スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

テレ玉杯オーバルスプリント&クレジットカード

2016-09-15 19:23:13 | 地方競馬
 第27回テレ玉杯オーバルスプリント
 先行争いも予想されたのですが,意外と簡単にソルテがハナを奪いました。しかし外のレガルスイはあまり控えずに並んでいったので,2頭で後ろを2馬身ほど離すことに。3番手にタマモホルン。半馬身差で外にニシケンモノノフ。また半馬身差で内にスーサンジョイとこの3頭が好位。これらの後ろにリアライズリンクスとレーザーバレットが並んで追走。その後ろはだいぶ差が開いてしまいました。最初の600mは35秒3のハイペース。
 前の2頭は並んだまま3コーナーを回り,追い掛けようとしたニシケンモノノフは一杯。変わってレーザーバレットが3番手になって直線に。ソルテはマークされていたレガルスイこそ振り切ったものの,その外から伸びたレーザーバレットには抵抗できず,差し切ったレーザーバレットの優勝。ソルテが半馬身差で2着。レガルスイが2馬身差の3着に粘りました。
 優勝したレーザーバレットは昨年の兵庫ゴールドトロフィー以来の重賞3勝目。第26回に続きテレ玉杯オーバルスプリント連覇。ここはソルテの能力が断然で,負けられないくらいのメンバー構成。斤量が有利で展開も向きましたが,差し切ったのは金星で,評価する必要があるでしょう。大レースで勝てるというほどの能力を持ち合わせているとは思えませんが,この距離の重賞ではまだ活躍することも可能ではないかと思います。母の3/4弟に1997年の中日スポーツ賞4歳ステークスを勝ったオープニングテーマ。Laser Bulletはレーザー銃弾。
 騎乗した戸崎圭太騎手は第25回,26回に続く三連覇でテレ玉杯オーバルスプリント3勝目。管理している萩原清調教師は連覇でテレ玉杯オーバルスプリント2勝目。

 2月17日,水曜日。母が歯科検診のためにI歯科へ。午前11時から。歯石の除去をしただけでした。僕はこの日は新川崎へ。帰ったのは午後4時45分でした。
 2月20日,土曜日。妹のピアノのレッスン。この日は前日に連絡が入り,午後3時の開始でした。
 2月21日,日曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。
 1月17日に母と妹が美容院に行ったとき,妹のパスポート用の写真も撮影したのは,パスポートの期限切れが迫っていたからでもありましたが,それを使う予定もあったからです。4月にふたりはまた渡米することになりました。ですがESTAの期限は切れていたようで,母に頼まれて僕がこの日に申請しました。申請するのはこれが4度目であったと思うのですが,手続きが以前よりも煩雑になっているような気がしました。何年かに1度のことなのではっきりと覚えているわけではありませんから,あるいは気のせいだったかもしれません。なお,前回の申請のときにはロサンゼルスの伯母のクレジットカードを利用しましたが,その後,母はクレジットカードを作りましたので,今回はそちらから料金を支払う手続きになりました。
 2月23日,火曜日。本牧からの帰りにI歯科に寄り,予約を入れてきました。
                                     
 2月26日,金曜日。この日は妹の施設で芸術祭が催されました。利用者による演劇です。施設での演劇というと,イエスの生誕劇というのがあっていわば定番となっているのですが,この日はそれではなく走れメロスでした。事前に配役を決定するとき,妹は自ら立候補してメロスを演じることになりました。妹の演劇がどんなものかは僕には不明ですが,そう多くのセリフを妹が覚えられるとは僕には思えないので,主役とはいってもそこまで難しいものではなかったのだろうと想像します。これは母も一緒に行って観劇したのですが,母によれば,少なくともイエスの生誕劇よりはよくできたもの,いい換えれば苦痛を感じるようなものではなかったとのことでした。生誕劇のストーリーを僕は知りませんが,走れメロスは単純な物語なので,その分も影響したのではないかと思います。
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サンケイスポーツ盃戸塚記念&アップグレード

2016-09-14 19:24:09 | 地方競馬
 昨晩の第45回戸塚記念
                                     
 先手を主張したベルゼブブがハナへ。控えて2番手がミスミランダー。その後ろにドリームパッカードとジャーニーマン。マテリアメディカ,サブノクロヒョウ,やや行きたがっているのを宥めつつバルダッサーレの3頭も差がなく続きました。ミドルペースであったと思われ,この距離にしては最後尾まであまり差がない隊列に。
 前7頭のうちサブノクロヒョウは向正面に入ってから遅れをとり,ドリームパッカードは3コーナー手前から後退。ベルゼブブが一旦は離してミスミランダーがこれを追い,3コーナーを回ると内のジャーニーマンと外のバルダッサーレが追い上げてくる形に。直線に入るとミスミランダーは苦しくなり,その外に出したバルダッサーレはこれを交わして単独の2番手に上がるも,コーナーの部分でつけられていた差を詰めるには至らず,ベルゼブブが逃げ切って快勝。3馬身差の2着にバルダッサーレ。追い上げを開始しようとした3コーナー手前から鞭が入っていたジャーニーマンですが,直線でも大きくはばてず,3馬身差で3着。
 優勝したベルゼブブは昨年6月にJRAでデビューして9月に未勝利戦を勝利。500万では入着できず今年の7月に南関東転入。転入初戦は大敗しましたが2戦目のC級1組を3馬身差,前走のB級3組も5馬身差で連勝していましたので,このメンバーなら上位争いは可能とみていました。ジャーニーマンとの着差からバルダッサーレが能力全開だったとは考えにくいので,それに匹敵する能力があるのかはまだ分かりません。ただ追ってきたミスミランダーを潰したのは高く評価できます。少なくとも南関東の現3歳馬では上位の力量があるのは間違いないでしょう。父はアグネスデジタル。3代母の半妹にビューパーダンス。Beelzebubはは聖書に出てくる魔王。
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は5月の東京湾カップ以来の南関東重賞制覇で通算11勝目。戸塚記念は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師も戸塚記念は初勝利。

 2月2日,火曜日。前年の11月に買ったパソコンはWindows8.1でした。それをこの日に10にアップグレードしました。10にも対応可能な機種ということは知っていて,いつでもできたのですが,別に8.1で不便はありませんでしたから,何もしていなかったのです。ところがこの頃になると,アップグレードできますというお知らせがパソコンを起動するたびに表示されるようになりました。こういうのは放置しておきますといずれは勝手にアップグレードしてしまうだろうということが大いに予測されました。それには時間を要しますので,すぐにパソコンを使いたいというときにそんなことになると大変です。この日は午前中に時間に余裕があったので,僕自身の意向でアップグレードしたものです。この説明からもお分かりでしょうが,僕自身は積極的にそうしたかったわけでもありませんし,そうしたからといって利便性が増したというようにも思っていません。起こることが大いに予測された不測の事態に対処したまでです。
 2月3日,水曜日。妹のショートステイは2泊でしたのでこの日が帰宅の日でした。僕はこの日は新川崎で帰ったのが午後4時45分。水曜日は妹の作業所が午後3時で終了しますので,僕が帰ったときにはすでに妹は戻っていました。
 2月6日,土曜日。妹の土曜出勤でした。この日はチョコレート菓子を製作したようです。これはバレンタインデーが近いためだったと思うのですが,だからといってそのチョコレートを持ち帰るというわけではなく,施設で食べてしまったそうです。
 2月8日,月曜日。三者面談が予定されていたのですが,中止になりました。これは作業所の妹の担当者が体調不良で欠勤したためです。僕はこの日は長者町。帰ったのは午後4時半。この時間なら母は不在の筈でしたが,三者面談が中止になりましたので,在宅していました。
 2月13日,土曜日。妹のピアノのレッスン。この日は何も連絡がなかったので午後5時半の開始でした。
 2月14日,日曜日。母と妹が美容院へ。
 2月15日,月曜日。前週に中止になった三者面談はこの日に行われました。
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王位戦&解体工事

