「新章 神様のカルテ」
「あらすじ」
「第五話 黄落」 その5/7
<大学外の医療施設を活用することで二木さんの退院が可能になった>
「乾診療所」。
そういう小さな診療所が、松本市街地近郊の県道沿いにある。
乾院長は、本庄病院では副院長まで務めたことのある重鎮で、私の研修医時代の面倒を見てくれた偉大な指導医のひとりである。大きな腹に色黒の肌、悠々と歩いて突然関西弁でがなり立てることもあるこの特異な人物を、我が恩師大狸先生は、平然と外科の河馬親父などと呼称していたが、さすがに私は口に出しては言えない。
「またえらい騒動をかましたものやなぁ、栗ちゃん」
時はカンファレンス大騒動をやった日の二日後の土曜日の昼過ぎだ。実験を全て放置して乾診療所を訪れた私は、二木さんに関する病歴その他の情報を簡単に説明したところである。
「ほんで、大暴れした栗ちゃんは、もう大学の訪問看護には頼めんから、うちに泣きついてきたっちゅうことやな」
「恥も外聞もありませんが、その通りです」
乾診療所は、開院からすでに10年が経過した地域の中核診療所である。
たくさんの患者を抱えながら、外来だけでなく往診も行っており、診療所の隣には、訪問介護ステーション「乾」という名の訪問介護ステーションも併設している。
「しかし、大学の医者が大学の訪問介護と喧嘩した挙句、院外の施設に救援を求めて大丈夫なんか ? 」
「大丈夫かどうかは、私の興味の範囲外です。今の私にとっては、患者さんを無事退院させることが最大の関心ごとです。乾の訪問介護と先生の往診がなんとかなれば、ほかはすべて些末な問題です。ただ、本庄病院を頼ってみるという手も考えましたが、勉強してこいと送り出してくれた先生方に、こんなことで迷惑はかけたくないと思っています」
「それは正しい判断やな。本庄かて大学との連携の中で動いているから、それなりにハードルが高くなるだろう」
そのとき、院長室の扉が開いて入って来たスタッフに、河馬親父先生がしわがれた声を投げかけた。
「しゃーないな。ひとつここは力になってやるか、外村」
入って来たのは、もと本庄病院救急部師長であった外村さんである。研修医の頃からさんざん私がお世話になったベテラン看護師のひとりだ。昨年本庄病院を退職し、乾診療所の看護師長になっている。
「元気そうね、栗原先生」
「外村さんこそ、お元気そうで何よりだ。乾の訪問介護ステーションは、外村さんが責任者だとと聞きました」
「そうよ、ひたすら軽自動車に乗って田舎のお年寄りをぐるぐる回る地味な仕事」
「その地味な仕事の協力が必要になりました」
「栗ちゃん、大学の訪問と大喧嘩したらしい」
「あら素敵じゃない。いいわよ、引き受けてあげる」
外村さんが、にわかに目を輝かせる。この人も昔から変わらない。
<二木さんの退院の日取りが決定した>
訪問介護ステーション「乾」が、一旦動き出すとなにかもが驚くほど速くなった。
その活動力の凄さは、ひとえに外村さんの辣腕ぶりといってよい。
第三回の退院カンファレンスが崩壊のまま終わったのが、木曜日の夕方。その二日後の土曜日に乾診療所を訪問したのだが、翌週の月曜日には外村さんの精力的な活動が始まっていた。
外村さん自ら、不慣れなはずの大学病院に足を運び、二木さんや御主人との頻繁な面談を重ね、近隣の施設に掛け合ってケアマネージャーを変更し、ソーシャルワーカーも自前のスタッフを連れてきて、訪問看護の日程から緊急時の対応に至るまで、驚くべき速度で展開させた。
とにかく、二木さんを家に帰す。
そのゆるぎない目標に向かって私の意地と、利休の根気と、外村さんの辣腕とが物事を推し進め、やがて9月半ばの週末に、二木さんの退院の日が決定した。
乾診療所を訪れて僅か8日後のことであった。
<二木さんは病院を後にする>
明るい日差しの差し込む病棟廊下を、利休の押す車椅子に乗って、二木さんはゆっくりとエレベーターホールへ向かっていた。その顔色は黄疸と貧血のためにお世辞にも良いとは言い難いが、表情はけして暗くない。
「本当にありがとうございました」
車椅子から少し遅れて歩いていた御主人が私に深々と頭を下げた。
私も立ち止まって一礼する。
「心配はいりません。往診してくれる乾先生は、間違いなく信頼のおける先生です。のみならず、なにかあれば必ず我々が責任を持って対応します」
「栗原先生、正直に申し上げて不安がないといえば嘘になります」
御主人は頼りない声でそう告げた。
私は静かに頷く。
「でも」と呟いた御主人は、車椅子の妻と、その周りを駆け回る娘にまぶしそうな目を向けた。
「でも、きっとこれでいいんだと思います。これしかないんだと思うんです」
私もまた二木さん母子のほうに目を向けた。そこには久しぶりに見る朗らかな笑顔が花開いている。
「大丈夫です」
私は告げた。
振り返る御主人に向かって、
「大丈夫でないことはたくさんあると思いますが、それを含めて大丈夫です」
ほのかな苦笑を浮かべて御主人が頭を下げた。
「第五話 黄落」その6/7 に続く