少し前のことになりますが、シリアでの停戦合意も虚しく、戦いはまた始まってしまいました。
アサド政権を支持するロシア、反政府勢力を支持する米国に、イスラム国までもが関わって、泥沼の様相を呈しています。
有史以来、いつまで殺し合いを続けるのでしょうね。
日々空爆に怯えながら暮らす人々の映像を見ていると、誰にもともなく怒りが沸き起こってくるのを禁じ得ません。
誰かに対しての怒りではなく、人間という存在への怒りとでも言うべきでしょうか。
いつまで経っても懲りずに自らにしか通用しない、小さな正義を振りかざして殺し合いをする人間という種。
こんな呪われた生き物が他にありましょうか。
そして、怖ろしいことに、私もまた、凶暴で愚かな人間の一人でしかないのです。
おそらくは、わが国の正義が、他国の正義と対立し、武力衝突を起こしたなら、私は迷わず、わが国の勝利を信じて戦いに協力するでしょう。
もちろん、もう47歳ですから、兵隊にとられることはないと思いますが、寄附やなんかで、わが国の勝利に貢献することを願うでしょう。
したがって、人間という種に対する怒りは、そのまま私自身に対する怒りへと転化してしまいます。
呪われた生物の一人でしかない私を、私自身、呪わしく感じながら、どうすることも出来ない種の限界を感じています。
いつの日か、争い事が無くなる日が来ても、その翌日には新しい争いが勃発しているかもしれません。
私たちにできることは、気長に、毎日毎日、争いの種を、面倒な交渉を続けることで、摘み取っていく他ありません。
それはとてつもなく面倒で労力を要することですが、紙一重の差で殺し合いを始めてしまう種であれば、永久にそれを続けるしかありますまい。
やれやれ。
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蓮舫ちゃんが民進党の新しい代表に選出されたそうですね。
おめでとう。
蓮舫ちゃんの戦闘的とも狂的とも言える表情、見ているだけで吐き気がします。
二重国籍の問題も解決されたみたいですね。
台湾良いとこ、一度はおいで~。
今回は2番じゃダメだったんでしょうか?
泥船の船長になっちゃったけど、頑張って早く沈めてね。
昨日は9月11日。
9月11日といえば、米国を襲った9.11テロを思い出します。
2001年に起きたあの忌まわしいテロ攻撃から、早いもので15年が経つのですね。
おぎゃあと生まれた赤ん坊は、もう中学三年生ですか。
あの日、結婚から3年目の私は、遅い夏休みを取り、東北旅行から帰って、疲れて早寝しました。
テレビを見ていた同居人から、大変なことが起きている、とたたき起こされたのでした。
テレビでは繰り返し、2機の旅客機が、世界貿易センタービルのツインタワーに突っ込む映像が流れていました。
そのうえ、その後ツインタワーは崩落。
それを見た中東のイスラム教徒が踊りながら喜んでいる映像が印象的でした。
人は価値観の異なる人々の凄惨な死を、怪我を、喜ぶのですね。
慄然とせざるを得ませんでした。
1機目の時は、機長がおかしくなって起きた事故かな、と思いましたが、2機目が突っ込むに及び、これは人為的な攻撃だと、誰もが思い知らされることになりました。
さらに国防総省も狙われ、大規模な同時多発テロであることが判明しました。
あの晩は腰を抜かすほど驚きました。
自由の名のもとに世界を支配する巨大帝国の中枢が、いともたやすく攻撃を受けたのですから。
その後、あの有名な、1999年の7月に恐怖の大王が空から降りてくる、というノストラダムスの予言は、9.11テロを幻視した結果ではないか、という風説まで流れました。
ノストラダムスが生きた時代には飛行機なんてありませんでしたから、幻視したイメージを表すのに、恐怖の大王という言葉以外思いつかなかったのだろう、と。
また、時制の不一致は誤差の範囲ということで。
それはさておき。
その後米国はアフガニスタンに侵攻し、さらにはイラクに言いがかりをつけてイラク戦争へと突入し、米国内ではイスラム教徒に対する差別や嫌がらせが社会問題になりましたね。
わが国は下駄の雪のようにどこまでも米国についていく姿勢をみせました。
毎度のことで悔しいですが、それしか生きる道が無い以上仕方ありません。
9.11以前と以降では、世界が変わってしまいました。
世界、特に先進国は国家間の戦争という危機をほぼ克服したかに見えましたが、テロとの戦いという、国家間の戦争以上に難しい局面に立たされました。
それは、いつどこで、誰が誰に対して牙を向くか判らないという恐怖に世界中の人々が怯えながら暮らしていかなければならないという、誠に不幸な世界です。
わが国ではイスラム過激派による大規模なテロは今のところ発生していませんが、わが国が米国の同盟国である以上、そのリスクは極めて高いと言わざるを得ません。
東京オリンピックは狙われること必定と見るべきでしょう。
それにしても人間というもの、本当に争いが好きなんですねぇ。
人気の大河ドラマ「真田丸」でも、戦や権謀術数の限りを尽くす戦闘集団である人々の姿が生々しく描かれ、それを視聴者は喜んで見ているわけですから。
今も、世界各地で殺し合いやテロが行われています。
混沌とした人間の社会から争い事、いや、せめては殺し合いが無くなる日は来るのでしょうか?