2016-09-13 19:27:18 | 将棋
 鶴巻温泉で指された第57期王位戦七番勝負第六局。
 木村一基八段の先手で角換り相腰掛銀。後手の羽生善治王位が8一飛・6二金の構え。これに対して先手が4筋の位を取ったためにかえって自ら手を出しにくい形に。後手はそれをみて右玉に組み替えての待機作戦に出ました。
                                     
 ここから△4四歩▲同歩△同銀▲4五歩△5三銀。これも一種の待機ですが,歩を手持ちにできて銀が玉に近付きますから,後手の方が得をした手順だったと思います。4筋の位を取っておいたのもむしろ先手のマイナスになったといえるでしょう。
 何もしないで千日手を狙うのもあったとは思いますが,さすがに先手でそれは不満でしょうから▲2四歩と動いていきました。銀がいなくなったところなので理に適っていると思います。
 △同歩に▲同角と取りましたが,結果的には飛車で取った方がよかったと思われます。というのもそこで△2七歩と打たれて▲2九飛と引くのでは,この交換自体も咎められたような形になったからです。
                                     
 以下,後手は△4八角と打って馬を作りました。さらに2一の桂馬が4五まで跳ねた後,5七にただで成り捨てるという妙手も出して勝っています。中盤の構想でも読みでも先手が精度を欠いていたという一局だったのではないでしょうか。
 羽生王位が勝って3勝3敗。第七局は26日と27日です。

 1月19日,火曜日。僕の家の西側から北西側にかけて建てられていた家の解体工事が始まりました。以前に近所で上水管から水漏れがしていたことがありましたが,その上水管が設置されていた家です。住んでいた方は引越し,新しく三階建ての家が二軒並んで建つという予定になっていました。僕はこの日は伊勢佐木町。帰ったのは午後4時50分でした。
 1月21日,木曜日。その解体工事はこの日で終了しました。僕の家の西側は,リビングとキッチンが並んでいます。リビングの西側は収納スペースになっていて窓はありませんが,キッチンの方には窓があります。長らく狭い通路を隔てて家が建っていましたから,この窓から日が射すということはありませんでした。したがってキッチンで仕事をする場合には必ず電気を灯さなければならなかったのです。ところがその家が解体され,その家のさらに西側は片側一車線の道路になっていましたので,日を遮るものがありません。なので僕の家のキッチンがかなり明るくなりました。とはいってもここには新しく家が建てられることになっていたのですから,この明るさは一時的なものでした。僕はこの日は長者町で,午後4時25分に帰宅しています。
 1月22日,金曜日。妹が通っていた養護学校の保護者会があって,母が出掛けました。横浜での昼食会でした。僕はこの日は本牧で,午後4時5分には帰りました。
 1月23日,土曜日。妹のピアノのレッスン。この日は午後4時30分からになりました。
 1月24日,日曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はボーリングでした。
 1月30日,土曜日。この日もガイドヘルパーを利用しました。先週がボーリングですからこの日はカラオケです。
 2月1日,月曜日。妹がショートステイへ。この月も磯子区内の施設を利用して2泊3日。ショートステイの日は荷物があるので迎えを依頼していますが,この日は先方でそれを忘れていたようです。あまり来ないので母が作業所へ問い合わせてからの迎えになったとのことで,作業所へ行くのがかなり遅くなったようです。僕はこの日は菊名。帰ったのは午後5時40分でした。
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ニエユ賞&新年の墓参

2016-09-12 19:33:57 | 海外競馬
 日本時間の昨晩にフランスのシャンティイ競馬場で行われたニエユ賞GⅡ芝2400m。
 出走したのは5頭。縦一列という隊列になり,マカヒキは3番手でした。道中は何の動きもなく,この隊列のまま4コーナーを回り,マカヒキは外の方に。後ろにいた2頭は直線ではついていくことができず,実質的に前3頭のレース。3番手でしたので最も外になり,内の2頭との競り合いがゴール前まで続きましたが,最後は前に出てクビ差をつけての優勝でした。
 優勝したマカヒキはこれが日本ダービー以来の出走。重賞は3勝目。海外競馬はこれが初出走。凱旋門賞を目指して先月中に渡仏。このレースは相手がかなり楽になったので,勝てなければ凱旋門賞を勝つのは難しいだろうと考えていました。その相手にクビ差での勝利は,ジョッキーの動作からすれば着差以上の力差があったことも明白ですが,個人的には物足りない感じもあり,あまり高くは評価できないかもしれません。ただ能力全開に至っていないのは確かだとも思えますので,悲観しなければならないというほどでもないでしょう。父はディープインパクト。全姉に一昨年の京都牝馬ステークスと昨年のCBC賞を勝っている現役のウリウリ。Makahikiはハワイの収穫祭。
 日本馬による海外重賞制覇は5月のイスパーン賞以来。ニエル賞は2013年以来の2勝目。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手が日本馬に騎乗して海外重賞を勝ったのは2006年のドバイシーマクラシック以来でこれが2勝目。管理している友道康夫調教師は海外重賞初勝利。

 『スピノザ哲学研究』を読了したのは去年の12月22日のことでした。以降の日記に戻ります。
 12月26日,土曜日。母と妹が美容院へ。午後1時からでした。
 12月29日,火曜日。妹はこの日から年末年始の休みに入りました。僕はこの日は鶴見。駅でいえば鶴見線の国道駅に近い辺りへ。帰ったのは午後4時50分でした。
 年が明けて今年の1月4日,月曜日。この日が妹の仕事始め。同時にこの日からショートステイに行きました。磯子区内の施設を利用して2泊3日でした。僕と母は日野公園墓地へ墓参りに。新年の墓参りという意味合いです。前年までは叔父の運転で大和の祖母の墓参りをした後,日野公園墓地にも寄るというパターンが多く,この場合は僕が行かれないケースが多かったため,僕が新年に墓参りに行ったのはもしかしたら父が死んでからは初めてだったかもしれません。叔父は福江島に移住しましたので,今年は僕と母で行ったということです。3日に行くのが通常ですが,僕は1月3日は都合がつかないことが多く,そのために今年は4日になりました。大和の方は行くのが大変なので行っていません。帰りに昼食も済ませ,家に戻ったのは午後1時45分でした。
 1月6日,水曜日。ショートステイは2泊だったので,妹はこの日に帰りました。僕はこの日は菊名。帰ったのが午後5時40分でしたので,妹が先に帰っていたことになります。
 1月9日,土曜日。妹のピアノのレッスン。何日にレッスンを行うかだけ事前に決めておき,何も連絡がなければ午後5時半からというのがパターンになっています。この日は前夜に先生から連絡があり,午後2時の開始になりました。
 1月16日,土曜日。妹の土曜出勤でした。この日はカラオケ大会をしたようです。
 1月17日,日曜日。母と妹は美容院へ。妹のパスポートの期限が迫っていたので,ついでに新しいパスポートに使用するための写真を撮影してきたとのことでした。
 1月18日,月曜日。妹が作業所を欠勤しました。体調によるものではありません。降雪があったからです。妹は雪のときに外出することを極度に嫌がるのです。
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善知鳥杯争奪戦&基調と有意味性

