作りに影響を及ぼしたか否か。あるとすればそれはどんなものか。

まず、今のヒカルは久しくライブをしておらず、聴衆によるフィードバックのない状態で曲を作り続けている。元々曲作りとライブ活動が全く連動しないタイプで、ライブでの歌い易さとかオーディエンスとのコミュニケーションとかいった要素を考慮に入れる事なく一貫して"スタジオワークを極める"態度で曲を作ってきた。『Parody』がヒカルの楽曲の中でも異色なのは、ツアーのグルーヴが封じ込められているからだ。


『Fantome』は今までになく人力の演奏が幅を利かせたアルバムだし、『Forevermore』は今までの中でも最高にグルーヴが漲っている。これは、やや逆説的にみえる。全くライブ活動をしていない時期の人間が、今まででいちばんライブ向けの楽曲を書いているのだから。

これを単純に"渇望"が原因だとみるのは容易い。しかし、今のヒカルはいつも以上にライブをやりたがっているかというと疑問が残る。なぜなら、あクマでも私の目から見て、だが、今のヒカルがいつもより"ファンとのコミュニケーション"を欲しがっているようには思えないからだ。

ただ、この点に関して昨年ヒカルは興味深い事を呟いている(ツイートではなく、文字通りな)。「曲作りの過程でリスナーのフィードバックから影響を受けたのは初めてではないか」と。要は『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲に対するリスナーのリアクションが、当時目下絶賛制作中だった『Fantome』収録の他の楽曲たちに影響を与えた、と。

これまた考慮に入れねばならない事実である。或いは、私の観察が間違っているのか。もしかしたら今まででいちばんファンとのコミュニケーションを渇望している時期だったりするのかな。わからない。

まだまだ話を整理する必要がありそうだ。楽曲制作における作曲家同士のコミュニケーション、ライブパフォーマンスにおける共演者達とのコミュニケーション、ライブ会場でのファンとのコミュニケーション。「やりとり」にも様々なレベルがある。今のヒカルの心境を探る旅はまだまだ続く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




スティーブ・ハリスが言うように、70年代のプログレッシブ・ロックの楽曲は鳴らした瞬間「部屋の空気が変わる」感覚がある。近年のプログレにも高水準のものは幾つかあるが、あの独特の感覚を出すタイプは少ない。案外Paradise LostやOpeth、Anathemaのようなデスメタル由来のバンドの方がそういう特色を受け継いである。

これは何なのかと考えた時に、ライブの機会や客層の違いなのかなと思い至った。今のバンドは基本的に熱心なファンをメインの聴衆に想定しているが、70年代当時はパブ・ロックというか、不特定な客層を相手に演奏する機会が多かったのではないか。そういう客を相手にするには、まず聴き始めて貰わないとどうしようもないので、「出音一発で酒飲んでる客を振り向かせる」ような能力が求められた。それが冒頭の「空気が変わる」術の発展に繋がったのではないかと。「お、なんだなんだ」と酒の肴に伸ばす手を止めさせる為に、特に静の表現力で勝負したのがプログレで、動で勝負したのがハードロックだったんではないかと。


2005年2月23日のNYショウケースギグでUtaDAは生まれて初めて、かどうかはわからないが少なくとも滅多にない「無関心の観客を相手にするにパフォーマンスする」貴重な機会を得た。普段は自分が出てきただけで注目されて、寧ろ固唾を飲んで自分が何を言うか聞き耳をそばだてられている始末。その落差は大きかっただろう。

そんな中での経験が、その後のライブ・パフォーマンスのみならず、楽曲制作に対しても影響を与えた可能性は考えられないだろうか。普段のライブも(という程本数を重ねていないが)曲作りには影響を与えているだろうが、特殊だったショウケースギグの与えた影響は、いつにも増して特殊だったのではないだろうか―続きはまた次回のお楽しみで。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




スクール・カーストなんていう耳障りな言葉が定着しているのも、それが普段使うに相応しい状況に遭遇するからだろう。クラスの中心的な存在はリア充と呼ばれ、最下層・窓際族にヲタクが居る。

まぁそれぞれに棲み分けてそれぞれに楽しくやっているならそんなに問題はなかろう。勿論現実にはそれだけでは済まないから"カースト"というインドの身分制度の名前を持ち出す訳で。

そっちは難しいので立ち入らない。さてミュージシャンをやっている皆さんは、学生の頃どこらへんのカーストに居たのか。数十年前は「モテたくてバンドを始めた」というのが定番になっていたから、バンドをやっていたらモテてたんだろう。つまり、ミュージシャンなんてやってる人達はリア充側の人間なのだろう、と。

ただ、シンセサイザーの登場以降、デスクトップミュージックが隆盛になって"音楽ヲタク"ともいうべき人種も出てきた。見るからにモテなそうなカースト最下層の…と思っていたら結局ミュージシャンになれてしまったらモテるんだよねぇ。


