スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

国際自転車トラック競技支援競輪&ディオニス目線

2016-09-27 19:01:03 | 競輪
 被災地支援競輪として玉野競輪場で実施された,初めて外国人選手も参加する記念競輪扱いの国際競技の支援競輪の決勝。並びは渡辺‐伏見‐和田の北日本,原田‐岩津の四国中国,ブフリ‐パーキンスの外国勢に北津留で武田は単騎。
 前受けしたのは渡辺。4番手に武田,5番手に原田,7番手にブフリの周回。打鐘前のバックまでこの隊列のまま経過し,打鐘後のコーナーからブフリが発進。ホームから1コーナーにかけて渡辺と先行争いになりましたが,バックでブフリが前に。北津留は離れてしまったのでパーキンスの後ろに伏見がスイッチ。直線に入ると番手のパーキンスがブフリを差して優勝。途中からマークになった伏見もブフリは捕えて半車身差で2着。ブフリが半車身差の3着に粘り,伏見マークの和田が半車輪差まで迫って4着。
 優勝したオーストラリアのシェーン・パーキンス選手は記念すべき外国人選手による初のグレードレース制覇。過去に何度も来日していて競輪での強さは分かっていましたし,この開催も昨日まで3連勝。よほど展開が悪くならない限りはブフリが粘るかパーキンスが差すかの優勝争いになるだろうと思っていました。スプリント能力は高い渡辺が前受けから突っ張っての先行争いになったため,ブフリの消耗は激しく,その分だけパーキンスと伏見に味方したということでしょう。展開がばらけないでスムーズなものになると,純粋な脚力勝負になりやすく,その場合には外国人選手の方が優位に立てるのではないかと思います。

 ディオニスが過去に経験をしたであろうことを考慮すれば,メロスがセリヌンティウスを人質にすることを提案したとき,ディオニスがメロスではなくセリヌンティウスの方を処刑してやろうと思い立ったことも合理的に説明できます。なぜなら,簡単に他人のことを信用してはいけないというディオニス自身の戒めが正しいということを実証することに繋がるからです。さらにその戒めによってディオニスは暴君になったのですから,自分が暴君であることを民衆に弁明するよい機会となり得たであろうからです。
                                     
 『走れメロス』のテクストはこれに則して展開していき,最後にメロスが帰ってくるという事実でそれが覆されるという結末を迎えます。僕が本当の意味で作為を感じるのはその点です。つまり,ディオニスがセリヌンティウスが人質になることを受け入れるときには何も触発されず,メロスが帰ったときには大きく触発されるという不自然さのうちにも作為がないとはいえないと思うのですが,テクスト全体が,ディオニスが暴君として抱いている一般的な人間観から始まって,その人間観が覆されて終焉するという展開になっているという点にこそ作為を感じるのです。なぜなら,このディオニスの人間観が人間観そのものの中心であるなら,メロスもセリヌンティウスも,その人自身としてのメロスあるいはセリヌンティウスとして記述されているのではなく,ディオニスの視点からみられたメロスおよびセリヌンティウスとして記述されていることになるからです。そしてテクストの構成がそのようになっているので,読者もまたメロスとセリヌンティウスを,ディオニスという暴君の視線を通して評価してしまうのです。だからセリヌンティウスに対して無感動であったディオニスのように,実際の動機としてはメロス以上に英雄的行為をしていると思えるセリヌンティウスの行いが過少に評価されてしまうようになるのです。
 実際には読者はディオニスではないのですから,テクストに則してメロスとセリヌンティウスを理解する必要はありません。第三者的目線でそれを評価してもよいのです。ですがその面でも難点があると僕は思っています。
コメント
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