スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

秋華賞&対立の見方

2016-10-16 19:12:04 | 中央競馬
 第21回秋華賞
 先手を奪ったのはクロコスミア。ネオヴェルザンディ,ウインファビラス,ダイワドレッサー,エンジェルフェイスと概ね1馬身ずつの間隔で続きました。この後ろにパールコードがいましたが,掛かったカイザーバルがその外あたりまで上昇。ここから少し離れてキンショーユキヒメ。また少し離れてヴィブロス。フロンテアクイーンが続いてその後ろにジュエラーとレッドアヴァンセ。その後ろにミエノサクシードでビッシュはゲッカコウとほぼ同じ位置でその後ろ。前半の1000mは59秒9のスローペース。
 直線入口手前ではクロコスミア,ダイワドレッサー,ネオヴェルザンディの3頭が雁行。ウインファビラスは内を回って直線ではクロコスミアとダイワドレッサーの間に。これらの外からカイザーバルが伸びてクロコスミアを交わすとさらに外からパールコードが先頭に。それをまた外から交わしたヴィブロスが優勝。パールコードが半馬身差の2着。カイザーバルがさらに半馬身差で3着。
 優勝したヴィブロスは春はクラシックを目指したものの重賞2戦は惨敗。3月以降は休養して7月に復帰すると500万条件でしたが4馬身差の圧勝。前走の紫苑ステークスで不利がありながら2着に食い込み出走権を得ていました。血統面の裏付けがあった馬ですので,この戦歴でも好勝負になるだろうとみていました。今日はその素質が開花したといったところ。トップに立ったとはいえませんが,牝馬路線ではトップクラスとして長く活躍できるものと思います。父はディープインパクト。祖母はハルーワソング。全姉に2012年のクイーンカップ,2013年のヴィクトリアマイル,2014年のヴィクトリアマイルを勝ったヴィルシーナ。半兄に今年の阪神大賞典を勝っている現役のシュヴァルグラン。Vivlosはギリシアの地名。
 騎乗した福永祐一騎手は高松宮記念以来の大レース制覇。秋華賞は初勝利。管理している友道康夫調教師は日本ダービー以来の大レース制覇。秋華賞は初勝利。

 『スピノザの生涯と精神』のリュカスJean Maximilien Lucasによる伝記では,スピノザは破門を宣告されたときに,ユダヤ教指導者たちが自分に強制していること,すなわちシナゴーグから退去してユダヤ人との接触の一切を断つことは,自分自身でやろうと思っていたことにほかならないという意味のことを言ったとされています。このことばは,自分の退去は太古のヘブライ人のエジプト退去よりも罪のないものであろうと思っているという,宗教的な文脈に接続しています。
                                     
 リュカスは親スピノザという立場で伝記を書いています。ですからスピノザを英雄にまつりたてる文章を書く動機は確実にあります。なのでそのときに本当にスピノザがそう言ったかは疑わしいと判断しなければならないでしょう。ですが『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,それが真正なスピノザのことばであるかどうかは別に,これがそのときのスピノザの本心に近いものを描写していると判断して構わないというように結論されています。すでにいったように,ナドラーSteven Nadlerはユダヤ教の指導者たちがスピノザをシナゴーグにひきとどめておくため最大限の努力をした可能性がきわめて高いと考えています。したがって全体的にみればナドラーもまた,対立において和解を求めたのはシナゴーグの方であり,しかしスピノザの方ではそれを受け入れなかったのだと判断していると解して差し支えないでしょう。ただ,そういう最大限の努力というのは,とくにスピノザが相手であったから行われたものではないということです。いい換えれば相手がだれであれ,ユダヤ人であるならアムステルダムのユダヤ人共同体は,その人を共同体の内部にとどめるような努力を怠らなかったということです。ですからユダヤ人指導者たちのこの態度は,スピノザの案件が個別的なものとして把握されていたというより,もっと一般的な事象として把握されていたと考えておく方がよいかもしれません。しかしスピノザにとっては当然ながらこれは個別的な案件でしかあり得ませんから,対立自体の把握が,指導者たちとスピノザとの間では異なっていたとみることもできます。そしてこの見方は,案外に正しいものかもしれないと僕は思っています。
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竜王戦&金銭欲

2016-10-15 19:14:49 | 将棋トピック
 第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負は三浦弘行九段が丸山忠久九段を2勝1敗で降しました。しかし三浦九段は今年の7月以降の対局で終盤での離席が目立ち,指し手の決定にコンピュータの援助を受けているのではないかという疑惑が浮上。今月11日に日本将棋連盟常務会による聴取が行われました。三浦九段は援助を否定したものの,常務会は納得いく説明が得られなかったと結論。三浦九段は疑惑を受けては将棋を指せないので休場を申し出,連盟側は翌12日午後3時までに休場届の提出を要求。しかしそれが提出されなかったため,連盟は12月31日まで三浦九段に出場停止の処分を科しました。それが援助によるものなのか,離席すなわち援助を疑わせる行為によるものなのか,それとも休場届の不提出によるものなのかは判然としません。再調査は行わないそうですから,三浦九段の出方にもよりますが,処分はとりあえず最終的なものと理解しておいてよいでしょう。
 三浦九段が対応を考慮する時間があまりに短かったと思いますが,竜王戦は第一局が今日から指されることになっていたので急いで結論を出す必要があったためでしょう。第七局の2日目が12月22日なので,12月31日までの処分となったものと推測します。
 連盟の理事は現役棋士が多数を占めます。おそらく聴取に参加した筈ですし渡辺竜王も同席していた模様。つまり三浦九段は他棋士を納得させる説明ができなかったことになります。また,こうした処分を下せば三浦九段個人だけでなく連盟にも打撃は及びます。それでいて処分を決定したのですから,援助について何らかの裏付けがあるとみるのが合理的な判断です。ただしこうした合理的判断が日本将棋連盟という組織に適用可能であるという確信は僕にはありません。
 棋士同士の対戦で援助を排除するという方向性,またそれを棋士の倫理観に委ねないという方向性を現在の連盟ないしは理事会が強く有しているのは昨今の事情から確実で,その方向性に関しては僕は支持できます。ただ組織的に有される確固たる信念は,疑わしい存在を疑わしいという理由だけで排除する要因となり得ることもまた一面の真理であるといわなければならないでしょう。
 規定では決定戦で敗れた丸山九段が挑戦者になるそうです。丸山九段はこの決定には個人的に賛成しかねるとコメントしています。これは援助を受けていない者を処分することに反対とも,援助を受けた者に対する処分が軽すぎるので反対とも,両極端な解釈が可能です。あるいは援助の有無がうやむやなままの処分に反対とか,短時間での急な決定に反対,また決定戦で負けた自分が挑戦することに反対など,それ以外にも様ざまな解釈できるので,真意は不明です。ただし七番勝負に出場するということは受け入れるとのことで,正式に挑戦者に決定しています。丸山九段の竜王戦七番勝負出場は第25期以来4年ぶりです。

 スピノザはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの資金援助を辞退しています。また,フリースの死後,フリースが遺言で命じておいたスピノザに対する年金は受け取りましたが,フリースが命じた額より減額しています。また,ハイデルベルク大学教授への就任を打診されたとき,いわれるままに哲学正教授の座に就いていたなら,名誉だけでなくそれなりの収入も約束された筈ですが,それも断っています。ですからスピノザは金銭に対する欲望cupiditasはさほど大きくなかったとみることができます。
 もちろんこうした欲望というのは,第三部諸感情の定義一にみられるように,受動状態における人間の現実的本性actualis essentiaです。ですから第三部定理五一により,それはそのときどきに応じて変化するものであるということは考慮に入れておかなければなりません。しかしスピノザの姿勢が一貫したものであったとみる限りにおいては,年金を送るというシナゴーグサイドからの和解案にスピノザが応じなかったというのはひどく不合理な話ではないといえます。そしてそれは史実であったと僕は判断します。
                                     
