無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「とと姉ちゃん」も明日で52回、全156回だから3分の1を過ぎる訳だけど、なかなか「本編」に入っている気がしない。やはり美子が大人にならないと"揃った"感は出ないのだが、今の子役の子がみれなくなるのもそれはそれで寂しいのでまぁ別にいいか。でもやっぱり、スロースターターだよねぇ。

「暮しの手帖」がテーマだというのを、どれ位の視聴者が気にしているかは知らない。わざわざWebに感想を書くような人は大概朝ドラフリークで、下調べばっちりだろうから先入観で「暮しの手帖はまだか」と待ち遠しがっているのかもわからない。事前知識が邪魔をするケースだが、こちらとしては朝ドラなんだから主人公の一生を丁寧に追ってくれればそれでいい、と思っている。まぁ暢気といえば暢気かな。

今主人公、と言ったが、これまたやはりと言うべきか何なのか、高畑充希は手慣れて砕けた演技と自然な立ち居振る舞いからコメディ・リリーフとしての才能は遺憾なく発揮しているが、ぶっちゃけあれは主人公タイプの演技ではない。視聴者の読みをはずしたりはぐらかしたりといった所からリズムチェンジで笑いを取りに来てくれれば嵌るので、いっその事高畑笑劇場として振り切ってしまえば殻が破れる気がする。そこらへん、コメディリリーフの帝王(でもないか)唐沢寿明と絡み始めてくれればいよいよ本領発揮となりそうでこれは楽しみ。彼を朝ドラで観るのは私としては「純ちゃんの応援歌」以来だと思うが、彼はいつ以来の登板なのだろう。サプライズで奥さん連れてきてくれればいいのに。ギャラが高くて無理かな。

しかし、そんな展開になったら本来の朝ドラの芸風から大きく逸脱をしてしまう。それは保守的な視聴層にマズいので…という理由で鞠子役に相楽樹を抜擢したというのなら、プロデューサーには先見の明がある。彼女こそが、本来の主人公タイプの役者だろう。相変わらず、三つ編みお下げという彼女からしたら丸坊主より似合わない髪型で今週も登場しているが、いよいよそのフォトジェニックな佇まいが隠し切れなくなってきた感がある。序盤から要所々々で美しいカメラワーク、美しいカメラアングルが散見される「とと姉ちゃん」だが、その被写体として最も映えるのは鞠子だろう。撮影しながらそれがわかってきていらっしゃるなら、どんどん彼女をそのつもりで撮ってくれればOKだ。前作「あさが来た」では宮崎あおいがひとりだけ別次元の美しさを放っていたが(なぜあんなにテレビカメラというものを知っているのだろう、本人そこまで聡明な印象ないのに…(笑))、その枠を今作では相楽が持っていってくれればいい。願望であって予想ではないのが残念だ
が。

まぁこんな事言ってても、美子が成長したらそっちの話ばかりになってしまうかもしれない。で結局、「三姉妹の絶妙のバランスこそがこの作品の魅力」と言い出すに決まっている。手に取るようにわかる。なんだか悔しいので、ちょっと違う方向で感想を書いてみたいものである。


いつもと違って、この流れでヒカルの話に持って行く事は出来ない。理由は単純、ヒカルの世界観に「姉妹」がないからだ。せいぜい、キプトラやキスクラで呼び掛けられる位だが、極端な話それは車掌さんと扱いが変わらない訳で、つまりただ「世の中にはいろんな人が居るなぁ」のバリエーションのひとつに過ぎない。ヒカルは、父母や恋人や親友に向けて歌うようないつもの特別さで兄弟姉妹について歌った事はない。『花束を君に』も例外ではない。一人っ子だから、と言ってしまえばそれまでだが、そもそも「兄弟の契り」とか「姉妹百合」とかに興味が無さそうなんだよね。またそこらへん、誰か(いや松浦さんだな)インタビューで訊いてみてくれないかと他力本願な私は思うのであった。

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前回「バスドラ」と書いたが、音自体には音程がある為、多分ベースとユニゾンなんだと思うがサウンドが独特な為実際の所どうやって音を作ったかはわからない。まぁキスクラの歌詞に出てきた単語だしバスドラっていっときゃいいかなと。どうでもいいが自分で書いてても「バスドラ」を「パズドラ」と間違えそうになる。パズル&ドラゴンズな。普段一切パズドラに触れる事のない自分ですらそうなのだから読者の皆さんにもきっとそういう方がいらっしゃるに相違ない。大ヒットとはかくも罪深いものである。

そのバスドラの「ダダダン」(「ダダダッ」の方がよかったかなとか今更な事も考えつつ)、モチーフは「心臓の鼓動」であろう事は想像に難くない。脈動は総てのリズムのルーツである。バスドラに標題がつく曲といえば『Kremlin Dusk』がある。同曲はエドガー・アラン・ポーの"The Raven"をベースにした歌詞になっているが、それに倣えばあのバスドラは「運命が扉を叩く音」になるだろうか。それじゃベートーベンか。砕けて言えば気の狂った主人公が、風の打ちつける音を誰かがノックしている音だと勘違いしている場面だ。まぁひきこもりにとってはノック音は総て恐怖の対象でしょうが。

あっさり鼓動音だと断定してしまったが、もうひとつの解釈がある。それは「雨音」だ。音としては若干不自然だが、キーワードである『降り止まぬ 真夏の通り雨』が出てきた所で鳴り始めるし、最終的に『ずっと止まない止まない雨に』とシンクロする。雨音だと考えた方が解釈はスムーズだ。一方、音を直接聴いた人が最初に連想するのは鼓動音だろう。降り止まない雨を音で表現するならトレモロ(「ダラララララ」)やトリル(「ラリラリラリラリ」)を使うだろうに、「ダダダン」或いは「ダダダッ」っという断続的な音にしているのだから。

どちらの解釈がより適切かはわからない。どちらも的外れかもしれないし。ただ、いちばんありそうなのは「両方」だろう。この桜シリーズの発起点である『SAKURAドロップス』に出てくるこの歌詞を想起しよう。

『降り出した夏の雨が 
 涙の横を通った すーっと』

個人の心情の表現である涙と自然現象である夏の雨が軌を一にする、同調・シンクロする。その情景を描いている。この風合いが『真夏の通り雨』にも一貫しているとすれば、降り止まない雨と止まらない鼓動がシンクロしていつまで経っても収まらない情景を歌詞とサウンドの両方を使って描写した、という解釈も成り立つ。今のところこれが最も説得力のある解釈であると思われる。

とは言っても、誰を説得する気もない。ここまで個人的な感情を歌った歌は個人的に解釈するのがいちばんだ。今日ここに書いた事は一旦忘れてまた『真夏の通り雨』を聴き返して貰えると有り難い。

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