殺し合いが起きていない状態が何年か続くことはあるのでしょうが、恒久平和というのは、不老長寿と同じくらい、実現不可能な難事であるように思えてなりません。
おそらく恒久平和は、人間が人間でなくなった時、より高い精神性を獲得して、超人になった時にしか、実現し得ないように感じます。
そこまでの長い道のりを考えると、15年なんて、ごく短い期間なのでしょうね。
もっとも、超人となって、生命に対する新たな、そして効率重視の冷酷な倫理が生まれ、より残虐な生き物に変化してしまう可能性も大いにあり得ますが。
オバマ米国大統領が、核兵器の先制不使用を宣言することを検討しているというニュースが飛び込んできました。
要するに、相手が使わないかぎり、米国が先に核兵器を使うことは無い、という宣言。
たいへん結構なことのように思います。
しかし、わが国をはじめとして、英国やフランス、韓国などの米国の同盟国はこれに反対しているのだそうです。
その理由は、核兵器の抑止力を弱め、かえって紛争のリスクを高めるから、だそうです。
安倍総理もそのようにお考えだとか。
しかしこれは、口約束です。
空手形と言ってもよいかもしれません。
先に使うことはない、と言っておいて、実際は使ったってよいわけです。
おそらく、ロシアや中国、北朝鮮など、米国から核兵器を向けられている国々は、米国大統領が核兵器の先制不使用を宣言したからと言って、馬鹿正直にそれを信じることは無いでしょう。
むしろ疑心暗鬼に陥って、よりいっそう米国の行動に注意を払うのではないでしょうか。
そして争いごとと言うものは、嘘をつこうが、約束を破ろうが、勝ちさえすればいくらでも言い訳し、おのれを正当化することができます。
日ソ不可侵条約を破ってわが国領土を侵略した当時のソビエトが、正義面をぶら下げて戦勝国の一角に連なったことを思えば、それは明々白々たる事実です。
日英仏韓がオバマ大統領のお考えに反対していること自体が、猿芝居のように見えてなりません。
同盟国がこぞって反対すれば、米国の宣言はより確かなものに映るでしょうから。
米国は核兵器を先に使うことは無いと信じさせておいて、先制使用というオプションを密かに維持し続ければ良いのです。
オバマ大統領だって、米国を長年率いたお方。
単純に核兵器は悪だと考えているとは思えません。
私はオバマ大統領が核兵器の先制不使用を宣言することに賛成です。
ただし、繰り返しになりますが、それをいつでも破る準備と覚悟を隠し持つことが前提です。
だまし討ちは効果的ですからなぁ。
天皇陛下が国民に向かって重大事を直接語り掛けたのは、終戦の玉音放送でした。
このたび今上陛下が、持って回った言い方ながら、退位を望まれていると国民に語り掛けたことは、終戦の玉音放送にも匹敵する大事で、国民は重く受け止める必要がありましょう。
持って回った言い方とはいえ、今上陛下の意思は明確です。
早く退位したい、ということ。
我々サラリーマンで言えば、辞表をたたきつけたようなものです。
陛下は過去、玉体にメスを入れたことがあります。
龍顔はすっかり好々爺のそれです。
御いたわしや。
考えてみればこういうことは十分有り得ることだし、現に過去、退位して上皇や法皇に御就きあそばした例は数多く。
問題となるのは皇室典範の改正でしょう。
厳密に言えば、皇室典範を改正しないかぎり生前に退位することはできません。
大正陛下の御代に、後の昭和陛下、当時の東宮殿下が摂政宮におなりあそばし、多くの国事行為を代行された例がありますから、摂政宮をおくことも考えられますが、今上陛下はこれも明確に否定なさいました。
政府はこれを受け、今上陛下限りに適用される特別立法を考えているようです。
緊急避難的にはそれは現実的な選択かと思います。
なにしろ今上陛下はご高齢ですし、何年も議論を続けていては、陛下の思いは遂げられることなく崩御せられてしまう恐れなしとしません。
但し、緊急避難的な特別立法を行ったとことろで、その時々の天皇陛下がご高齢になれば同じ問題が起きることは想像に難くありません。
政府が心配しているのは、皇室典範を改正するにしても、生前退位の条件をどうするか、ということのようです。
