無意識日記
宇多田光 word:i_
 



宇多田とエヴァンゲリオンは、コラボレーションが決まったからお互いに接近したのでは無く、元々持っていたテーマが共通だったから"呼び合った"と言った方がいい。元々は庵野秀明の作家性に依拠した作品だったが、今や様々な人々を巻き込んで各々の思い入れがセメギ合っているEVAと、徹頭徹尾パイセンのセンス(略してバイセンス…略さなくていいなこれ)に貫かれている歌たちに共通するテーマとは、「母」である。異論はあるまい。

21世紀のあらゆるエンターテインメントの頂点に立つのは尾田栄一郎の「ONE PIECE」である。質・量ともに全く他の追随を許さない。ハリウッドだディズニーだピクサーだと言っても敵わない。今や“敵”は各宗教の聖典(あれば、だけど)だけだ。その究極の作品が意図的に避けているのが「母」である。尾田が明言している。「冒険」に「母」は不要だと。

「ONE PIECE」は徹底的に“外向き”の作品だ。主人公のルフィは「頭の中で思う」事を一切口にしない。例外はジャヤ編の一度切りであり、あれは単に物理的な距離があっただけでメッセージを外に向けている事には変わりない。思った事は必ず口に出す。思い立ったらすぐ行動。内面という概念がない。「外へ」「前へ」「上へ」。意識は徹底している。そして作品のテーマは「自由」である。ひたすらリスクを負って進んでいく作品だ。

「母」は、その「冒険」の対義語である。「家」であり「ウチ」であり「内」であり、「帰る場所」だ。

EVAは、1つの場所から動かない。使徒が外から攻めてきて、「家(うち)」をひたすら守る。ATフィールドに代表されるように、あの戦いは“守り合い”なのだ。母に守られ母を守る物語。

ONE PIECEとEVAの対比は明確である。どこまでも自由を求めて冒険していくルフィと、内に籠もってそれでも勇気を振り絞るシンジと。伍する作品ではないが、気概は同じ高さにある。


この、お互いに20年かけて続いている2作品の本質を、パイセンはたった二行で表現する。多分に我々の共有する記憶に依拠してはいるが。

『自由になる自由がある
 立ち尽くす見送り人の影』

ここでは、「自由」とは「母の死」だ。それ以上付け加える事はない。

ヒカルは、「自由」を歌って来なかった。“Prisoner Of Love”というタイトルに象徴されるように、愛に囚われ愛に縛られ、その無力の中から祈りの力を生み出してきたのだ。祈りとは内なる声に他ならない。思いを内側に集中させ、何もしない。思うや否や動き出すルフィとは、ここでも対照的だ。ルフィはいちばん自由になりたいのである。


わかりやすいかわかりにくいか、わからない。作品には「外へ」と「内へ」の二種類があり、「母」とは「うち(へ)」の象徴、抽象化した存在であり、目印である。

『真夏の通り雨』は、斯様に、真実を言い表した一行だらけで構成されている。とても重い。一行々々、一語々々、一字々々を噛み締めて堪能してうただきたい。日本語の究極が、ここにある。なかなかに、手強いぞ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« #とと姉ちゃん... 話の枕に「 # ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。