たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

やさしさに包まれたなら

2015-04-18 02:32:20 | Weblog
 論理は常に帰納と演繹によって叡智として進捗されていく。具体的な事象に落とし込めば落とし込むほど、論理そのものに価値があることが、帰納的に示され、演繹されていく。
 だから、論理をフルに使わなくては進捗されない自然科学は、すべての事象が繰り返されることを神とした、宗教だと言える。

 生命起源と生命とは何か?、で例にだしてみよう。

 よく、生命起源を突き止めること、と、生命とは何か?を知ること、の区別がなされないことがあるが、両者は圧倒的に違う。
 前者は完全なポピュリズム、自然科学で扱うことができる範疇を遥かに超える。もっとも簡単に理由を言ってしまえば、生命起源は一度しか起きていないから。だからといって、もし地球外に生命が見つかったとしても、ほとんど同様であろう。タイムマシンが発明されない限りはサイエンスになるはずがなく、ゆえに生命起源を研究することは、政治的思想の世界で生きていくことを宣言しているに等しいだろう。
 後者はポピュリズムをバックグラウンドにしたサイエンスと言える。生命は、その存在の大源が、「出現」して、「続く」ことであるので、「出現」はつまりは生命起源であるのでポピュリズムであるが、いかにして続いているか?ということは、あらゆる種でreproducibilityが高く、物理学の法則で解明しうる。

 まぁ、そんなこたー、実はどうでもよくって、本当に問題なのは、そもそも、この世は、我々が論理と呼んでいるもので「繰り返される」ことが保証されている法則によってのみ縛られているのか?、ということのほうが、俺にとって遥かに興味のあることだ。
 こういうことを言うと怪しいかもしれないけれど、俺から見ると、サイエンスのなかで「繰り返し」が前提となっていることに気がつかずに、絶対にそれが正しいと思いこんでいるほうが遥かに、思考的ではなく、宗教的にみえてしまう。

 もしかしたら、我々は、大人になるたびに、論理的に正しいことのみ、つまりは「繰り返される」ような現象のみを感じるように後天的能力をつけてしまい、気がつかずにそれに支配されているのかもしれないね。

 こう考えてみると、幼い頃に味わった不可思議な経験が、少しずつ想い出されてくる。

 そう言えば、ひらがなを覚えたての頃、俺は、テレビで歌詞が出てる歌は、唄うことができた。両親に「なんで歌えるの?」と聴かれて「書いてあるじゃん」と言ったら、「音程がわからないでしょ?」って言われた瞬間に収束してしまったのかもしれない。まぁ、もちろん、テキトーなのが合ってただけだろうが、こういう感覚。
 もっと不思議なことで言えば、これを話すことは今でも少々悪いことのような気がするが、幼稚園の頃、俺は自在に風邪を引くことができた。ある行為をちょちょっとすれば、いつでも風邪が引けたので、本気で休みたい時はそれを使っていた。そして確実に風邪を引けていた。
 それから、もう一つ。幼稚園内で、全然知らない別世界にそのときだけ行けた記憶がある。そこには、同じようにクラスがあて、トイレまで行ったが、その日以降、俺はその場所には行けなかった。今でも、自分の通っていた幼稚園を見かけるたびに、どうなんだろう?、と気になっている。これは本当に怖かったので、夢であったら良い、と今でも思う。

 今では考えられないほど、非科学的であるが、誰にでもこういうことが、少しくらいはあるんじゃないかと思う。

 小学生のときは、まだ、自分が感じる不思議さに従って、行動することもできた。静かな木漏れ陽を受けて、こっち不思議っぽくね?、ってそれだけで歩いていくことができて、不思議さを受け止めることができた。
 いつから、暗闇が怖くなくなってしまったんだろう?いつから、異世界感を感じなくなってしまったんだろう?海外に行っても、Gear VRを使ってみても、あの頃のような異世界を感じない身体になってしまったのは、いつからだろう?

 生命とは何か?、の問いは、思っている以上に、遥かに、本当はもっともっと、強大な問いであるのかもしれない。
 俺らは、繰り返しのなかで得られている画像や解析結果で誤魔化しているだけなのかもしれない。もっともっとあらゆるものを捨てないと、俺らが望む解答はでてこないのかもしれないね。

 自分が誤魔化しているかもしれないと不安になる時、俺は鏡を見つめる。見つめられるまで見つめる。
 そのアノマリーが誤魔化さないための正解であることが殆どだから。

 今、世に溢れている「競争的」な取り組みを超え、お互いにお互いのやさしさに包まれたなら、大人になっても奇蹟くらいは起こせると思う。生命の本質は、「競争」よりも「共生」なのであるから。

 目にうつる全てのことはメッセージ。
 どんな言葉でも、どんな帰結でも、しっかり受け止めていこう。

やさしさに包まれたなら/ゴスペラーズ


miwa やさしさに包まれたなら
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