政治が介入して退位させるとか、あるいは天皇陛下ご自身が気まぐれや怠け心から恣意的に退位を望むとかいうことですね。
それら難しい問題はあるにせよ、生身の人間である天皇陛下に、死ぬまで働け、務めを果たせ、とは言えないし、言ってはならないと思います。
老後、人生の最期くらい、責任ある仕事から離れてのんびり暮らすことくらい許してやってほしいものです。
○ドライないい方をすれば、老人は もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。
○障害者などの劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない。
○障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。
○植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者や恍惚の老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない。
上は、元国会議員で、初代安楽死教会会長を務めた産科医、太田典礼の発言です。
この発言を見ると、先日の障害者大量殺人を思い起こさずにいられません。
また、ナチによる障害者の虐殺も。
このような考え方に対しては、多くの人々が生理的嫌悪を覚えずにはいられないでしょう。
しかし、障害者や老人、植物人間などは安楽死させたほうが良いと考える人々も、一定の割合で存在することもまた、確かなようです。
なにしろ上のような考え方の持ち主が国会議員に当選してしまうくらいですから。
ドライな言い方をすれば、と言うより、功利的に見れば、上のような意見もうなづけます。
それなのに、一見合理的なようでいて、なぜ私たちはそれら意見に生理的嫌悪を覚えるのでしょうね。
それは一種の直感のようなものなのかもしれません。
社会に役立たないという理由だけで、人を殺すことは悪であり、耐えがたい、という。
現在は安楽死という言い方よりも尊厳死という言い方を多用するようです。
スイスやオランダなどの欧州諸国、また、米国の一部の州などでは、厳格な運用のもと、尊厳死が法的に認められています。
その多くは、病気などで耐えがたい苦痛があり、治癒は不可能であり、本人が尊厳死を強く望んでいる場合などに限定されますから、社会に役立たない奴は殺してしまえ的な、テロリストのような考えに基づくものとは根本的に異なり、多くの人が受け入れられる法律であろうと思われます。
むしろわが国のように、苦しもうがなんだろうがとにかく生かしておくのが医学の使命、みたいな考えのほうが、自分が苦痛に満ちた晩年を送る可能性を考えると、怖ろしく感じられます。
尊厳死ということと、社会に役立たない者は安楽死もしくは自殺すべきだという考えは、相容れないもので、これを混同してはいけません。
私は百万言の理屈よりも、自らの、そして圧倒的多数の人々の直観を恃みたいと思っています。
理由はどうあれ、殺すこと、死を強要することは悪であるに違いないのだ、と。
本当にひどい事件が起きてしまいました。
やまゆり園を深夜、ナイフで武装した同園の元職員を名乗る人物が侵入し、重度の障害がある方々を次から次へと切り殺していったとか。
首をねらうという、明白な殺意が感じられるもの。
19人もの障害者が犠牲になりました。
被疑者は、日頃から、重度の障害がある者は生きていても仕方ない、などと主張していたと聞き及びます。
聞き捨てならない暴言です。
生きていても仕方がないなどと決めつけることが、どうしてできましょうや。
私もまた、大分回復したとはいえ、障害者自立支援法の適用を受けている障害者です。
障害者といえど、それぞれが出来る範囲のことをして、精一杯生きています。
その命を奪うなど、しかもそれを正当化しようなど、許しがたい悪魔の所業です。
かつてナチは、ユダヤ人のみならず、障害者や同性愛者などを次々とガス室送りにしました。
それを彷彿とさせる今回の事件。
