無意識日記
宇多田光 word:i_
 



斜陽の国に必要なのは、争わず悲観せず時を過ごせる"暇つぶし"の充実である。今日頑張って働けば新しい電化製品が明日買える、みたいな昭和のモチベーションとは違い、もう素直にたった今楽しめる事、夢中になれる事があった方がいい。特に労働力として期待されていない層は、或いはひとりの人の"そういう時間帯"でもいいけれど、如何に人に迷惑をかけずに暇を潰すかが大事である。

そういう時にはやはりスポーツと音楽は強力である。スポーツの方は勝負事であるが故に時に代替戦争となり、政治に巻き込まれる事も多いが音楽の方はまだ比較的穏やかだろう。太古の昔から音楽には文化が様々な意味づけをしてきたが、何より"鼻歌"に代表されるように暇つぶしの極意という側面がいちばん強い。大きな声で~歌を歌って~♪みたら気分がよくなって腹が減るだけだ。他に何にも残らない。これぞ娯楽である。

で、なんだが。そういう"手軽な楽しみ"としてヒカルの音楽を聴いている人はどれ位居るだろうか。さっぱりわからないが、それが多数派だと思う。歌詞に救われたとか泣く程感動した、なんて人々はそれだけやたらと語る事が多いので目立つのだが、殆どの人は「いい曲だねぇ」とまるで今日の天気は晴れですねくらいのノリで言ってる程度じゃないか。「歌なんてそんなもん」である。他の職業、例えば医者や法律家に較べたら人の人生を左右する割合はずっと小さい。突き詰めてしまうと"あってもなくても"という所まで来てしまう。

光は、12年間身を削る思いで音楽を作ってきた。実際にげっそり痩せた事もあったし何度か倒れた。我々の知らないタイミングで医者にかかっていた事もあったかもしれない。そうまでしてシリアスに作り上げてきたものを"手軽な暇つぶし"と言って片付けてしまっていいものか。

いい。よくなくてはならない。そうやってお手軽に消費されるのが娯楽なのだ。何の意味もない、重篤な影響なんて及ぼさない、そんな何かに対してそれでも人生の大部分を捧げる。私はこれこそが愛だと思う。ただ、好きでやっているだけ。その境地に来て初めて、命懸けで創り出したものがお手軽な暇つぶしに使われる事を素直に喜べる。

そして光は、それが誰よりも出来てきたのだと思うし、これからもそうだろう。しかしその上で、そうであっても何か重いもの、切実なものをそこに載せたがっているようにも、時々思える。それがないと書けない歌詞が沢山あった。ただテクニカルに歌詞を構築していく面白さだけでなく、やっぱりそこには"言いたいこと"や"伝えたいこと"がある。その、どちらだけにもならないスタンスが宇多田ヒカル独特のPop Senseとして認知されている。それで今まで売れてきたんだから、それはそれでいい気がする。

そのバランス。鼻歌と命懸け、暇つぶしと全犠牲。どこらへんが落としどころなのかは正直わからない。しかし、この日沈みゆく国においては、肩の力を抜いて優しさを振り撒いてくれる歌がいい。夢が叶わなくたって、まぁいいんじゃない、と言ってくれるような。だからって最初っから頑張ることを諦めて欲しい訳でもなく。やっぱりバランスは難しいが、耳当たりのいい夢見話だけは、光は話さない、かな? やっぱりわかんないわ。今彼女は、どんな風に考えているのだろう。

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斜陽  


夢ではなく愛を語り求める歌というのがヒカルのひとつ大きなテーマになっている、とは何度も繰り返してきた通りだ。元々世相的にはひとの夢を応援するタイプの歌が氾濫する中で我が道を来ていた、という風に捉えていたが、気が付いてみるとヒカルの歌の方がこれからの俗世には相応しくなっていくかもしれない、と思い始めた。

というのも、今の時代、特にこの国では夢を持ち、夢を語る事が非常に難しくなっているからだ。理由は単純にして強力で、これも毎度述べている通りこの国全体が老い始めているからである。

この国(まぁ大体1億人規模の人間と他国から隔離された列島)の全体の動きは、様々な要素を勘案しなければならないものの、概ね人口の時間的及び空間的推移に同調している。戦後人口が増え都市部に集中していく過程で高度経済成長が起き、それが緩やかに落ち着いていく中でバブルを迎え、減り始めた今没落していく。歯止めをかけるにはまぁまた都市部に人口が移動することが必要になるだろうが、まぁ無理だろう。人の年齢と土地移動を表現する三次元世界線は緩やかに巻き取られながら消えていく流れの中にあり、それを曲げるのは至難である。

そういった中でひとに「明日はもっといい日を」と説いても、なかなか響かない。日出る国から日傾く国に移る課程においては、薔薇色の未来を夢見てひたむきに生きようと呼びかけるより、今この場で満たされる何かを得て運命を認められる心の許しが必要になる。いつのまにかリアリティはそちらになりつつあるのだ。

ヒカルは別にそんな事考えて歌詞を書いてきた訳でもないし、そういう視点で歌詞を取り上げられた事もない。しかし、その優しい視線は、確実に様々な人の心を癒やしている。病人の看護や老人の介護、幼子の子育てなど人の世話をする人生を送っている人に特に響いている気がするのは気のせいなのかな。どうなんだろう。

一方で、ヒカルのファンには夢見るべき若人も確実に存在する。うちのツイッターのフォロワーさんにも、いつか歌手になりたい、と頑張っている人たちが何人か居る。彼らに対してはヒカルの歌はどうなのか。歌詞の中ではすぐには思いつかないが、インタビューではあっさりとこう言っている。「やりたい事があるなら今やればいい」と。未来を夢見る必要はないと。恐らく、例えば歌手になりたいなら今歌えばいい、といった所か。それは、具体的な、例えば「武道館の舞台に立ちたい」といった目標を今叶える訳にはいかない事は重々承知の上だろう。話はそこではなくて、「じゃあ武道館の舞台の上に立ったとして、あんたそこで何やるの?」という話なのだ。歌うだろう。じゃあ、今同じように歌えばいいのだ。武道館の舞台の上で歌うのと同じように。結局、ただそれだけである。

多分、時代云々よりヒカルは、いつの日も誰かに求められるような歌を唄っているに過ぎないかもしれない。しかし、それでも尚、この国のことばで歌われる歌たちは、この国の運命と共にあるように思えてならない。それが誰の意図した事ではなかったとしても。

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