無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回の補足。商業音楽市場ではオリジナリティの面で日本が欧米の追従である事は論を待たないが、ゲームの世界に関しては難しい。これは、ジャンル毎に状況が多種多様なので、あんまり国ごとの違いを大ざっぱにでも把握しようなんて思わない方がいいのかもしれない。例えば、日本のドラクエは海外のウルティマとウィザードリィを掛け合わせたゲームシステムだが、だからといってオリジナリティが低いかというとまた違う。あれ、そんな話はいいか。無駄な補足だったな。要は、ゲームの世界はそんなに一面的ではないから一括りには括れないよと。

日本という国の特殊性を支えているのは何といっても日本語である。この非関税障壁のお陰で、日本の歌は日本語の歌なのだ。アニメやドラマや映画は吹き替えるかスーパーインポーズすればよいが、歌の場合は翻訳でなく(翻訳であってもいいけれど)作詞が必要となる。これはかなり特異な事態である。文学という言葉だけの文化ですら、翻訳という作業を通して作品を十全に、100%でなくてもその殆どの魅力を味わう事が出来るが、歌の場合はなかなかそうはいかない。

なぜ、ことばだけの文化である文学よりことばと音楽のブレンドであってことばの役割は半分に過ぎない歌の方がことばの壁をより強く感じるのか。答は単純で、言語を音声、音としても捉えているからである。

意味が重視されていればいるほど、ことばの文化は翻訳を通して世界中に滞りなく浸透していく。考えてみれば2つの異なる言語が相互いに翻訳可能である事は自明でもなんでもないのだが、不思議な事に我々は、少なくとも何百万人以上に普及している位に有名な言語同士なら当然のように翻訳が可能だと思い込んでいる。そして事実そうなのだ。

これらから我々は、意味の世界は音声とは(今は関係ないが文字とも)根本的に無関係だという事を無意識に実感している事になる。その無意識の実感を攪乱するのが歌なのだ。

我々は〈って繰り返してると"ウチュウジンダ"って続けたくなるな〉、歌によってその実感を攪乱され、また、それによって言葉に意味がある事をもまた思い出す。てんでややこしい。

音声言語を純粋に音声として捉える時、我々は意味の方を捨象している。言い換えれば、人間が勝手に擦(なす)り付けていた何かを削ぎ落とし、純粋な実体としての、現実の事象としての"音"を取り戻すのである。この過程は劇的だ。

というのも、我々の世界の認識は言語無しでは有り得ないからだ。どの特定の言語も必須ではないが、そこには"言語性"自体が必ず存在する。ここでいう言語性とは"無関係なもの同士を勝手に結びつける"性質の事だ。これが認識の起源である。

話が長くなってヒカルが出てくるパートに至らなかった。なんて至らない私。続きはまた次回。私がまだ居たらな。居るだろうけど(笑)。

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ヒカルの場合、捻れの位置に居るというのは、超一流である事は誰しも認める所である一方、ファッションリーダーになったこともカリスマになったこともないし、熱狂的なファンに崇拝されるような雰囲気もないし、ただPopな訳でもただコアなだけでもない、"あれでもない、これでもない"なポジショニングを取っているという事だ。

確かにデビュー時は和製R&Bブームに乗っかる形で出てきたようにも見えたし、実際Misiaが一足お先にブレイクして下地を作っていてくれたというのもあるのだが、現実には宇多田ヒカルが売れた為に皆"R&B"という単語を知った、というのが正しい。以降その枷はかなりとれたが(今でもちらほら言う人は居る)、ファッションとかカリスマ以上に、ジャンルひとつを広められるだけの大ブレイクだった為、そもそも寄って立つ基盤なんてないのである。立ち位置といってもピンと来ないのはその為だ。

そして、その余りの大きさ故に、擬人化した表現を用いれば、日本という国のもつコンプレックスを解消してくれる存在として期待された。彼女が"本場"たる米国で本格的にブレイクしてくれれば、欧米に対して抱く憧憬を消して対等な国同士になれる気がする―そもそも相手の用意した舞台で戦おうと思っている時点で違うのだが、兎も角ヒカルはそこまで期待される存在になった。

実際の結果は今の所こんな感じである。世界的に最も知名度が高いのはKingdom Heartsに起用されたSimple And CleanとSanctuaryで、他方米国のラジオでそこそこかかったCome Back To Meも結構知られているだろう。アジア圏ではどうやらFirst Loveの人気が高いらしい。

こうやって眺めてみると、恐らく最初に期待されていたのはCBtMのような"アメリカのラジオで普通にかかる曲"で、これはかなり溜飲を下げたと思うのだが、もう一つはオタクの権化であるコンピューターゲームの中に組み込まれて普及した。しかも、日本の用意したシステムに米国産のキャラクターが乗っかるという、音楽の世界とは完全に主従が逆転した構図の中で、だ。更にもうひとつは英語の歌詞とか発音とか殆ど関係ない日本語主体の邦楽曲が、欧米以外の国でウケたという構図である。世界的に有名といっても、それぞれに事情が違う訳だ。

挑戦者として相手の土俵にあがったケース、日本発のグローバル仕様の文化とのコラボレーション、国内向けのものがそのまま海外でも通用したケースと、光の海外での成功はそのまま日本という国がこれからどう生きていくかのモデルケースになっている。どれもあまり相容れない方法論同士だが、光はこれを一身のうちに背負ってきたのだ。これがつまりは"捻れの位置"の正体である。1人の人間がこの"矛盾"を抱え込んでいるのだからまぁなんとも曰く言い難いよな。

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