無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Twitterでメンションとリプライの違いをどうわかりやすく表現しようかとこんな言い方を考えてみた。「人に対するツイートがメンション、ツイートに対するツイートがリプライ」。でも"非公式RT"というよくわからない存在の息が長いからそれと混同してしまう。最初っからきっぱりQTとRTに分けときゃよかったのに…って後の祭りだねぇ。

で、本文は枕と関係ないという。前回からの続きだからね。

EMIからワールドワイドデビューするとして、日本以外の国での/へのインタビューはどうするつもりだろうか。勿論どういった作品を作り上げるかによるが、日本向けにはオフィシャルインタビューの語り分け、海外に向けては個別とか、なんか不自然じゃなかろうか。だからといって国内でのインタビューの本数を増やすとか本末転倒な気もするし。これは難しい。

英語でインタビューできる国はまぁいいんだが、例えば(偏見を敢えて発動させれば)フランスなんかが相手だとやっぱり通訳を挟む事になるのだろうか。インタビューはなかったようだが、EXODUS発売時にはオランダ語の記事が出た事もある。香港や韓国からの取材も受けてた気がする。Twitterでは定期的にタイ語のツイートが流れてくるし。あれ最初何語かわかんなかったよ。うーむ、やはり日本国内の知名度を考えると不自然とはいえUtaDAの時と同様の手法をとらざるを得ないか。

インタビューの厄介なのは、一回々々のインタビューは不快でなくとも、何回もこなしていくうちに苦痛となっていく点だ。同じ事を数百回(になると思う、次は)も訊かれたらそりゃ疲れる。同じ質疑応答を3回翻訳もすれば徒労感が出てくるんだから(今やったらどんな気分になるだろうなぁ)、その数十倍をいちいち愛想よく返答するなんて余程の精神力がないと無理だ。2009年にドクターストップが掛かったのも、プロモーション活動の過多が原因、というのが自然な見立てだろうし、何かいい方法はないのだろうか。

しかし、日本以外の国では選り好みできる立場にはないだろう。松浦さんみたいに書き分けてくれる人を英語圏だけでも…って、独自取材も出来ないのにそこまでUtada Hikaruの記事が欲しいっていう媒体もそんなにないだろう。パワーバランスは、まだまだそこまで行っていない。通常通り、依頼のあった媒体やらレコード会社がセッティングしてくれたインタビューやらを相手にせんとならん。

しかもそれが、テレビやラジオにまで波及してくる。こういったメディアは"生出演"というのがあるから厄介だ。更に々々、今はWebストリーミング番組も増えてるからそういったコンテンツにも参加しなくてはいけなくなる。考えるだけでもウンザリする。見させて聞かせて読ませてもらうこちらとしては沢山露出があって嬉しくて仕方がないのだが(いや薄着って意味じゃないぞ←誰もそんなこと言うてへんがな)、ヒカルが疲弊しては意味がない。次倒れたら「また宇多田がダウン」って言われるのは間違いない。なんか無闇に病弱で繊細なイメージがついて纏いそうな悪寒がする。かといって共同記者会見とか…外タレかよ…外タレか…。

兎も角今は考えてもあまり意味がない(←それこのエントリー全否定だよ)。どんな作品を作るかでマーケティングはガラリと変わるからだ。にしても、制作中はそんなこと考える余裕ないかもしれないし(何しろここは歌手もマネージャーもプロデュースしとるからな)、かなり早い段階でレコード会社と打ち合わせをしてプロモーション活動の方法論と方向性を煮詰めておいた方がいいように思う。何をおいても、光の健康がいちばん大切なのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




Twitterで、アーティスト側から謝礼を払って雑誌にインタビューを載せてもらう話に驚いた、とかいうツイートが発端となって音楽関連の紙媒体の在り方についての議論が広がっていったようだ。梶さんも反応していたな。こういうのはやりとりの導火線になりさえすれば御役御免だと思うので言うだけ野暮なのだが、その発端の本質は、インタビューの際雑誌とアーティスト側のどちらが金銭を払うのかという話ではなく、「そういう事実を知らなかった」という事の方だ。ここを取り違えると、総てがあらぬ方向に行く。まぁそれでいいんだけども。

どちら側が払うか、というのは言うなればただのパワーバランスであり、インタビューの雑誌掲載によって受けるメリットが各々どちらがどれ位大きいかで決まる。その値が正負どちらをとるかはそのバランス次第でしかなく、その点で話は明瞭だ。

問題はPretendingである。あたかも、まるで雑誌側が謝礼を払ってインタビューを取っているかのように振る舞っていた事が問題なのだ。最初っから"ケースバイケースだから"という一般常識が広まっていたのなら特に気にとめられないだろう。「欺かれていた」。その実感が声に繋がるのである。

常識のギャップ、という論理的可能性も考慮に入れなければならない。読者の側と編集者の側で共有する常識が違っていた、と。その認識のギャップを埋める作業を怠っていた、或いはそもそもギャップの存在に気がついていなかった、のかもしれない。そういうケースも、あり得る。

要は、昨今取り沙汰されているステルスマーケティングに対する反応と同種なのだ。問題はマーケティングの方ではなく、ステルスの方なのだ。宣伝や販売は悪い事ではない。「欺かれていたこと」に対する嫌悪が、ひとをステマ疑心暗鬼に駆り立てるのである。宣伝自体に正悪はない。

ああ、野暮だった。

それでヒカルの媒体露出について考えようかと思ったのだが、基本的にインタビューをとる側が「是非宇多田ヒカルのインタビューを」と求める状況はなんだかんだで変わっていない、つまり、パワーバランスは圧倒的にヒカル側に偏っているし、大概のインタビューは松浦さんがオフィシャルインタビューとして纏めてとったものの再編集版なので、そもそもこういった問題とは無縁であった。何か特殊なインタビューやら対談やらがある場合も、ヒカルの一存でその是非を決められるのだろうし、時間の制約はあるとはいえ、ヒカルは基本的に協力姿勢である。こちらは、何の問題もない。

あるとすればあちら側、海の向こう側でのプロモーションの話になったら、というケースであろうか。では次回はその話の続きからという事で。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )