スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

朝日新聞社杯競輪祭&完全性と優越性

2016-11-28 19:04:17 | 競輪
 被災地支援競輪として小倉競輪場で開催された昨日の第58回競輪祭の決勝。並びは新山‐新田の北日本,平原‐武田‐芦沢の関東,深谷‐金子の師弟で近藤と稲垣は単騎。
 新田がスタートを取って新山の前受け。3番手に平原,6番手に深谷,8番手に稲垣,最後尾に近藤で周回。残り3周のホームの出口から深谷が上昇を開始。バックの出口で新山を叩きました。稲垣はこのラインを追いましたが,近藤は追わず,新山はそこから下げたので,先頭に深谷,3番手に稲垣,4番手に平原,7番手に近藤,8番手に新山の一列棒状で残り2周のホームを通過。バックに入ると深谷はややスピードを上げて打鐘。引いた新山はこれを叩きにいきました。もちろん深谷はもう引かず,先行争い。この争いは深谷が制し,残り1周の最初のコーナーで新山は浮いて脱落。新田は自力で出るよりなくなりましたが,バックに入ると3番手の稲垣に発進され万事休す。稲垣を追走するような形になった平原が直線で突き抜けて優勝。マークの武田も4分の3車身差の2着に続いて関東のワンツー。稲垣が1車身差で3着。
                                     
 優勝した埼玉の平原康多選手は7月の小松島記念以来の優勝。ビッグは一昨年の競輪祭以来の7勝目。GⅠは6勝目。競輪祭は2009年にも優勝していて2年ぶりの3勝目。僕にとってのこのレースの注目点は,先行が予想される新山に対して深谷がどの程度まで抵抗するのかということと,新山が先行した場合に新田が躊躇なく番手捲りを敢行するのかということでした。深谷も平原も力勝負を好むタイプなので,番手に絡んでいくことはないと思われ,その見立ては正しかったのですが,深谷の抵抗で新山は先行できませんでした。新山はかまし先行が得意なタイプなので前受けになったのでしょうが,このメンバーなら後ろから抑えて,叩きに来たところで突っ張るという作戦の方がよかったのではないかと思います。平原は狙い通りの中団からのレース。純粋な自力でも好勝負だったでしょうが,稲垣に乗れる形になったので,武田との差もほとんど変わらないレースになったのだと思います。

 第二部定義六により,ものの実在性realitasとものの完全性perfectioは同じです。したがってあるものAが別のものBより実在的である場合には,AはBよりも完全なものであると認定することができます。しかしもしもそうでなく,AとBが同じ程度に実在的であるなら,AがBより完全であるということはできませんし,BがAより完全であるということもできません。AとBは同じように完全であるとしかいえないことになります。
 この完全性の概念が,哲学的概念としての優越性と大きく関係していることはすでに明らかになっています。なので優越性に関してAがBに対しては特別な権利を有しているということと,Aの方がBよりも完全であるということの間には,何の関係もないと解することはできません。もちろんAがBよりも完全であるからAは優越的にeminenter神Deusに含まれ,Bは優越的に含まれないと断定することはできません。しかしもしAは神のうちに優越的に含まれているけれどBは含まれていないという場合には,AはBよりも完全であると考えていいといえるでしょう。ですから,人間的属性が神の本性natura,essentiaのうちに優越的に含まれて,三角形の本性は神のうちには優越的には含まれないというならば,人間は三角形よりも完全であるといっているのと同じことだと僕は解します。そしておそらくフーゴー・ボクセルはそのように判断していたのだと僕は考えます。三角形の実例はスピノザが書簡五十六で示したもので,これは実例のひとつです。ボクセルはたぶん人間的属性だけが神のうちに優越的に含まれるとみなしていたのであって,いい換えればほかのいかなるものよりも人間は完全であるとみなしていたのだと僕は思います。
 これに対する反駁には二種類あることはすぐに分かります。それはいかなるものの本性も神のうちに優越的に含まれているのだというか,そうでなければいかなるものの本性も神のうちに優越的に含まれてはいないというかです。どちらの場合でも人間はほかのものより完全であるとは認定できないことになるでしょう。スピノザは後者を選択したわけですが,その選択にも明確な理由があると僕は考えます。ですがその考察は後回しにします。
コメント
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