無意識日記
宇多田光 word:i_
 



さて。ハイレゾの反対側を探ってみようか。1月といえば思い出にあるのがCan You Keep A Secret?やCOLORSの解禁、更にはFlavor Of Lifeなどだろうか。特にFoLの爆発力は凄まじく、最終的に800万ユニット以上を売るという宇多田ヒカル史上最大のヒット曲となった。年間1位のキャンシーが100万枚台半ば、年間3位のCOLORSが100万枚行かなかった事を考えるとこの"800万"という数字は桁外れに思えた。

しかし、この数字には注釈が必要だろう。そろそろ若い人たちには通じなくなっていく(流石にまだ大丈夫だと思うけど)のだろうが、着うた配信というのは、歌の一部分だけを数十秒~百数十秒だけ切り取って1つあたり105円とか210円とかいった値段で売るシステムだったのだ。着うたという習慣のなかった昭和生まれのこちらからすれば「ただのサンプル音源にお金を払うだなんて」と驚愕したものだが、これが当たりに当たった訳である。いやはや、いつの時代も若いもんの考えている事はわからない。

そんな中FoLは、合計8種類の着うたを取り揃えたのだ。オリジナル・バージョンとバラード・バージョンの2種類につきそれぞれ4パターン。一番のサビの部分から始まって二番のサビも、という風に小出しにしていった。その総計が800万以上の数字となって現れた訳だ。凄かった。

今更そんな話をするのは、別にこの大記録を貶めたいとかではなく寧ろ逆である。みんな、その気になれば数十秒の音源にすらお金を払うのである。最近は娯楽が多様化して皆無料のものばかりで楽しんでいる、だから音楽が売れないんだ、となっている。いや、もしかしたらそれもやり方次第なんじゃないの、という話だ。

もちろん、私にいいアイデアがある訳じゃない。まいったか。まいったな。まぁいっか。しかし、何かしら理由をつけて嘆く前にやり方を考えようよと思いたい。

結局、人はいつどこで誰と何をしながらどんな風に音楽を聴くのか、というところを突き詰めねばならない。先述の着うたは呼び出し音やアラームといった"日常の中での実用的な音の使い方"と結びついていた。無論多くの方々が着うたの断片をただ聴きたいが為に購入していたと思うが、やはり着信音に使用する、という"言い訳"が人の財布の紐を緩めたんだと思う。

今はもう時代が違うから、着うたという訳にはいかない。スマートフォンで直接iTunes Storeから曲を買ってすぐ聴けるのだ。みんなそうやって…やってないんだなこれが。不思議な事に。

一曲250円という値段は、少なくとも昔に較べたらかなり安い。アルバムはコレクションをしたいかもしれないが、シングル曲ってただ聴けるだけでいいというケースもあるだろうに。

何故このスタイルが思った程普及していないかといえば、それを"ライフ・スタイル"として提示している人が居ないからなんだと思う。スマートフォンでいつでもどこでも曲を買って聴こう、という呼び掛けが、少なくとも日本人の多くの心に届いているとは言い難い。


恐らく、最大の難点は、今の人たちはスマートフォンをいじくっている時間自体はライフスタイルに組み込まれているんだけど、それは専ら画面を観ているだけで、"音を聴く"というモードに入りにくいからなんだと思う。外で電車に乗っている時は静かにしていなければいけないし、部屋に居る時にはスマホのスピーカーではいかにも安っぽい音しか出ず、音楽を観賞するという雰囲気ではない。そう考えると、つくづく着うたはうまくやったもんだなぁと溜め息が出るのです。売り抜けたなぁ、ヒカルは。

じゃあ、と考える。スマートフォンが人々のライフスタイルと分かち難く結び付いている中で、如何にも"自然に"音を聴くのはどういう場合だろうか。ひとつは、シンプルに、イヤフォンを差して音楽を聴く事。これは皆がやっている。絶対数は少ないもんだが。そしてもうひとつは、いやはや、スマートフォンにこの機能があるのをすっかり忘れていたわ。"電話をする時"である。

電話をする時、ひとは自然にスマートフォンを耳に当て喋り始める。何故そんな事をするのかといえば、それが電話の役割であり、何より、周りの人間が、電話というものは耳に当てて何か喋るものなのだとよくよく知っているからそう振る舞っても誰も気に止めないから、という理由が大きい。それが、行動が市民権を得るという事なのだ。

話が長くなった。続きを書くか打ち切って違う話にするかはまた次回の気分次第ということで。

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昨晩はInterFMの再放送皆さんお疲れ様でしたー。

いやはや、ここをDJ@yanatake さんに読んで貰っているとは。恐縮至極。彼のTwitterは「有名人/ミュージシャン」カテゴリー扱いで鍵付きリストに入れていたのでフォローしていなかった。慌てた(笑)。

しかし彼のMixは本当に素晴らしかったねぇ。詳しい感想はTogetterに纏められてるからそちらを参照して貰うとして、やっぱり"ずっと見てきている人"は選曲の幅広さが違う。彼自身も4度目のMix、更に時期的に宇多うた関連でMixが出揃ってきている状況の中でこのMixならではの特色を打ち出そうと腐心した結果だろう。恐れ入りました。

特に、これはツイートでも指摘したが、宇多うたを中心とした「宇多田ヒカルがカバーされた曲」を「宇多田ヒカルがカバーした曲」で挟み込んだ構成ね。これは何よりヒカル自身が喜んだと思う。どうしても今回、井上陽水を中心として(笑)、彼女の才能の再確認と不在への嘆息から彼女を"崇め奉る"空気が強くなっていた。いやぁやっぱり凄い才能だと。それはそれで今回の企画の意図からして間違っていないというかまさに狙い通りなので皆でどんどん崇め奉ればいいのだが、ヒカル本人からしたら少しこそばゆかったかもしれない。

そこにこのMixだ。こうやって、「私もカバーしてますよ」という所から入ってくれると、ヒカルもまた宇多のミュージシャンたちがヒカルを尊敬しているのと同様に、フェイバリットやリスペクトの対象となるミュージシャンが居て歌いたくなる名曲が在るんだという事を再確認させてくれる。一段上に奉られていたのが、他の皆と同じ土俵に立てる訳だ。このフラットでニュートラルな感覚の方が、彼女も居心地がよいだろう。

この構成によって、Mix全体が「双方向性」の色合いを強めるところが肝だ。ヒカルが一方的に歌うだけでも、ミュージシャンたちがトリビュートを仕掛けるだけでもない。どちらも混ざり合って、ミュージシャン同士のリスペクトをキャッチボールしているかのような感覚を運んでくる。イケイケのMixでありながら最後にオーケストラを持ってきてもハマってしまったのは、そういった相互交流の雰囲気の中にリスナーが巻き込まれてこの大きな物語に感情移入しきっていたからだ。熱いモノが込み上げてくる、ってヤツだわね。一方通行ではこうはいかない。

そういう意味では、ラジオを聴きながらTwitterでリスナーとDJがリアルタイムでインタラクションするという状況はまさにこのMixのコンセプトにドンピシャだった訳だ。ミュージシャンもDJもリスナーもフラットでニュートラルな位置関係で相互に影響し合えた。うーん、出来過ぎだな(笑)。




…ご本人が読んでるからって持ち上げ過ぎ?(笑)  いえいえ、もしつまんないと感じたら正直にそう書くので誤解なきよう。本当に気に入ってなかったらこういう風には書けないですって。

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