たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

慧眼と幸せ

2008-07-26 03:12:16 | Weblog
 頭的にも心的にも賢くなれば賢くなるほど、相手は自分になんて言って欲しいのかが解るように、いや判ってしまうようになる。
 名前に従うように、慧敏になったり、慧眼を磨いたり、智慧をつければつけるほど、相手の次の行動が読めて、真意がわかり、人の3歩先や10歩先まで読めてしまう。

 優しいウソは拒絶より残酷だし、相手のしたいようにしてあげることは悲しい。そんなとき、それを振り払うかのように、作って笑ったり、わからないフリをしたり、何も考えないようにしたりする。
 どうしてそれほどの力があるのかわからないけど、それは周りの空気どころか、自分自身をも騙す。そして、真実の記憶を真実から遠ざけ、まるで本当に起こった事のように記憶に焼き付ける。だけど、それが塗り替えられたウソであると、本当はわかっちゃってたんだという事だけは知っていて、後々苦しめたりする。

 慧眼は役に立つ。名前に刻みこまれたその言葉は、俺をいつも安全な状態にしてくれるし、誰かに優しく、誰かを守ることができるからだ。
 洞察力はいつも俺の味方のはずだった。だけど、俺は、むしろ、そんなものがいらないような状況こそを臨んでいるし、不幸が幸いだとは思えない。
 幸せのまま、そのまま、例え、そこから学び取らなかったとしても、それでいい。
 生きている意味は、笑いつづけ、楽しみつづける事だから。

 でも、そんな想いとはウラハラに、毎日毎日、自分の能力を必要とする問題がむこうからやってくる。
 本能のまま生きることがマジメなことだとしたら、逆に、本能に自然に従うことによって多くの人間が不利益を生じるから法があるとしたなら、「人間としての自分」は?「生物としての人間」とはなんであるのか?それよりも前に、What is life??という問いに答えがあるのだろうか。

 どーでもいいけど、学問的になった瞬間に、つまらないね。
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