無意識日記
宇多田光 word:i_
 



アニメ業界の曲がり角を横目で見ている。この10~20年主流だった深夜アニメの円盤主体の利益構造が崩れているのだ。

ニーズは衰えていない。増してすらいる。しかし、円盤は売れない。一昨年あたりから配信が充実してきていてそちらに流れている事がひとつ。もうひとつは、供給過多である。一億数千万円という高額の資金を必要とするプロジェクトがこの人口一億二千万の国で一年に200もあるのだ。そりゃもう、良い作品だって埋もれよう。

根本的な問題は、収益構造ではない。漫画や小説といったアニメの原作となりえるコンテンツが無為に消費されていく事だ。もっと絞ってじっくり行けば売れたのに、という作品は幾つもある。自分の知らない所にも、更にあるに相違ない。それらが「一度アニメ化された」というだけで過去のレッテルを貼られて通り過ぎてゆく。なんとも悲しい。

一言で言えば乱獲である。鰻を獲り過ぎて高騰を招いたような、いや、寧ろ、稀少種の数々を次々と絶滅に追いやっているのに近いかもわからない。どんどんと、繋がるべき系統が絶えてゆく。切ない。

どうせなら、アニメがもっと売れなくなればよい。そうすれば、皆見切りをつけてプロジェクトを立ち上げなくなる。原作も枯渇しない。なまじっか商売になってしまうものだから、乱獲が止まらないのだ。

絶滅危惧種を保護するワシントン条約が締結されたのは随分と新しい歴史である。ほんの百数十年前の人類は種の保存という概念すら無かった(それは少し言い過ぎだが)。もしかしたら来世紀の人たちは、我々を指して、「著作物の乱獲を止めなかった野蛮人」と恐れているかもしれない。時代というのはそういうものだ。


その程度の時代に生きている。しかし個々が心掛ける事は出来る筈だ。ヒカルの曲もまた消費されゆく運命にある。大きなレコード会社と契約して収益を上げようという構造に身を投じているのだから仕方がない。それが嫌なら自ら制作資金をやりくりして自由を手に入れるしか無いだろう。

乱獲まではいかなくとも、"消費される事を望む"態度はあるかもしれない。こんな時代だからこそ逆に「2016年の流行歌を生んでみたい」というアプローチもある筈だ。

しかし、今のところの2曲は、そこまでの感じがしない。特に『真夏の通り雨』の方は芸術である。「モナリザ」や「ゲルニカ」を穴を空くほど見つめるのと同じように、この歌を作り上げた人の心情を隅から隅まで知ってみたいと思わせる、"鑑賞に足る"作品だ。寧ろそれ以外の聴き方が出来ない。

『花束を君に』の方は、もうちょっとだけ柔らかい。60秒や90秒といった尺に嵌るメロディーになっているのも偶然ではないだろう。そこらへんは『First Love』の頃から巧いものである。そういった気遣いはある。しかし、その程度だ。こちらも『真夏の通り雨』と同じように、鑑賞に足る作品であるし、少し音楽的である。単に、『真夏の通り雨』の方が言葉が重いという意味だが。比重の面でも、内容の面でも。

だから、この2曲に関しては、2016年の流行歌として消費されてしまう感じが薄くてよかったなと思う。「とと姉ちゃん」と「NEWS ZERO」を通して、人々の思い出の背景に溶け込む。ドラマのセットの壁にかけてある絵画のように、記憶の片隅に残る歌。なんとも、有り難い話だ。

もしかしたらヒカルは次はもっと"商業的な"歌を繰り出してくるかもしれない。その時はその時だ。乱獲上等。瞬く間に忘れ去られるようなタイアップでも構わない。それも又歌の強さの一つだ。そのバランスの中で次のアルバムは形作られる。超強力なものになるのは、間違いないだろう。

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テレビでアメラントロポイデス・ロイシの写真を流すだなんてねぇ…もう一世紀前の話題だというのによくやるよ。でもアマゾンは21世紀の今になってもまだまだ未開拓の地。足を踏み入れる事に意義がある。

市場としても南米はまだまだ未開拓の地だ。もう諸国から注目され始めてだいぶ経つが、何しろ図体が大きいし異なる文化圏なものだからなかなか進まない。今夏のリオデジャネイロ・オリンピックが何かを変えるか何も変えないか。諸国に発展具合を示すチャンスなのだが、意外と大きな事より選手たちの現地での呟きから推し量れたりする。サービスの質、流通、医療、宿泊。何より、催事運営能力が如何程かで文化的成熟は決まる。音楽系のフェスティバルはもう随分と長いものだし、スポーツ運営でも手腕を発揮してくれるか。

大きいとはいえないが、ブラジルには日系コミュニティーにもそれなりの規模がある。五輪代表のうち何人かは日本人みたいな顔、日本人みたいな名前の選手がクロースアップされて親近感が出るかもしれない。対外感情がサッカーの国際試合で一気に動く事からもわかるように、スポーツの祭典は様々なキッカケになり得るだろう。

いつもならここで南米市場の開拓について書き始める所だが、今のヒカルがどう考えているかわからない為なかなか筆を動かし難い。少なくとも、「日本語の歌」と向き合っている今までの曲からは、国際展開、地球規模展開は見えて来ないのだ。

逆に、ならば世界に点在する日系コミュニティーへのアプローチってどうなんだろう、というのはほんの僅かばかり興味がある。今や四世五世まで至っているであろう"ほぼ現地の人"たちも興味を示してくれるのだろうか。反対に、そろそろ海外進出の年齢的に「宇多田ヒカルにさほど思い入れのない世代」が世界中で活躍しているのかもしれない。そういう人たちにとって、例えば現地でCDを売っていたり、配信が開始されたとして、どんな感覚があるだろう。Perfumeすらベテランなのだ。Dir en greyだって海外進出して10年以上経つ。今の旬はBabymetalだろうし、One OK RockやSIMみたいなバンドでも海外でツアーがブッキングされる。何というか、世代的には板挟みかもしれない。Utada Hikaruは。

となると、この丸い地球のどこで受け入れてもらうかとなった時に、日本を相対的に捉えたとしても、逆に特別視したとしても、いずれにせよ「まず日本から」という事になるかもしれない。逆説的だが、日本に帰ってきた『Be My Last』こそ、過去の栄光に囚われなかったという意味で、最も他国に進出するに値する楽曲だったともいえるのだけれど、今の新曲は、ひたすら日本語の響きがまずベースにある。勿論ここからのバリエーションが真骨頂なのだが、今に関していえば、まず日本からという姿勢を崩してくるとはどうも思えないのでした。まぁ、そうだろうね。

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