 これでみれば分かるように,シナゴーグとスピノザとの間に解決しなければならない対立が生じたときに,和解することに躍起になったのはシナゴーグの側であって,スピノザの方にはそんな気はまったくなかったというような解釈が生じても不思議ではありません。破門の前後の経緯をこのように解釈している典型がドゥルーズGille Deleuzeです。『スピノザ 実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』では,ラビたちは和解の成立を望んでいたらしいけれども,スピノザは悔悛することを拒絶し,自身の側からシナゴーグとの訣別を求めたのだとされています。
 ただし,シナゴーグの構成員の中に思想的な問題が生じたとき,何らかの解決策を探るということは,スピノザの場合に特有のことではなかったようです。そのことはドゥルーズも承知の上で書いていますし,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,ユダヤ人共同体の指導者たちが,スピノザをシナゴーグに踏みとどまらせるために粘り強い説得をしなかったということは高い確率で考えられないとされています。年金はそういう手段のひとつであったと考えておくべきでしょう。
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農林水産大臣賞典報知新聞社杯エーデルワイス賞&和解案

2016-10-14 19:29:47 | 地方競馬
 昨晩の第19回エーデルワイス賞
 最初は4頭ほどの併走でしたがそこから単独で抜け出したアップトゥユーの逃げに。チェリースプリング,ハタノオヌール,ポリカの3頭が並んで追走。これらの後ろにピンクドッグウッドでさらにリエノテソーロが追う隊列。最初の600mは34秒9のハイペース。
 3コーナーを回るとハタノオヌールが単独の2番手に。そしてこれを追ってきたのがピンクドッグウッドとリエノテソーロ。とくに手応えがよかったリエノテソーロは直線で一番から前をいく馬たちを一気に交わすとそのまま楽に抜け出して圧勝。逃げ粘ったアップトゥユーが5馬身差で2着。直線でやや伸び脚を欠いたピンクドッグウッドはアタマ差まで迫るも3着。
 優勝したリエノテソーロは8月最終週の新馬を勝つと連闘で挑んだオープンも連勝。今年は北海道勢に抜けた馬が不在でしたので,能力はトップだろうと思われました。問題はその2戦が芝のレースであったことで,ダートがこなせるのかということ。結果的に適性は問題なかったようです。枠が外目になったのもよかったのではないでしょうか。距離が伸びていいタイプのようには思いませんし,砂を被って強いレースが可能なのかもまだ未知です。
                                     
 騎乗した吉田隼人騎手はエーデルワイス賞初勝利。管理している武井亮調教師は開業から2年7か月で重賞初勝利。

 ベールは『批判的歴史辞典』を執筆するにあたり,『三人の欺瞞者論』を参考文献のひとつにしたと記しています。『三人の欺瞞者論』は1680年にクリスティアン・コルトホルトが書いたものです。そしてその息子であるセバスティアン・コルトホルトが加筆した再販が1700年に出版されました。『スピノザの生涯と精神』に一部が訳出されているのはこの再販の方で,ベールが参照したのもこちらです。『批判的歴史辞典』のスピノザの項は第三巻で,これは1702年に出版されているので辻褄が合います。セバスティアンはスピノザの項目を加筆するにあたって,スピノザが死んだときに寄宿していた家主のスぺイクに取材しています。その取材は1699年に行われました。
 コレルスJohannes Colerusがスピノザの伝記を書いた動機として,コレルス自身がスピノザが住んでいた家に間借りするようになったことがあります。これは1705年に出版されたものなので,コレルスがセバスティアンによる再販やベールの著作を参考にしなかったとはいいきれません。ですが,それらには含まれていない具体的な金額が含まれている以上,こちらもコレルス独自の取材によるものだと考えていいでしょう。したがってベールとコルトホルト,そしてコレルスの取材源はいずれもスぺイクであって,スぺイクは生前のスピノザから聞いていた話として,それらを取材者に話したのだと思われます。
 僕はスぺイクが取材者に対して,スピノザに関して真実だけを語ったというようには考えていません。ですがこれらの話は,具体的な金額はともかくとしても,破門の1か月後にフラーフがファン・ローンJoanis van Loonに話した内容と一致しています。したがってシナゴーグの側からスピノザに対して年金を贈るという申し出があったことは史実と思います。
 シナゴーグの指導者たちからみて,おそらくシナゴーグとスピノザとの間には大きな亀裂が発生していたのでしょう。だとすればスピノザを追い出すすなわち破門するか,そうでなければ和解するかのどちらかでなければなりませんでした。そしてまずは年金という形での和解案が提示されたとみるのが妥当であろうと僕は考えています。
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報知盃東京記念&年金

2016-10-13 19:28:53 | 地方競馬
 高知から1頭が遠征してきた昨晩の第53回東京記念。本橋騎手が病気のためランブリングマンは森泰斗騎手に変更。
 ドレミファドンは少し遅れての発走。まずチャンピオンゴッドが先頭に立ちましたが,1周目の3コーナー付近でストゥディウムが交わしてこちらの逃げに。控えて2番手にチャンピオンゴッド。2馬身差でユーロビート。1馬身差で内にスコペルタ,外にケイアイレオーネ。2馬身差で内にミッキーヘネシー,外にヴァーゲンザイル。あとは1馬身差ずつの間隔でドレミファドン,ミスアバンセ,ランブリングマンと続きました。最初の1000mは68秒2という超スローペース。
 1周目の直線から向正面にかけてストゥディウムが後ろをどんどん引き離していき10馬身くらいの大逃げに。この差が3コーナーにかけて詰まっていき,チャンピオンゴッドは1馬身差くらいまで迫りました。しかしストゥディウムは一杯になっていたわけではなく,追いつかれるとペースアップ。むしろ追ったチャンピオンゴッドの方がコーナーでは押してついていく形に。外を回ったのがユーロビート。さらにその外をケイアイレオーネで内にスコペルタ。直線に入るとユーロビートがかなり馬場の外の方へ。そこからしっかりと伸びてストゥディウムを交わして抜け出し優勝。逃げ粘ったストゥディウムが2馬身半差で2着。ユーロビートの進路取りの影響もあってかなり外を回ることになったケイアイレオーネがチャンピオンゴッドは何とか捕えて半馬身差の3着。チャンピオンゴッドはクビ差で4着。
 優勝したユーロビートは昨年のマーキュリーカップ以来の勝利。第51回を制しているので東京記念は2年ぶりの2勝目。南関東重賞も2勝目。重賞で6馬身も差をつけて勝つほどの潜在能力がありながら,相手が少し弱くなっても勝ちきれないレースを続けるという不思議な馬。とはいえ力を十全に発揮すれば勝って当然の相手関係でしたので,これは順当な勝利といえるのでしょう。もしかしたら斤量にやや敏感なところがあるのかもしれず,56キロで出走できたというのは大きかったかもしれません。重賞級の能力がある馬です。父はスズカマンボビューチフルドリーマーアサマクインの分枝。
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手東京ダービー以来の南関東重賞制覇。東京記念は初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師は2年ぶりの東京記念2勝目。

