たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自信の無さを押し付けるスパイラル

2017-01-30 02:42:00 | Weblog
 ある価値観について、多数派からの迫害に合わないためにと絶対視していることに、意外とみんな気がついていないことが多い。

 「それは当たり前でしょ?」と疑いなく多くの人に受け入れられているようなある価値観を押し付ける人たちに、「もう少しきちんと議論してみよう」などと言えば、すぐに"その当たり前"の否定派だと認識され、敵認定されるだろう。あくまで議論してみようと推進しただけなのに、どっち派だとかあっち派だとか、無益な決めつけに付き合わされる。
 価値観の強要は暴力に等しい。その価値観の是非について議論することすら許されないならば、少なくとも自由度的には悪い状況のように俺には思える。

 あることは絶対に良いことだということも(ほとんど)ありえないし、あることは絶対に悪いことだということも(ほとんど)ありえない。特に、ある人が絶対に良い人だということは絶対にありえないし、ある人は絶対に悪い人だということもありえない。あくまでも状態として存在するだけだし、気持ちは言葉で一つに収束させられるものではなく、雲のようにふわふわと密度を持つものだからだ。しかも時間変化する。

 この考慮の無さが蔓延しまくっていると、本当にツラい。だから、基本的にそういう場には行きたくないのだ。
 だって、結婚式で「この二人の結婚は本当に価値あるものだろうか?」などと語りだしたら、ドンビクでしょ?葬式で「彼(女)の人生にはどれほど意味があっただろうか?」と言おうものなら追い出される。その議論をする場ではないからだ。
 無条件で、価値のある行為だと承認しなければならない。無条件で、人生には価値があったと認めなければならないのだ。そこに議論をするための余地は一切含まれず、無条件に受け入れさせられる。

 (ある程度)基本中枢としてこう思っている俺ですら、厳格な場においての非常識な行為に対して寛大な態度ではない(むしろ他者よりも厳しいくらいだろう)。それは、茶番やキレイゴトからのホンモノの創発を孤独に願っているからである。
 まったく別の視点から観てみると、その意義に気づかされるだろうと思う。キレイゴトが掲げる目的は確かにくだらないこともあるかもしれないが、それだけではないはずだ。気持ちに限らず、行為の主目的さえも、雲のようにふわふわと密度を持つものだからだ。それを我々はよく分かっている。だから、"親の顔"と呼んでみたり、"子供の顔"と呼んでみたりするのである。

 しかしながら、もう少しくらいは、価値についての議論の時間を設けたいものである。現代社会はあまりにも忙しすぎる。
 そして、周囲への説明責任が大きすぎるのである。職場を選ぶのにも、彼(女)を選ぶのにも、なんやったらTwitterのフォロワー一人に対してでも、常に「周囲からどう思われるか?」を気にしなければならない。だから、本当の自分の理想を語るのではなく、自然と他者から認められるであろうファクターを正確に理解しておく必要があり、それを自分の理想に追加することになる。本当は、楽しく自己実現していけさえすればいいはずなのに、そこに社会的要素を追加したがるのである。いや、実はそんな生易しいものではない。多くの他者から称讃されるであろう価値観を中心に置きながら、そこに自分の気持ちを追加できる場合は追加してみる、というような人がほとんどなのではないだろうか?

 なぜ?って、そりゃ、みんな、自信がないから。だから、自分の人生なのに、自分の価値観よりも、社会的にわかりやすい価値観を優先させてしまうのである。

 そういう人たちが子供(学生)を育てれば、彼ら彼女らをそこにアジャストさせるようになる。
 このスパイラルの加速を感じて不安になることもあるけれど、、俺は自分の価値観や判断力の構築のさせ方に絶対的な自信があるから、きっとどうにかできるはず、っと思い込んでいる。
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