第一報を聞いたときは、精神障害社で責任能力を問えない者の犯行なのかと思いましたが、その後の被疑者の主張や、首を狙って確実に殺害している点などに鑑みて、十分責任能力を有するものと推察します。
責任能力が問えるのであれば、19人殺害という規模からみて、死刑以外の選択肢はあり得ないと思います。
私は強い死刑廃止論者ですが、現在の刑法が死刑を認めている以上、最高刑を課すほかありません。
悪法といえども法なり、という言葉を残してアリストテレスは毒杯をあおったと言い伝えられます。
私は死刑は悪法だと考える者ですが、現在の法制度が変わらない限り、この悪法を適用するのもやむを得ないとも思っています。
重度の障害者を大量に殺害して、おのれは国家に殺されるとは、なんともバカなことをしたものだと思います。
私たち、特に若い人たちは狭い視野で魔術的思考に陥り、それが正義だと信じてしまう傾向があります。
魔術的思考に堕ちることがないよう、健全な教養を全ての人が見に付けることが急務だと実感したしだいです。
今上陛下が退位したい旨の発言をされていると聞きました。
そりゃそうだろうと思います。
死ぬまで働けというのは酷というものです。
まして、過去、退位して上皇や法皇にお就きあそばされた帝はあまたいらっしゃいます。
伝統を重んじるなら、何の問題もありますまい。
皇室典範の改正とやらが必要らしいですが、なるべく早く改正して、早く上皇となっていただきたいと強く願います。
あのお年まで現役ではさぞかししんどいでしょうから。
そして退位後は、和歌や蹴鞠など、雅な遊びをして過ごされたらいかがかと思います。
京都御所にお帰りになるのも良いでしょう。
なんといっても皇族には京都が似合います。
東京にいるのがむしろ不思議なくらいです。
いっそ東京という名前も改名したらどうかと思います。
東の京なんてねぇ。
なんだ癪に障る名前です。
江戸都で結構だと思いますが。
俳優の石田某なる人物が、都知事選挙への立候補を検討しているのだとか。
かつて、「不倫は文化だ」という名(迷)言?を吐いた人物。
ニュースでは、先の国会で一部の人々が戦争法案と呼んだ法案に反対するデモに参加し、スピーチをする石田某の姿が映し出されていました。
そして石田某は、この国がおかしな方向に向かっている時に黙っていられるか、みたいな威勢のいい発言を、にやけた笑顔で語っていました。
戦争法案絶対反対、9条守れ、戦争したい安倍はヤメロ。
空虚なスローガンが飛び交っていました。
都知事よりも国政を目指すべきだと思いますが、それはまぁ良いでしょう。
私がかねてより不思議なのは、安倍首相や自民党が、戦争したいと思っているようなスローガン。
そんなはずありますまい。
現代の先進国の政治家は、何よりも損することを嫌います。
戦争ほど損することはありませんから、そんなことを望んでいるのだとしたら、それは狂人とさえ言えるでしょう。
また、9条守れ、というスローガン。
9条は生まれた時と現在ではまるで改憲が行われたかのごとく、解釈の変更が繰り返され、実質的に改憲は成っています。
現在の9条解釈を守れと言いたいのか、先祖返りして施行当初の解釈に戻れと言いたいのか、よく分かりません。
現在の政府解釈を守れという意味なら、戦争法案と決めつけた法案も支持すべきでしょう。
昔の解釈に戻れと言うなら、自衛隊は全廃しなければならず、それは事実上不可能でしょう。
また、戦争が出来る国になる、という危惧を口にする人を見かけます。
これも不思議です。
占領されていた7年間を除き、わが国が戦争が出来ない国であったことは一度もありません。
当然、今現在も、やむを得ざる事態が出来すれば、自衛隊は武器を取ることになるし、そうでなければ国民は不安で仕方ありません。
私としては、改憲などしなくても、実質的に改憲されたのと同じ状態がすでに現出していますから、改憲してもしなくても大した変りはないと思っています。
ただ、わが国は法治国家を標榜しているので、憲法は分かりやすくしたほうが良いでしょうね。
法律と実態が乖離していたのでは、国民の倫理観にも悪影響を及ぼすでしょうから。
9条は1項と2項から成っています。
以下に記します。