2016-09-11 19:25:36 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた青森記念の決勝。並びは新田‐佐藤の北日本,山田‐市田の近畿,中井‐三谷の奈良,古性‐南の大阪で深谷が単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。2番手に山田,4番手に新田,6番手に古性,8番手に中井で周回。残り3周のバックからまず古性が動き,ホームの出口で深谷を叩き,一旦は誘導の後ろに。ホームから山田が動き,これに乗ったのが中井。バックで山田が古性を抑えると中井は外から発進。打鐘で前に出た中井の先行。3番手を内の山田と外の古性で競り合う形に。深谷はこの後ろにいましたがホームで新田が外に被せ,そのまま新田が発進。バックで捲りました。この勢いに乗ったのが深谷で最後は大外を捲り追い込む形で突き抜けて優勝。2車身差の2着に新田。新田マークの佐藤が1車身差で3着。
                                     
 優勝した愛知の深谷知広選手は2月の高松記念以来となる記念競輪13勝目。青森記念は初優勝。このレースは近畿勢が6人も乗ってきましたが,連係せず,結果的に協力し合うようなレースにもなりませんでした。そのために新田にとっては好都合な展開となり,普通は捲り切ったところで優勝となるのですが,脚を溜めていた深谷が最後に爆発して逆転という形に。新田が発進するのが早かったということもあるでしょうし,捲り切るまでに意外と脚を使ったこともあり,最後は意外なほどの差がつきました。深谷は単騎だからといって自力以外に何かできる選手ではありませんが,そのことが逆に強みになる展開というのもあって,今日のレースはまさにそれであったということではないでしょうか。

 スピノザは第四部定理六八を論証するとき,善bonumと悪malumは相関的概念であるということを根拠のひとつとしています。これは人間は善を認識しなければ悪を認識することはないし,悪を認識しなければ善を認識することもないという意味です。つまり善の認識も悪の認識も,現実的には単独で認識されるということはあり得ず,複数のものが比較されることによって認識されることが可能になるということをスピノザは肯定していると考えなければなりません。ですから善悪というのが現実的に存在する人間にとって有意味であったり重要であったりするのは,実は第四部定理一九とか第四部定理一五でいわれている観点の方なのです。ただし注意してほしいのは,そちらが有意味であったり重要であったりするのは,その認識が現実的に存在する人間の意志作用volitioの起成原因causa efficiensとなるからではなく,複数のものが比較されるという観点から善悪が示されているからだということです。
 しかし僕は基調はそれが単独で認識されるという観点から示されている第三部定理九備考第四部定理八の観点であるとしました。その理由のひとつは,ジャレットがいっているように,自分の欲望cupiditasあるいは喜びlaetitiaと悲しみtristitiaが自意識化されない限り,善も悪も存在しないといわなければならないからですが,別の理由もあります。
 岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三第二部定理一七から,現実的に存在する人間はきわめて多くのものを表象しますimaginari。その表象imaginatioのうちには喜びを齎すものもあれば悲しみを齎すものもあるでしょう。したがって現実的に存在する人間が複数のものを比較することによって何事かを判断するということは,ほぼ無条件に前提してよいと僕は考えます。ですから基調となっている観点が善悪が単独で認識される場合であるといっても,これは観点としてそのようになっているという意味であり,人間が現実的にそう認識しているというわけではありません。そんな認識は不可能であるからです。
 したがって善悪の有意味性は比較の観点の方にあります。でもその有意味性は,基調となっている単独性の方にも無条件の前提として含まれていると僕は考えるのです。
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第四部定理二七&善悪

2016-09-10 19:19:22 | 哲学
 第四部定理二六では,人間が理性ratioを用いている場合には,事物を十全に認識するcognoscereために役立つものだけを有益utileであると判断するとされています。ところで,第四部定義一では,人間が有益であると確知するcerto scimusものについては善bonumであるとされています。つまりこの定理Propositioは善および悪malumと関係している定理なのです。その帰結として示されるのが次の第四部定理二七です。
                                     
 「我々は,真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善あるいは悪であることを確知する」。
 これは必然的な帰結事項ですから,詳しく証明することは不要でしょう。そしてこの定理から確知するということの意味が判明します。
 この定理が第四部定理二六からの帰結事項であるなら,それは理性による認識cognitioだけに的を絞っていわれていると解さなければなりません。第四部定理二六が理性による認識についてだけ言及し,たとえば人間の精神mens humanaが事物を表象するimaginariというような場合は排除しているのですから当然です。したがってこの定理でいわれている確知するということは,理性によって十全に認識されるということでなければならないのです。とするとスピノザが同じ語句で説明している部分,すなわち第四部定義一と第四部定義二も,理性によって認識される場合の善と悪について定義していると解しておくのが妥当であるということになるでしょう。
 ただし,これは第四部定理八とは両立しません。悪の認識とされる悲しみtristitiaの感情affectusは,観念ideaとしてみるなら十全adaequatumではあり得ず,したがって理性による認識ではあり得ません。また善の認識とされる喜びlaetitiaという感情も,観念としてみるならば十全であるとは限らないからです。このことは第四部定理六八から明白で,もしも理性的であることを前提として絶対視するなら,本来は善も悪も定義しようがないからです。
 こうした部分についても,善と悪は異なった観点から言及されているといえるでしょう。

