スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

寛仁親王牌・世界選手権記念&暗殺未遂

2016-10-11 18:59:45 | 競輪
 被災地支援競輪として前橋競輪場で7日から開催された第25回寛仁親王牌は昨日が決勝でした。並びは深谷‐浅井の中部,脇本‐稲垣‐村上の近畿,古性‐南の大阪で平原と園田は単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。3番手に平原,4番手に園田と入り,5番手に脇本,8番手に古性の周回。残り4周のバックを通過すると古性が上昇。このラインに平原と園田が続いてホームで深谷を叩き,古性‐南‐平原‐園田‐深谷‐浅井‐脇本‐稲垣‐村上の隊列に。このまま残り3周のバックを通過すると今度は脇本が発進。ホームで古性を叩き,脇本‐稲垣‐村上‐古性‐南‐平原‐園田‐深谷‐浅井の一列棒状に。このまま脇本は緩めずに打鐘からホームを通過。バックから古性が発進しましたが車間を開けていた稲垣が番手捲りで対応。古性ラインのインを回ってコーナーでは南を抜いた平原が,直線に入るところで村上を弾いて稲垣の外から追いましたが僅かに届かず,優勝は稲垣。4分の1車輪差の2着に平原。平原に浮かされて一旦は南にも出られた村上が立て直してまた南を差し返して1車身半差で3着。
 優勝した京都の稲垣裕之選手は先週の向日町記念に続いて連続優勝。2007年11月の松阪でのふるさとダービー以来のビッグ2勝目でGⅠは初優勝。ちょうど先週の向日町記念と同じ並びになり,脇本の走行如何で村上との勝負になるというのが僕の本線の見立て。ここは脇本が早い段階での発進になったために番手捲りを敢行せざるを得ず,平原の立ち回りがなければ村上との優勝争いになっていたでしょう。個人的には愛知の金子貴志とこの稲垣裕之はまだ若いうちからとくに注目していた選手で,ようやくGⅠ制覇まで到達したのには感慨深いものがあります。

 清水の論述についてはもうひとつ,僕が疑念を抱いている部分があります。疑問の大きさということでいえば,これは弁明書に関連する疑問よりも大きなものです。というのは,弁明書については,それがスピノザにとって破門すなわちシナゴーグからの離脱が絶対的な悲劇であったと断定する論拠にはなり得ないということであって,清水が誤っているという意味ではないからです。ただそれを論拠とし得ない一面もあるというだけで,実際にはそれは清水がいっているような内容のものであったということも,「シナゴーグ離脱の弁明書」が発見されなかった以上は可能性として否定できないからです。ですがこれから説明していく事柄は,現に存在するテクストの読解に関係するもので,僕は清水の解釈は不自然ではないかと考えるのです。なのでこちらの方が僕の疑問としては大きいということになります。
 スピノザが破門を宣告されたのは1656年7月27日です。それから約1か月後の8月の最終週に,スピノザはアムステルダムAmsterdamの街中でおそらくユダヤ人の若者に背後から刃物で襲われました。しかし上着が深く切られただけで,スピノザの身体は皮膚が少しすりむける程度で出血には至りませんでした。上着の裂け目は右肩にあったとのことですから,おそらくそのあたりを切られたのでしょう。その部分から察するともしかしたら犯人はスピノザを傷つけようとしただけで殺そうとは思っていなかったと考えることもできますが,ここでは暗殺未遂ということにしておきます。というのはスピノザは刃物には毒が塗られているかもしれないと考えたからで,そうであるなら切り付ける箇所がどこであるかはあまり関係ないことなのかもしれないからです。
                                     
 スピノザはそう考えたので,医師による診察を受けたいと思いました。すでに破門された後でしたから,ユダヤ人の医師からの診察は受けられません。そこでスピノザが頼ったのが,かねてからメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelの家で会っていたファン・ローンJoanis van Loonでした。ローンは後にスピノザの勧めで「レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt」を書いたので,このときの一件についてもその著書の中に書き込まれたのです。
コメント
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