ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

酒、酒を呑む

2022年08月26日 | その他

 最近、酒量が増えています。

 お盆休み前までは、平日はほとんど呑まなかったのですが、お盆休み期間中、毎晩晩酌を楽しんでいたら、習慣化したというか、癖になったというか、そんな感じです。
 飲酒は習慣性が高いので、そういうことになりました。
   内科医に肝臓の数値が悪化していると叱られたのは、もう3年も前でしたか。
 それ以来、平日は呑まない生活を続け、肝臓の数値はすっかり良くなりました。

 その時思ったのは、飲酒は当然として、節酒も習慣化するということです。

 呑めば酔い、それは心地よいですが、素面で夜を過ごすとクリアな頭で色々と意欲的になり、平日の夜を充実して過ごせるという心地よさがあります。
 また、翌朝、目覚まし時計なしで爽やかに起きられます。

 ただし、素面で過ごす心地良さを味わうには、夕飯時の飲酒欲求を抑えなければ成しえません。
 ここが難しいところです。
 夕飯時、食前酒を呑みたいという欲求が強く現れます。
 そして食前酒を呑めば、食中酒になり、食後酒になること必定で、翌朝だるくて重い体で起きなければなりません。

 わかっちゃいるけどやめられない、とは青島幸男が作詞してクレージーキャッツの主に植木等が歌ったスーダラ節の名文句ですが、本当にそうだと思います。

 なんでも植木等の父親が禅坊主だったとかで、ご当人がその歌詞の内容から歌うことを躊躇していた時、この文句は人間の真理をついており、必ずヒットすると、倅の背中を押したと聞き及びます。

 ギャグというのはどこか寸鉄人を指すようなところがなければ忘れ去られてしまうような気がします。
 そういう意味では、バカボンパパの、これでいいのだなんていうのも名作でしょうねぇ。

 閑話休題。

 話が逸れてしまいました。
 酒の話です。

 私は二十歳になる少し前から日常的に酒を呑むようになりました。
 大学に入学した18歳からです。

 大学というのは不思議な所で、浪人せずに入学すれば必ず18歳で未成年なわけですが、入学した途端、飲酒を許されたような雰囲気になってしまいます。

 それどころか、1990年代くらいまで、新歓コンパなどでは新入生に深酒することを強要し、毎年、急性アルコール中毒で若い命を散らす者が後を絶ちませんでした。

 最近ではアルコール・ハラスメントとかいう概念が登場し、酒の強要は許されないこととされました。
 それは大変結構なことで、体調を崩したり、ひどい場合には亡くなってしまうリスクはほぼ無くなりました。

 酒を強要するような宴会はもはや遠い昔の物語で、呑みたいやつだけが勝手に呑む、呑ん兵衛にとっては夢の世界になりました。

 酒好きだけが一緒に呑むのですから楽しいに決まっています。
 この夢の世界、コロナで中断を余儀なくされました。
 最近、だいぶ規制が緩やかになりましたが、多くの人は外で酒を呑むという行為を自主規制しているものと思います。

 私もそうです。
 長いこと、外でじっくり呑むということをしていません。

 時折、昼に蕎麦屋で生ビールを一杯だけ呑むことがありますが、私にとってはビールなんて深酒した時の酔い覚ましのようなものです。

 全然効きません。 

 節酒の快感と酔いの心地よさでは、どうしても酔いが勝ってしまうようです。

 手塚治虫に「地球を呑む」という大人向けの漫画があります。
 地球そのものを酒に見立てて、すべて呑んでしまいたいということかと思われます。

 ここで、酒で破滅する主人公が登場します。

 この漫画を読むと、なんだか身につまされるようで、自然と額に脂汗が浮き、顔面が紅潮します。
 己を責め立てられているような気がするのです。

 それでも、私は酒を呑み続けるのでしょうね。
 そして多くの酒呑みが酒で命を落としたように、私もまた、酒で肝臓をやられて死ぬのだろうと思います。

 ある程度の節酒はできても、完全禁酒は不可能でしょうから。


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