無意識日記
宇多田光 word:i_
 

慣れ  



カレーのシミをこぼして以降の光は軽やかだ。
結局、その軽やかさを失うことのないままアルバム完成まで漕ぎ着けてしまった。
(勿論、マスタリング終了して店頭に並び消費者の手に渡るまで油断はできないが)
今迄アルバム完成後のメッセはそれぞれに変化があったものだが、
今回ばかりは、何事もなかったかのように更新されている。

しかし、アルバム作りの葛藤自体は、
これまでと何ら変わりなく、いやもっと甚だしかったかもしれない。
泣きながら店を飛び出すだなんて尋常じゃない。
それでもやはり、なんらかの“慣れ”のような頼もしさを
感じ取ることはできた。過去に経験のない事態。
アルバム制作過程が軌道に乗ってきたような、
でも相変わらずギリギリの綱渡りを繰り返してるような、
両方の感覚が混ざっている。

“デタッチメント”ということばを思い出した。
この単語でググれば村上春樹の名がずらりと居並ぶ。
“対象に無関心であること”或いは“対象と距離を置くこと”
といった意味がある。
今の光は、距離を置けていると思う。
何に対してかというと、自分自身に対してだ。
自分自身を背負いきらずに、どこか違うところから
距離を置いて眺めていて、その位置でなら軽やかに振舞える。
とんでもなくすさんだ日でも素直にメッセージが書ける。
その心理状態。

どういうことが考えられるだろうか。


例えば。例えば、毎朝ワークアウトをしようと決意したとする。
腹筋30回腕立て伏せ30回とか。
最初は、苦痛だらけだろう。早めに起きるのも面倒だろうし、
筋肉だっていうことをきいてくれない。
でも、毎日続けていくことによってカラダが“慣れて”ゆき、
それまで感じてたような苦痛は段々と和らいでいく。
同じ腹筋30回腕立て30回でも、
慣れていくごとに身体的負荷、精神的負荷は減じてゆくだろう。

例えばそれは、毎朝般若心経を書写することでもいい。
はじめのうちは指も頭も慣れておらず、
正確に書写するには時間がかかるだろう。
間違えないように、正しく書かなきゃ、という心理的負荷も大きい。
しかし何度も繰り返していくうちに、
正確さも速さも増す。つまり、同じ時間で同じ正確さで
書くために課される心理的精神的負荷は軽くなっていく。

それらが“慣れ”というものだろう。


光の音楽制作についてはどうだろうか。
彼女がフルアルバムを作るのは、これで7枚目だ。
流石に、何をどうすればいいかもわかってきているし、
いろいろな作業や手順だって慣れたものだろう。
しかし、しかし前述のように実際は
相変わらず創作の葛藤に塗れている。
スタジオでの自棄酒なり店から飛び出すなりの“奇行”の数々。
実は彼女の中で創作に対する“精神的負荷”は
先ほど例にあげたワークアウトなり般若心経の書写なりのように、
回数と経験を重ねるごとに減るどころではなく、
相変わらず甚だしく、以前より増しているくらいですらあるのだといえる。
つまり、アルバム制作における精神的負荷心理的負荷に関しては、
ちっとも宇多田光は“慣れて”なんかいない。
まるで初めて朝にワークアウトをした日のように心を削って取り組んでいるのだ。


では彼女は、今までの経験を活かせていないのだろうか。
勿論そんなことはなく、精神的負荷を取り除くかわりに
先ほど触れた“デタッチメント”と形容したくなる自己との距離感を
育んできた、そう私は見る。

「DEEP RIVER」の頃、彼女は一回性のもつ意味を
物凄くアタマとココロにたたっこんで創作にあたっていたように思う。
FINAL DISTANCEのメッセなどでそれは顕著だろう。
http://www.emimusic.jp/app/scripts/emilog.php?id=hikki&no=336
彼女は、今ここでしかできないこと、今ここで為すべきことに
心血を注ぎ抜いた。出来上がった作品は、楽曲の質云々以前に、
18歳から19歳にかけての宇多田光でなければ出せない色に覆い尽くされていた。
その点が、この作品を唯一無二の特別の作品にしたのだ。
だから、「DEEP RIVER」を聴ききったとき私のアタマを過ぎったのは、
「この作品を最後に引退すれば美しい伝説になるな」ということだった。

