トシの読書日記

読書備忘録

永劫回帰という重さ

2009-09-19 19:30:04 | か行の作家
ミラン・クンデラ著 千野栄一訳「存在の耐えられない軽さ」読了


久しぶりに重厚な長編を読みました。読後、しばし放心状態でした(笑)


本書のタイトル、「存在の耐えられない軽さ」というのは、たった一度きりの人生で、いろんな岐路に立たされたとき、その時の決断が是なのか非なのか、それはそのあとの人生でしかわからないという、自分の(又は全ての人間の)存在のあまりの軽さに耐えられないという意味だと思います。


この小説を読んで、登場してくる人物たちの運命というか、宿命に翻弄される姿を見ると、まさにその軽さに読んでいる方が耐えられなくなってしまいます。


以下、心に響いた箇所を引用します。たくさんあります(笑)




「…比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるものである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか?」



「…生徒は誰でも、物理の時間にある学問上の仮説が正しいかどうかを確かめるために実験をすることが可能である。しかし、人間はただ一つの人生を生きるのであるから、仮説を実験で確かめるいかなる可能性も持たず、従って自分の感情に従うべきか否かを知ることがないのである。」



「私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。それだから私はどれも同じように好きだし、私を同じようにぞくっとさせる。そのいずれもが、私がただその周囲をめぐっただけの境界を踏み越えている。まさにその踏み越えられた境界(私の「私」なるものがそこで終わる境界)が私を引きつけるのである。その向う側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。」



「…メタファーというものは危険である。愛はメタファーから始まる。別なことばでいえば、愛は女がわれわれの詩的記憶に自分の最初のことばを書き込む瞬間に始まるのである。」



「私というものの唯一性は、人間にある思いがけなさの中にこそかくされているものである。すべての人に同じで、共通のものだけをわれわれは想像できる。個人的な「私」とは一般的なものと違うもの、すなわち、前もって推測したり計算したりできないもの、ベールを取り除き、むき出しにし、獲得することのできるものなのである。」



「そしてふたたび、もうわれわれが知っている考えが彼をとらえる。人生はたった一度かぎりだ。それゆえわれわれのどの決断が正しかったか、どの決断が誤っていたかを確認することはけっしてできない。所与の状況でたったの一度しか決断できない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三、第四の人生は与えられていないのである。」




「…あの男は、歴史がスケッチではなく、もうできあがった絵であるかのように行動した。自分の行動にみじんも疑いを抱かず、やっているすべてのことが無限に繰り返され、永劫回帰をしているかのように振る舞った。自分が正しいことに自信を持ち、それを狭量の印としてではなく、徳性のサインとみなしていた。あの男はトマーシュとは別の歴史、スケッチではない(あるいはスケッチだと理解していない)歴史に生きていた。」




「…このユートピアの見通しには、ペシミズムとオプティミズムの概念を十分に使うことによってのみ、正当化が可能であろう。オプティミストとは第五の惑星における人間の歴史が血で汚されることがより少なくなっていると考える人である。ペシミストとはそう思わない人である。」



「俗悪なもの(キッチュ)が呼びおこす感情は、もちろんそれを非常に多数の人が分け合えるようなものでなければならない。従って俗悪なもの(キッチュ)は滅多にない状況に基づいてはならず、人びとが記憶に刻み込んだ基本的な姿に基づいていなければならない。恩知らずの娘、問題にされない父親、芝生を駆けていく子供、裏切られた祖国、初恋への思い出。
 俗悪なもの(キッチュ)は続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
 第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!
 この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。
 世界の人びとの兄弟愛はただ俗悪なもの(キッチュ)の上にのみ形成できるのである。」



「…そしてトマーシュに対してさえ愛情をこめて接しなければならない。なぜなら、トマーシュがそれを必要とするからである。他人に対する関係のどの部分がわれわれの感情、すなわち愛、反感、善良さ、敵意の結果であり、どの部分が個々人の間における力の政策によって前もって定められているのか確信をもっていうことはできない。」



「…しかし主なることは、どんな人間でももう一人の人間に牧歌という贈り物をもたらすことができないことである。これができるのは動物だけで、それは《天国》から追われてないからである。人間と犬の愛は牧歌的である。そこには衝突も、苦しみを与えるような場面もなく、そこには発展もない。カレーニン(犬)はテレザとトマーシュを繰り返しに基づく生活で包み、同じことを二人から期待した。」






主人公であるトマーシュ(プラハの優秀な外科医)、そしてその妻となったテレザ、トマーシュの愛人であったサビナ、そのサビナのまた別の恋人であるフランツ。彼ら彼女らの送った人生は果たしてそれでよかったのか。別の生き方もあったのではないか、という疑問を振り払うことができません。


しかし、人は一度しか人生を生きられないのですからその選択が正しかろうが、間違っていようが、それはもうどうすることもできないわけです。



人生の無常を痛切に感じます。

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