夢ではなく愛を語り求める歌というのがヒカルのひとつ大きなテーマになっている、とは何度も繰り返してきた通りだ。元々世相的にはひとの夢を応援するタイプの歌が氾濫する中で我が道を来ていた、という風に捉えていたが、気が付いてみるとヒカルの歌の方がこれからの俗世には相応しくなっていくかもしれない、と思い始めた。
というのも、今の時代、特にこの国では夢を持ち、夢を語る事が非常に難しくなっているからだ。理由は単純にして強力で、これも毎度述べている通りこの国全体が老い始めているからである。
この国(まぁ大体1億人規模の人間と他国から隔離された列島)の全体の動きは、様々な要素を勘案しなければならないものの、概ね人口の時間的及び空間的推移に同調している。戦後人口が増え都市部に集中していく過程で高度経済成長が起き、それが緩やかに落ち着いていく中でバブルを迎え、減り始めた今没落していく。歯止めをかけるにはまぁまた都市部に人口が移動することが必要になるだろうが、まぁ無理だろう。人の年齢と土地移動を表現する三次元世界線は緩やかに巻き取られながら消えていく流れの中にあり、それを曲げるのは至難である。
そういった中でひとに「明日はもっといい日を」と説いても、なかなか響かない。日出る国から日傾く国に移る課程においては、薔薇色の未来を夢見てひたむきに生きようと呼びかけるより、今この場で満たされる何かを得て運命を認められる心の許しが必要になる。いつのまにかリアリティはそちらになりつつあるのだ。
ヒカルは別にそんな事考えて歌詞を書いてきた訳でもないし、そういう視点で歌詞を取り上げられた事もない。しかし、その優しい視線は、確実に様々な人の心を癒やしている。病人の看護や老人の介護、幼子の子育てなど人の世話をする人生を送っている人に特に響いている気がするのは気のせいなのかな。どうなんだろう。
一方で、ヒカルのファンには夢見るべき若人も確実に存在する。うちのツイッターのフォロワーさんにも、いつか歌手になりたい、と頑張っている人たちが何人か居る。彼らに対してはヒカルの歌はどうなのか。歌詞の中ではすぐには思いつかないが、インタビューではあっさりとこう言っている。「やりたい事があるなら今やればいい」と。未来を夢見る必要はないと。恐らく、例えば歌手になりたいなら今歌えばいい、といった所か。それは、具体的な、例えば「武道館の舞台に立ちたい」といった目標を今叶える訳にはいかない事は重々承知の上だろう。話はそこではなくて、「じゃあ武道館の舞台の上に立ったとして、あんたそこで何やるの?」という話なのだ。歌うだろう。じゃあ、今同じように歌えばいいのだ。武道館の舞台の上で歌うのと同じように。結局、ただそれだけである。
多分、時代云々よりヒカルは、いつの日も誰かに求められるような歌を唄っているに過ぎないかもしれない。しかし、それでも尚、この国のことばで歌われる歌たちは、この国の運命と共にあるように思えてならない。それが誰の意図した事ではなかったとしても。
| Trackback ( 0 )
|