 こうした比較が喜びlaetitiaの場合だけでなく,悲しみtristitiaの場合にも生じ得ること,他面からいえば善bonumの場合だけでなく悪malumの場合にも生じ得ることは明白でしょう。
 AもBも悲しみを齎す限り,AもBも悪と認識されます。そしてBによって齎される悲しみの方がより大きいなら,Bの方が大きな悪と認識されるでしょう。このとき,どちらかの悲しみは必ず享受しなければならず,しかし一方の悲しみを享受するなら他方の悲しみは回避できると認識されたとします。この観点からAはそれ自体では悲しみすなわち悪であるけれども,Bというより大きな悲しみを阻害するという観点からはむしろ善と認識されるでしょう。いい換えればこの場合にはその人はAを希求することになるでしょう。この場合にも,AとBが比較されることによってAは善と認識され,その善の認識がAを肯定するaffirmareという意志作用volitioの起成原因causa efficiensとなっています。いい換えればAという善を欲望する起成原因となっています。そしてこれも人間の現実的本性actualis essentiaに合致するがゆえに,この欲望cupiditasはその人間の精神mens humanaのうちに必然的にnecessario発生しているといえるでしょう。
 したがって,スピノザの哲学とくに『エチカ』にみられる善悪のふたつの観点とは,善と悪いい換えれば喜びと悲しみが単独のものとして認識される場合と,複数のものが比較された上で,あるものが善,それ以外のあるものが悪と認識される場合の観点であるというのが僕の見解opinioです。前者は第三部定理九備考第四部定理八にみられる観点で,スピノザの哲学において何を善といい,また何を悪というかの基調となる観点です。そしてこの場合には喜びは必然的に善であり,悲しみは必然的に悪であるということになります。後者が第四部定理一五第四部定理一九でみられる観点です。この場合には喜びは必然的に善ではありませんし,悲しみは必然的に悪であるというわけでもありません。むしろ大きな喜びを妨害する小さな喜びが悪と認識される場合もあるでしょうし,逆に大きな悲しみを妨害する小さな悲しみが善と認識される場合もあるでしょう。これを矛盾というなら,その矛盾は解消できないし,解消する必要もないというのが僕の結論です。
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竜王戦&比較

2016-09-09 19:01:29 | 将棋
 昨日の第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
 振駒で三浦弘行九段の先手。丸山忠久九段の一手損角換り4でしたが銀は2二に上がりました。後手の早繰り銀に。
                                    
 ここで☖7五歩と仕掛けたタイミングが悪く後手が早くも悪くしたようです。先手は☗4六角と打って牽制。後手は☖9二飛と逃げました。この角は5六に歩が突いてある方がおそらく打ちやすく,そういう意味でもそれが突かれた直後の仕掛けはまずかったということなのでしょう。
 この交換を入れてから☗7五歩☖同銀と進め☗6五歩と退路を断ったのが好手。放置すると☗5七角~☗7六歩で銀が取られるので☖8四銀と引きました。
                                    
 第2図は飛車が動けず,銀を働かせる手段もすぐにはないので先手の作戦勝ちでしょう。あまり緩めずに動いていった先手が押し切り,将棋としては快勝といえる内容でした。
 三浦九段が挑戦者に。竜王戦七番勝負には初出場。第一局は来月15日と16日です。

 現実的に存在するある人間がAもBも善bonumと認識するcognoscereということと,AもBも希求するということは同じことです。だから第三部定理九備考第四部定理一九は同義反復でしかないのです。しかしAもBも善であり,かつAの方がより大きな善,いい換えればより大きな喜びlaetitiaを齎すと仮定したとき,AとBが両立し得ないとしたらどうでしょうか。つまりその人間はAによる喜びかBによる喜びのどちらかしか現実化することができない場合,あるいはその人間がそのように表象した場合のことを考えるということです。こういう場合というのが不条理ではないということは,僕たちは経験的によく知っているでしょう。
 人間の現実的本性actualis essentiaは,Aの方をBよりも多く希求します。ですからこの仮定の場合に,BよりもAを欲望するということは明白でしょう。一方,Bの方は,それ自体では善であるとしても,Aを現実化するという観点からはその現実化を妨害するものであることになります。したがってこの限りにおいてBはAという善を妨げるものとして,忌避する対象になるでしょう。いい換えればそれは悪malumと認識されることになるでしょう。第四部定義二で,不利益であるものが悪であるといわれず,善の妨げになるものが悪であるといわれると記述されているのは,こうした事情を想定しているからだと思います。
 第四部定理一五とか第四部定理一九というのは,このような意味において善と悪の認識cognitioがその人間の欲望cupiditasの起成原因causa efficiensとなり得るということを認めていると僕は考えます。つまりもしもある欲望ないしは喜びおよび悲しみtristitiaがそれ単独で認識されるなら,それは欲望の起成原因ではありません。単なる同義反復です。しかしもし複数の欲望ないしは喜びと悲しみが比較され,その比較の上で一方が善で一方が悪と認識されるならば,この認識が善と認識したものを希求し悪と認識したものを忌避する思惟作用,具体的にいうなら善と認識された観念ideaが含む肯定affirmatioの意志作用volitioと,悪と認識された観念が含む否定negatioの意志作用の起成原因となり得ます。しかもそれは人間の現実的本性に適合するように,すなわち人間の精神mens humanaのうちに必然的にnecessario発生するということになります。
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大熊元司&第三部諸感情の定義二

2016-09-08 19:14:24 | NOAH
 悪役商会の中心選手は永源遥だったと思いますが,このチームを語る上で欠かせないもうひとりのレスラーに大熊元司がいます。
 馬場が日本プロレスを退社して全日本プロレスを旗揚げしたのは1972年10月。このとき,馬場についてきた日本人レスラーが4人いました。そのうちのひとりは佐藤昭雄で,大熊もこの4人のうちのひとりです。佐藤は当初から馬場にかわいがられていたことが明らかになっています。大熊にとってはこれといった資料がないのですが,馬場は試合後の食事のおりなどに大熊はヒレ酒を飲むことが多かったという主旨のことを語っています。これはおそらく馬場が大熊を連れて食事をする,というのはつまり御馳走するということでしょうが,そういう機会が多かったということだと推定できます。大熊が全日本プロレス旗揚げ時の所属メンバーになったのは,そういう理由からだったと思います。
 僕のプロレスキャリアが始まった頃はグレート・小鹿と組んでアジアタッグを争う中心チームのひとつでした。小鹿は後に全日本を辞めています。馬場は経営者として定期的に中堅レスラーをリストラしていたと僕は考えていますが,小鹿はその対象だったかもしれません。大熊は現役のまま1992年の暮れに急死してしまうのですが,最後まで悪役商会のメンバーとして仕事を与えられました。そのことに早い時期からの馬場との個人的関係が影響していた可能性はあったと思います。
 石川敬士と同様に,対抗戦時代には上の方の試合にも駆り出されました。ジャンボ・鶴田とか天龍源一郎といった選手と組む機会はかなり少なかった選手だったと思いますが,そのほとんどはこの時代の試合であったのではないでしょうか。でも僕は大熊が最も光り輝いていたのは,後ろの方で試合をすることが多かったその頃やアジアタッグの王者になっていた頃より,最後に悪役商会の一員として戦っていた時代であったと思っています。

 ジャレットCharles Jarrettがいっているように,現実的に存在する人間が自身の欲望cupiditasを認識しない限り,善bonumも悪malumも存在し得ないものと解する必要があります。欲望は人間の現実的本性actualis essentiaであり,第三部定理一二第三部定理一三から,人間の現実的本性は喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するようになっているので,希求するものを善と認識するcognoscereというのは喜びを齎すものを善と認識するという意味と同じで,忌避するものを悪と認識するというのは悲しみを与えるものを悪と認識するというのと同じです。これが第三部定理九備考および第四部定理八でいわれている善と悪なのであり,スピノザの哲学における善と悪の基調をなすものでなければなりません。
                                     