 弁明書の一件とも関連するのですが,当該部分のテクストの解読に関連して,前提したいことがあります。
                                     
 この当時のオランダはヨーロッパ諸国の中で最も進歩的でリベラルな国家でした。オルデンブルクHeinrich Ordenburgはスピノザに宛てた1663年7月31日付の書簡十四の中で,オランダは人びとが欲することを考えそれを言うことができるきわめて自由な国であるといっています。オルデンブルクはドイツに産まれイギリスに暮らしていたのですから,他国の事情もスピノザよりはよく知っていたでしょう。オルデンブルクがオランダについて正しい知識をもっていたとはいえないまでも,少なくとも他国よりリベラルであったことは間違いないでしょう。
 ファン・ローンJoanis van Loonというのはそのオランダの中でもきわめて進歩的な考え方を有していた人物であるといえます。ですから異なった思想を有しているという理由だけで暗殺未遂が企てられかつアムステルダムにおいてそれが実行されたということに非常に腹を立てました。なのでスピノザの安全のために当夜は自分の家に宿泊させます。そして翌朝にはアムステルダムの市長のひとりであったコルネリウス・デ・フラーフの家に出向き,事の次第を報告しようとします。フラーフはスピノザがアウデルケルクAwerkerkないしはトゥルペンブルフに一時的に避難するように提案した人物です。
 フラーフはその時点ですでに暗殺未遂事件のことを高等警察からの報告で知っていました。フラーフの提案はその後で出てくるものです。そしてその会話の中でフラーフは,異端思想を否認するなら年金を贈るというユダヤ教の律法学者たちの申し出を拒絶したスピノザに対して敬服しているという意味のことを言っています。
 『スピノザの生涯と精神』にはピエール・ベールが書いた『批判的歴史辞典』の一部も翻訳されています。その中に,ユダヤ教徒はスピノザが表面を取り繕うことを承諾すれば年金を贈る約束をしたけれどもスピノザはそれを断ったと書かれています。また,コレルスの伝記にもこれを引用する形で同じことが書かれ,さらにその金額が具体的に示されています。つまりスピノザは和解を望まなかったようなのです。
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新人王戦&身震い

2016-10-12 19:08:40 | 将棋
 昨日の第47回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 増田康宏四段の先手で石田直裕四段のノーマル四間飛車。最初は藤井システム風でしたが,先手が銀冠を目指すと後手も高美濃を目指す展開に。中盤で一直線に攻め合うような順があり,そこで後手がリードしたようです。
                                     
 先手が4一の馬で金を取った局面。これは☖同金と取っても後手玉が詰まず,角を取る手が先手玉への詰めろになるのでそれで後手の勝ちでした。
 しかし後手はすぐに☖6八金と飛車を取って☗同玉に☖2八飛。これが王手馬取りで馬を取ってしまえば後手玉の安全度は増しますから,この順も確かに後手の勝ちです。要するに角を取ってすぐに先手玉の詰みを目指すより,受けも視野に安全に勝つのを目指したということでしょう。
 ☗5八歩と合駒されたときに☖2六飛成としておけば別の展開でした。ですが☖5七銀☗同玉。そこが後手にとって最後のチャンスで,ここでも☖2六飛成なら後手の勝ちでした。ところが☖4七香成☗同玉としてから☖2六飛成。
 先手はこの形が最も受け難いので,これで後手玉が詰まないなら後手にとって最もよい条件ではあります。ところがこれは銀と香車を渡してしまったために☗7二馬☖同銀☗8三香と打たれ,どう応じても後手玉は詰みでした。
                                     
 第一局もそうでしたがこの将棋も頓死といっていいような内容で増田四段が勝ち,連勝で新人王に。これが棋戦初優勝です。

 傷は浅かった,というよりなかったも同然ですが,ファン・ローンJoanis van Loonは診療を施しました。それは傷口を焼き金で焼いて包帯を巻くというものでした。実際にローンがそういう治療を要すると考えたのかは分かりません。スピノザを安心させるための処置だった可能性もあると思います。
 この後,ローンは大きく裂かれたスピノザの上着を着せてやり,繕うために仕立て屋に出さなければならないと言います。するとスピノザは,そんなことはしないでこのままユダヤ民族の記念として保管しておくとし,これを最後にかれらは自分に何もしてくれないであろうという主旨で答えたとローンは記述しています。
 その直後にスピノザは青ざめて身震いを始めます。このスピノザの反応について『破門の哲学』では,スピノザが触れられたくない破門という心の傷に触れられたために生じたのであり,破門がスピノザにとって大きな痛手であったことの証明であるとされています。
 スピノザは肩の傷について,その原因が何であったのかを最初はローンに対して隠そうとしています。ですがその言い訳があまりに不自然であったために,不審に思ったローンに問い詰められる形で実は暗殺未遂によるものであったことを告白しています。さらに,そのスピノザの身震いが起きた直後にスピノザが話したことから,スピノザが破門されたことと襲撃されたことはスピノザの精神のうちで結びついていたことも確実です。ですからこれだけでみれば清水のような読解も成立するでしょう。しかし僕の考えでいえば,テクストのうちで清水の解釈に有利となる材料はそれだけであり,テクストの全体を通して読解するなら,清水の解釈には無理があるのです。少なくとも僕は,このときのスピノザの反応が,破門の一件に触れられたからだというようには解しません。また,破門がスピノザにとっての痛手であったからこうした反応が生じたという点については,原因としての可能性を完全には否定しませんが,主要な原因ではなかった筈だと解します。いい換えればもっと別の原因によってスピノザの身体にこういう反応が生じたと考えています。
 ここからは僕の読解を示します。
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寛仁親王牌・世界選手権記念&暗殺未遂

2016-10-11 18:59:45 | 競輪
 被災地支援競輪として前橋競輪場で7日から開催された第25回寛仁親王牌は昨日が決勝でした。並びは深谷‐浅井の中部,脇本‐稲垣‐村上の近畿,古性‐南の大阪で平原と園田は単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。3番手に平原,4番手に園田と入り,5番手に脇本,8番手に古性の周回。残り4周のバックを通過すると古性が上昇。このラインに平原と園田が続いてホームで深谷を叩き,古性‐南‐平原‐園田‐深谷‐浅井‐脇本‐稲垣‐村上の隊列に。このまま残り3周のバックを通過すると今度は脇本が発進。ホームで古性を叩き,脇本‐稲垣‐村上‐古性‐南‐平原‐園田‐深谷‐浅井の一列棒状に。このまま脇本は緩めずに打鐘からホームを通過。バックから古性が発進しましたが車間を開けていた稲垣が番手捲りで対応。古性ラインのインを回ってコーナーでは南を抜いた平原が,直線に入るところで村上を弾いて稲垣の外から追いましたが僅かに届かず,優勝は稲垣。4分の1車輪差の2着に平原。平原に浮かされて一旦は南にも出られた村上が立て直してまた南を差し返して1車身半差で3着。
 優勝した京都の稲垣裕之選手は先週の向日町記念に続いて連続優勝。2007年11月の松阪でのふるさとダービー以来のビッグ2勝目でGⅠは初優勝。ちょうど先週の向日町記念と同じ並びになり,脇本の走行如何で村上との勝負になるというのが僕の本線の見立て。ここは脇本が早い段階での発進になったために番手捲りを敢行せざるを得ず,平原の立ち回りがなければ村上との優勝争いになっていたでしょう。個人的には愛知の金子貴志とこの稲垣裕之はまだ若いうちからとくに注目していた選手で,ようやくGⅠ制覇まで到達したのには感慨深いものがあります。

