たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

永遠に続く循環論法

2015-04-15 01:04:13 | Weblog
 一過性の衝動とその場の対応の連続に、私は疲れ果てている。
 圧倒的な不安に苛まれながら、日々、誰かの一過性の感情に付き合い、その場の対応をこなし続けることに慣れてしまったせいか、私自身がくだらないことに一喜一憂し、対応がその場限りになっている。

 欲しているのは圧倒的な安心感と永遠に続く幸せ。確かに、現実にそんなものは存在しないのかもしれなくて、そういうことを求めてはいけないことはわかっているんだけど、ありとあらゆる理想との不一致を目の当たりにしてしまうと、逆に身動きがとれなくて、せめて想像の世界では夢を見させて、って思ってしまう。
 期待してはいけない、と想っている時点で、期待しているわけで、それでも期待しないから、って決めつけてみると、意外とチャンスそのものは私のもとにやってくる。だけど、それも、私から期待をこめてみてしまっているかもしれないから、とりあえずは一過性に対応して、それを超えてやってきたことに対してだけ気持ちをこめてみようとするけど、いざってときに、なかなか上手くはいかなくて。

 現実との折り合いをつけようとしたときに、どうしても求めるものが循環的になってしまい、現実と介在させられなくて、最初の導入をいかにしたら良いのか分からない。
 せーのっ、で、素直になれたなら、それこそホンモノは得られて、循環的に続く幸せを掴めるのかもしれないけれど、そんな簡単に誰かの気持ちなんか、わかるわけがないもんね。

 その行為が、私個人へのものなのか、博愛的な思想によるものなのか、、それすらも判別できないし、one of themなのかもしれないし、少なくとも、そういう確率がある、ってだけで、私が期待するには値しないという結論に達する。

 永続的な幸せの存在を一切信じていないのなら、何を持ってして人道的エンドポイントを定めればいいのかもわからない。
 次から次へと訪れる不幸と痛みの中で、どの瞬間に生きる価値を見つけたらいいんだろう?

 まずは、その答えをきちんと見せてくれなくちゃね。
 じゃなきゃ、循環的に続く永遠を価値のあるものだとは、思えないかも。少なくとも、貴方とは。
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