 ただ,注意しなければいけないのは,現実的に存在する人間はある欲望を単独で認識するとは限らないということです。あるいは喜びや悲しみについても単独で認識するとは限らないということです。たとえば僕たちはAとBを同時に表象するimaginariということがあり得ます。このときAもBも僕たちが欲望するもの,いい換えれば僕たちに喜びを齎すものとして表象されたとしましょう。この場合,AもBも喜びを齎すという意味では同じですが,同じように喜びを齎すという意味では相違がある可能性が残ります。たとえばAもBも喜びを齎すけれども,Aによって齎される喜びはBによって齎される喜びより大きい場合があり得るでしょう。それがあり得るということは,実は喜びの定義Definitioである第三部諸感情の定義二から明らかなのです。もう一度,この定義を検証してみます。
 「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである」。
 一読して明らかなように,より大なる完全性perfectioが喜びなのではありません。ある完全性への移行transitioが喜びといわれるのです。したがってAによる移行の方がBによる移行よりも大なる移行であるとしたら,AはBよりもより大きな喜びを僕たちに齎すことになるでしょう。そして人間の現実的本性が喜びを希求し悲しみを忌避するようになっているということに注意するなら,僕たちはAもBも欲望しますが,Aに対する欲望はBに対する欲望より大きいということになるでしょう。
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王座戦&ふたつの観点

2016-09-07 19:07:06 | 将棋
 横浜で指された昨日の第64期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王座が6勝,糸谷哲郎八段が5勝。
 振駒で羽生王座の先手となり,糸谷八段の一手損角換り。1-Ⅰに進みました。先手の▲2五歩は早く形を決めるので損という意味合いもあるでしょうが,後手が横歩取りに戻す変化は避けられますし,この将棋のように棒銀でいくことを決めているなら,得になる変化も潜んでいるのではないかと思えます。後手はその棒銀を四間飛車で受けることに。
                                     
 角を打ち合って再び交換になり,後手が△3三角と打って先手が銀を受けるために5八の金を上がった局面。ここから△3六歩▲同銀△3五歩と進めました。この手順は局面がよいとみてさらに差を広げようとしているという意図を感じます。対して先手は銀を逃げずに▲2六角と打ち△3六歩▲5三角成と進めました。これは銀損ですから苦しいとみて勝負にいったという手順ではないでしょうか。すると第1図では先手が苦しいという共通見解が対局者にはあったという推測が成り立つでしょう。
 後手は△5二銀と引いて催促したので▲4二馬△同玉までは必然。次の▲8一飛もこう打つところだろうと思います。そこで△6四角と打った手がよくなかったかもしれないという感想が後手にあります。先手は▲1八飛と逃げました。これ以上の駒損は避けるという意味だったのでしょう。
                                     
 △8五桂と跳ねて9一の香車にヒモをつけるつもりだったそうですが▲3五歩から攻められて自信がないとのこと。それで△6五銀と打ち▲同銀△同桂とこちらに跳ねましたが▲6六歩と打たれ桂馬を取られて駒損を回復されることに。後手は攻めの手掛かりに乏しいため,それではっきりと逆転したようです。予定通りに進めた方が駒を渡さない分だけよかったのではないでしょうか。
 羽生王座が先勝。第二局は20日です。

 まず基本的に結論しておかなければならないのは次のことです。
 第四部定理一九は,現実的に存在する人間にとって,善bonumと悪malumが目的原因であると解することが可能です。ですがもしそう解するなら,実際にはこれは第三部定理九備考の同義反復にすぎないと帰結します。なぜなら,スピノザの哲学において原因は一義的に起成原因causa efficiensだからです。いい換えれば目的原因という原因はスピノザの哲学の中には存在しないからです。したがって,もしもこの部分が仮に善や悪が現実的に存在する人間にとって目的原因であるというようにしか原因として解せないなら,それはスピノザの哲学の中では実際には存在しない原因を原因として錯覚しているというにすぎません。つまりこの場合にはそれこそ矛盾などは何もないということになるのです。
 しかし実際には矛盾はあると判断する必要があります。第四部定理一五は明らかに善の認識および悪の認識が現実的に存在する人間の欲望cupiditasの原因になり得ることを前提しています。そしてそれはだれが前提しているのかといえば,それを読んでいる僕たちが前提しているのではなく,スピノザ自身が前提しているのです。スピノザが原因を前提しているなら,それは起成原因として前提していると解さなければなりません。ですから僕は『スピノザ哲学研究』で示されていることのうち,スピノザが善と悪に言及する場合には実際にふたつの観点があるという点については同意します。ただそれを,個別的な善悪と,一般的なあるいは普遍的な善悪とは解さないということです。何度もいっているように,このような峻別はスピノザの哲学ないしは『エチカ』のうちにはありません。スピノザは常に個別的なものとして善と悪について言及しているというのが僕の見解です。
 では僕はスピノザがいう善と悪にはどういった種類のふたつの観点があると把握しているのかといえば,その把握の仕方が第四部定理一九や第四部定理一五の観点を発生させるというような解し方になります。実際にスピノザは善や悪の認識が欲望の起成原因になり得ることを認めています。ですがその場合には善悪を異なった視点で把握する必要があるのです。
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記者の人物評&感情と変状

2016-09-06 19:09:36 | 歌・小説
 『悪霊』の作品内作者である記者が,各々の登場人物について記述の上でどういう評価をしているかを簡潔にみておきます。
                                     
 作品自体に特殊な目的があったと思われますが,それを除けば基本的に記者は登場事物を公平に評価しようとしていると僕は思います。記者も人間ですから好感を抱いている人物もいれば反感をもっている人物もいるに違いないのですが,自分自身のそういう視点はなるべく表に出ないようにしようとする意志を記者はもっていると考えてよいというのが僕の見解です。
 ただし,ひとりだけ,記者が自身の好意を隠そうとしていない人物がいます。それはスタヴローギンの養育者のステパン・ヴェルホヴェンスキーです。ステパンの息子,物語上は実の親子であるかどうか疑わせる内容を含んでいますが,戸籍上は息子となっているピョートルは革命結社の首謀者で,スタヴローギンをその指導者にすることを企んだ人物ですから,物語の中ではそれなりに重要な位置を与えられているといえるでしょう。
 とはいえ,ステパンに対して好意を表明することは,ピョートルら結社のメンバーを否定的に描くことに通じる面があります。僕はそうしたメンバーが記者によって悪意的に記述されているとは考えませんが,記者自身はそういう考えをもっているということを窺わせるようには思います。もっともそれは『悪霊』が政治的プロパガンダを内容に含んだ小説である必要があったということからみれば,記者の気持ちというより作者自身の必要性からそのように記述されなければならなかったという面があるでしょう。したがってこの部分を差し引くならば,基本的に記者は好意も悪意も覆い隠して記述していると判断してよいだろうと僕は思うのです。
 このことは,記者がリーザに対してどういう想いを抱いていたのかは不明だということを意味します。リーザの撲殺が記者の欲望の代行であるとする仮説の弱みがここにはあるのです。

