トシの読書日記

読書備忘録

諦観のあとにくる絶望

2016-08-23 16:46:15 | や行の作家


吉田知子「無明長夜」読了



本書は昭和45年に新潮社より発刊されたものです。


昭和45年といえば自分は中学生だったんですが、その時本書を読みました。まぁ右も左も分からない中学生に本書の魅力もわかるはずもなく、なんだか不思議な小説だなぁと思ったことを覚えています。


吉田知子の一番初期の作品が7編収められた短編集なんですが、表題作の「無明長夜」がとにかくすごかった。(これは80項ほどの中編)これは主人公の「私」(女性)の観念小説です。自分の思い、考え、見るものを延々と綴っていく。シンボリックな御本山。そこの寺の僧である新院。癲癇持ちの友人、玉枝。山道で玉枝が発作を起こし、自分に向って倒れてくるのを、身をかわして沢の淵に落とし、死なせた「私」。


もう、このなんともいえないすごい世界にからめとられて、読む者はなすすべもありません。印象に残ったところ、ちょっと引用してみます。


<私は子供の頃から赤いものを見ると特別な気分になりました。頭の中がカッと熱くなりました。どうにもならないものを引きずり歩いている。そういう不明瞭な不快感がありました。「どうにもならないもの」というのは私であり、また私の前にある途方もなく長い道なのです。>


<私は例によって考えているような、いないような状態で顔を外へ向けていました。そこに、ふいに壮んに燃えあがっている火が見えたのです。(中略)私はふるえながら火を眺めました。感動のための身震いでした。体中の血が奔流となって逆に流れだしたような鮮烈な苦しさを感じました。自分は生きているのだ、と私は思いました。それは極めて即物的な感動で、思考や精神の入りこむ余地は何もなかったのです。私は映画の手術の場面で、切り開かれた胸の中の血みどろな心臓が脈うっているのを見たことがあります。(中略)生きている、あの心臓のように生きている、と私は感じました。私は言葉にならぬ嘆声を発して軽便のデッキにうずくまりました。私の内部の、私とは別のところにいる生きものが生理的な涙を排泄していました。言葉や頭ではなく私でもないもの、私の存在そのものが闇の中の、いまはもう一点の光となった赤い火に揺り動かされて激しくおののいていたのでした。>


<周囲が幻覚ならば、それこそが私にとって現実と言うべきものなのでした。それが見えると、いつも私の体から力が抜けました。空間に不安定な恰好で宙吊りになっている自分の姿が見えるのです。ああそうか、やっぱり駄目か、と私は思い、憑きものが落ちたように平静になる。私は口の中に水が入ってくるおそれがなければ、このようなことを言ったでしょう。「そうですか。騙せませんか。それでは、しかたがありませんね。」>


全編こういった調子で主人公のモノローグが続いていきます。


最後、主人公は精神に破綻をきたすわけですが、この物語の描く世界にとにかく圧倒されます。この作品を読んでいると、生きることと死ぬことには何の差もない、といったような諦念にとらわれます。読んでいくのがこんなに重苦しく、辛い小説はありません。が、しかし読み終えるともう一回読みたくなる小説です。


今からもう一回読んでみます。

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