昨年の銀河戦は藤井猛九段が優勝しました。その原動力となったのは自身が開発した四間飛車藤井システムです。印象的な将棋が多くあったのですが,最もうまくいった将棋として,本戦トーナメントの一回戦の将棋を選びました。

四間飛車藤井システムにはいくつかの形があるのですが,後手の選択によって第1図は出現する筈です。
ここで☗7八金と上がるのが最も手堅い手で,それなら実戦とは別の展開になります。ただ,手堅いというのは妥協したともいえるわけで,先手は穴熊を目指したのですから実戦のように☗9八香と上がるのは最も強い手だといえるでしょう。それで悪くなるというわけではないと思います。
この形は後手があらかじめ☖4五歩と突いて角道を通していますので,☗9八香と上がられれば即座に仕掛けることになります。何かの拍子に☗9八玉と寄って角筋を避ける手が消えているからです。☖8五桂と跳ねました。
この仕掛けへの対応策はいくつかありますが,☗5九角☖6五歩に☗3七角と転換するのは最も多い手順かもしれません。後手が6筋を突いてきたのでこれが香取りとなるからです。
ただ☖6六歩☗同銀☖6五歩☗7七銀までは先手としても仕方ないところでしょう。

香取りは残っているので第2図は後手としてもゆっくりはしていられません。
書簡四十六が送られたのは1671年11月で,これはすでにスピノザがスぺイクの家に住むようになってからのことです。つまりその時点でスピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのことを,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読むに値する人物,すなわち理性的に思索することができる人物であると認識していたことになります。ところが1675年にチルンハウスがシュラーGeorg Hermann Schullerを介してライプニッツに『エチカ』の草稿を読ませることの許可を求めたとき,スピノザはそれを許しませんでした。その理由は書簡七十二に示されていて,ドイツのフランクフルトで顧問官を務めていたライプニッツが,なぜチルンハウスが滞在していたパリにいるのか,納得することができないからとしています。同じ書簡の中でスピノザは,ライプニッツが確かに自由な精神を持ち合わせた人物であるということは肯定しているのですが,それでもなお,『エチカ』を読ませるのには時期尚早であると判断を下しているのです。
実際にはチルンハウスはその指令を守らず,少なくとも草稿の一部はライプニッツに読ませたか,詳しい内容を話したかのどちらかであると推定されます。ですがそうした歴史的事実は今は関係ありません。自由な精神をもっていることを認めている人物にさえ,『エチカ』の草稿を読ませようとはしなかったというスピノザの姿勢が重要です。
書簡四十六では,『神学・政治論』を送ることを提案しているので,スピノザは自身の思想を他者に教えることに慎重であったとは断定できないようにも思えます。その時点でもスピノザはライプニッツと会ったことすらなく,スぺイクと比較するなら,見知っていたスぺイク以上の他者であったという見方も不可能ではないからです。ですが,『神学・政治論』は公刊されていたものですから,別にスピノザが送らずともライプニッツは読めたでしょうし,そもそもその文面からは,すでにライプニッツがそれを読んでいるという可能性もスピノザは否定していません。ですからそれを送ることを提案したことよりも,『エチカ』の草稿を読ませることを認めなかったということの方が,スピノザの基本的な姿勢に合致するのではないかと僕は考えます。

四間飛車藤井システムにはいくつかの形があるのですが,後手の選択によって第1図は出現する筈です。
ここで☗7八金と上がるのが最も手堅い手で,それなら実戦とは別の展開になります。ただ,手堅いというのは妥協したともいえるわけで,先手は穴熊を目指したのですから実戦のように☗9八香と上がるのは最も強い手だといえるでしょう。それで悪くなるというわけではないと思います。
この形は後手があらかじめ☖4五歩と突いて角道を通していますので,☗9八香と上がられれば即座に仕掛けることになります。何かの拍子に☗9八玉と寄って角筋を避ける手が消えているからです。☖8五桂と跳ねました。
この仕掛けへの対応策はいくつかありますが,☗5九角☖6五歩に☗3七角と転換するのは最も多い手順かもしれません。後手が6筋を突いてきたのでこれが香取りとなるからです。
ただ☖6六歩☗同銀☖6五歩☗7七銀までは先手としても仕方ないところでしょう。

香取りは残っているので第2図は後手としてもゆっくりはしていられません。
書簡四十六が送られたのは1671年11月で,これはすでにスピノザがスぺイクの家に住むようになってからのことです。つまりその時点でスピノザはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのことを,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を読むに値する人物,すなわち理性的に思索することができる人物であると認識していたことになります。ところが1675年にチルンハウスがシュラーGeorg Hermann Schullerを介してライプニッツに『エチカ』の草稿を読ませることの許可を求めたとき,スピノザはそれを許しませんでした。その理由は書簡七十二に示されていて,ドイツのフランクフルトで顧問官を務めていたライプニッツが,なぜチルンハウスが滞在していたパリにいるのか,納得することができないからとしています。同じ書簡の中でスピノザは,ライプニッツが確かに自由な精神を持ち合わせた人物であるということは肯定しているのですが,それでもなお,『エチカ』を読ませるのには時期尚早であると判断を下しているのです。
実際にはチルンハウスはその指令を守らず,少なくとも草稿の一部はライプニッツに読ませたか,詳しい内容を話したかのどちらかであると推定されます。ですがそうした歴史的事実は今は関係ありません。自由な精神をもっていることを認めている人物にさえ,『エチカ』の草稿を読ませようとはしなかったというスピノザの姿勢が重要です。
書簡四十六では,『神学・政治論』を送ることを提案しているので,スピノザは自身の思想を他者に教えることに慎重であったとは断定できないようにも思えます。その時点でもスピノザはライプニッツと会ったことすらなく,スぺイクと比較するなら,見知っていたスぺイク以上の他者であったという見方も不可能ではないからです。ですが,『神学・政治論』は公刊されていたものですから,別にスピノザが送らずともライプニッツは読めたでしょうし,そもそもその文面からは,すでにライプニッツがそれを読んでいるという可能性もスピノザは否定していません。ですからそれを送ることを提案したことよりも,『エチカ』の草稿を読ませることを認めなかったということの方が,スピノザの基本的な姿勢に合致するのではないかと僕は考えます。