 実際にジャレットが『知の教科書 スピノザ』で援用しているのは第四部定理一五ではなくその証明の最初の文です。ですがその一文は注意を要するものだと僕は考えています。そこでスピノザは確かに善bonumおよび悪malumの認識が感情affectusであるといっているのですが,ここでいわれている感情は実際には人間の身体の変状すなわち身体の刺激状態の観念に近いものなのです。なぜならスピノザはそれが感情であるならそこから必然的に欲望cupiditasが発生するということを第三部諸感情の定義一に訴えているのですが,そこに示されているのは与えられた感情についてではなく与えられた変状affectioについてであるからです。そしてまた,善および悪の認識が感情であるということについて訴求されている第四部定理八も,喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaそのものについて言及されているのではなく,その観念について言及されています。したがってこれは感情そのものというより感情の観念,とりわけ自分の身体がより小なる完全性perfectioからより大なる完全性へ移行する刺激状態の観念の観念,あるいはより大なる完全性からより小なる完全性へと移行する刺激状態の観念の観念と解することができるのです。なので僕はこの点について,ジャレットが言及している部分ではなく,定理そのものの方に言及しました。この定理は確かに善と悪の認識が欲望の原因であることを暗黙裡に前提しているといえるからです。
 この場合のように,スピノザは感情といっていても,実際には身体の変状と解した方がよいと思われる場合は『エチカ』のほかの部分にもあります。岩波文庫版の冒頭の「『エチカ』について」の中で畠中は,スピノザには用語の使い方にルーズな面があると指摘しています。そしてその一例として変状と感情の用い方もあげられています。感情と解するべきなのか,変状と解した方がよいのかは,その用語が使われる各々の文脈から判断するほかありません。そしてジャレットが援用している部分に関しては,僕は変状と解しておいた方が安全だし理解しやすいと思うのです。もちろんそれは,ジャレットがこれを援用して善と悪の認識が欲望の原因であることを導くことの不当性を意味するのではありません。
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絶対的権限の不可能性&第四部定理一五

2016-09-05 19:00:15 | 哲学
 スピノザはイエレスJarig Jellesに宛てた書簡五十で,国家が市民に対して絶対的権限をもってはいないと書いていました。これは国家がそういった絶対的権限をもつことは不可能であるとスピノザが考えているからです。そしてなぜそれが不可能であるのかということについては,スピノザはやや変わった理由を示しています。これはスピノザが市民の自然権jus naturaleとはその市民がなし得ることであると考えていることと関係します。『国家論Tractatus Politicus』の第四節でスピノザが示している実例をみてみましょう。
                                     
 スピノザは自分の机に対して権限をもっているという例を用います。しかしこのことは,スピノザがその机に対して草を食べさせる権限をもつという意味ではないとしています。これは机にとって草を食べるということが不可能だからです。これと同じように,国家が市民に対して権限をもつとしても,市民がなし得ないことをさせる権限はもてないのです。いい換えれば,その市民の現実的本性actualis essentiaに反する権限を国家がもつということは不可能なのです。ですから国家が市民に対してもち得る権限は部分的なものであり,絶対的ではあり得ないのです。
 人間的自由のうち,受動的自由というのも人間の現実的本性に調和するものです。したがってその受動的自由に属するようなことを市民にさせないようにする権限というのを国家はもち得ないことになります。つまり現実的に存在する人間の精神のうちに必然的に生じる思惟作用について,それを禁ずるような権限を国家はもつことができません。同様に現実的に存在する人間がある思惟作用をするように強制するような権限も国家はもつことができないことになります。それはたとえば人間に空を飛ぶことを要求しているのと同じことなのです。
 ここから理解できるように,スピノザは国家の市民に対する権限のあり方を,理想的なものないしは観念的なものとして把握しているのではありません。いい換えれば国家が市民に対して絶対的権限をもつべきではないと考えているのではなく,もつことが不可能であると考えているのです。もちろんこれは,国家の市民に対する権限に限定されたものではないことになります。

 『知の教科書 スピノザ』では,何かを希求しまた何かを忌避するという欲望cupiditasが現実的に存在する人間のうちに実在するのでなければ,善bonumおよび悪malumである何かが現実的に存在することは不可能であるとされています。つまりジャレットは矛盾があって,その解決策は不明だけれど,第三部定理九備考の方がスピノザの哲学における善と悪の基調とならなければならないと結論していることになります。僕はこの結論に同意します。すなわち現実的に存在している何らかの欲望がその人間によって自意識化されない限り,善も悪も存在し得ないというのがスピノザの哲学における基本的な原則であると考えるのです。
 ジャレットはその根拠として,客体が内在的に善であったり悪であったりすることについてはスピノザが明確に否定していることをあげています。僕は第一部定理八備考二でいわれている本性naturaというのを形相的本性essentia formalisと解するならば,第四部定義一第四部定義二もそこでいわれている定義Definitioの規準を満たせないといいました。ジャレットが根拠として示しているのはそれと同じことだと解せます。したがってこの点においても僕はジャレットと見解を共有していることになります。
 そこで残る問題というのは,第四部定理一九は,善なり悪なりが僕たちの欲望cupiditasそのものの原因となり得るとも解せることを,どのように読解するべきなのかという点に絞られます。実際にスピノザはほかの部分でも,善と悪が欲望の起成原因causa efficiensであることを認めているように思われるからです。ジャレットが実例としている第四部定理一五をみてみましょう。
 「善および悪の真の認識から生ずる欲望は,我々の捉われる諸感情から生ずる多くの他の欲望によって圧倒されあるいは抑制されることができる」。
 ここでは十全な認識だけに注目され,かつそこから生じる欲望が他の欲望によって抑制されるということ,つまり第四部定理七によって他の欲望の方が強力であり得るということがいわれています。しかしこの定理の冒頭部分というのは,明らかに善ないしは悪が認識されたとき,その認識が欲望の原因となり得るということを暗黙のうちに前提しているといえるでしょう。
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長良川鵜飼カップ&相違の可能性

2016-09-04 19:08:05 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された岐阜記念の決勝。並びは吉田‐武田の茨城,山本‐藤木の京都,中井‐南の近畿に武井が番手戦で田中と渡部が単騎。
 山本がスタートを取ってそのまま前受け。田中が追い上げて3番手に。4番手に吉田,6番手に渡部,7番手に中井となり,この後ろは前後,内外が入れ替わりつつ周回中から競り。残り3周のバックから中井が上昇。このときは武井が中井の後ろにいたので,山本を叩いて前に出た後は内に武井,外に南での競り合いに。うまく追った吉田が競り合いの後ろに。渡部,田中と続いて山本は8番手まで引いての一列棒状でホームから打鐘まで通過。競り合いにはっきりとした決着がつかないうちにホームから吉田が発進。武田の後ろにいた渡部が続けず,中井も飛びつけなかったので,バックに入ると2番手と3番手の間が開くことに。後方に構えていた山本がいいスピードで捲っていきましたが,最終コーナーで武田の牽制がありやや失速。武田は直線から踏んでいき,粘る吉田とほぼ並ぶようにフィニッシュ。写真判定となり,優勝は武田。吉田がタイヤ差の2着で茨城のワンツー。いいスピードをみせた山本が1車身差で3着。
                                     
