私は学生の頃、英国の思想家にして神秘主義に深い関心を寄せたコリン・ウィルソンの著作を好んで読みました。
なかでもマズローが唱えた至高体験を独自に解釈っした「至高体験 自己実現のための心理学」には感銘を受け、何度も読み返しました。
至高体験とは、なにも神秘主義的な体験ではありません。
例えば晴れた土曜日の朝に感じる、何事にも代えがたい幸福感に包まれた感じとか、分かりやすい言葉で解説さあれています。
しかしそこに至るには階段を上らなければなりません。
これは健康な人が感じる幸福感で、マズローはこの至高体験を繰り返して生きることを良しとしました。
当たり前といえば当たり前ですが。
マズローは至高体験に至る道を、5段階で説明しています。
すなわち、①生理的欲求、②安全の欲求、③所属と愛の欲求、④承認欲求、④自己実現の欲求、そして、その先にあるものこそが至高体験というわけです。
大抵の人は食えて、安全で、家族や恋人などに愛され、愛し、自れが認められれば、それでよしとするでしょう。
しかしその先には、自己実現欲求さらには至高体験が待っているというわけです。
私自身は病んでいながら、この健康的な心理学に惹かれます。
また、ある仏教学者は、仏教の研究だけでは飽き足らず、自ら禅を組み、南無阿弥陀仏を唱え、南無妙法蓮華経も唱え、と、仏教のハシゴのようなことを行います。
そしてある時、自分には禅が合っていると思い至り、もっぱら禅門の修行に取り掛かります。
そんなことを続けているうち、ブッダ・ダンマ(仏法)が体の中を駆け抜ける、という神秘体験を経験し、ますます禅にのめりこんでいきます。
これもまた、至高体験でしょうか。
私は躁状態に陥ったとき、病気だとは思わず、うつが治癒し、さらにはその喜びから至高体験を繰り返しているのだと勘違いしました。
それは魔道に落ちる道だったのです。
幸いにして、私は精神科に通っていましたから、それは至高体験などではなく、単なる躁状態だと知ることになります。
病気を知って、薬によって抑えられた時、私は寂しさを感じました。
躁状態に現れる多幸感、全能感は素晴らしい体験で、例えば性欲が異常に高まるとか、浪費していますとかいう負の側面をさっぴいても、もう一度経験したい、と、今でも思うときがあります。
麻薬のようなものだとしても。
マズローの心理学を知っていながら、この体たらくです。
もう嗤うしかありません。
至高体験にしても、ブッダ・ダンマが全身を駆け抜けるという神秘体験にしても、段階を踏まなければなりません。
私には仏道修行は無理ですから、至高体験に至る道を、地道に歩いていければ、と思っています。