無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「とと姉ちゃん」が今後より面白くなる為には、何を参考にすればよいのか…別に前作の「あさが来た」とかでもよいのだが、もっと身近にあるじゃないですか、ほら、『花束を君に』と『真夏の通り雨』が。

ヒカルの今回の仕事は所謂「雑」とは対局にある。丁寧に丁寧を尽くした繊細精微な"つくり"の数々は、それはもうものをつくる人総てが参考になる(できるかどうかはさておいて)凄まじい迄の珠玉ぶりだ。たった5分ばかりの時間の中で巧みに伏線を張り重ね、どの表現も心の奥深くから慎重に慎重に汲み上げられている。羊水にたゆたうような大きな大きな世界がそこに広がるのは、肌理の細かさすら見えなくなる程の精錬された音と言葉のタペストリーの煌めきを大事に大事に育て上げ尽くしているからだ。いやもう、喋るの辛い。ただ聴け。


こんな抽象的な言葉を綴るだけでは仕方がない。無い音楽に対してだって言えるんだこんなのは。

そうだな。『真夏の通り雨』。前にバスドラとベースがエピローグの伏線を張っている話をした。ああいうアイデアが物語に自然な流れを生み聴き手の感情移入を生む。この曲にはもうひとつ伏線がある。『木々が芽吹く』の直前に左側から入ってくる鋭い音のストリングスである。或いは合成音かもわからないが、ひとまず弦の音だ。これにより奏でられるメロディーが、まずは伴奏の役割を担い、次に間奏の役割を担い、更に伴奏の役割を担い直して後奏となって楽曲を締めくくる。とても物悲しげで美しいメロディーだ。

今の説明の仕方は歌からみた役割の変化であるが、逆にこのメロディーの側から楽曲を見てみよう。そう、楽曲の真ん中に現れて、ただひたすら最後までこのメロディーを繰り返す。それだけである。試しに、このメロディーの気持ちになってこの『真夏の通り雨』を聴いてみよう。すると、主人公の感情の動きが外からわかるようになる。1人の人間が悲しみに暮れ打ち拉がれ立ち直れない、その絶望を、外から眺める事になる。そこに生まれる遣る瀬無さったらない。

そう、恐らく、このストリングスのメロディーは、『桜流し』で歌われた『見ていた木立の遣る瀬無きかな』の具現化であろう。何しろ、『木々が芽吹く』直前にぐぅっと前に出てくるのだから。『桜流し』で『木立』は、変遷を繰り返す花や人との対比で『普遍・不変の者』の比喩として表現された。この『真夏の通り雨』でもその情感は援用されている。極めて普遍性の高い情景と情感は、音楽家にとって飽く無く追究すべきモチーフである。

この、風景の描き方である。登場人物の心の動きを対比としても炙り出せるように弦による背景がしつらえられている。『真夏の通り雨』はこの弦によって前半と後半の構成を持つようになる。この"安定感"から、バスドラとベースによる切迫感の重い差し迫り方に大きな庇護を与えるのだ。唐突や不自然を生じさせない、しかし極めてシンプルな方法で。もう殆ど究極と言ってもよい手法である。このノウハウの10万分の1でも汲み取れたテレビドラマがあればもうそれだけで傑作認定間違い無しだろう。出来れば制作陣は今一度「宇多田ヒカルの仕事ぶり」をかえりみてみて欲しいものだ。時期的に、もう全然間に合わないけどね。それでもいいじゃないのさ、ねぇ?

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「気付き」のツイート、自分が見た時点では1万RT、2.5万Favだった。キンタマには勝てないが、なかなかに注目を浴びたのか。もっとも、最近のRT&Favは3万5万はいかないと目立てない数字になっているので、衆目云々という数字でもないだろう。

「歌」の役割は、元来情報の伝達や蓄積だった筈だ。物語を詩にして節をつけて世界を動いてゆく、そんなイメージ。もしかしたら書き文字より前からあるのかもしれない。となると、以後様々なメディアの誕生によってその役割の担い手は移ってきている筈だ。

文字や印刷、写真、蓄音、映画。郵便に電信にラジオにテレビに。今の時代はインターネット。誰かの発した言葉を誰かが受け取る。そのシンプルなプロセスにとって、今や歌は邪魔だ。無駄なひと手間であるとすらいえる。

前から言っているが、インターネットの脅威はコピーとダウンロードではない。歌の役割を大幅に代替できる事だ。特に歌詞にメッセージを載せるのは今や“過剰な贅沢”に過ぎない。言いたい事があればツイートすればよい。種々が噛み合えば、瞬く間に何万何十万という人々に自分の言葉を届ける事が出来る。

そう思っていた。ヒカルの新曲2曲を聴くまでは。

一言で言えば、ここにあるのは「詞の新時代」だ。まだ完成した訳じゃない。とっかかりを得たに過ぎない。しかし、ここに在る言葉たちは歌の歌詞という形態でなければ本領を発揮する事のできない何かになりつつある。たとえ歌詞を書き文字にしてツイートしても伝わらない、歌詞としての凄み。それが何であるかはわからないが、ひとたび聴き始めたら耳を離せない魔力をどこかからか感じる。

旧時代の人間なりの言葉遣いで書けば、これらは、歌が芸術品、アートとしての地位を確立する端緒となりえる作品群なのだ。方法はわからないが、美術品のようにミュージアムに並べて鑑賞したくなる。

疑問なのは、これが日本語というローカルな言語で歌われている点だ。アートにローカルが必要なのか。デュシャンが「泉(仮)」で提示した古典的な問題意識がここにも立ち現れてくる。この歌詞は、ひたすら日本語と共にある人間たちの存在なくしては成り立たないのか。わからない。ただ、それを越える圧倒的な何かに到達しないとアートとは呼べないかもわからない。まだまだそれは、今の話じゃない。

「歌詞」という、妙ちきりんな、今となっては枷ばかりでまどるっこしい表現伝達方法が、“過剰な贅沢”より更に向こう側の、アートとしての存在感を得るに至るまず最初の過程。そう思ってこの2曲に耳を傾ける。きっと何かがあるのだろう。まだそれが何かは、わからない。長生きしたくなってくるじゃないのさ。

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