 清水の論述についてはもうひとつ,僕が疑念を抱いている部分があります。疑問の大きさということでいえば,これは弁明書に関連する疑問よりも大きなものです。というのは,弁明書については,それがスピノザにとって破門すなわちシナゴーグからの離脱が絶対的な悲劇であったと断定する論拠にはなり得ないということであって,清水が誤っているという意味ではないからです。ただそれを論拠とし得ない一面もあるというだけで,実際にはそれは清水がいっているような内容のものであったということも,「シナゴーグ離脱の弁明書」が発見されなかった以上は可能性として否定できないからです。ですがこれから説明していく事柄は,現に存在するテクストの読解に関係するもので,僕は清水の解釈は不自然ではないかと考えるのです。なのでこちらの方が僕の疑問としては大きいということになります。
 スピノザが破門を宣告されたのは1656年7月27日です。それから約1か月後の8月の最終週に,スピノザはアムステルダムAmsterdamの街中でおそらくユダヤ人の若者に背後から刃物で襲われました。しかし上着が深く切られただけで,スピノザの身体は皮膚が少しすりむける程度で出血には至りませんでした。上着の裂け目は右肩にあったとのことですから,おそらくそのあたりを切られたのでしょう。その部分から察するともしかしたら犯人はスピノザを傷つけようとしただけで殺そうとは思っていなかったと考えることもできますが,ここでは暗殺未遂ということにしておきます。というのはスピノザは刃物には毒が塗られているかもしれないと考えたからで,そうであるなら切り付ける箇所がどこであるかはあまり関係ないことなのかもしれないからです。
                                     
 スピノザはそう考えたので,医師による診察を受けたいと思いました。すでに破門された後でしたから,ユダヤ人の医師からの診察は受けられません。そこでスピノザが頼ったのが,かねてからメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelの家で会っていたファン・ローンJoanis van Loonでした。ローンは後にスピノザの勧めで「レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt」を書いたので,このときの一件についてもその著書の中に書き込まれたのです。
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農林水産大臣賞典マイルチャンピオンシップ南部杯&論理的欠陥

2016-10-10 19:41:16 | 地方競馬
 第29回南部杯。ヒミノコンドルが出走取消で13頭。
 逃げたいという馬が不在だったようでなかなか隊列が定まらなかったのですが,逃げることになったのはロイヤルクレスト。内の2番手にホッコータルマエで外の3番手にコパノリッキー。この後ろはアスカノロマン,シークロム,ベストウォーリア,ラテンロックの4頭がほとんど一団。1馬身ほど離れてレーザーバレットが追走。前半の800mは46秒1のミドルペース。
 逃げたロイヤルクエストはずっと最内には進路を選択しなかったので,3コーナーを回るとホッコータルマエがその内から並んでいく形。ロイヤルクエストの外を回ったのがコパノリッキーとベストウォーリア。そして最内を回ってきたのがレーザーバレットで,コーナーワークで直線の入口ではレーザーバレットが一旦は先頭に。奇襲のような戦法でしたが外を回ったコパノリッキーとベストウォーリアは力の違いを見せつけて直線ではこれを交わしました。2頭では先んじていたコパノリッキーが追撃を許さずにレコードタイムで優勝。ベストウォーリアが1馬身4分の3差で2着。一旦はレーザーバレットに出られたホッコータルマエもまたレーザーバレットを抜き返して3馬身差の3着。
                              
 優勝したコパノリッキーは6月の帝王賞以来の実戦で大レース8勝目。このレースは力量と距離適性から最有力候補。自身が逃げてホッコータルマエに突かれるという展開にならない限りは勝てるだろうとみていました。位置取りがホッコータルマエより後ろになったのは意外でしたが,むしろ自分のペースでレースを進められることになってよかったかもしれません。JBCクラシックは距離が伸びますので,そのあたりがどうかといったところでしょう。父はゴールドアリュール。祖母の従弟に2002年の大阪杯,2005年の大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス
 騎乗した田辺裕信騎手は安田記念以来の大レース5勝目。南部杯は初勝利。管理している村山明調教師は帝王賞以来の大レース制覇で南部杯初勝利。

 僕の想定の源泉になっているのは,「シナゴーグ離脱の弁明書」をスピノザが書いたという史実です。僕はそのタイトルから,これはスピノザが破門を宣告されてシナゴーグを離脱することを前提とした上で記したものだとみています。そしてそれは,その内容には『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』が先取りする形で含まれていたという見解に異を唱える識者が不在であるということと整合していると考えます。そしてこれを条件とした上で,僕はスピノザがシナゴーグに留まることを大きな悪malum,そこから離脱することをその大きな悪を回避するための善bonumであると認識したであろうと想定しているわけです。つまりこの論理は,スピノザが目指す演繹法とは真逆の帰納法であるといえます。まず先にスピノザに何が善であり何が悪であるかという認識があり,その認識が原因となって弁明書が記述されたというように説明するのが真の演繹法といえるでしょう。
 ですから僕は僕の説明に論理的な欠陥が含まれているということは認めます。ですが,だから僕がひどく的外れな見解を有しまたそれを表明したとも思わないのです。つまり少なくとも,スピノザには是が非でもシナゴーグに留まりたいという欲望cupiditasは存在しなかったという可能性は十分に想定できるものだと思うのです。ところが清水の見解というのは正反対で,スピノザがこの弁明書を書いたのは,シナゴーグに留まりたかったからにほかならないというように断定されています。だから僕はその論拠性に疑問を感じてしまうのです。
 僕にとって気になるのは,清水は論述においては単に弁明書と記し,「シナゴーグ離脱の弁明書」とは記述していないことです。なのでテクスト自体はそれはスピノザがシナゴーグに留まるために,いい換えれば破門を避けるために,ユダヤ人あるいはユダヤ人共同体の指導者たちに恭順の意を表した弁明書であるというようにスムーズに解せるようになっています。清水が自分の論述を有利に導くためにそうしたとは僕は考えませんが,少なくとも弁明書が書かれたということが,破門の宣告がスピノザにとってきわめて悲劇的な出来事だったということの決定的な論拠にはなり得ないと思うのです。
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レガシーオブストレングス&第四部定理六五

2016-10-09 19:32:26 | 血統
 先週のスプリンターズステークスを勝ったレッドファルクス。祖母が1982年にアメリカで産まれたレガシーオブストレングス。Legacy of Strengthですから力の遺産といったところでしょうか。初年度産駒をアメリカで受胎したまま輸入されましたので,繫殖生活はずっと日本で送った馬です。アリアーンと同じくファミリーナンバー9-c
                                     
 自身にとって4頭目の産駒が1992年に産まれたサイレントハピネス。1995年にオークストライアルの4歳牝馬特別とローズステークスを勝ちました。繁殖に入るとシンボリクリスエスとの間に2007年に産まれたサイレントメロディが2012年のマーチステークスを制覇。また,1988年に産んだ牝の産駒は一昨年の京都新聞杯を勝った現役のハギノハイブリッドの母になっています。
 1996年にサイレントハピネスの全妹として産まれたのがスティンガー。1998年の11月にデビューすると新馬を勝ち,月末の特別戦も連勝。さらに連闘で挑んだ阪神3歳牝馬ステークスも勝って大レース制覇。この年のJRA賞の最優秀2歳牝馬に選出されました。翌年は全姉も勝ったオークストライアルを優勝。2000年に京都牝馬特別と京王杯スプリングカップを勝つと,翌年の京王杯スプリングカップでも連覇を達成しました。
 1997年の産駒もサイレントハピネスおよびスティンガーの全妹。この馬がレッドファルクスの母になりました。
 2001年にダンスインザダークとの間に産まれた牝馬の産駒が2013年のキーンランドカップを勝ったフォーエバーマーク
 2004年にマンハッタンカフェとの間に産まれたのが2009年のオーシャンステークスを勝ったアーバニティです。
 レガシーオブストレングスの半姉にMontageという馬がいます。この馬の父のAlydarは同じ一族で,自身の5代母と父の4代母が同一という牝馬。2006年にテレビ埼玉杯を勝ったチョウサンタイガーはMontageの曾孫です。

 僕が解釈するように,哲学する自由libertas philosophandiを制限されることもシナゴーグから追放されることも,それ自体ではスピノザにとっては悪malumであったとしても,前者の方がより大なる悪で,後者はその大なる悪を回避するという意味で善bonumであったとすれば,スピノザはきっと後者の道を選択したことでしょう。つまり破門を宣告されるという小なる悪を受け入れても,思想の自由を制約されるという大なる悪を回避したことでしょう。少なくともこのときにスピノザが自分の置かれた状況を理性ratioによって判断したなら,スピノザが必然的にnecessarioそういう選択をするということは,『エチカ』の定理Propositioにも示されています。それが第四部定理六五です。
 「理性の導きに従って我々は,二つの善のうちより大なるものに,また二つの悪のうちより小なるものに就くであろう」。
 この定理は現実的には僕たちが善と悪を比較の上で認識するcognoscereということ自体によってすでに証明されているといえます。
 実際にこのときのスピノザがこの定理にあるような理性的な判断をしたのかどうかは何ともいえません。ただ,たとえそうでなかったとしても,人間の現実的本性actualis essentiaは第四部定理一九により善bonumを希求し悪を忌避するのですから,両者のほかの条件が同等とみなされる限りにおいては,やはりスピノザはシナゴーグからの離脱の方を選択しただろうと思われます。そうであるなら「シナゴーグ離脱の弁明書」というのは,自分がシナゴーグを離脱することについての弁明であったと解するのが妥当です。したがってその内容には,哲学する自由を制限しようとするシナゴーグあるいはその指導者たちへの批判が含まれていたとしてもおかしくありません。こうした想定から僕は,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の「オランダ旅行記Der Bericht der Stolle-Hallmanschen Reisebeschreibung」でハルマンがリューウェルツゾーン,すなわち遺稿集Opera Posthumaの編集者でもあったリューウェルツJan Rieuwertszの息子から聞いた話として伝えている,遺稿集Opera Posthumaには掲載されなかった,スピノザがユダヤ教徒を反駁し過酷に扱った大著というのが,この弁明書だった可能性もあると考えているのです。
 もちろんこうした想定は,論理的にいうなら好ましくない部分を含んでいることも僕は認めます。
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王座戦&破門の選択

2016-10-08 19:26:52 | 将棋
 4日に上山温泉で指された第64期王座戦五番勝負第三局。
 羽生善治王座の先手で糸谷哲郎八段の急戦矢倉。中盤で差がつく将棋でした。
                                     
 先手が歩を打った局面。先手が歩損していますので,こう抑え込みにいくのは発想としてあまり浮かばないように思うのですが,確かな大局観に裏打ちされていたようです。
 先手玉も堅いわけではありませんが後手玉はそれを上回る悪形。ということで△9五歩から仕掛けていったのでしょうが,これが局面の悪化を招く要因になったように思います。
 ▲同歩に△9六歩と垂らすのは常套手段。そこで先手は▲4五歩△同歩と勢いをつけてから▲3七桂と跳ねていきました。これが大きかったようで,後手は▲4五歩は取らずに初志貫徹で△9五香と走るのが優ったようです。反撃を含みに△4四銀右と上がる手に期待したものと思いますが▲5四歩の突き出しがありました。これには△同銀。
 ここで▲9六香と歩をもう1枚入手できるのが先手の強み。ここから△7三角▲6四歩△5五歩という手順は明らかに先手の得で,後手はまだしも角を引かずに△5五歩だったのでしょうが,端から仕掛けたのを逆用されていて,それでも苦しいのではないかと思います。
                                     
 第2図以下は▲5三歩△同金と呼び込んでおいてから▲5六歩と合わせていくのが厳しい攻め。そのまま先手が押し切っています。
                                       
 3連勝で羽生王座の防衛。第40期,41期,42期,43期,44期,45期,46期,47期,48期,49期,50期,51期,52期,53期,54期,55期,56期,57期,58期,60期,61期,62期,63期に続き5連覇で通算24期目の王座になります。

 「シナゴーグ離脱の弁明書」は発見されていないのですから,内容がどういったものであったのかについては推測することしかできません。多くの学者の間で一致しているのは,その弁明書の中身には,後の『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』において論じられている事柄が先取りするような形で含まれていたというものです。
 僕は,この弁明書の標題から察して,それはスピノザがシナゴーグをなぜ離脱しなければならないのかということに関係した内容が記述されていたと推定しています。つまりシナゴーグを離脱すること,他面からいえば破門の宣告を受けるということを前提として,そのことの正当性を弁明したのだと推定しているのです。そしてこの推定は,多くの学者の間で共有されてる見解と隔たりはないものと思っています。なぜなら,『神学・政治論』というのは哲学する自由を守るという意図から書かれたものですが,シナゴーグに留まっている限りはスピノザが自由に思考することは制限され,逆にいえばスピノザ自身が哲学する自由を行使するためには,シナゴーグからすすんで離脱する必要があったと考えられるからです。
 だからといって,破門を宣告されることすなわちシナゴーグから離脱することが,スピノザにとって悲劇的な出来事ではなかったというようには僕は考えません。いい換えればそれがスピノザに対して悲しみtristitiaを齎す出来事ではなかったとは考えません。僕はこの点においては,清水の説明が絶対に正しいとはいいませんが,かといって絶対に誤っているとも考えません。おそらくこのことは,スピノザの哲学において善悪がどういう概念であったかに注意すれば説明できます。
 スピノザにとって破門を宣告されることが悲しみを齎すとすれば,それ自体でみればそのことはスピノザにとっての悪malumです。一方,シナゴーグに留まって哲学する自由を行使することを部分的に制限されるならば,そのこともまたスピノザにとってはそれ自体で悪,すなわち悲しみを齎すことであった筈です。このとき,スピノザにとっては後者の悪がより大なる悪であり,前者はそれ自体では悪でも,より大きな悪を回避するという意味ではむしろ善bonumだったのです。
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新人王戦&思想と生涯

2016-10-07 19:13:54 | 将棋
 3日に指された第47回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は石田直裕四段が1勝,増田康宏四段が1勝。
 振駒で石田四段の先手になり角換り相腰掛銀。増田四段が6二金・8一飛の構えで先攻する将棋に。
                                     
 もう最終盤。後手が△5八とと寄るために先手の角に働きかけたところ。先手は▲5一金の攻め合いを選択。ここから△同飛▲同銀成は一直線。
 これを△同玉と取っておけば先手の攻めは不発で後手の勝ちでした。しかし△3一玉と逃げたために逆転。
 先手はここで▲4九角と逃げました。後手は△5八金しかないので▲3八王△4九金までは仕方ないところ。そこで▲2五桂と跳ねるのが逃げ道を作りつつ攻めも含みにした一手。後手は△2四銀と逃げました。
                                     
 ここで▲1三桂打なら先手の勝ちでした。しかし▲6四角△同金と切って▲4一銀と詰めろを掛けたために△5九とで詰み。4六に角がいれば▲6八歩の合駒がありますし,後手は角を持ち駒にもできません。頓死といっていいのではないかと思います。
 増田四段が先勝。第二局は11日です。

 『スピノザの方法』にみられる『破門の哲学』に対するもうひとつの疑問は,スピノザがユダヤ人共同体から破門されたこと,および破門された後のスピノザの暮らしに関わるものです。國分は清水がいうように,それがスピノザにとって帰りたい共同体から弾き出されたことであり,またそれによって逃亡者のように小さな村を転々としていったのが事実なのかどうかに疑問を呈しているのです。
 おそらくこの疑問は『破門の哲学』を未読である場合には意味が分からないかと思います。『破門の哲学』では,1656年7月27日の破門宣告が,スピノザにとって受容したくない悲劇的な出来事であったということが,論旨の骨子を支えるようになっています。つまり國分はその骨子の部分に疑問を投げ掛けているのです。
 僕はスピノザの思想とスピノザの生涯とを別個に探求します。そしてそれらを関連付けることはしません。ですからたとえ破門がスピノザにとって悲劇であったということが清水の論考の骨子となっているにしても,その骨子の部分が崩壊したというだけで清水の論考が全面的に崩壊するとは解しません。僕は生涯について描かれている骨子の部分と,思想に関して論述されている理論的部分とを分離して解するからです。
 ただし,思想と生涯とを分割して,単に生涯の部分にだけ限定して探求すれば,僕もまた國分と同様の疑問を清水に対しては抱いています。このことはすでに僕が考察した部分と関係してきますので,ここでもいくらかなぜ僕が清水の描き方に疑問を感じるのかを説明することにします。
 スピノザは破門の宣告を受ける前,おそらくその直前といっていい時期だと思いますが,「シナゴーグ離脱の弁明書」というのをスペイン語で書きました。この弁明書は発見されておらず,したがってそこに何が書かれていたのかは不明です。ですが確かにスピノザがそれを書いたということは史実としてよいでしょう。実際にそれが史実であるということに関しては,清水自身も認めているといえます。この弁明書が清水によるスピノザの生涯の説明の根拠のひとつとなっているからです。その論拠性が僕にとっての疑問なのです。
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スポーツニッポン賞鎌倉記念&國分の書評

2016-10-06 19:25:52 | 地方競馬
 北海道から4頭が遠征してきた昨晩の第15回鎌倉記念
                                     
 先手を取ったのはゴーフューチャー。この後ろにマルボルクシチーとサイバーエレキングが並んで追走。外を回って4番手にストーンリバー。さらに内のキャンドルグラスと外のルデマレが並んで続き,ここまではほぼ一団。少し差が開いてセイジーニアスとマイティキングの2頭。また開いてキャプテンロビンが続き,発走後の正面では離れた最後尾に置かれていたティーケーグラスが3コーナー手前ではこのあたりまで追い上げてきました。発走後の正面でペースが上がっていた分だけハイペースであったでしょうか。
 3コーナーを回るとサイバーエレキングは後退。単独の2番手にマルボルクシチーが上がり,3番手にストーンリバー。向正面半ばでは早くも鞭が入っていたキャンドルグラスが内を回って4番手に取りつき,大外を捲るようにティーケーグラスが5番手に。直線に入るところのコーナーワークで逃げるゴーフューチャーが後ろとの差を広げたのですが,マルボルクシチーの外からストーンリバーは脚を伸ばし,残り50m付近でゴーフューチャーに追いつくとそのまま差し切って優勝。逃げ粘ったゴーフューチャーが1馬身差で2着。内からしぶとく伸びて一旦は3番手に上がったキャンドルグラスを大外のティーケーグラスが捕えて1馬身半差の3着。
 優勝した北海道のストーンリバーは前々走で北海道重賞のブリーダーズゴールドジュニアカップを優勝。今年の北海道の2歳馬の中でも上位にランク付けできる馬なので,川崎コースに対応できれば間違いなく好勝負できると考えていました。2着馬とは通ったコースの差が大きいですし,こちらは遠征競馬だったことも考慮に入れれば,現状では着差以上の力量の差があると考えてよいのではないかと思います。血統面からは成長が見込めますので,今後の動向には注目でしょう。祖母の半兄に1989年のスプリングステークス,1990年のスワンステークス,1992年の東京新聞杯を勝ったナルシスノワール。同じく半弟に1998年のプロキオンステークスを勝ったテンパイ
 騎乗した北海道の井上幹太騎手は南関東重賞はこれが初勝利。管理している北海道の堂山芳則調教師は第10回,12回に続き3年ぶりの鎌倉記念3勝目。

 『破門の哲学』はすでに書評を掲載してありますので,ここでは重複を避けた説明をします。
 『スピノザの方法』の第六章に,『破門の哲学』についての言及があります。その中に,『破門の哲学』がスピノザの破門を描いた伝記的書物と思われているふしがあるという脚注があり,これは僕を驚かせるものでした。読んだ方であれば分かるでしょうが,これは伝記的書物ではありません。國分が同じ脚注でいっているように,理論的な哲学書として読まれなければなりません。
 僕はこの本を,スピノザの生活の背景にあるものとスピノザの思想とを比較して,スピノザの主張が変化していく要因を探求したものであるというように大雑把には解釈してます。一方,國分は,スピノザの哲学的方法論の転換の問題を主題とした最初の研究であるとし,とくに清水がスピノザが用いる「与えられたもの」という語句に注目したのは独創的でありかつ正確であると評価しています。
 『スピノザの方法』は方法論を主題として扱った書物なので國分がそのように評価したのかどうかは分かりません。ただ,僕の見解としていえば,清水が哲学的方法論について言及しているのは確かだけれども,哲学的方法論だけを主題として論じているというようには考えません。独創的なことは事実ですし,同じく國分が指摘しているように,この中には有益な指摘が含まれているのも間違いないと思います。
 ただし,國分が『破門の哲学』を全面的に肯定的に評価しているのかといえばそうではありません。國分は清水の主張は批判的に検討されなければならないと考えているようです。そして別の脚注においては,清水に対してふたつの疑問を投げ掛けています。そのうちのひとつは,清水がスピノザの方法論の考察の読解の対象として『エチカ』を軽んじているという点です。清水は『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』が未完に終わった理由を,方法論的な挫折として呈示しますが,それは『エチカ』によって克服されたと考え得るというのが國分のいわんとするところです。これは僕からするとドゥルーズに近い見解を國分は有しているという判断になります。ですがこの点については探求しません。
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平安賞&読書