さて我らが宇多田ヒカルさんはどこらへんのポジションに?というのがこの流れでは当然の疑問になる訳だが、色々な話を総合すると、クラスの中でそんなに目立った存在でもなく、どのグループにも属さないタイプの生徒・学生だったという。テトリス好きも隠していたらしいから友達とヲタクトークで盛り上がるでもなく、クロカンやバスケ等運動部に所属しつつもキャプテンやリーダーになって皆を引っ張る、とかでもなかったらしい。まさに一匹狼、荒野の狼だったのだろうか。幼い頃の表情をみてると羊みたいに心根の優しい表情をしてるけどな。でも現実の羊って飼われて大人しくなってる、ってだけで別に優しい訳でもないような…。

という訳でヒカルはリア充でもヲタクでもない、リア充でもありヲタクでもあるポジションに居た、という感じで、ファン層もまさにそのまんま、というかどちらでもない人やどっちかの人も全部引き受けているような、あれだやっぱり国民的歌手だわな。


さて日本のミュージシャン。海外に目を向けてみるといちばん成功したのはヒカルによるカバーでお馴染み、全米で大ヒットした"Sukiyaki"になるだろうが、これは坂本九がどうのというより楽曲自体がワン・ヒット・ワンダーだっただけで、であい頭の衝突事故みたいなもんだろう。海外で最も成功した"ミュージシャン"となればやはりBABYMETALだわな。

BABYMETALこそは日本のヲタクのハイブリッドといえるだろう。いや本人たち3人はリア充かもしれないが、バックアップしているのは間違いなくアイドルヲタクとメタルヲタクなんだから。日本のヲタク文化の粋を集めたリーサル・ウェポンといえる。

ここが今の日本のいびつなところなのだ。日本のリア充系ミュージシャンは海外ではさっぱりである。これは当たり前で、スタイル的には"猿真似"レベルで欧米を不完全に追従しているに過ぎない。国内では「海外でも見劣りしない」のは大きな看板になるかもしれないが当地では「またこういうのか、飽きてるんだこっちは」というものに過ぎない。後から追い掛けて真似してるんだから常に時代遅れなのです。

ヲタクは違う。寧ろ音楽以外のジャンルの方がわかりやすいだろう。マンガやアニメには日本独自のオリジナリティがあり、海外が日本に憧れる、日本の真似をするレベル。日本でアニメが放送されると翌日には英語字幕、フランス語字幕、スペイン語字幕がスーパーインホーズされて出回るくらいだ。日本のミュージシャンが日本で新曲をリリースして翌日に訳詞のついた動画が出回っているか? 少なくとも私は知らない。

そう、日本ではリア充の文化はいつも時代遅れで、ヲタクの文化は最先端だ。世界的にみると三流リア充と一流のヲタクで構成されているのが日本の文化なのである(言い切った(笑))。しかし、スクール・カースト下では相変わらずリア充が幅を利かせてヲタクは日陰モノのまま。本来ならこんな話はラノベの中だけの筈なのだがことミュージシャンにスポットを当てるとある程度あてはまりそうで怖い。そんな中、ヒカルさんの海外進出は今後どうなっていくんでしょうという話は長くなるからまたいつか。KH3はいつになるのやら。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




シリアスとジョークのせめぎ合いは本質的な乖離を含んでいる。自己の芸風を批判的に捉えれた方が成長を促すからだ。米津が体育に凌がれるのも本質的な乖離に基づいたものに過ぎない。結局シリアスはいつも怒ってたり嘆いていたりする。

ヒカルはその本質的な乖離を壊した。ジョークを介在させずにクォリティーの頂点に立ったのだ。それは特殊な生態系の出現である。ミュージシャンたちやジャーナリストたちに愛されているのも、シリアスな取り組みが報われるモデルケースとなったからだ。カリカチュアライズし過ぎて自嘲の域にまで達する事態から救ってくれた。語る手書く手に熱を帯びるのも当然の事だった。

昨年の『Fantome』への、送り手側たちの異様なまでの肩入れにはそういう背景があった。邦楽市場に対するシリアスなアティテュードが報われる瞬間。ただでさえこの10年、CDの売上の数字が秋元康によってギャグの領域に追い込まれ更にそれを「ビジネスだから」「資本主義だもん」とシリアスの偽装まで見せられて忸怩たる思いで来ていたのだ。"シリアスの復権"の象徴として最強の存在が6年半ぶりにシーンに帰ってくるとなっては力が入らない筈もなかったのだ。そして『Fantome』は結果を出した。

ヒカルは母と向き合っているうちはシリアスにならざるを得ない。「運命は斯くも過酷か」と言わざるを得ないが『You are every song』と歌ってしまった以上、歌えばそれは母になってしまうのである。

しかしこどもが出来た事で事態は一変するかもしれない。何も出来ない存在との幸せの日々は、笑顔に包まれているかもしれないからだ。物事がうまくいかなくても「あらあら困った子ねぇ」と笑顔で対処できているうちは幸せであって、とても冗談の通じる空間である。