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
素直に読めば、わが国は戦力を持たず、戦争もしない、と読めます。
しかし、上の条文は、巧みに自衛のための戦力の保持と自衛戦争を認めていると解釈できるように作られています。
まず、「国際紛争を解決する手段としては」交戦権を放棄するということ。
裏を返せば、自衛のための交戦権は認めるということになります。
次に、「前項の目的を達するため」戦力は保持せず、交戦権は認めないということ。
つまり前項の目的を達するためでなければ、戦力も保持できるし、交戦権も認められるということ。
前項の目的とは、国際紛争を解決する手段としての交戦権なので、自衛のためなら戦力も保持できるし交戦権も認められるということ。
これが現在の政府の9条解釈であり、核兵器の保持ですら、自衛のためなら認められると解釈されています。
しかし私は、これは欺瞞もしくは屁理屈であろうと思っています。
いかにも苦しい解釈に感じます。
一般庶民が読んだら、そういう解釈はしないでしょう。
単純に、日本は戦力を持たず、戦争はしないんだなと、思うでしょう。
そして一抹の不安を覚えるでしょう。
ではどうやって平和を守るのだろうかと。
従って、自衛隊は違憲だと考えています。
違憲ならば、解決する手段は2つしかありません。
憲法を改正するか、自衛隊を全廃するかです。
で、どう考えても自衛隊の全廃はあり得ないと思います。
それはあんまり危なっかしいというものです。
いざという時の備えである、消防や警察を全廃するのと同じようなものです。
備えあれば憂い無しと言いますからねぇ。
私は単純に、1項はそのままで、2項だけ改めればよいと思っています。
2項を、但し、自衛のための戦力は保持する、と代えれば良いのです。
現に世界でも有数の軍事力を、わが国はすでに保有しているのですから。
但し、これだけのことで国論が2分し、大騒動になるのなら、法治国家たることを止める覚悟で、解釈改憲を永遠に続けるのもありかと思っています。
それが一番手っ取り早いですから。
こんな記事を書いていてなんですが、私はこの手の論争は見るのも嫌なほど辟易しています。
現実を語る立場の人と、夢を語る人が罵り合いのようなことをしたって、落としどころは見つかるはずがありません。
現実の世の中は、所詮やったもん勝ち、強いもん勝ち。
国同士の関係といえども、つまるところ、ヤクザの抗争や子供の喧嘩と変わりありません。
私としても夢を語る人々の側に与したいという思いはヤマヤマです。
そっちのほうが正論だと思いますから。
しかし、愚かな人間の真実は、強力な軍事力や経済力を持たなければ、自ら立つことが出来ないことを明示しているように思うのです。
第一次大戦後に成立した、パリ不戦条約がいともたやすく破られた歴史を直視すれば。
またもやテロ事件が起きてしまいました。
場所はバングラディシュの首都。
しかも今回は7人もの日本人が犠牲に。
日本人の一人は、テロリストに向かって "I'm Japanese, please don't shoot." と叫んだそうですね。
アラブ人は親日的だというイメージから出た言葉でしょうが、テロリストに通じるはずもありません。
しかし、その叫びはあまりに切なく悲しく胸に迫ってきます。
一縷の望みを日本人であることに託したのでしょうから。
人を殺すという場合、金欲しさか、怨恨か、快楽か、テロか、大方このどれかが動機になっているように思います。
テロの場合、自分たちこそが正しく、現在の社会が間違っていると信じ込んでいることが、性悪と言えるでしょう。
かつてテロといえば左翼過激派の専売特許だったものが、オウムなどの宗教に取って代わり、今回のテロもイスラム原理主義者による宗教的テロと考えられています。
しかしこれだけイスラム原理主義者によるテロが続くと、イスラム教そのものに問題があるのではないかと邪推したくもなります。
もちろん、穏健なイスラム教徒は平和に日々を過ごしているわけで、彼らに何の罪も無いことは当然です。
ただ、イスラム教は過激な人の割合が他の宗教と比べて多すぎやしないかという素朴な疑問を捨て切れません。
かつてオウム真理教は原始仏教に近いとされ一部宗教学者やマスコミからもてはやされていました。
当時はむしろ幸福の科学のほうが胡散臭い集団だと思われていました。
しかし、幸福の科学は申請からわずか数日で宗教法人として認可されましたが、オウム真理教はいつまでたっても認可されず、集団で都庁に押しかけたりしていましたね。
要するにマスコミとは異なり、役所はオウム真理教がまともな集団ではないことを知っていたものと思われます。
餅は餅屋と言いましょうか、蛇の道は蛇と言いましょうか。
レーニンはスターリンにだけは権力をにぎらせてはならないと警告したと伝えられます。
ナチが出てきたときも、ドイツの上流階級は相手にしなかったと言います。
卑近な例では、市川房江先生は管直人を立候補させてはならないと考えていたそうです。
分かる人には分かっていながら、悲劇は起きます。
もしかしたらイスラム教が興った頃、これをまずいと思った人がいたかもしれません。
そう思いたくもなる昨今の有様です。
しかしそんなことを嘆いてみても仕方ありません。
イスラム原理主義者は今も世界のあちこちでテロを計画していることでしょう。
軍隊と軍隊による戦争よりも、テロとの戦いは困難を極めることでしょう。
いつ、どこで牙をむくか分からず、しかもテロリストは軍服を着ているわけでもなく、平服に銃や爆弾を隠し持っているのですから。
イスラム教徒の真の敵はイスラム原理主義者であることは間違いありません。
真っ当なイスラム教徒こそ、イスラム原理主義者撲滅に心血を注ぐべきでしょう。
英国から衝撃的なニュースが飛び込んできました。
EU離脱派が勝利確実になったとか。
驚きです。
40年以上、EUの主要国として生きてきた英国。
どうしても名誉ある孤立が欲しかったのでしょうか?
離脱して、英国はやっていけるのでしょうか?
ポンドは?
そして円は?
どうなるのでしょう。
わが国で言えばに米安保をやめるような話ではないのでしょうか。
しかし決まってしまったものは仕方ありません。
英国の今後を見守りたいと思います。
北海道の置き去り小学生、5日経ってもみつかりません。
しかも15キロ四方を捜索しているというのに。
妙です。
昔なら、神隠しということになるのでしょう。
しかし現代では、例え遺体になっていても、徹底的探すのが常。
大体7歳児の足でそんなに遠くに行けるわけもなく、また、5日も飲まず食わずだったら死んでしまいます。
この謎の答えは、誰かに連れ去られたか、殺されたと考えるのが自然でしょう。
しかしそんな田舎で誰が?
児童を連れ去りたい、もしくは殺したい、と願う変質者だとしたら、多くの児童がいる場所を物色するでしょう。
まったくもって奇妙です。
しかし世の中には謎の失踪事件というのが時折発生します。
ハーメルンの笛吹男しかり、船舶や飛行機が謎の失踪を遂げるとされるバミューダ・トライアングルしかり。
バミューダ・トライアングルにいたっては、ブラックホールが存在するだの、宇宙人が拉致するだのといった奇想天外な説が唱えられるほど、多くの失踪事件が起きています。
超常現象でないとするなら、両親を疑うほかないような気がします。
オバマ大統領が広島を訪問とか。
長い間米国では、原爆投下は本土決戦を避ける動機になり、結果として多くの米国人・日本人の命を救った、として正当化されてきました。
そういう面が無いとは言いませんが、無差別大量殺戮であることは間違いなく、無理目な理屈だと思います。
今回、オバマ大統領は戦争被害者すべての慰霊のために広島という象徴的な町を訪れるのであって、原爆投下を謝罪するものではない、とのことです。
そりゃそうでしょうねぇ。
謝罪などしたら、米国世論が黙っていないでしょう。
しかし、71年間誰一人として広島もしくは長崎を訪れた米国大統領はいないわけですから、訪問するだけでも大きな一歩と言えるでしょう。
思えば8年前、かの大統領は核なき世界を目指すと演説してノーベル平和賞を受賞しました。
その流れにそうものなのでしょう。
じつは私は被爆2世。
母が幼い頃長崎で被爆しています。