2016-10-05 19:28:42 | 競輪
 被災地支援競輪として実施され,2日に決勝が争われた向日町記念。並びは山崎‐内藤の北日本,脇本‐稲垣‐村上の近畿,阿竹‐三宅の四国中国で,吉沢と岩本は単騎。
 スタートを取ったのは内藤で,山崎の前受け。3番手に脇本,このラインを追走したのが吉沢,7番手に阿竹,最後尾に岩本の周回に。残り3周のバックで阿竹が岩本まで連れて上昇。山崎は誘導との車間を少し開けて待ち構えましたが,阿竹は叩きにはいかず,内藤の後ろに入って脇本の動きを警戒しつつ前と車間を開けました。脇本が引いて少し長めの一列棒状に。残り2周のバックから阿竹が今度は山崎を叩きに発進。しかしすでに打鐘ということもあったでしょう,山崎は引かずに突っ張りました。このために阿竹は行かれず,ホームで外から脇本が発進。吉沢まで連れて出きりました。これで後方からは動きがなくなり前での勝負。直線から踏み込んだ番手の稲垣が優勝。脇本と稲垣の間に進路を取ったマークの村上が半車身差の2着に続いて地元勢のワンツー。このラインを追った吉沢が4分の3車身差の3着に続きました。
 優勝した京都の稲垣裕之選手は1月のいわき平記念以来となる記念競輪6勝目。地元となる向日町記念は2008年以来の2勝目。このレースはラインの厚みが近畿勢が断然。単騎の吉沢や岩本が番手戦を挑むことも考えにくかったので,脇本がどのあたりからの先行になるかによって,稲垣が勝つか村上が勝つかが決まるだろうと考えていました。前受けした山崎が先行争いも辞さずに突っ張っていくことは想定外だったかもしれませんが,阿竹が出られず,隊列も短くなったので,脇本にとっては好都合だったでしょう。後ろから捲ってくる選手がいませんでしたので,番手発進する必要もなく,稲垣には有利に働いたというレースであったと思います。

 3月17日,木曜日。この日は川崎で午後5時に帰宅しましたが,移動中に一冊の書籍を読了しました。『破門の哲学』です。この本はブログを始める以前に読んだことがあったものですが,この本に関連するコメントを前年の暮れにもらいました。なのでよい機会と思ってまた読み直してみたものです。もちろんコメントをもらってすぐに読み始めたというわけではありません。
                                     
 僕はこのように,過去に読んだ本を読み直すということはしますが,それは部分的である場合がほとんどです。今回のように最初から最後まで通して読み直すということはあまりしません。時間の問題もありますが,一冊の本の中で自分にとって重要な部分というのは限られているからです。
 ただし,逆にいえばそうした重要な部分は,何度でも読み直す必要があるということです。ですが記憶力には限界というものがありますから,ある本の中のどの部分が重要であるのかということを逐一覚えておくということはできません。なので再読するための利便性を増すために,その重要な部分に関しては記録を残しておく必要があります。そこで僕はそういう部分には何らかのメモを残します。なので僕の場合,本を読むためには書き込みをすることができる紙の書籍である必要があります。だから僕は電子書籍は利用しません。もしも文字を目で追うことを読書というなら話は別ですが,読書のためには紙の書籍である必要があるのです。
 一冊の本の内容だけを調べたいのであれば,電子書籍は紙の書籍にはない利便性を有せると思います。紙の書籍の索引には限界がありますし,索引がついていないものもあります。しかし電子書籍であれば,ある単語がどこで使われているか簡単に検索できる余地があるからです。ところが,Aという書籍のある部分が,Bという書籍のある部分とどういう関係があるのかということを調べたい場合には,こうした機能はまったく役に立ちません。むしろAにはBのある部分を,BにはAのある部分を参照せよとメモしておかなければならないのです。そういう書き込みが可能になるならば,たぶん電子書籍は読書にとってかなり有益なツールになるでしょう。
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農林水産大臣賞典白山大賞典&おくすり手帳

2016-10-04 19:14:33 | 地方競馬
 第36回白山大賞典
 まず大外からケイティブレイブがハナへ。しかし発馬が一息だったモンドクラッセが内に切れ込んだケイティブレイブの外から追い上げ,1周目の1コーナーでは交わして先頭に。ここからはモンドクラッセの逃げになりました。2番手に控えたケイティブレイブ。3番手は内にストロングサウザー,外にアムールブリエで併走。単独の5番手にトラキチシャチョウ。少し差が開いてカツゲキキトキトという隊列。1周目の正面でカツゲキキトキトまでの隊列がぐっと凝縮。2周目の向正面に入るとまたモンドクラッセが差を開きにかかるというレース。
 ケイティブレイブは3コーナーから追撃を開始。その後ろは内にストロングサウザー,外のアムールブリエ。最後の直線に入るとモンドクラッセが一杯になりケイティブレイブが先頭に。そのままフィニッシュまで流れ込んで優勝。ストロングサウザーとアムールブリエは直線でも競り合いながらモンドクラッセを交わし,最後はねじ伏せるように外のアムールブリエが前に出て1馬身差の2着。遅れたストロングサウザーが半馬身差で3着。
 優勝したケイティブレイブは5月の兵庫チャンピオンシップ以来の重賞2勝目。その後は3戦続けて2着と勝ちきれませんでしたが,前走はオープン特別とはいえ古馬を相手にしてのものでしたので,このメンバーでも能力は通用することは分かっていました。モンドクラッセは距離が長いように思えましたし,アムールブリエは斤量が厳しかったので,条件次第では結果が変じてくるということもあり得るでしょう。逃げての好走を続けていましたから,2番手からのレースで勝ち切ったところは価値があると思います。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の半兄に1999年の北海道スプリントカップ,2000年のガーネットステークスと黒船賞と群馬記念とかしわ記念と朱鷺大賞典,2001年のガーネットステークスととちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ
                                     
 騎乗した武豊騎手と管理している目野哲也調教師は白山大賞典初勝利。

 この後,薬局の薬剤師からひとつ注意をされました。それは,次回からおくすり手帳を必ず所持してくるようにというものでした。4月からは所持していないと,薬剤の料金が割り増しされてしまう場合が生じるからというのがその理由でした。
 定期的に通院して処方箋をもらっている方ならよく知っていることでしょうが,おくすり手帳というのは,いつどこでどんな薬剤を処方されたのかを記録しておくための手帳です。薬局などで薬剤を処方されますと,処方された薬剤が何で,またその分量がどれほどかが印刷されたシールを同時に渡されます。このシールを剥がして手帳の方に貼り付けておくのです。もしいつもと違った薬をもらう場合や,いつもと違った薬局で薬を受け取る場合には,薬剤師がそれを閲覧することによって,患者が過去にどんな薬剤をどれくらい処方されているかを知ることができます。ある薬剤を別の薬剤と一緒に使用すると副作用が生じる可能性があり,そうした不都合を最後に防止するための手帳であるといえるのではないでしょうか。これは多くの場合は最初は薬局でもらうものなのではないかと思います。ただ僕は入院していましたので,退院した日の朝に,病院の薬剤師からもらいました。このときは処方箋ではなく,薬剤も同時に処方されています。
 僕は2014年の途中からは通院のときには常におくすり手帳も携帯するようになりました。その頃から,薬局でおくすり手帳を所持しているかを尋ねられるケースが増えていたからです。もちろんこの日も持っていました。ですから注意された内容に関していえば,今までと同じようにしていればいいのであって,とくに何か心掛けなければならないことが増えたというわけではありません。
 3月16日,水曜日。近隣で何か工事している音が聴こえてきました。解体工事の終ったところに新しい家を建てる工事が開始されたのかと思いましたが,少し不自然にも思いました。というのもそれくらいの大掛かりな工事をするなら,事前に通知がありそうなものですが,何もなかったからです。実際にそうで,さらにその北隣の家で塀と玄関の敷居をリフォームする工事でした。
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凱旋門賞&2016年3月の通院

