無意識日記
宇多田光 word:i_
 



話題を延々ループさせながら新しい論点をちょこちょこ挟み込んでいくのが最近の無意識日記のスタイルなんだが、ちゃんと気付かれているか若干不安だったり。新しい論点のないエントリーは「まとめ」とか「おさらい」とかちゃんと書いてある。こういうのも、テレビアニメでいえば「総集編」みたいなもので、なんか原稿落とした感が出ちゃって余り好ましくないんだけれどもなるべく「話の流れ」がわかりやすいように構成するのが本来の意図。

その「話の流れ」をいつもぶった切ってくれるのがヒカルからなアウトプット。いつも突然ツイートだったり新情報だったりをまぶしてくるのでその都度こちらは一瞬で話を切り替える。いわば、いちばんの「介入者」が、ウチの場合ヒカルな訳だ。本人だから当然か。

これだけ延々自分の事書かれ続けたら嫌だろうなぁと心底思う。好かれたいんだったらこんな事即刻辞めてるよねやっぱ。やれやれだぜ。

そういう、変ちくりんな"欲の無さ"みたいなものが自分にはある。そのつもりで読んで貰わないと、多分時々話が噛み合わない。こうみえて(?)私はヒカルに気に入られたいと思っていないのだ。たぶん、彼女に存在を否定されたら自殺しても何の不自然さもないと思う(誰もが「そりゃあそうだろうなぁ…」と納得する、この日記を読めば特に。)けれど、だからといって存在を認めて欲しいかというと、うーん、即答が難しい。本音の本音の部分はきっとそうなのだろうけれど、普段表面にそれは出さない。出していないし、出ていない。二口めには「光が元気でいてくれれば」である。利他的というのとも違うこの感覚は、本当に不思議だ。

…こういう話をここに書くのは珍しい(数十回に一回くらい)けれど、たまにこうやって書いておかないと、誤解されそうで。いや、自分が誤解しそうで。両方だろうな。私自身も読者の1人なのだから、同じこと。

ヒカルの、では、「愛されたい願望」は今どんな感じなのだろう、と(たぶんいつもと同じタイミングで)思う。イチローのマーリンズ入団会見の台詞の中に、こんなのがあった。

「応援よろしくとは言わない。応援してもらえるようにやるべき事をやる、と約束しますと伝えたい。」

かなり端折ったがこんな感じ。なんだか、FL15豪華盤収録インタビューを思い出した人も居たのではないか。

「待っていて下さいとは言わない。待っててくれてありがとう。」

これも端折った。正確な言い回しはちゃんと原本を確認して。

2人の発言は似ているようでいて大分違うし、違うとは思うけど結局同じ事を言っているような気もする、色即是空空即是色な色模様だ。

イチローは、本音は、応援されたいんだと思う。しかし、それは同情とか名前とか借りの気持ちからではなく、心の底から応援して欲しいのだ。物凄い欲張りである。表面上だけでも、と思っていない。心のなんたるかをよく知っている発言だ。

ヒカルはどうだろうか。こちらも、「お願い」をしないのは共通しているが、果たして彼女は、待たれている事を喜んでいるのか。いや、望ましいと思っているのか、そこがちょっとよくわからない。

「ただひたすらありがたい」というのであれば、こちらからしたら随分失礼な話だ。こちらの気持ちがたまたま偶然恋心になったとでも思っているのだろうか。貴方の魅力なら愛されて当然ですよと声を大にして言いたい。そして、もういい大人なんだから自分の魅力に責任を持ちなさいよと言いたい。特に我々に対しては「待ってるのが当然だろう」くらいに思っておいて欲しいものだ。まとめると「何を水臭い」だな。


となると、私もヒカルから好かれるように振る舞わないと責任が取れない理屈になるのだが、果たしてどうしたものか。ここが悩みの種なのだが、悩んでるフリして結局何も考えていないのが私の特性なので、相変わらず流れに任せておく。「話の流れ」をいつも大切にしているのは、そういう理由からである。

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travelingのDVDシングルの売上は驚異的であった。「CDシングルではありません」の文字に気づかずに買ってしまった人が当時どれ位居たのかは知らないが、MTVが全く定着しなかったこの日本でミュージック・ビデオを大ヒットさせたのは企画外であった。

時代の流れは早い。2005年にYoutubeが登場して以降、映像は全世界的に手元で気軽に見れるものとなった。2012年に桜流しのDVDが発売された時には私なんかアナクロさすら覚えたものだ。10年でこれだけ変わるのである。

凄いそもそも論として、"音声だけ"というコンテンツには不自然なものがある。単純に、「その音を聴いている間目はどこを見ていたらいいんだ?」という疑問が拭えないからだ。記録や通信の様式と音の物理が似通っていた為映像コンテンツよりも音声コンテンツの方が先に盛り上がったが、結局は技術的な都合だったので、ラジオは音声だけでなく映像も伝えるテレビジョンにその座を譲る事になる。

ヒカルがミュージックビデオを重視しているのは明らかだ。先に触れた桜流しのDVDしかり、シンコレ2のGBHPVDVDしかり。こちらでは映像監督まで務めた。

音楽にとって映像のありかたは、変化しているようで変化していないような、そんな感じの今である。伝えるのがテレビからYoutubeに移っただけで、ミュージックビデオ自体のあり方はそこまで変わっていない。ただ、つまり、昔ながらの「音楽と映像の乖離」は、あんまり埋まっていないように思える。

私などは最初っから「演奏風景にしときゃいいじゃん」と思っているのであんまり問題意識はないのだが、今の若い人たちが果たして音声のみのコンテンツを面白がってくれるのかと思うと確かに心許ない。ラジオを聴く事に慣れている私などは最早今更で、寧ろミュージックビデオは殆どの場合邪魔ですらあるのだが、そういうのも育ってきた環境次第だろう。

ただ、新しい世代でも「打ち込みの音楽」に慣れ親しんでいれば視覚情報は要らないのかもしれない。生演奏には必ず演奏風景というものがあるが、打ち込みの音楽には、生まれつき視覚情報が伴わない。純粋に音声だけの"情報"として生まれてくる。こういう概念的な存在に小さい頃から慣れ親しんでいれば、音楽は終始"頭の中に鳴り響くもの"として受け止められるだろう。

今や生演奏も打ち込みも等しく扱うようになったヒカルが、宇多田光として次にどのような映像アプローチをしてくるか、或いは何もしてこないのか。今のところ予想は全くたたない。出来れば今彼女がどういったメディア、プレイヤーでコンテンツと接しているかが知りたいものだ。まずは、それの影響を受けるだろうからね。

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