無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回の続きはいつかまた書くとして。(フラグ)

最近ZABADAKがマイブーム。流れとしては[ZABADAKのライブに行かないかと誘われる]→[ならばと昨年発売になったライブ盤で予習しようと買って聴いてみる]→[余りの素晴らしさにウルトラ・ヘヴィ・ローテーション]→[取り敢えずいちばん気に入った曲が収録されているオリジナル・アルバムを買ってみる]→[案の定名盤で当時買おうとしなかった過去の自分を激しく責め立てる]←今ココ。

なんで当時買わなかったのかと思ったらあれだ、2013年てKuma Power Hourばかり聴いていてそれどころじゃなかったんじゃないか。あとごらく部のライブもあった時期か。いやそれは余り関係ないな。兎に角少なくとも2013年のプログレッシブ・ロックを代表する名盤である事に間違いはない。

で。これだけオススメしてしまうと一度聴いてみようと思われるかもしれないが残念ながらオフィシャルでの通販でしか手に入らないという敷居の高さ。Amazonに1枚だけ売ってたのだが、その最後の1枚を買ってしまったのが何を隠そうこの私。こんな名盤手に入れて売りに出す人なんて殆ど居ないと思われるので中古盤が出回る可能性も非常に低い。本当にすみません。


で。今回のテーマ。私は今回ライブ盤でライブ・バージョンを先に聴き、それからオリジナル・バージョンを聴く、という順序を辿った。確かに、ライブ盤のブックレットに書いてあるように、ハイライトはライブで"大化け"した曲の素晴らしさにあるのだが、だからといってオリジナルは物足りないかというと、そういう解釈も素直には可能なのだが、なんというかそもそも魅力のベクトルが違うのだなと痛感させられた。

ZABADAKというユニットは、ライブ・バンドとしてはCAMELやCARAVANやPFMのような情感溢れるダイナミックな演奏を得意とするのだが、この、2013年のオリジナル・アルバムにおいてはブレインの吉良知彦がほぼ総て宅録しているため、まるでマイク・オールドフィールドの作品のように、頭の中に広がる世界を堪能出来るような構えになっている。ぶっちゃけ、同じ曲を演奏しているのに同じユニットだとは思えないくらい、ライブ盤とスタジオ盤で感触が異なる。

後からスタジオ盤を聴いた事で、「ああ、ライブ・バージョンでのあのアレンジはそういうことだったのか」と後から合点がいくケースが幾つもあった。スタジオ盤の方が、"作曲者の意図"というものを明確に、ダイレクトに伝えるのだなぁ、と改めて実感した。ライブでは、如何にリハーサルしているとはいえ、大勢の"他人"に自分の書いたメロディーを託すのだから、様々な解釈があって然るべきなのだろうなぁ、と。


ふと。過去に似たような感慨を覚えたなぁと気がついた。Flavor Of Lifeである。あの時も、バラード・バージョンを聴いてよくわからなかった、いや、その時点ではわかっていなかった事自体がわかっていなかったと言った方がいいかもしれないな、そういう幾つかのポイントが、オリジナル・バージョンを聴く事で「そういう事だったのか」と腑にが落ちたのだった。勿論、ここでもオリジナル・バージョンの方が"作曲者の意図"をダイレクトに伝えてくれた訳だ。

今まではその違いと気付きを「オリジナルがアップテンポなのをバラードバージョンにした為」くらいにしか考えていなかったが、これを「他者の介在」とみた方がよりわかりやすいかもしれない。今回そう思い至った。

スタジオ盤でゴリゴリに作り込まれた構築美を誇るZABADAKの楽曲がライブの場で生々しく生まれ変わるのは、演奏に「他者の解釈」が入るからだ。同じように、Flavor Of Lifeのバラードバージョンも、他者の目線、他者の手が介在した事で新しく生まれ変わった、そんな風に考える事が出来るのではないか。


となると、だ。勿論そんな事は本来のコンセプトに反するが、仮にヒカルが「宇多田ヒカルのうた」に1曲提供するとするならば、"Flavor Of Life - Ballad Version -"がハマるかもしれない、とそんな奇天烈な話まで思いついてしまった。確かに、なんか"そぐう"気がしてならない。そういや今回はFoL取り上げられなかったねぇ。第2弾がもしあるなら、誰かやってくんねーかな。

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凄いなぁ、錦織が全豪ベスト8に入っても大した驚きがない。世界5位なんだからベスト8は義務だと言わんばかり。変わった。

しかし、去年から続くこの錦織ブーム、いつまで続くのやら。はっきり言って男子テニスは観ていて面白いスポーツではない。そもそも試合時間が4時間や5時間もかかるだなんて、映画だったら前後編に分けて上映するところだ。特に最も注目度の高いウィンブルドンなんぞサービス放り込んで終わりである。勝負の妙味も何もない。

しかし、男子テニスの試合を短くしようだなんて声は聞かれない。ウィンブルドンは客が入りっぱなしだからだ。テニスファンは皆満足しているのだから。試合時間が長くてつまらないだとかビッグサーバーには欠伸が出るとかいうのは彼らからしてみれば「テニスを分かってないヤツ」の言う事なのだろう。ごもっとも。

こういう状況って難しい。テニス愛好者というのはどこの国でも貴族的な、マナーを尊び品行方正な紳士淑女と相場が決まっているので概して改革を嫌うという意味で保守的なのである。実際に物凄い数のテニスファンが現存し現行ルールを好んでいる。何の問題もない。

果てさて、錦織ブームでどれどれテニスでも観てみようかとなった日本人が、そこからどれだけテニスファンになって貰えるかだ。例えばフィギュア・スケートなら、細かい採点基準はわからなくても、テレビで観ていて美しいし楽しい。その要素がなければあそこまで高視聴率を稼ぐビッグ・コンテンツにはなりえなかっただろう。果たして、例えば日本から錦織クラスの選手が2人3人と同時代に出てきたとして、4大大会の決勝戦などが高視聴率を獲得できるだろうか。見ものではある。


超ビッグなスーパースターが出てきた時その人(々)はそのジャンルの広告塔としての役割を担う。16年前のヒカルはまさにそれで、「CDを買う」という行為を最大限まで広めた貢献者であるとともに、沢山の「買ってみただけの人たち」を繋ぎ止めきれなかった"犯人"でもある。まぁ実際は、1998年がCD生産のピークで、1999年以降は寧ろヒカルのお陰で"下げ止まった"というのが正しい解釈なのだろうが、ヒカルがそういった広告塔としてな役割を当時担っていたのはまぁ大概事実と言っていいのではないか。

私からすれば宇多田ヒカルを聴いた事がある癖に買わなくなっている人には耳掃除を勧めたくなるのだがそこはぐっと堪えて。どうして"繋ぎ止めきれなかったのか"については反省する事も出来る。或いは、実際は数字にあらわれていないだけで、音楽は90年代よりずっと愛されていたりするのかもしれない。ここは、わからない。

しかし、昨年のアナ雪の大ヒットをみれば、スイッチさえ入ればまだまだ皆が歌を口遊みたくなる局面は多いのだと知らされる。何をどう組み合わせれば、次のヒカルがああいった層にまでアピールできるか。考える必要があるだろう。


いや、そんなの考える必要なんてそもそもないのではないかという反論については、また次回のお楽しみ。

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