たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

With Great Power Comes Great Responsibility.

2013-03-04 02:56:50 | Weblog
 論理は自然現象から引き算するためにある。
 こういうことを忘れて、ただ単純に論理を固めてみたり、無難な振る舞いや定石ばかりにこだわっていても、本末転倒になるだけだ。あくまでも論理は引き算で引くための道具であり、それによって残る気持ちや感情の方が、遥かに重要。
 なぜ論理を思考しなきゃいけないかを忘れて賢くなっていても、利口にはなれるが聡明にはなれないのだ。

 それが明確に現れるイイ例が「TOEIC」。(最近気がついたんだけど、「TOEIC」などの検索する人が特定な言葉をわざと記事に入れると、ヒット数が上がる。笑)
 本来、英語をなぜ勉強するかといえば、「世界各国の人と、文章や会話を通して、コミュニケーションをとれるようになるため」だ。それ以上の徳は無い。それをパターンとマークシートのおかげで高得点をとれてしまうようなTOEICのテストに、英語の能力を託してしまってはいけないでしょ?
 こうやって話すと、必ず「いやいや、最低限の英語力と、こういう業務的なことがきちんとこなせることを多くの企業は求めているんだよ。」っとオフェンスする思考力不足のヤツがいる(というよりも、こういうヤツは意欲が低い)。ねぇねぇ、なんでそんなに自分に自信が無いかつ自分勝手なの?どうして、そんな社会はオカシイ!って発想にはならないのかな??

 もっともっと気持ちを抽出するためだけに論理を使って欲しい。論理だけ切り離して考えて、そこで大きなロボットを作って、動かして遊んでいる場合じゃない。
 「世界各国の人と、文章や会話を通して、コミュニケーションをとれるようになる」ってことがどうしてしたいのか??そこから先は感情だと思う。レベルアップしたいってのもあるかもしれないし、それ自体が楽しいってこともあるかもしれない。それらの気持ちを満足させるために、道はいくつも存在する。英語は、そのうちのたった一つのツールでしかない。それをさらに細分化された「TOEIC」に求め過ぎちゃダメなんじゃない?

 だからさ、今の自分の周りの人とコミュニケーションをとることを努力しないで、いくら英語を勉強していても、ダメだよね。
 こういう矛盾が許されるのは中学生まで。中学生までは英語が得意ってだけで褒めてあげられるけど、高校生以上になったら、少なくとも、脱却しようと努力し始めなきゃっと促すようにしている。

 具体的な能力について例を出したけど、論理を気持ちの抽出に使うことが大事ってのは、無難な対応やAグループの能力についてだって、同じだ。
 どんなに無難な返答の仕方や対応を身につけても、それが気持ちを大事にするためじゃないなら、意味が無い。気持ちや感情にしか、未来はねーんだぜ?

 最近、高校の頃の、(しかも)色々な友達と会うことが多くなってる。そのたびに、あの頃に比べたら、自分の能力がだいぶ上がったことを感じる。理系の能力はそりゃそうだけど、何も無かったAグループの能力がだいぶついたと思う。
 ハジけるために必要なことは、たったこれだけかっと思いながらも、たったこれだけ無かったために得られなかったことがあまりにも多すぎるって思ったりもして、みんなに申し訳ない気持ちになったりする。

 あの頃、それでも、俺の今の状態まで見抜いて、優しくしてくれた人が何人かいる。グループを簡単に超えてくる子たちに懐疑的になった時期もあったけど、今はどんなに自分自身に能力がなかったのかと思うばかりである。
 能力を得て、論理を得て、その使いどころを間違えちゃいけない。

 大いなる力には大いなる責任が伴うのだから。
コメント
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