『ぼくはくま』は童謡ではあるが冗談ではない。一時的とはいえ作者自らが『最高傑作』との冠を与えた存在感は伊達ではない。ひとえにそれは『ママ』の一声に集約されるのだが、R&Bの歌姫とか何とか持て囃された存在がこども向けの童謡を歌う姿は、シリアスにシーンと向き合ってきた業界人たちからすればギャグである。ジョークか何かか? ヒカルは全くそんな風に捉えていなかった。冗談や気の迷いで2万通以上の塗り絵の審査に自ら乗り出せるとは思えない。ある意味シリアスの極致、それは『Prisoner Of Love』から『テイク5』へと、自らのアイデンティティを賭した楽曲のアウトロをカットアウトした更にその先にある存在だったのだから。

まぁヒカルはアルバム『HEART STATION』の曲順決めに関わっていないのだが。

その乖離の象徴もまた『ママ』であるのなら、信じてついてきた方は自嘲するか飛び込んで一緒に『ぼくはくま』を歌うしかない。歌ってしまえば問題ない。ただ、そこまで行ってしまうと最早冗談の入り込む余地はどこにもない。

こんな芸当が出来るのも、ヒカルの自己批判能力が異様に強いせいである。自らを批評や諧謔の対象にする為に冗句を駆使する必要もなかった。その願意についてはまた稿を改めて。できれば『あなた』をフルコーラス聴いてから続き書きたいんだけどいつになるやらだね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前にチラッとツイートしたんだが、真面目にロックに取り組んでいる米津玄師より着ぐるみさんたちがワイワイ騒いでふざけている岡崎体育のサウンドの方がずっとロックの歴史への造詣が深く、故に様になっている。実際はかなりPay Money To My Painの中の人の力が大きかったようだが、それを纏めあげたのは体育のプロデュース能力だろう。

この、音楽を真面目にやる人と音楽でふざける人のコントラストはいつの時代もどの地域でも鮮烈だ。シリアスvsジョークとでも言いますか。そしてしばしば、上記のようにふざけている方の音楽性が高かったりする。真面目にやっている方はたまったもんじゃない。

ロックだとレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レッチリの奴らだ。全員全裸に靴下一本で写真に収まったかと思えば、ラウンジ・ミュージックにすらなる耳あたりのいいラブバラードを歌ったりする。日本でもサザンオールスターズがコミックソングとシリアスなバラードを使い分けるが落差はその比ではない。差なのか比なのかハッキリしろ。

何より、レッチリのメンバーは(メンバーチェンジを経てなお)バカテクなのだ。あんな全員巧いバンドはそうそう居ない。『EXODUS』の『Kremlin Dusk』で叩いている凄腕ドラマー、ジョン・セオドアがかつて在籍していたバンド、ザ・マーズ・ボルタの1stアルバムでベースを弾いていたのがレッチリのベーシスト、フリーだった。鬼のようにシリアスなザ・マーズ・ボルタのサウンドを更に一段階上のレベルに押し上げたのが彼のプレイだった。フリーが弾いているのなら、とボルタの1stを手に取った人も多かろう。

メジャー・レーベルでいかにシリアスなロックを繰り広げても、なかなかレッチリのクォリティーには届かない。あんな巧い人たちにシリアスもジョークも自由自在に操られては…となるのが、この四半世紀の米国のオルタナ系の持病みたいなものだった。

日本では、上記のように、レッチリほど極端ではないもののサザンがその役割を担っていた。コミックソングと、レイ・チャールズにすらカバーされる素敵なバラード。そのバランスの中でチラチラと"音楽への真摯さ"を垣間見せるのが桑田佳祐の性格だった。要は、ビートたけしと同じでシャイなのだ。


1998年に登場した宇多田ヒカルが邦楽シーンに何を仕掛けたかといえば、実はここが大きかった。この人、音楽で一切ふざけないのである。くそまじめ of くそまじめ。兎に角自分が音楽と真剣に向かい合っている事を隠そうとしない。隠す気がないというよりそんな事に気が回らないくらい真剣なのだ。邦楽シーンの空気がそれで変わった。頂点たる存在がくそまじめなので、ふざける方が絶対的な傍流、亜流になったのだ。

1999年は、邦楽市場に関わる人間総てが宇多田ヒカルを一度は聴かざるを得なかった。新たな頂点がいきなり訪れたのだから。そしてその音楽は徹底して「洒落のわかんねぇヤツ」だった。のちの『traveling』でさえ、下世話な掛詞を古典の風雅に吸収させるという手法でシリアスに持っていったのだ。憂いなく「マンピーのGスポット」を歌う桑田佳祐もこれにはかなわなかったろう。兎に角どこまでも真面目で真摯で、難しい顔をして歌う。笑顔も人を感動させる為にある。早い話が音楽に命をかけてしまっていて、いや、"人生に命をかけてしまっていて"、周りは一切それを茶化す事が出来なくなってしまった。

そのヒカルの態度は母譲りであり、その母は亡くなってしまった。最早茶化すだのふざけるだのは不可能の彼方である。それで何も悪くないのだが本当にこれで"全部いける"のか時々不安になる私なのだった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »