たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

論理の使い方

2013-03-11 02:32:47 | Weblog
 ≪じゃぁね、センセ。Aグループ、Bグループ、Cグループの考え方は、一生忘れないよ。≫
 『ありがと。まぁ、ABC理論の理屈は良いことに使ってね。あなたみたいなAグループの人間にとって、いいように扱うために作った理論じゃないから。』
 ≪わかってるよ、人生を習ったんだし(笑)≫
 『たまでイイから、数学のことも思いだしてね。笑』

 理論と実験。対等であるからこそ、自然科学は自然現象を解明しうる。

 新しい理論は、いくつも構築されている。しかし、そのなかで本当に必要で、自然現象の解明に役に立つ理論というのは、既存の理論に対してのリンクがきちんとしているものだけだ。
 既存のものとはまるで違う、その特異的な系にしか役に立たない、まったく新しい理論だけをこの世に放出しても、意味が無い。事実、俺が作った、このABC理論も、ユングの分析心理学や準拠集団理論を参考にしている。笑

 理学の実験は、理論の完成に貢献するような実験か、人の根源的な興味関心に訴えかけるような実験でないなら意味が無い。
 多くの実験は後者を意図している場合がほとんどであり、前者は小さな仕事がほとんどのはずだ。そうでなければ、机上の空論集めになってしまう。だから、理論は根源的な実験の手助けでしかない、というくらいの謙虚さをすべての理論家は持つべきであると思う。

 完成されていく理論と新たな実験事実。これらだけは常に対等であり、前者と後者が織物のようにかけあって、理学は発展していく。
 こういうことを何故しているのかといえば、それは、良いことに使いたいからだ。ここに一番訴えかける研究分野は、生命とは何か?っという課題を解決しようとする分野だと俺は思う。

 論理を構築するのは、良いことに使うため。
 これを忘れて、研究してはいけない。これを忘れて、論理を突き詰めてはいけない。

 だから、安全性の配慮に欠けた研究や、お互いの思いやりを無視した研究や、お金と時間がかかりすぎて誰かが不幸になってしまうような研究は、本質に欠ける。そんなことをしていて、良い結果が、得られるわけがない。
 であるにも拘らず、日本の最高峰であるはずの大学でも、こういう現象はよく観られるし、自分の所属以外でもよく耳にする話だ。

 俺の、中学生の生徒のほーが、よっぽど、聡明だ。論理の使い方を、きっちりわかっている。

 良いモノづくりには、人の「願い」が存分に含まれている。
 それは、理科や音楽など、即物的なモノに限らない、根源的な法則なのだと思う。

 俺らは、そんな基本的なこと、忘れないように頑張ろうぜ?
コメント (2)
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