しかし、「EXODUS」、「ULTRA BLUE」、そして今回の「HEART STATION」と、
彼女はその一回性を捨て去り音楽制作に励む。
最早、「DEEP RIVER」のころの切実な、もしかしたらもう来ないかもしれない
という不安と焦燥に駆られた若々しい感情は、ない。
しかし一方で、アルバム制作に“慣れる”ことなく、
創作に対する精神的心理的負荷を10代の頃と変わらずに持っている。

恐らく、単なる仮説に過ぎないが、楽曲制作という一点においては、
そういった精神的心理的負荷というものが、創作の源泉に不可欠であることを、
光はどこかで本能的に感じ取っているかもしれない。
だから、ワークアウトやお経の書写のような“慣れ”を
もち精神的負荷を下げたりすることはなく、敢えて
精神的負荷を負いやすい心理的状態のままで仕事に取り組んでいるのかもしれない。

いわば、“タイム・リミット”にうたわれているように光は、
傷つきやすいまま大人になっているのではないだろうか。
それが創作活動の源泉たりえるから、という点に気がついていたかはわからないが
「自分にとって護るべきものは何か」を察知していたからこそ、
こういう歌詞が書けたのだと思う。
いわば、この歌詞は未来の宇多田光の存在が書かせたといってもいい。
“Passion”のときに「22歳の私には2歳の私も12歳の私も42歳の私も含まれる」
という発言をしたが、そういう時空を超越した多層構造の中に光は居るのであろう。

しかし、繰り返しになるが、だからといって
過去の制作過程の経験が活かされていないわけではなく、
それを“セルフ・デタッチメント”(自らと距離をとる、という私造語)
として活用し、「今自分が感じている精神的苦痛は創作に必要なことだ」という
自覚を基底にアルバム制作に取り組んだ、だから、
いつにもまして「HEART STATION」は軽やかなメッセージとともに
僕らの元に運ばれつつある、そうはいえないだろうか。

いわば光は、制作の経験を“慣れ”にはせず“知識”として
自らの中に蓄え、精神的心理的苦痛に耐える際の“動機”とした。
知識を動機にすることで、達観しつつも己が感情を減じることなく、
あるときは寄り添い、あるときは距離を置いて接し、
楽曲に反映してきた。その自らとの距離感の多様が、
そのまま楽曲の多彩さ、表現の振り幅になっている、そう思えば
今度の5thアルバム「HEART STATION」の味わいがまた増してくるかもしれない。

そして、自らとの距離を調整する為に最も必要だった存在がくまちゃんで、
その距離感の多様・表現の振り幅の中央に位置するのが“HEART STATION”になる・・・
なんて話は、また折を見て天啓で続きを書いていくことにするかなw ほなまた☆ 

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コメント
 
 
 
くまちゃんの存在は・・・ (Hiron)
2008-02-04 21:45:14
写メに収まり切らない程、大きいのでした。
『あん ひどいよひどいよ!』

ヒカル本人の言葉を借りれば、”intergrity”というのも大切な要素のひとつとして考えられそうですよね。

http://blog.goo.ne.jp/bemylast/e/7e72b28b08413c4c6a71e6c00b044df8

”integrityを持つ=自分の親になる”
彼女は今もこの考え方を大事にしているんじゃないかと思います。
 
 
 
だからってなんだあの3連続コントは(笑) (i_)
2008-02-06 02:05:50
> Hiron

まさかその発想はなかったわ(唖然)。
いやもうそのとおりですよ、
“傷つきやすいまま大人になる”っていうのは、
そのまんま“自分の親になること”です。
自分の親になるからには自分は子供でもある。
「私は、子供だ」と+で呟いたHikkiの真意は、
ここらへんにも匂ってくるかもしれないな。
彼女の中には連綿と続いてることなのですよ。

(だって今挙げただけでも2000年のタイムリミット、
 2002年のDeepRiver+、2005年のBeMyLastが絡んでるんだものね)

しかし、、、「デタッチメント」で「Integrity」を
思い出して「自分の親になる」に最短ともいえる
道程で辿り着くだなんて、Hironもなんだか
「八割五分の魂」を持つ種族のにおいがしてきたぞ・・・w
 
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