 優勝した茨城の武田豊樹選手はFⅡ開催の全プロ記念を除けば昨年11月の競輪祭以来の優勝。記念競輪はその直前の函館記念以来でGⅢは28勝目。岐阜記念は初優勝。このレースは前を回った選手たちに高いレベルでの対戦経験がなく,どの選手が最も強いのか不明なところがあり,場合によっては大波乱もあり得るのではないかとみていました。記念競輪で最も実績があったのが吉田で,その経験を生かしていい位置を取り切り,またいいタイミングで仕掛けていくことができたということだと思います。それが番手を回った武田の優勝を導いたということでしょう。武田は現状は自力ですと記念競輪の優勝は厳しいのかもしれませんが,前を任せられる機会も少なくないですから,優勝回数を増やしていくことは可能と思います。吉田はこれで2回目の僅差での2着なので,それほど時間が掛からないうちに初優勝を達成できるのではないでしょうか。

 ジャレットも工藤も同じようにスピノザは善bonumと悪malumに関して別角度から言及していて,それは矛盾すると指摘しています。ですがそのように矛盾を指摘する前提はもしかしたら異なっている可能性もあります。
 『知の教科書 スピノザ』の第八章で憎しみodiumについて語られている部分で,ジャレットが悪に関連する言及の中で実例を出しています。この実例からすると,ジャレット自身が一般的概念notiones universalesとして善悪を前提していると推定することが不可能ではありません。実際にジャレットが第四部定理一九に関連するスピノザの観点を持ち出すとき,スピノザがここで善と悪を概念として把握しているということが十分に論証されているわけではありません。ことによるとジャレット自身がそうした観点を有しているから,ここのスピノザの言及をそのように解していると推測することも可能です。あくまでも推定なので断定することはできませんが,工藤は確かにスピノザ自身のうちにふたつの観点があると把握しているのは間違いないので,矛盾を指摘する前提そのものに相違がある可能性は否定できず,それを否定することはできないという点は理解しておいた方がよいものと思います。
 僕自身の見解としていえば,第四部定理一九でもスピノザは一般的概念としての善悪について語っているわけではありません。一方,第三部定理九備考についていえば、そこで認識されるといわれている喜びlaetitiaが観念ideaとして十全adaequatumである場合だけが想定されているのではないと考えます。また,悲しみtristitiaが認識される場合には第三部定理五九により受動passioなので必然的にnecessario混乱しています。そして僕自身は一般的なあるいは普遍的な善悪なるものが存在するとは考えません。これらを総合すれば,希求するもの希求し忌避することを忌避するというのは同義反復ではあるけれども矛盾とはいえないという結論が出てきます。だから工藤やジャレットが指摘している矛盾を積極的に解決しなければならない理由というのは見出しません。
 ただし,これは矛盾などないという意味ではありません。少なくとも,スピノザの哲学における善と悪は,どちらかを基調にして理解されなければならないでしょう。
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コキュ&誤解の誘因②

2016-09-03 19:13:50 | 歌・小説
 模倣の欲望という概念は僕にひとつのヒントを与えてくれたのですが,亀山郁夫はこの概念を小説の読解に利用するとき,僕に与えてくれたヒントとは別の物語と大きな関係性をもたせます。それがコキュの物語です。コキュとは寝盗られる男,というほどの意味に解しておくのがよいでしょう。『共苦する力』の当該部分で語られているところでは寝取られ亭主と書かれていますが,『貧しき人々』や『白夜』が実例として示されていますから,亭主に限定されたものではありません。さらにこの実例ですと,寝盗られる男と相手の女の間に明確な肉体関係は存在していなくてもよいということでしょう。したがって『虐げられた人びと』のイワンのような人物もコキュのひとりとみなしてよいのではないかと思います。一方,このコキュは男でなければならないようです。したがって仮に女が愛する男を寝盗られるという事態が発生したとしても,その女はコキュとはいわれないようです。
                                     
 主人公である男が,愛する女を第三者である別の男によって寝盗られる,あるいは奪われるといった類の物語は,別にドストエフスキーに限らず文学ではよくある物語といえるでしょう。亀山が注目するのは,ドストエフスキーの小説の場合,その逆のパターン,すなわち主人公の男が第三者の女を奪うという物語がないという点です。確かに逆の物語もあるわけです。漱石であれば『三四郎』はコキュに該当する主人公でしょうが,『それから』や『門』の主人公は逆に寝盗る側にあるといえるでしょう。
 僕はそういう願望はありませんが,寝盗られ願望を有する男というのが少なからず存在するというのは事実だと思います。たとえばアダルト業界のように,芸術性より消費者の嗜好を重視すると思われる作品群のうちには,こうした物語が一定数は存在し,継続的に制作されているようだからです。ドストエフスキーの小説では,そのコキュの心理が絶妙に描かれるのも事実です。そういう願望がない人間でも,リアルなものと感じることができるのではないでしょうか。

 『知の教科書 スピノザ』は『エチカ』に限定された解説書ではありません。第一〇章では『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』が扱われています。この概要の冒頭部分で,スピノザは旧約聖書に出てくる預言者は抜群の能動的な想像力を有していたと主張したという意味の記述があります。これもジャレットのいわんとするところは理解できますが,スピノザの哲学に照合させるなら,このいい方は意味不明といわなければならないでしょう。
 想像というのは表象の種類のひとつです。したがってここでのジャレットの文脈に合わせていうなら,人間が想像によって形成するどんな観念も第二部定理二五によって混乱した観念です。ゆえにこれは第三部定理一によって受動です。要するにどんな想像も受動です。つまり能動的な想像力というのは語義矛盾といわざるを得ません。
 スピノザは自由意志を認めないので,能動actioということを普通に僕たちが意味するところとは違った意味で用います。ですからスピノザの哲学では語義矛盾でも,能動的な想像力という語句は一般的には意味不明ではなく,通じるといえるでしょう。ですがスピノザの哲学の入門書として著すなら,このような表現はきわめて不適当であろうと僕は思います。
 実際にスピノザが預言者について語っているのは,一部を除けば預言者というのは並外れて活発な想像力の持ち主であったということです。これは哲学的にいえば,きわめて受動的な人間であったということです。このことは『神学・政治論』の第二章の冒頭部分から明らかです。スピノザはそこで想像力に長けた人間と知的能力に秀でた人間を対比しています。預言者は前者に属し,それがきわめて受動的な人間であるという意味です。能動的であるといわれるのはこの対比においては後者ということになります。十全な観念というのがそうであるように,能動と受動の峻別もスピノザの哲学ではきわめて重要な事柄のひとつです。能動的な想像力などというものはスピノザの哲学の範疇ではあり得ないということを理解しておくことは,スピノザの哲学を正しく認識するための第一の基礎か,少なくともそこからの応用でなければならないと僕は思います。
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リコー杯女流王座戦&誤解の誘因①

