スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&思想と生涯

2016-10-07 19:13:54 | 将棋
 3日に指された第47回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は石田直裕四段が1勝,増田康宏四段が1勝。
 振駒で石田四段の先手になり角換り相腰掛銀。増田四段が6二金・8一飛の構えで先攻する将棋に。
                                     
 もう最終盤。後手が△5八とと寄るために先手の角に働きかけたところ。先手は▲5一金の攻め合いを選択。ここから△同飛▲同銀成は一直線。
 これを△同玉と取っておけば先手の攻めは不発で後手の勝ちでした。しかし△3一玉と逃げたために逆転。
 先手はここで▲4九角と逃げました。後手は△5八金しかないので▲3八王△4九金までは仕方ないところ。そこで▲2五桂と跳ねるのが逃げ道を作りつつ攻めも含みにした一手。後手は△2四銀と逃げました。
                                     
 ここで▲1三桂打なら先手の勝ちでした。しかし▲6四角△同金と切って▲4一銀と詰めろを掛けたために△5九とで詰み。4六に角がいれば▲6八歩の合駒がありますし,後手は角を持ち駒にもできません。頓死といっていいのではないかと思います。
 増田四段が先勝。第二局は11日です。

 『スピノザの方法』にみられる『破門の哲学』に対するもうひとつの疑問は,スピノザがユダヤ人共同体から破門されたこと,および破門された後のスピノザの暮らしに関わるものです。國分は清水がいうように,それがスピノザにとって帰りたい共同体から弾き出されたことであり,またそれによって逃亡者のように小さな村を転々としていったのが事実なのかどうかに疑問を呈しているのです。
 おそらくこの疑問は『破門の哲学』を未読である場合には意味が分からないかと思います。『破門の哲学』では,1656年7月27日の破門宣告が,スピノザにとって受容したくない悲劇的な出来事であったということが,論旨の骨子を支えるようになっています。つまり國分はその骨子の部分に疑問を投げ掛けているのです。
 僕はスピノザの思想とスピノザの生涯とを別個に探求します。そしてそれらを関連付けることはしません。ですからたとえ破門がスピノザにとって悲劇であったということが清水の論考の骨子となっているにしても,その骨子の部分が崩壊したというだけで清水の論考が全面的に崩壊するとは解しません。僕は生涯について描かれている骨子の部分と,思想に関して論述されている理論的部分とを分離して解するからです。
 ただし,思想と生涯とを分割して,単に生涯の部分にだけ限定して探求すれば,僕もまた國分と同様の疑問を清水に対しては抱いています。このことはすでに僕が考察した部分と関係してきますので,ここでもいくらかなぜ僕が清水の描き方に疑問を感じるのかを説明することにします。
 スピノザは破門の宣告を受ける前,おそらくその直前といっていい時期だと思いますが,「シナゴーグ離脱の弁明書」というのをスペイン語で書きました。この弁明書は発見されておらず,したがってそこに何が書かれていたのかは不明です。ですが確かにスピノザがそれを書いたということは史実としてよいでしょう。実際にそれが史実であるということに関しては,清水自身も認めているといえます。この弁明書が清水によるスピノザの生涯の説明の根拠のひとつとなっているからです。その論拠性が僕にとっての疑問なのです。
コメント
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