スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&人間の本性

2017-02-02 19:59:34 | 将棋
 大田原市で指された第66期王将戦七番勝負第三局。
 郷田真隆王将の先手で久保利明九段の角道オープン四間飛車。先手から角を交換して,お互いにその角を打ち合っての駒組。そのあたりは先手がうまく指していたように僕は思いました。後手は左の金が使いにくかったのですが,先手はその金を使わせる代償にと金を作り銀と交換。ただし後手も金を捌くことができました。
                                     
 先手が3二に飛車を打って後手が受けた局面。6三から駒を打っていくのかと思いましたが☗5三歩と垂らしました。これは確実な攻め方で,それで勝ちなら分かりやすいのですが,手数がやや掛かります。このために後手の反撃を食うことになりました。
 まず☖4二歩と打ち☗同飛成に☖2四角と龍取り。ここで☗3三歩と受けるのは気が利かない感じですが止むを得ないでしょう。後手は☖6八銀と打ち込みました。
 攻め合っては先手の勝ちは見込めないので受けるほかなく☗7八金と逃げました。そこで☖5七角右成の追撃。ここも☗8九金と受けるほかありません。
 ここで後手の攻めが繋がるかが焦点でしたが☖6七馬☗同金と切って☖7九銀打と絡んでいきました。少し重い感じもするので9筋に逃げたい気もしますが☗7八王。後手は☖6六歩と打ちました。
 これで攻めが繋がっていたようです。先手は☗同飛と取るほかありませんでしたが☖5七銀不成で飛車取り。これも☗6五飛と逃げるほかありませんが再度の☖6六歩が厳しすぎました。
                                     
 どうも第1図は先手がすでに思わしくなく,☗6三銀と打って千日手を狙うのが最善であったようです。
 久保九段が3連勝。第四局は13日と14日です。

 第二部定理八系は,個物が現実的に存在するといわれるようになると,その個物の観念も持続的な存在を含むようになるという主旨のこともいっています。したがって,ある人間の身体corpusが現実的に存在するようになると,その身体の観念であるその人間の精神mensも現実的に存在することになるのです。ここでは現実的に存在する人間の精神,とりわけ女の精神が理性的であり得るかを検討しているので,こちらの場合についても考察しておかなければなりません。
 たとえば第四部定理三とか第四部定理四で示されているような事柄が人間の本性humana naturaに属するとみなす場合には,それは現実的に存在する人間の本性にのみ属するのであって,人間の精神が神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumに包容されている限りにおいては妥当しないと考えなければなりません。いい換えればそれは人間の現実的本性actualis essentiaにのみ属するのであって,永遠から永遠にわたっての真理veritasであると認識されるような人間の本性に属する,あるいは生じる事柄ではありません。このことは,第四部公理は現実的に存在する個物にのみ適用することが可能な,つまり有意味な公理であるということから明らかだといっていいでしょう。したがって,第三部諸感情の定義一に示されているような本性が人間の本性であるのは,人間が現実的に存在している場合だけであると考える必要があります。
 しかし第四部定義八でいわれている人間の徳virtusが,人間の本性であるといわれるのは,単に人間が現実的に存在している場合には限定されないということはすでに示した通りです。問題は,このような意味での人間の徳が,現実的に存在する人間にとっても徳であるといい得るのかということ,いい換えれば,この種の徳が現実的に存在する人間にとって妥当する,すなわち可能な徳であるのかということです。そしてこの問題は,その定義Definitioにおいて,人間が自己の本性のみによって理解されることをなす力potentia,つまり人間が十全な原因causa adaequataとなった場合の力といわれているのですから,現実的に存在する人間が十全な原因となることが可能であるか,なかんずく現実的に存在する人間の精神が十全な原因となり得るのかを問うているのと同じことになります。
コメント
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