2016-09-02 19:15:18 | 将棋
 昨日の第6期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が2勝,西山朋佳奨励会三段が0勝。これは女流の公式戦での対局結果のみです。
 振駒で里見名人の先手。先手の向飛車,後手の三間飛車という相振飛車になりました。
                                     
 ここで後手が△4五歩と突いたのですが,この手は軽率だったということになると思います。第1図の直前に△4四歩と突いているので,当初からの構想だったと推測できますから,その構想に難があったということでしょう。もっとも咎めた先手の方を褒めるべきかもしれません。
 すぐに▲5六銀と出て伸ばした歩を狙いにいきました。後手は△3三桂と受けることに。そこで▲3八飛とぶつけたのが機敏な動き。交換して飛車を打ち込むというより,桂馬の頭の弱さを狙った手順でした。
 △同飛成▲同金までは必然。先手は3八の金が浮いているのですぐに▲3四歩と打っても後手は△3五飛で切り返せます。というわけで△7二玉▲7八金△1四歩▲5八王と駒組の手順が続きました。
 そこで△2四歩と突いたのも軽率だったかもしれません。先手は▲3九金と引いて▲3四歩と▲2三飛のふたつを狙いに。両方を受けるために△3四飛と打ちました。
                                     
 さすがに後手だけ飛車を手放しては先手がうまく動いてリードしたということになるでしょう。第2図から後手が石田流のように組んだのはなかなかの構想だったと思いますが,先手の攻めが決まって終局となりました。
 里見名人が挑戦権獲得第3期に奪取して後に返上して以来,3期ぶりの五番勝負出場。第一局は来月26日です。

 ジャレットがいわんとすることを文脈上の文意から判断すれば誤りではないけれど,入門者がそれを一般的に解すれば誤解するかもしれないと思われる記述が『知の教科書 スピノザ』にはほかにも含まれています。僕が重要と思うところを抽出しておきます。
 第七章の最後でスピノザの感情論がデカルトの感情論と比較されています。その部分に,能動的な感情には適切な観念すなわち十全な観念から生じるものがあるとスピノザは主張しているという主旨の記述があります。これもそれ自体では誤りとはいえません。ですがこの記述ですと,混乱した観念から生じる能動的な感情もあるとスピノザが考えているという解釈の余地を残します。しかしそのようなことはありません。能動的な感情は十全な観念からしか生じません。第三部定理一からして,人間の精神は十全な観念を有する限りで能動的です。感情affectusは第三部定義三から物体とも思惟の様態cogitandi modiとも解することができる特殊なものですが,それを思惟の様態としてみる限り,第二部公理三から観念ideaがなければ感情もないということになるので,能動的な感情も十全な観念を有する限りである人間の精神のうちに発生するということになります。
 第八章で善悪の認識について説明されるとき,第四部定理五二が援用され,自己満足acquiescentia in se ipsoが理性ratioから生じ得ることが示されます。ここでも自己満足に自尊心という訳が与えられていて,これは不親切であるというべきでしょう。第三部諸感情の定義三〇には名誉gloriaという感情があって,自尊心と訳されると自己満足よりも名誉と解されるおそれもあると僕は思います。
 さらにここは訳し方だけの問題ではありません。ジャレットの記述だと,この自己満足が十全な観念にのみ依存する,すなわち十全な観念からのみ自己満足が生じると解せるようになっています。ですがそれは誤りです。自己満足は理性から生じる場合もありますが,受動的なものもあります。第三部諸感情の定義二八の高慢は自己満足の一種と解せることからこれは明白でしょう。この部分のジャレットの記述は,それを肯定してみたり否定してみたりとはなはだしく混乱しているように僕には感じられました。
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スポニチ盃アフター5スター賞&明瞭判然

2016-09-01 19:12:48 | 地方競馬
 昨晩の第23回アフター5スター賞
 イセノラヴィソンが行きかけましたが外から追い抜いたルックスザットキルがハナへ。外からマリカが2番手に追い上げ,さらに大外のプラチナグロースも3番手に。4番手はアドマイヤサガスでしたが3コーナーを回ると前の3頭と4番手は差が開いていきました。前半の600mは35秒0のハイペース。
 直線に入るとルックスザットキルがマリカを振り切り,そのまま逃げ切って優勝。3番手のプラチナグロースはコーナーでは手綱を押してついていく感じでしたが,しぶとく脚を伸ばし,マリカは捕えて1馬身4分の1差の2着。3コーナーからの貯金で後続の追い上げは凌いだマリカが半馬身差で3着。
 優勝したルックスザットキルは5月のゆりかもめオープン以来の勝利。南関東重賞は昨年7月の習志野きらっとスプリント以来で3勝目。この馬は重賞でもそこそこは戦える能力がありますので,南関東重賞では常に能力上位。ただスムーズなレースができないと力が発揮できない面があり,多くの取りこぼしもあります。ここは発馬を決めて逃げることができましたので,能力発揮となりました。時計的には物足りない感もあり,このレースに関してはあまり高く評価することはできないのかもしれません。
 騎乗した大井の早田功駿騎手は習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞3勝目。アフター5スター賞は初勝利。前管理調教師の勇退により今年の4月から管理している大井の米田英世調教師は。開業から約7年8ヶ月で南関東重賞初勝利。

 十全な観念idea adaequataと訳されるべきところが適切な観念と訳されているのは訳者の問題であって,著者であるジャレットの問題ではありません。ですがジャレットがこれについて語っている部分の中に,誤解を与えかねない部分も存在しています。
                                     
 第六章で第二部定理四七の直後の備考Scholiumについて説明している部分に,スピノザは明晰かつ判明を適切の同義語として用いるという主旨の記述があります。これは文脈上の文意としては誤っていません。ですがこの記述だと,一般的にそのふたつが同じ意味であると解される可能性があると思います。
 適切が十全adaequatumであるべきであるように,明晰判明というのはたぶん明瞭判然と訳した方が親切だと僕は思いますので,ここからはこちらの語句で説明します。これは以前にも僕の見解として述べたことがありましたが,スピノザが観念について十全と形容する場合と,明瞭判然と形容する場合は,一般的には同じではありません。明瞭判然な観念というのは,十全な観念より広範にわたります。要するに十全な観念は必ず明瞭判然な観念ではありますが,明瞭判然な観念のすべてが十全な観念というわけではありません。むしろそれが混乱した観念idea inadaequataである場合にも,スピノザはそれを明瞭判然と形容するケースがあります。
 ある十全な観念とほかの十全な観念は,観念されているものideatumが何であるのかを捨象すれば,十全性における差異はありません。ところがある混乱した観念とほかの混乱した観念の場合では,混乱している,これはつまり十全ではないという意味ですが,その点においては何の相違もないものの,混乱しているということを観点として混乱性というのを抽出すれば,同一の混乱性であるとは断定できません。いい換えれば混乱性には混乱の度合というものがあるのであって,きわめて混乱した観念もあれば,そこまでは混乱していない観念というのもあるのです。このとき,後者の観念が前者の観念と比較された上で,前者よりも明瞭判然とした観念であると形容される場合があります。ですから,スピノザが十全という場合と,明瞭判然という場合では,意味が違うと理解するのが正確だと僕は考えます。
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