母は75歳になる今も健在ですから、被爆による健康被害はほとんどなかったのでしょうね。
幸いなことです。
変なことを言うようですが、原爆で亡くなった方は碑に名前を刻され、手厚い供養を受けてきており、戦争被害者のなかのエリートのような感じがします。
通常の爆弾で亡くなった方も、戦争被害者であることに変わりはないのに。
まぁ、それはさておき。
核兵器が全廃される事態は現時点では想像すらできませんが、牛歩の歩みであっても、核兵器はもちろん、すべての武器が全廃される日を夢見ることは、悪くないでしょう。
今日は憲法記念日ですね。
護憲派も改憲派も集って気勢を挙げていることでしょう。
私は憲法論議に関しては、すっかり白けています。
事実上、憲法は解釈の変更によって、成立当初とはかけ離れたものになっています。
軍事力は持たないと言いながら、軍隊以外の何者でもない自衛隊を保持していますし、政府は核武装すら、必要最小限であれば憲法違反ではない、という立場です。
それならいっそ、憲法を変えたほうがすっきりするだろうとは思いますが、面倒な手続きを経なくても解釈の変更でいくらでも変えられるなら、憲法を改正しようという意欲も失せることでしょう。
立憲主義および法治という観点から言って、国の最高法規を、解釈だけでいかようにも出来るというのは、はなはだ危険だと思います。
解釈を変えるなら、条文そのものを変えるべきでしょうに。
この事態、明治維新まで形の上だけは存在したという養老律令に似ています。
要するに形骸化しているのですね。
憲法に関しては、いつも9条ばかりが問題視されます。
9条が国際情勢に対応不可になってしまったことは火を見るより明らかだと思いますが、昔懐かしい冷戦期の左右対立の影響からか、今でも9条をうっとりと感傷的に語る人を見かけます。
気色悪いったらありゃしない。
昔社会党の議員が、殺すくらいなら殺されたほうが良い、と発言しているのを聞いたことがあります。
個人の思想信条としては立派だと思いますが、それを国民に強要するならば、政治家として最も重要な仕事である国民の生命財産を守るという責務を放棄したことになりますから、さっさと政治家を辞めて評論家なり、反核平和教の伝道師なりを目指すべきでしょう。
魑魅魍魎が渦巻く現実世界をまともに見れば、武装しないという選択肢などありはしないことは自明です。
浪漫で安全保障を語る気色悪いことはやめて、まともに世界を見たいものです。
さすがに今日は朝のニュースでも東日本大震災から5年のニュースばかりでしたね。
ちょっと終戦記念日のニュースを思い出しました。
まだ5年しか経っていませんから、被災者の方々の記憶も鮮明でしょう。
私は当日、地震の直後に全員帰宅の命令が出て、いつもは40分で帰れるところ、車がびっちり渋滞して、6時間かかったことと、コンビニやスーパーから物が無くなったことくらいで、大した被害は受けていません。
むしろ電車通勤の方は、電車が完全にストップし、車通勤で方向が同じ者に送ってもらったり、職場に泊まったりして、難儀していましたね。
私も4人の電車通勤の人を送りました。
で、帰宅してテレビで家や車が流される衝撃の映像を見てびっくりしたというわけです。
千葉県でも、北東部では死者が出る被害が、沿岸部では液状化が起こりましたが、私が住む北西部は電車が止まったことと流通が悪化した程度で大した被害はありませんでした。
テレビで見た被災地の映像は衝撃的でしたが、それ以上に福島の原発事故は驚愕の状況を呈していました。
あの時、菅直人が総理大臣を務めていたのは被災地のみならずわが国全体にとって大変不幸なことでした。
自民党の長期政権の時は、総理大臣なんて誰がやっても大して変わらないと思っていましたが、民主党政権下で、総理大臣にどういう人がなるかで全く違うのだということがよく分かりました。
それを分からせたことだけが、民主党政権の功績と言っても良いでしょう。
未だに被災地の復興は道半ば。
これから新たな問題が発生するでしょうね。
例えば仮設住宅の閉鎖とか、コミュニティの崩壊とか。
私には何もできませんが、事態の推移を見守っていきたいと思っています。