たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

この悲しみも過ぎてくのかな

2016-07-06 02:22:21 | Weblog
 怒っている理由を突き詰めてしまえば、必ず、怒っている人自身の無能力に行き着く。
 怒った時点で負けを宣言しているのだから、どうでもいい人が怒っている場合、めんどくさいからそれ以上は追及しない方が良い。なぜなら、感情が(自分の弱さを埋める目的としての)対人に由来しているのだとしたら、すべての感情の根源は怒りにあるのだから、下手に余計に追及すると、深く関わらなくてはいけない必要性がでてくるからだ。

 その、感情の基本で、本来ただのめんどくさい代物である、その「怒り」が、尊くなってしまったのは、いつからだろう?

 手を伸ばす意味さえ知らなくても自然に手を伸ばせていた頃、何をするにしても意味なんか要らなくて、ただただその瞬間を笑っていられればそれで良かった。「感情を出すの苦手でしょ?」とか「怒ってるの?それで感情を隠してるつもり?」って煽ることで笑い合っていたとしても、行き先なんてどこでも良かったわけで、どうせ空には届かないだろうと思っていた。
 今でも行き先なんてどうでも良いと思っている部分は確かに大きい。やりたいことなんて本来ないし、そんなもんがあるほうがどうかしていると思う。でも、少なくとも、せめて、繰り返しの中から生まれてくると期待してしまう、情熱で報われる孤独を否定したくて、それよりは、もっともっと、全然違う世界へとチャレンジしていけたらと思うのだ。その指針さえ、その一端さえ魅せてくれれば、安心できる。これで良かったと自分に言い聞かせられるのに。

 心が共鳴する瞬間というのは、お互いの関係についての言葉なんて、どんなものでも良いのかもしれない。何物にも縛られない、一過性でも、その共鳴の瞬間こそが至上。
 ただ、でも、足早に季節が過ぎていくことに、夢のような時が途切れてしまうことを恐れているのだ。

 このままの状況で進んでしまった未来から観測したときに、今まだ全然色々変えられるわけで、可能性が大きいわけで、まさに夢を見ているように成り立っている現在の幸福にとって後悔しないくらいには、今できることを考えて、それを続けていけたらと思う。
 だって、人生は一回きり。死んだときに、「あの人は大変に無難で、それなりの安定を得ていて、マジョリティーだった」なんて褒められ方したくないでしょ?

 あの夏に戻りたい、と短絡的に考えている時も確かにあるにはあるけれど、それはきっと、ホンモノとは言えない。
 だとしたら、人生に失敗は原理的にありえないのだから、自動的に、この悲しみも過ぎてくのかな、と決めつけて良いと思う。

恋を知らない君へ / NEWS
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ソーシャルメディアのまとめ2016 | トップ | 7. 桜タワー/『研究コント... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事