2016-10-03 18:58:08 | 海外競馬
 日本時間で昨晩の11過ぎの発走だった,フランスのシャンティイ競馬場で開催された凱旋門賞GⅠ芝2400m。
                                     
 マカヒキは16頭立ての14番枠から発走。好発をきめて先行集団の直後の外目,おおよそ5番手から6番手という位置取り。ヨーロッパのレースとしてはわりとペースが上がった方ではないかと思うのですが,その位置でもかなり行きたがって抑えるのに苦労しているように見えました。位置取りはほとんど変わらずに最終コーナーまで来ましたが,直線ではこの馬らしい伸び脚はまったくなく後退。最後はレースに参加せず,大きく離れた14着でした。
 操縦性は高い馬だという印象があったので,折り合うことができなかったのは意外。後方に待機するか,馬群の中を追走するかというレースしか経験がなく,多頭数の外目に位置するレースが初めてだったためにこうしたことになったのかもしれませんし,あるいは仕上がりに関して順調さが伝えられていましたので,いつになく体調が十分であったためにかえって馬の方がやる気になりすぎてしまったためにこうなったのかもしれません。前哨戦の相手関係と着差から,厳しい戦いになることも十分に予想されましたが,能力からいえばここまで負けるということは考えられず,どういった要因であったかは不明ですが,能力を十全に発揮できなかったという意味では残念な結果でした。

 HbA1cは7.4%でした。2015年12月の通院のときには7.0%だったので上昇していたことになります。ただ,僕は上昇することは織り込み済みでした。もう何度もいっていることですが,僕の血糖値は寒い時期にはあまり統御できなくなるからです。今年の厳寒期も同様で,このときの値にはそれが含まれています。ですからどのくらいの値になるかは分かりませんでしたが,高くなることは間違いないと思っていました。気候の影響であることはK先生も分かってましたし,この頃になるとそれまでよりは血糖値も統御できるようになっていましたから,次は下がるだろうと伝えておきました。とくに指示されたことはありません。
 LDLコレステロールが65mg/㎗と下限値を下回っていました。この異常があったのは2014年10月以来。したがって2015年はずっと正常値の範囲内であったわけですが,この異常が出るのはさほど珍しいことではありません。これについては何も言われませんでしたし,僕の方から伝えることも何もありませんでした。
 糖定性が3+になっていました。これは検査をした時点での血糖値が高くなっていると+の値が検出されるというのが僕の傾向です。+だったのは2015年9月以来。ただそのときは血糖値が197㎎/㎗でとても高かったのです。ですがこの日の血糖値は145㎎/㎗で,これも高いですけど驚くような値ではありません。それで3+というのは意外な結果ではありました。
 この日はこれ以外の異常は検出されていませんでした。
 診察というのはさほど時間を要するものではありません。予約時間だった午後3時にはすぐに開始になったので,診察の終了時にはまだ午後3時20分にはなっていなかった筈です。あとは会計を済ませればよいのですが,その会計の順番を示す僕の番号は914番でした。ところがこの日はその時点でまだ844番までしか支払いの準備が終了していませんでした。このために長く待たなければならず,病院を出たのは午後3時40分ごろになってしまいました。
 帰途に薬局に寄ってインスリンと針を入手。数量はどちらも足りていました。
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スプリンターズステークス&最後の診察

2016-10-02 19:17:56 | 中央競馬
 第50回スプリンターズステークス
 ミッキーアイルがハナを取りにいこうとしたところ,内からソルヴェイグも応戦。最初はこの2頭が並んで逃げるようなレースになりました。2頭の後ろはビッグアーサー,シュウジ,ネロの3頭。さらにベルカント,サトノルパン,レッドファルクスの3頭が集団で追走。前半の600mが33秒4のミドルペースだったこともあり,わりと短い隊列。このために最後の直線では進路を確保できない馬もいました。
 直線に入ったところではミッキーアイルが単独で先頭。外にシュウジとネロ,内にソルヴェイグの3頭で,これらがミッキーアイルを追いましたが差がなかなか詰まらず。直線で外から2頭目に出されたレッドファルクスがこれら追い上げる馬たちを一気に交わし,逃げるミッキーアイルをもフィニッシュ寸前で捕まえて優勝。アタマ差の2着にミッキーアイル。ミッキーアイルとシュウジの間に進路を選択できたソルヴェイグがクビ差の3着。シュウジがクビ差の4着でレッドファルクスのさらに外から差してきたスノードラゴンがクビ差の5着,以下11着まではいずれもハナ差かアタマ差かクビ差という大接戦の結末でした。
 優勝したレッドファルクスは前走のCBC賞が重賞初挑戦での勝利。ここはそれ以来のレース。そのときに速いタイムでのレースにも目途を立てていましたのでここは有力馬の1頭。過去の戦績からも大きく崩れることはないだろうと思われました。必ずしも差してくる馬に有利だったとはいえませんし,2着馬は一定の成績をあげていますから,大接戦ではあっても高く評価する必要があると思います。1400mにも対応できて,ダートも苦にしない馬ですから,今後の選択肢は幅広そう。左回りで実績を上げているのでJBCスプリントに使っても面白そうです。母の全姉に1995年の4歳牝馬特別とローズステークスを勝ったサイレントハピネスと,1998年のJRA賞最優秀2歳牝馬のスティンガー,同じく半兄に2009年のオーシャンステークスを勝ったアーバニティ。Falxはラテン語で鎌。
                                     
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は桜花賞以来の大レース制覇。スプリンターズステークスは初勝利。管理している尾関知人調教師は開業から約7年7ヶ月で大レース初勝利。

 妹が主役の『走れメロス』が上演された芸術祭は2月26日のことでした。以降の日記に戻ります。
 2月27日,土曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はボーリングでした。
 3月1日,火曜日。午前中にI歯科に歯科検診に行ってきました。予約は午前11時。この日も歯石の除去をしただけです。ただ,上の奥歯の表面が削れてきているという指摘を受けました。もっともこうした指摘は過去にも受けたことがあったかと思います。さらに削れてきてしまうと,沁みてくる原因になると言われました。なるべく柔らかい歯ブラシを使用するのが最善の対策とのことでした。
 3月5日,土曜日。妹の土曜出勤。3月は大概は食事会が設定されます。昼食前に山下公園を散策し,その後その近辺のホテルで昼食でした。
 3月7日,月曜日。こども医療センターの定期検診の日。僕はこの日は長者町で,帰宅したのは午後4時45分。妹の検診は最近は午後1時で一定していますから,僕が帰ったときには先に戻っていました。
 3月9日,水曜日。妹の歯科検診。午後3時から。僕はこの日は川崎で,帰ったのが午後4時50分でしたが,ちょうどその帰宅途中に,検診を終えて家に向かう母と妹に会いました。
 3月12日,土曜日。妹のピアノのレッスン。この日は午後4時半からになりました。
 3月13日,日曜日。母と妹が美容院へ。
 3月14日,月曜日。僕の内分泌科の通院の日でした。
 病院に到着したのは午後12時40分ごろ。中央検査室で検査を待っている人がひとりもいませんでしたので,すぐに採血することができました。ですからその後で採尿,そして注射針の処理が最後という順序になりました。
 この日は雨が降っていました。なので外に出るのが億劫な気分であったのですが,診察の予約時間は午後3時です。事前の検査の方があっという間に終わってしまいましたので,病院の食堂で昼食を済ませるとあまりに待つ時間が長くなってしまいます。なので外食としました。診察に間に合うように病院に戻り,予約時間の午後3時になるとすぐに診察が開始されました。K先生の最後の診察でした。
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